◆十四 「正体」 ②
実際のところ僕は内心驚いていたけれども、考えられない可能性ではなかった。
それどころか訓練された配管工の悪い癖で、レベルはどのくらいだろうとか、有効な弾薬は何だろうとか、キュボーならどう分析するだろうとか、そんなことがさっと脳裏をよぎっていく。
それらが遠くなっていくのを見送りつつ、一方ではこれまで彼女と交わした会話の数々が連想され――僕は、ただ黙って頷いた。
「この巻き鍵は、わたしを人間として偽装するためのデバイス……そして、人間としてのわたしの記憶……」
「ここに、僕を連れてくるため?」
「それはもちろんですけど、もっと大事なのは、あなたという人に出会うため」
「どうして、僕なの?」
「わたしのモデルになった人が、あなたを求めていたから」
「その、モデルって……?」
「ええ――このなかに」
そして彼女は、顎の先を操縦席へと向ける。
「この向こうで、あなたを待っている。会えば、すべてがわかるはず」
「……」
なんとなく、この向こうに何がいるのかわかるような気がする。
「そのために、わたしはこの身体をお返ししないといけません」
「え?」
「わたしは先にこの扉の向こうに入ります。ちょっとのあいだ、待っててくださいね」
「ちょっと待って……そうしたら君はどうなる?」
「……ふふっ」
彼女は切なげに笑う。
その笑みが意味するところは――鈍感な僕でも察せられた。
「メウさん。いつか言ってくれた言葉、覚えてます?」
頬にほんのり赤みを差して、彼女は恥ずかしげに言う。
「過去が欲しいのなら、これからつくればいい。未来を求めていまを生きろ――たしか、あなたはわたしにそう言いました。過去がなくてどう生きたらいいかわからない、不安でたまらなかったわたしに。それで、実際一緒にデートなんかもしてくれて……あの言葉に、わたしはとても救われた。だから……あなたも」
もじもじと頼りなげに、両手で巻き鍵を弄ぶ。
「あなたがもともとどんなひとだったのか、わたしは知らない。でもわたしが知ってる――わたしの好きなあなたは、悔しいけど、スピンカさんが忘れられなくて、自分とは何なのかに悩んでいて、キュボーさんを愛していて、メウと呼ばれているひと。わたしは、そんなあなたの一部になりたい。あなたの欠けた部分をぜんぶ埋めてあげたい。あなたの記憶のいちばん深いところで、一緒に未来を生きたい。だから……」
彼女は両手でそっと包むように、巻き鍵を僕に差し出す。
「わたしの魂を、あなたにあげる」
僕は差し出されたその巻き鍵を――ねじまきを、彼女から受け取る。
その瞬間だった。
僕の視界は急に暗くなって、唇にやわらかい何かが触れた。
次いで、少し硬い感覚。
しっとりしていて、微妙に痛かった。
少し遅れて、僕はそれが彼女の唇だということに気付いた。
口づけをして、勢い余ってその奥にある小さな前歯が押し付けられたらしい。
けれどそれはほんの一瞬のこと。
僕から顔を離した彼女は、恥ずかしいような、寂しいような、何とも言えない、けれどなぜか勝ち誇ったような顔をしていた。
「さよなら、メウさん」
そして彼女は壁を軽く蹴り、吸い込まれるように扉の向こうへと入っていった。
「ねじまき……!」
伸ばした僕の手が届く前に扉は閉まり、がちゃりとロックがかかる。
「馬鹿野郎! やるだけやって、去っていく奴があるか!」
僕は叫んでいた。
けれど分厚い扉の向こうには、届かない。
僕は立ち尽くした。
立ち尽くして、手のひらに乗るねじまきを見つめた。
ふと目の前を、小さな、いくつかの水滴が漂う。
彼女の涙だ。
いや、僕のかもしれない。
鼻の奥が痛かった。
その巻き鍵は、無重力のはずなのにとても重くて、じんわりと熱を帯びていた。
スピンカも、キュボーも、そしてねじまきも……皆僕に何かを託して、僕を残して去っていく……。
やがて、ロックの外れる音がした。
静かに扉が開く。
まるで僕を誘うかのように。
僕は覚悟を決め、壁を蹴って操縦席へと入っていく――彼女がそうしたように。
小柄な宇宙服がひとつ、寄る辺なく宙に浮かんでいた。
周囲に人影はない。
彼女はどこにもいない。
あの宇宙服だけだ。
僕は宇宙服を引き寄せて、ヘルメットを覗き込んだ。
その奥に見える懐かしい顔を認識したとき――僕はすべてを悟った。
それは例えるなら、夢から覚めたような感覚。
夢の残響を引きずりながら、けれども目覚めた世界のことが色鮮やかに、瞬時に知覚されて、ああ今日も仕事だ、と意識するような。
そうだ、僕は仕事をしなくちゃいけない。
とても大事な仕事だ。
僕はまず、目の前の存在を抱き締めた。
しっかりと、胸に抱いて。
そうすると、声にならない声が胸から溢れて、止まらなかった。
何度も、そいつの名前を呼んだ。
ヘルメットの奥で、そのまぶたはゆっくりと開かれる。
そして僕と目が合うと、そいつはまだ夢見心地な微笑みを浮かべるのだった。




