◆三 記憶刑のニュース
気が付くと、目覚まし時計の鳴る十分前だった。
いつもだいたいこれくらいの時間に自然に目が覚める。
目覚まし時計の意味あるのかなあと思ったりもするけれど、アラームの時間をずらしたり、セットしなかったりすると逆に落ち着かなくて眠れなかった。だから、これはこれで意味があるのだ、きっと。
目が覚めると、つい隣に目をやってしまう。
そこにはただ、もう使われていないベッドがあるだけ。
何度新しい朝を迎えても、何年経っても、あいつはもうここにはいない。
そのことに僕はまだ慣れない。
いや、慣れてはいけない。
今日は――ああ、今日は休日だ。
朝食の用意をしてようやく気が付いた。
それで僕はため息を吐く。
気が抜けて、だるさが押し寄せてくる。
覆い被さる。
これでもう何もする気になれない。
朝食の時間は大幅に伸びた。
そんな状態でも頭のなかではいろいろな考えが川のように流れていくもので、僕はぼんやりと自分のことやこの世界のことについて回想していた。
この街には、二つの種族が暮らしている。
僕を含む人間と、かつてロボットと呼ばれた自動機械――メカ・サピエンスだ。
機械が人間の手によってつくられた以上、二つの種族は対等というわけではない。なかには二つの種族が混ざり合ったどちらともつかない存在もいたりするから、人権だの法律だのいろいろとややこしくなることもある。それでもまあ、お互いを尊重できるほどには仲良くやっていると思う。
そんな僕たちの暮らすこの街は、七五年前にとある事情で過去の歴史一切を失っている。
というのは、住人全員がそれ以前の記憶を一斉に失ってしまったのだ。
テクノロジーの進歩によって、人間は記憶のデータ化とその操作すら可能にした。
人間というのはそれが可能となれば何でもやらずにはいられないもので、その記憶データを一元管理することで社会を統治しようとする試みがあったという。どうやらそれが失敗して住人全員の記憶が初期化されたらしいことが残った資料から推測されている。
だから七五年前の人たちというのは、気が付くと自分がどこのだれなのか、この街がいつどうやってできて、いままでどのように暮らしてきたのか――そのすべてがわからなくなっていたという。さぞかし恐怖だったことだろう。なお失敗した場合の措置は考えられていたようで、言葉や生活に関する最低限の、生存に不可欠な記憶は残ったままだったらしい。
失われた記憶を復元することは不可能だった。
それでも人間は過去の記憶をできるだけ探し求めた。
アルバムや日記、電子機器などあらゆるものに残された個人情報を探し出したり、図書館にある歴史書を読んだりして、失われた過去を何とか取り戻そうとした。その際にメカ・サピエンスが相当役に立ったという。
なかには過去など諦めて新しい自分を生きるお気楽な人たちや、記憶バンクで他人の記憶をコピーした人たちもいたそうだ。
ある程度記憶に矛盾や欠落があったとしても人は何とか生きていけるものだ。
そもそも記憶というのは感情や認知によって歪められることが多々あるし、完全を求めるのはナンセンスでしかない。
ある程度まとまった生活ができるようになると、人々は再び日々の暮らしに勤しむようになった。何か大事なことを忘れている――だれしもそんな感じを抱いていたが、それに向き合う余裕はなく、置き去りにしたまま年月が過ぎていった。
結果、人間は目に見えてわかりやすい確かなものにすがるようになった。
たとえば一般的な法則や機械が叩き出すデータのように理屈があるもの。
多数派やメカ・サピエンスの意見、そこから生み出される正しい物事、言うなれば客観性。
そしてメディアが発信する数多の情報や、歴史書に書かれた内容――。
その一方で、目に見えないもの、測り知れないことへの希求も一部で強くなっている。
僕が働いているあの巨大な地下施設は近年になって発見されたものだ。
歴史が失われる以前のいかなる記憶媒体にも、あの施設に関する情報は存在しないという。
そんな謎に満ちた場所だから、トレジャーハント気分で配管工になる変わり者も稀にいる。
僕もかつてはそうだった――。
ようやく、動けるほどにはだるさが抜けてきた。
いつもはテレビなんて見ないのだけれど、その日はどうしてかそういうふうに身体が動き、僕はテレビの電源を入れた。別に見たい番組があるわけではない。映像や音声はただ流れていくだけで内容は頭に入ってこないし、入れるつもりもない。
それでもこうしてテレビを点けたのは、人の声を聞いていないと寂しいから――だと思う。
たとえそれが自分とは一切関わりのない他人の声であっても、いまの僕には必要なんだと思う。
けれどもただおどけた笑い声ばかりが響くバラエティ番組は不快だ。
ドラマやドキュメンタリーはどれも似たり寄ったりのものばかり。
やたらCMも挟まるし、何か妙な押し付けがましさを感じることがある。
スポーツ中継はひたすら騒がしく人の声どころではない。
ニュース番組は人が死んだことばかりを報道している。テロや殺人事件、交通事故……毎日毎日、何かしらが起こって人が死んでいる。それらを顔色ひとつ変えず、何とも思っていないかのような顔で事務的に読み上げるニュースキャスターたちが怖くなる。そういう仕事だということはわかっているけれども、それでも悼む間もないうちに次々とえげつないニュースを切り替えていくのは、どうなのかと思う。悲しげな表情を浮かべるニュースキャスターもいるにはいるが、その表情も明るいニュースに移行すればぱっと花が咲いたように切り替わる。それがまた怖い。仕事が終わった後は、読み上げたことなどきれいさっぱり忘れて、明日の仕事に備えるのだろうか。
