幽霊患者
救急指定病院には身元不明の患者さんも多く搬送されてきます。事故に遭ったり、行き倒れになったりしたところを通報されるのですが、身元を確認できる所持品がないと、搬入時にはどこの誰だか分からないまま治療を始めることになります。
日本はありがたいもので、救急車も医療機関も人命第一の観点から、何野誰兵衛さんを見捨てたりはしません。これがアメリカなら、これからご紹介するような例は東洋の神秘としか思われないかも知れません。アメリカなら未収になるような患者は最初から相手にされないでしょうから。
身元不明と言っても、意識が回復して名乗れるようになったり、家族の捜索願から身元が判明したりすることがほとんどですが、中には本当に名前も分からないまま亡くなる患者さんもいます。
身元の分かる所持品がない、ということは健康保険の資格も不明ということです。そのまま亡くなったり、回復するや姿を消されたりすると、請求先も見出せないまま医療費全額が自費の未収になりそうですが、これまた日本はありがたいもので、身元不明の人や、名前は分かっても帰る場所がない人(有体に言うとホームレス)の医療費は通称『緊急保護』と言って、そのときの治療費に限り、生活保護法にもとづいて都道府県から支給されます。医療機関にとってもありがたい制度です。
急性アルコール中毒で搬入され、混濁した意識の中でイノマタタカシとだけ名乗り、意識が戻ると「帰る」と言い張って逃げるように退院した40歳前後の男性患者の記録を見たとき、私は「よし、緊急保護だ」と拳を握り、お安い解決を喜びました。本名かどうかも分からない上、生年月日不明、住所不明、電話番号不明、勤務先不明です。これだけ不明が重なれば、身元不明も同然です。
数時間とは言え、救命センターで処置を受けたので、通院ではなく入院扱いでした。自費で14万9,820円という金額ですが、福祉事務所に一報して、救急隊から傷病者搬送通知を取り寄せる手続きを済ませ、一丁上がりと手をはたいたのも束の間、一本の電話がその先行きを曇らせました。乱暴ではありませんが無造作な話し方をする40台か、50台か、60台かの男性、つまりはおじさんでした。
「昨日の晩に友達が酔っ払って倒れて、そちらに運ばれたんだけど、具合は大丈夫かなと思って電話したんだけどね」
「そのご友人のお名前は?」
「イノマタっていうんだけどね」
げっ!
「昨日の昼過ぎから一緒に飲んでいて、急にぶっ倒れたもんだから、俺が救急車を呼んだのよ」
「立ち入ったことを伺いますが、そちら様は具体的にはお勤め先か何かの方ですか?」
「いや、ただの飲み友達よ。行きつけの飲み屋で何度か顔を合わせて、それから一緒に飲むようになったんだよ」
学校や職場という社会の枠組みとは無縁な、緩やかな人間関係のようでした。女性同士ではあまり聞かない付き合い方です。
でも緊急保護の成り行きに靄がかかってきた以上、どれほどの情報を引き出せるか未知数ながら、この人物には病院と患者とをつなぐ糸になってもらわなくてはなりません。
「申し遅れました。私、事務職員の水野と申します。失礼ですが、お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「俺?水戸部といいます」
「水戸部さん、患者さんに関するお問い合わせですので間違いを防ぐためにお尋ねしますが、イノマタさんとおっしゃる方はおいくつの方ですか?こちらでうかがった生年月日と一致すれば、他の患者さんとの取り違えはまずないと思いますので」
鎌をかけます。
「いや、生年月日までは知らねえなあ。41歳って言っていたと思うけどね」
「そうですか、では患者さんのお住まいはご存知ですか?住所が一致すれば、まず同一人物と判断できますので」
鎌をかけます。
「東池袋のマンションかアパートだって聞いたな」
「マンションの名称は?」
「そこまでは知らない」
「ご友人なら電話番号はご存知ですよね。連絡をお取りになることもあるでしょうから」
「いやぁ、いつも店で会ってから一緒に飲むだけだからねぇ」
「どちらにお勤めか、お聞きになったことはありますか?」
「ああ、それなら聞いたことがある。岡林工務店とか言ってたな。中野にあるとか言ってたと思う」
収穫はこれだけでした。事実なら土建国保に加入しているかも知れません。
「分かりました。お聞きした範囲でその患者さんだと思われる方が一人だけいらっしゃいますが、その方はすでに退院されました」
こう答えると水戸部氏はこう言いました。
「そうなの、それじゃあ、イノマタがまたかかりに来たら、立て替えといた飲み屋の勘定を俺に返すよう言っといてくれる?」
「承知しました。水戸部さんもイノマタさんにお会いになったら、病院に連絡するようお伝え下さい」
お互いに言伝し合って通話を終えました。もちろん期待はしていません。水戸部氏の携帯電話の番号は着信表示されていましたので、念のため控えておきましたが、おそらく役に立つことはないでしょう。
さて、なまじ情報を得てしまった以上、裏を取らなければなりません。福祉事務所が調べて、身元も住居も明らかになり、あとから緊急保護が取り消されたりすると却って面倒です。手間をかけるのなら時宜を逸せずかけないと、困難が増すばかりで結果も伴いません。
インターネットで岡林工務店を検索すると確かに中野区に一件見つかりました。でもホームページを開いているわけではなく、中野区内の建築業者一覧に所在地と電話番号が掲載されていただけです。さっそく電話をかけてみると一回のコールで受話器が取られ、勢いよく名乗りました。
「岡林事務所!」
おお!この応答の仕方は!
