◆九 ねじまきの過去1 ⑤
僕たちは喫茶店を出て、僕の住んでいるマンションへと向かう。
「そういえば、ねじまきはどこに住んでるの?」
「駅の近くのマンションです。それまではたぶん劇団で暮らしてたと思うんですけど、配管工の仕事と一緒に手配されました」
「そうなんだ。じゃあ、持ち物とかは? 昔の思い出の品とかないの?」
「それなんですけど、わたしの部屋、私物が何もないんですよね……あるのは、これくらい」
「巻き鍵か……」
「はい」
エレベーターで上昇し、いつもの階で降りる。少し歩く。
そして僕の家の前まで来た。
「ここがメウさんの住んでるマンション……」
「見覚えある?」
「うーん……同じようなつくりのとこばかりなので、何とも」
「そっか」
鍵を、開ける。
「スピンカ――という名前に、聞き覚えはない?」
「スピンカ……?」
ねじまきが首を傾げる。
「ここで一緒に住んでたんだ。でも、数年前に事故で亡くなって――」
「……」
扉を、開く。
先に入って、照明を点ける。
「どうぞ」
「あっ、お邪魔しまーす……」
足を踏み入れる、ねじまき。
何か罪悪感のようなものを強く覚えるのは、きっと気のせいじゃない。
そして僕は、ねじまきをスピンカの部屋に通した。
「望遠鏡……」
まず目に留まったのはそれらしい。
「昔、誕生日にあげたやつでさ」
「……」
ふと、ねじまきが小さく息を呑む音が聞こえた気がした。
頭の巻き鍵がくるくると回り始める。
「――ちょっと、見てみてもいいですか?」
「いいよ」
「触ってみても?」
「ああ――どうぞ」
きっと君以外のだれにも触らせない。
ねじまきがスピンカの部屋を見回す。
僕ですら触ったことがないような場所を触る。
望遠鏡、アルバムや衣服、書物に置物……。
不思議とその触り方は、まるで見知ったものであるかのように、何がどこに置いてあるかを知っているかのように見える。
その手つきも、懐かしい。
そうして、しばらく時間が経った。
長いような、短いような、何とも居心地のよくない奇妙な時間。
こうしてねじまきにスピンカの部屋を見せたのは、いくつかの疑念を晴らすためだ。
ひとつは、ねじまきは記憶を失ったスピンカなのではないかという疑念。スピンカは実は生きていて、何らかの理由でねじまきになったというわけだ。部屋を見ることで記憶を取り戻すのではと思ったのだ。
もうひとつは、ねじまきはスピンカの死体からつくられた子役なのではないかという疑念。ユーザーの希望に応じてカスタマイズされる子役の身体は、希少資源の都合上配管工や公にできない者の死体を再利用することで組み上げられることがある。だからスピンカと似ているところとそうでないところとがある。記憶の再生は無理でも、身体が何らかの反応を示すのではないかと思ったのだ。
そして最後に、スピンカの部屋や私物はでっち上げで僕にしか見えていない幻なのではないかという疑念。スピンカなど存在しない、つくられた記憶に過ぎないというわけだ。他人であるねじまきに確かめられることによってその幻は破られる。
「うーん……」
そのねじまきは唸りながら何やら考え込んでいる。
巻き鍵はさっきまでとは違い、もうすぐ止まりそうなくらいゆっくりと回っている。
「――なりましょうか?」
ややあって、ねじまきは僕に尋ねた。
「え?」
「わたし、スピンカさんになってもいいですよ」
今度は僕を向いて、そう言い換える。
「わたしには過去がありません。とても覚束ない感じです。メウさんは過去の大切なひと――スピンカさんを亡くしている。そしてそのひとは、わたしとよく似ている」
覚束ないと言うわりに揺らぎのないはっきりとした口調。
その瞳は吸い込まれそうなほど深く純粋な色合いに満ちている。
一方僕はというと、ただ愕然としていた。
スピンカとしての記憶を取り戻すのでもなく、スピンカの存在を否定するのでもなく。
スピンカに、なる――。
そうすればお互いに得るものがあるというわけか。
そんな答えは想像だにしていなかった。
「……それは、君の仕事として?」
「わたしはもう子役じゃありません。最初は演技かもしれませんが、続けていればそのうち本物になると思います。七五年前の人たちのように」
「君はそれでいいの?」
「ええ」
「……」
――どうしてそんなに、迷いない様子でいられるんだ。
「髪はまだちょっと短いですけど、前髪を伸ばして、後ろももう少し、背中まで伸ばしたらいい感じに……」
