◆十一 歯車の街 ①
気が付くと、僕は地下を歩いていた。
といっても、よく見知っている地下とは何か雰囲気が違う。
人の気配がする。
僕はとあるドアの前に辿り着いた。
向こうにだれかいる。
ノックをしてみる。
「お入り」
そんな声が聞こえて、僕はドアを開ける。
小さな部屋だった。
けれども、モニタが壁一面に所狭しと並んでいる。
そこには、ねじまきやスピンカ、キュボー、そして僕の姿も映っている。
机の上はごちゃごちゃしている。積み重ねられた書物。散らかった原稿用紙。灰皿には吸い殻の山。
部屋全体が煙たくて、少しもやがかかっている。
「やあ」
背もたれの大きいリクライニングチュアが回転する。
現れたのは、煙草をくわえた老人。
いつだったか、街なかで自爆テロを起こした老人のメカ・サピエンスだ。
「前もどこかで会ったことがあるかな」
煙草を口から離し、白い煙を吐きながら老人は微笑んだ。
「……そうだ。いつだったか、街中の広場で騒ぎを起こしてみたことがあった。そのときに一瞬だが君と目が合った」
「……」
「たまには、作品に作者自身を登場させてみるのも悪くないことだね。なかなかに面白い体験だった」
「作品? 作者? 何の話を……」
「私は物書きだ。いま、この世界の物語を描いている」
再び煙草をくわえ、吸う。
そして灰皿で押し潰す。
鼻の穴から白い煙が吐き出される。
「――君は歯車のひとつだね」
その言葉に、なぜか僕はどきりとした。
「歯車?」
「その半身を失ったまま回り続けている、役立たずの歯車……。この街はひとつの大掛かりな機械だ。いや――劇を演じる自動機械といったほうがいいかな。ひとつひとつの歯車が噛み合って回ることによって稼働している。君たちはその歯車だ」
「あなたはそうではないと?」
「そうだね。少なくとも私と君とは違う次元の存在だ。私はこの劇の台本を書いているわけだから」
「神か何かのつもり?」
「神……昔はそう思い上がったこともあった。自分だけは特別で、この世界を上から立って見ていられる。物語の生みの親として……だがね、気付いたのだよ。私もしょせん、この世界の一部でしかない。作者も観客も劇の一部なのさ。作者がいないと劇はつくれないし、観客のいない劇には何の意味もないだろう?」
「……」
散らかった原稿用紙を手繰り寄せ、その上に虚ろな目を泳がせながら、老人は語り始める。
「私は若い頃、愛する人を亡くした。互いにこころを許し合える、唯一無二の尊い存在、我が半身ともいえる人だった。だがその命はほんの一瞬、ほんの些細なことで失われた。積み重ねてきた時間が夢であったかのように、手のひらで溶ける雪のように儚かった……」
壁一面のモニタのひとつひとつに、スピンカの顔が映し出される。
悪戯っぽく笑うスピンカ。
何かに夢中になっているスピンカ。
華奢な指で涙を拭うスピンカ。
すました表情のスピンカ。
安らかに眠るスピンカ――。
「何もかもがむなしく、悲しい。その失った半身を埋めるために、私は物語を描き始めたのだ……」
老人はくしゃくしゃになった小箱を手に取り、新たな煙草を取り出す。
「吸うかね」
「いや……」
「そうか」
そのままライターで火を点け、咥える。
「私とあの人とで繋いでいけるはずだった未来。もしもあのときこうだったらという架空の過去、人生のたくさんの可能性。SF、ファンタジー、サスペンス、ホラー、ハードボイルド、ミステリー、ノンフィクション……物語のなかでなら、私はいつでも、いつまでもあの人に会える――はずだった」
ふと、何かにむせたように咳き込む。
それでも煙草は手放さない。
「だがしかし、どんな物語を描いても、途中で行き詰まってしまう。悔しくもあの人は必ず亡くなってしまうのだ。そして何ものかが私の物語に入ってきて、それはとても魅力的なのに、私はそれをじゅうぶんに活かせないまま、歯車が止まってしまう。思い通りにならない、滅茶苦茶だ。そうして何度も何度も描き直しては、その度に同じところで行き詰まり、そいつは現れる。あの、奇妙な巻き鍵を持った――」
壁一面のモニタに、今度はねじまきが映し出される。
「そう、君にとっての彼女だ」
ねじまきが笑う。
