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歯車の街のねじまき  作者: 奇村兆子
◆八 スピンカについて
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◆八 スピンカについて ①

 スーパーで適当な食料品を買って帰宅した。

 昔は自炊もしていたけれども、自分ひとりの生活になってからはもう出来合いのもので済ませている。

 今日はなんだか優しい味のものが食べたかった。

 だから卵の厚みがほどよい天津飯などを買ってみたのだけれど、実際に食べてみるといまいちな味だった。

 前食べたときと味が違う。材料をこっそり安物に変えたな。

 原材料費やら人件費やらの高騰で値段が高くなったくせに、味が落ちるとはどういうことだ。

 口直しにジュースを飲んでいる途中、ふと気が向いてベランダに出てみた。

 夜空には薄く雲がかかっていて、星は見えそうにない。

 ――風が冷たい。

 遠くには摩天楼のように聳え立つビル群が見える。

 赤とか青とか黄色とか、小さな人工の光を明滅させている。

 星の光に比べれば、ずいぶん雑な光だ。


 その街をほのかにかすんだ月が見下ろしている。

 朧月というそうだ。途切れ途切れの薄雲に淡く虹色を滲ませる様を見ていると、風の冷たさと相まってどこか懐かしいものが呼び起こされる。

「カーテンの向こうに月があるみたい」

 あいつは朧月をそう表現していた。

 月を眺めるたびに、否が応でもあいつの――スピンカの顔が浮かんでくる。

 数年前までここで一緒に暮らしていた。

 不思議な存在感のある人物だったけれど、いなくなっても――いや、いなくなることでその存在をより意識するようになった。

 思えばスピンカと過ごした記憶は、僕が僕であるということを強く繋ぎ止めている。

 そう、いくらモグラにトラウマ記憶を流し込まれようとも、死ぬような目に遭おうとも、僕がまだ生きられているのはこの記憶があるからだ。

 だから僕はスピンカとの日々を回想する。

 この記憶にすがりつき、癒され、縛られるほかに僕が生きる術はないのだから。


 スピンカとは学生時代に出会った。

 厳密に言うと僕たちは学生になる前からの知り合いだったが、幼少期は友達の友達といったレベルであまり接触の機会がなかったからお互いのことをよく知らなかったし、仲がいいわけでもなかった。それでも何か不思議な引力のようなものがあって、スピンカが視界に入ると自然とその姿を目で追っていた。

 小柄で顔立ちも幼く、僕よりも二、三歳は年下に見える。

 隅っこでうつ伏せになって、足をぱたぱたさせながら本を読んでいることが多い。

 図鑑とか、宇宙のことなどが書いてある本を好むようだ。

 大人しい性格に見えるけれども、かといって人見知りとかそういう感じではなく、声をかけると何のためらいもなく遊びに加わったりもする。

 見た目が可愛らしいうえに不思議な雰囲気があり、よく人に好かれる。

 スピンカと親しくなったのはある程度年齢を経た高学年時代、たまたま同じ班になったのがきっかけだった。この巡り合わせがなければきっとその後の関係はなかった。たまに視界の端に映る気になる存在という程度で終わっていたと思う。

「ねえ……月の裏側って、何があると思う?」

 班の仕事で一緒に掃除をしていたときだった。

 顔見知りとはいえどうも緊張してお互い黙々としていると、ふとそんなことを訊いてきた。

 それが僕にとってのスピンカとの出会いだ。

 スピンカの声をちゃんと聞いたのも、その姿をはっきりと捉えたのもそのときが初めて。

 あまり自覚していなかったが、一目惚れだった。

 そう、あれは確か理科の授業の後だった。月の自転周期と公転周期とがリンクしているために、この星からは常に月の表側しか見えないという話があったのだ。もっともその話は教師にとってそれほど大事ではなかったらしく、ほんの数十秒しか触れられなかったけれども。

 ――あのとき、スピンカの問いに僕は何と答えたのだったか。

 以来、学校では班の仕事を通じて一緒に行動することが多くなり、お互いの家が近いことがわかってからは二人で登校するようになった。スピンカが寝坊してよく遅刻ギリギリになったのを覚えている。

 最初のうちは、よくわからないふわふわとした奴だな、と感じていた。

 身体つきはほっそりしていたし、どこかふらふらするところがあって風が吹いたら飛んでいってしまいそうだった。

 実際その幼子のようにやわらかい髪は風によく舞う。

 立っているときに片方の足のつま先を地面に着けてもじもじする癖があり、見ているといまにも浮き上がりそうだった。

 体重とか質量とかがまったくなさそうに見えるのが不思議だった。

 いま思うとその有様はこの世の法則だとか常識だとかに縛られない自由さの一方、だれかが繋ぎ止めていないといけないような儚さ――危うさがあった。

 実際、小さな傷や痣ができていることがよくあったし、時折ひどく寂しげな顔を覗かせるのだ。だから目を離しにくかったのかもしれない。

 自分でもどうしてかわからないくらい、スピンカのことが気になっていた。

 それでそのうちプライベートでも一緒に遊んだり、どこかへ出かけたりするようになったのだ。

 こう言うのも何だが、噛めば噛むほど味の出るするめみたいな奴で、親しくなるにつれていろいろな面を見せるようになった。

 好奇心旺盛な一方、スイッチがどこにあるのか自分でもわかっていないほど気まぐれで、とにかくマイペース。意外と手先が器用で機械弄りが得意。スポーツや運動は普通。あまり自分からものを言うことはなかったけれども、たまに口を開いたときにはいろいろ考えていることがわかって驚かされたものだ。

 プライベートでも仲が深まると、スピンカは僕に小さな悪戯を繰り返すようになった。

 いつのまにか背後に立っていて、僕がふと気付いて驚いた顔をすると満足げな笑みを浮かべるのだ。僕の頭の上に何か乗せてきたり、こっそり日用品の位置を入れ替えたりして僕を戸惑わせるのも好きだった。そうして僕が「こら」とか「仕方ない奴だな」とか言うと、いひひと悪戯っぽく笑う。

 いま思うとスピンカが悪戯をしていた相手は僕以外にいなかった。いや、何度か僕以外の友人にも試みていたが何かが足らなかったようであまり続かなかった。それが少し誇らしかった。

 ただ、スピンカは自分のことをほとんど話さなかった。

 だからいつまでも謎めいた感じが漂っていて、距離感をつかむのが難しかった。

 当時の僕はそれがもどかしくて、スピンカのことは何でも知りたい、そして僕のことも何でも知ってほしいと強く思うようになっていた。

 それで一度スピンカが家でどんな暮らしをしているのか見たくて多少強引に迫ったことがある。でもそれは珍しくはっきりと拒絶されて、いくら親しい仲でも決して超えてはならない一線があるのだと知った。

 スピンカが尾を引かない性格で本当によかったけれど、苦々しい思い出だ。

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