ねじまきが自分の髪を弄る。
どうやら本当にスピンカになるつもりらしい。
そんなの、だめだ――と僕はとっさに思う。
けれどその一方で、君がそれでいいなら――という思いも蠢く。
ぬらり、と暗くて気持ちの悪いものが鎌首をもたげる。
僕は少し、考えた。
ねじまきがスピンカになる。
そうしたら僕は楽になれるかもしれない。
それはねじまきにとってもそうだろう。
そもそも、そのつもりで僕はねじまきをここに連れてきたのではないのか。
僕はもうねじまきにスピンカの影が重なることにいちいち悩まなくていい。
スピンカがいない、その穴を埋めることができる。
ねじまきは自分の過去を得られる。
巻き鍵の謎や子役としての過去は捨てることになるけれど、僕に懐かしさを覚える葛藤は解消できる。
月の裏側に飛び立ったスピンカが数年に及ぶ任期を終え、ねじまきとして帰ってきた。そういうストーリーならば……。
『メウと離れるのが、寂しい……』
――ほんとうに、それでいいのか。僕のなかのスピンカは、そんな程度の存在だったのか。
気が付くと僕は、髪を弄るねじまきの手に自分の手を覆い重ねていた。
「え、あの……メウ、さん?」
スピンカの手は、さらりとした滑るような肌触りで、華奢な頼りなさのなかに骨張った硬さを感じさせた。
ねじまきの手は、ややしっとりとした湿り気を帯びた肌触りで、こんなに細くて小さいのに沈み込むようなやわらかさを感じさせる。
「――だめだ。君はねじまきだ。スピンカじゃない」
「え……?」
僕はゆっくりとねじまきの手から自分の手を離す。
「スピンカは死んだ。もうどこにもいないんだ。あいつは、だれかが成り代われるような奴じゃない。成り代わっちゃいけないんだ」
「……スピンカさんは、そんなに大切なひと?」
ねじまきの声が硬くなる。
「わたしじゃ、スピンカさんになれない……?」
自分でもひどい奴だと思う。
わざわざこんなところに連れてきておいて突き放したも同然なのだから。
それが自分勝手な行いだということに、いま気付いたのだから。
「……過去のない人間は、すごく心細いんです」
もしも僕に、スピンカとの記憶がなかったら――メモリーショップでも考えたことを、もう一度考える。
僕がいかにスピンカとの記憶に支えられて生きているか。
たとえそれが植え付けられた偽物であったとしても。
「あなたのことは記憶にないはずなのに、身体は勝手にあなたを懐かしいと感じて、切なくなる。この部屋も、あの望遠鏡も、自分と無関係には思えない。どうしたらいいのかわからない……」
ぽつりぽつり、感情を抑えたように言葉を続ける。
その胸中はさすがに僕でも想像できる。
「いまわたしにあるのは、配管工になってからの記憶と、オッポスさんに流し込まれたトラウマ記憶だけ……」
声が震えている。
いまにも声を上げて泣き出しそうなくらいに。
「だからたとえ偽物でも、過去が欲しいんです。すがりつける、何かが……」
痛いほどに、その気持ちは伝わってくる。
けれども。
「僕はもう、君という人間と出会った。スピンカとしてじゃなく、ねじまきとして」
ただ後ろを向くだけが、自分の過去を得る手段じゃないはずだ。
「わたし、として……?」
「過去が欲しいのなら、過去ではなく未来に向かっていまを生きればいい。これから君自身の過去をつくっていくんだ」
それはねじまきにというよりも、半ば僕自身に言い聞かせる言葉だったのかもしれない。
「そのための手伝いなら、僕は協力を惜しまない」
僕はこんなことを思うのか――そう自分でも驚いている。
「……」
ねじまきは黙って両目を潤ませ、鼻をすする。
演技ではないと、信じたい。
「君はよく喋るし、よく泣く。スピンカとは似ても似つかない」
たとえスピンカの生まれ変わりや再利用だったとしても、スピンカは僕の人生にあのひとりだけだ。
だから――。
「君は、ねじまきでいろ」
「……そういうところ、ですよ」
俯きながらぽつりと、ねじまきが何かを呟いた。
「――え?」
「わかりました。じゃあ、わたしはねじまきとして生きます」
そう言って、吹っ切れたようにねじまきは笑った。
それからせっかくなので少しばかりのもてなしをして、夕陽が落ちる頃にねじまきは自宅に帰っていった。
「――ほら、大丈夫だったろ」
だれにともなく呟いたが、だれも答えはしなかった。