泣く。
怯える。
ムッとする。
頬を赤らめる。
「君は私を神のつもりかと問うたが、しかし私のように物語を生み出す側の人間ならだれもが考えるさ。私もまただれかが描いた物語、その登場人物に過ぎないのではないかと……」
「だれかって……」
老人は煙草を咥え、少し間を置いてポッと輪型の煙を吐いた。
しかし宙に浮いたその円環は瞬く間に崩れ、白濁した空気のなかに溶けていく。
「あの奇妙な巻き鍵はどこから来たのか……あんな登場人物、私の物語にはいなかった。勝手に動き回って、どう向き合えばいいのかわからない。腹立たしいことに私でさえ手に負えない――あれは何だ!」
煙草を吸い殻に押し付けるや否や声を荒げ、机を叩きつける。
吸い殻の山は崩れ、灰皿から零れ落ちた。
肩を怒らせながら原稿用紙をくしゃくしゃに丸め、モニタに映るねじまきに向けて放り投げる。
「……だが本当に腹立たしいのは、あの巻き鍵を活かせない私自身。己の描くものが物語たり得ぬことを突き付けられる、不甲斐ない私自身だ……」
やがて老人はふーっとため息を吐いて肩を落とし、チュアの背もたれに身を預ける。
そこにいるのは小さくて頼りない、弱り切った老人だ。
「思うに、あれは我々の物語を描いている奴からの贈り物なのさ」
「僕らを外から見ている、だれかの?」
「そう」
「何のために?」
「さあ。知る由もない。だが……そう思うことでひとつ気付いたことがある。つまり、あれこそが私自身の欲望なのだと」
「欲望?」
「私はあの人との、あの関係を壊したくはなかった。唯一無二の友人のままでいたかった。しかし、その一方でたしかにあの人を欲望する私も存在していた。そして、それはあの人もそうだった。互いにより深い関係を密かに望んでいた、望んでいながらやはりあのままの関係でいたかったことにも、互いに気付いていた。しかしそれを認めるのは、どちらにとっても苦しいことだった……その先の物語など存在しない。私たちの関係に、未来などはじめからなかったのだ」
どうしてだろう。
老人のその話を聞いていると、締め付けられるように胸が痛い。
「君もそうだろう?」
老人が僕に視線を流してくる。毀れた刃のような目だ。
「君は彼女を抱き締めたくてたまらないはずだ。愛する人にそっくりな彼女を。愛する人にはできなかったことを、したくてたまらない。なぜなら彼女は君の欲望であり、願望だからだ」
モニタにねじまきとスピンカの顔が映される。
それらは互いに近寄せられ――重なる。
「――違う!」
思わず僕は反駁していた。
その僕の様子を嘲るかのように、老人が鼻で笑う。
「違わないさ。君が愛する人に望んだがままに、彼女は現れたのだ」
「望んでなんか……」
「だが君は彼女を抱けない。なぜなら、抱いた時点で彼女は愛する人ではなくなるからだ。君にあるのは偽りの記憶かもしれないが、君自身は偽ることのできない性分だ。君の愛は永遠に彼女に向かない」
「うるさい、黙れ!」
気が付くと僕は老人に詰め寄ってその胸倉を掴んでいた。
自分でも不思議なくらい、激情に突き動かされている。
胸の奥が熱い。
ドロドロのマグマのような黒い感情が、噴出しそうなくらいにこんもりと盛り上がり、灼熱の亀裂が走る。
――なんだこれは。どうして僕はこんな与太話にここまで憤りを覚えているんだ。
「はは、残念だな! 私を締め上げようと、この物語は、もう動かないのだ。だから……もうあきらめることにした」
「あきらめるって、何を――」
「破局を迎えるというのなら、もはやそれに従うまで。この街はここでおしまいだ。君の物語に続きはない」
「ちょっと待て、ふざけるな!」
掴んだ胸倉を揺する。
しかし老人は不敵な笑みを浮かべる。
「おや、未練があるのか! 愛する人を失った記憶に苛まれ、自分の生きている意味すら疑問だった君が! なら、ひとつアドバイスだ」
目やにだらけの濁った老人の瞳が、僕の顔を反射する。
「もしも君が何かを変えたいと強く願うのなら、彼女を抱きたまえ」
――そのとき、甲高い音が響いた。
空間が途切れ、見慣れた天井が現れる。
やかましく騒ぐ目覚まし時計を叩いてから、ようやく自分の部屋にいることに気が付いた。