なかでも最悪なのはワイドショーで、それがセンセーショナルなものであればあるほど、死者や犯罪者に人権はないと言わんばかりに何度も何度も顔写真だとか過去の文集だとかをほじくり出して弄り回す。それで寄ってたかって自分勝手な講釈を垂れるのだ。
まるでいじめを見ている気分だ。彼らが何を知っているというのか。人の不幸を愉しんでいるんじゃないのか――極端だけれど、そう思うことがある。
だめだ。どのチャンネルを回してもろくな番組がない。
ただ人の声を聞きたいだけなのに、実際に聞こえてくるのはどれもこれもノイズばかりだ。
こんなのは人の声じゃない。
ただ――どんな番組も、地下で多くの死者が出ていることにはだれも触れない。
この街が地下深くの謎の施設が生み出すエネルギーによって稼働していることや、モグラという化け物が現れることも一切報道されない。
そんなものは都市伝説にもならないおとぎ話で、僕たちはいないことになっているに等しい存在だ。いや、あるいは――だれもがその存在を知りながら、あえて触れないようにしているに過ぎないのか。
「――それでは次のニュースです。先ほど、法務省は刑務所に収監されていた囚人に記憶刑の執行を命じ、記憶管理庁によって本日未明に執行されたことを発表しました」
ふと〝記憶刑〟という言葉が耳に入り、僕はテレビ画面にピントを合わせた。
「囚人の氏名は明かされていませんが、三年前にテロを実行しようとした罪で逮捕、起訴されたグループの一人と発表されています。幾重にもわたる裁判の末、最高裁にて更生の余地なしとして記憶刑の判決が下っており……」
記憶刑――死刑の次に重い刑罰とされる。
死刑が廃止されたこの街における事実上の死刑だ。
自分がいつどこで生まれ、どんな人生を歩んできたか――その囚人の記憶を丸ごと消去して、都合のいい偽物の記憶を与え、全くの別人として更生させる。
囚人が犯罪に至るのはソフトウェアの問題であり、それを修正しさえすれば真人間になるという理屈だ。一人の人権を犠牲として、公共の福祉に役立てるのだ。
ニュースキャスターは淡々とした声音で報道を続ける。
「なお囚人はその後釈放され、法務省はその行方について明らかにしていませんが、記憶管理庁長官の発表によりますと、囚人は新たに善良な記憶が与えられ模範的な市民としての教育を受けたのち、労働者として運用されるとのことです」
昨日までの僕と今日の僕とは同じ存在なのだろうか――最近そんなことをよく考える。
人は眠ると意識を失い、ある意味での死を迎える。
そして目覚めたとき、昨日までの記憶を頼りに自分を確かめ、新たな一日を生きていく。
その昨日までの記憶が実は与えられた偽物に過ぎず、僕はその続きを生きているように錯覚しているに過ぎないのではないか。昨日までの自分と今日の自分とは全くの別人ではないか。いまここにいる僕は、果たして本当に〝僕〟なのだろうか――。記憶刑の話題が出るといつもこうだ。
確かめようのないことだけれど、もしかしたら僕だって記憶刑に処された囚人だったのかもしれない。
僕は自ら望んで地下の仕事に就いたはずだが、実はそう思い込んでいるだけで、本当は僕が犯した何らかの罪への罰として従事させられているだけなのかもしれない。
そうだとしたら本当の僕はだれなのだろう。
いや――本当の僕なんてそもそも存在するのか。
あるいは記憶刑でなくとも何らかの記憶操作は受けているかもしれない。
記憶の書き換え自体はアプリで動画の編集をするくらい簡単にできるという。
もちろん記憶操作の技術を扱える機関は法律でごく一部に限られているけれども、しかしその法律をつくったのも他ならぬ人間自身だ。
抜け道の存在くらいは知っている。
こんなことを真剣に考えてしまうのは、どこかしら自分の存在に違和感があるからだ。
何か大事なものが欠けている気がするのだ。
どう言ったらいいのか、実感のない記憶が多い。
たとえば自分の家族の顔。いくつか思い浮かぶ顔はあるけれども、それらが自分の家族だと言い切れる自信はない。家族との暮らしはどうだったか、どんな会話をして、どんな出来事があったのか、おぼろげな感じだ。僕は家族と離れてだいぶ経つはずだが、連絡を取り合ったことはないような気がするし、そもそも連絡先や住所はどうだったのか――そこから先を考えようとすると、たいてい眠くなったり、何か他のことが気になったりする。まるでそれ以上考えないように仕向けられているみたいだ。
だから余計に記憶刑なるものの存在、やろうと思えば記憶を自由に操作することが可能である――その非現実的な現実が僕という存在の根底に妙に重く沈殿する。
いや、そもそも――この街自体が七五年前に記憶を失っているのだ。
突き詰めれば何も信じられないじゃないか。
ただ、それでも、こんな僕にもただひとつだけ確かだと思える記憶がある。
かつてここで一緒に暮らした、あいつとの記憶だ。
僕のなかにあるあいつとの記憶は、実は自分ではないだれかのものなのだろうか――そんな疑念に囚われそうになったとき、僕はあいつの私物を確認する。
いつ帰ってきてもいいように、あいつの部屋はそのままにしてある。
あいつが大切にしていた望遠鏡も、愛用していた机や道具も、着ていた服もちゃんとここにある。
「スピンカ……」
その名を口にすると、いまでも胸が締め付けられる。
痛いほどに。
――大丈夫だ。確かにスピンカはここにいた。
僕にとってスピンカとの記憶は、自分の存在以上に大切なものだ。
人は完全な記憶などなくても生きていける。この街がそうであるように。
だが、生きていくうえで絶対に欠かせない記憶もまた存在する。
それは自分がだれかを愛し、愛されたという記憶だ。
そして、それが本物であると思えることだ。