「はい」も「もしもし」も冠さず、「です」と結ぶこともない、このような応答をする業界を私は一つしか知りません。日本のアウトロー文化が育んだ流儀でしょうか。
組関係者も人間ですから具合が悪くなれば医者にかかります。むしろ体を壊したり怪我をしたりする確率は堅気の人より高いはずです。私も仕事柄こういう職種の人たちと接した経験は少なくないので、気は引き締めますが敢えて普通に接します。こういう人たちは利害に関わらない限り不必要な威嚇はしませんし、むしろ個人情報保護など関係なく質問に答えてくれる場合もあります。
「突然失礼いたします。京北大学病院の事務の者です」
さすがに名乗るのは避けました。
「病院?」
「はい、実は当院を退院されたイノマタタカシさんがそちらにお勤めとうかがったものですから電話させていただいた次第です」
「イノマタ?ああ、ナシダのことかな?」
「ナシダさん?」
「ええ、ナシダタカシなら以前うちにいたけどね、イノマタと名乗っていたときもありましたよ。それが何か?」
「いえ、お聞きしたいことがあるのですが、なかなか連絡がつかないものですから、お勤め先なら連絡が取れるかと思いまして」
「もううちにはいませんよ。連絡先も分からないな」
「そうですか。もしご存知でしたら教えていただきたいのですが、そのナシダさんは中野区かどこかの国保に加入されていたでしょうか?」
「国保?保険証のこと?それは知らないな。でも田端の吉村って医者にかかっていたから、そこで訊いたらどう?」
思わぬ魚信がありました。釣り上げるのがイノマタになるかナシダになるかは分かりませんが、本人に辿り着く手がかりになるかも知れません。丁重にお礼を言って、変な揚げ足を取られないうちに電話を切りました。
再びインターネットで検索すると、ずばりではありませんが北区田端に吉村肛門科という診療所が見つかりました。同じ医療機関ですので現在もかかりつけであれば、住所、電話番号、健保の資格など、こちらが必要とする情報はすべて持っているはずです。教えてもらえると非常に助かるのですが、医療機関同士であっても個人情報保護の壁は決して低くはありません。
正面から問い合わせても断られる公算が高いので、言い回しを工夫して尋ねてみます。いえ、嘘をつくのではありません。先方が個人情報漏洩にならないよう配慮して聞き出すのです。詭弁ですが…。
「はい、吉村肛門科です」
受付の人らしい女性が出ました。
「私、京北大学病院の事務職員の水野と申します。お世話になっております。実は昨日当院を受診されたナシダタカシさんの件で電話させていただきました」
「ナシダさんの?」
ためらっている様子が伝わりました。患者に思い当たったようです。
「実は昨日お見えになったときは大変な酩酊状態でして、何を聞いても、自分はいつも吉村肛門科にかかっているから吉村肛門科に訊け、の一点張りでほとんど有効な情報が得られませんでした。こうした次第で、ご迷惑とは思いましたが電話させていただきました」
「…ナシダさんがそう言われたのですか?」
「そちら様にかかりつけなのは間違いありませんか?」
「まあ、確かにそうなのですが…」
「池袋にお住まいのようですので、おそらく豊島区の国保加入者だと思うのですが」
「いえ、うちに提示されたのは北区の国保でした」
あれっ?と思いましたが、風向きが変わっても、それに合わせて舵を切るしかありません。
「あ、ああ、すると記号は17だったのですね、実は保険証もよれよれで、コピーは取らせていただいたのですが記号も番号も非常に読み取りにくい状態なんです。17のあとは、…これは2でしょうかねぇ、7にも読めるのですが…」
「17のあとは21、番号は992286です」
やった!
「ただ、うちが保険証を確認したのは、もう何ヶ月も前ですよ。京北大学病院さんに出した国保が今でも有効なのかどうかは分かりません」
「でも、かかりつけだったのではないのですか?」
「これは、本当は申し上げるのが憚られるのですが、うちに最後にかかったのは留置中でしたから…」
さらに風向きが変わりました。今度は舵を切る方向が分かりません。
健康保険の給付は収監中はもちろんのこと、被疑者として留置された時点で停止します。留置中の人が医療機関を受診した場合、その医療費は全額が国庫から支給されますので、医療機関にとっては取りっぱぐれがなく、ありがたいとも言えますが、当院を受診したとき、この患者は留置中ではありませんでしたので、釈放されたあと、元の住居に戻っていなかったとしたら、せっかく聞き出せた国保資格のありがたみが失われることになります。
「どちらの警察署だったのですか?」
「東池袋警察でした」
わずかに接点を残しました。
「今もご住所は変わっていないのでしょうか?」
「さあ、それは存じません」
「北区に住んでいたときのご住所をお教え願うわけには参りませんか?」
「それは、すみませんがご容赦下さい」
もっともです。私でも教えません。さすがに話し過ぎに警戒したようです。
電話を切ると、すぐさま北区役所にダイヤルし、国保の資格担当に問い合わせましたが、残念ながら吉村肛門科から教えてもらった国保資格は失効していました。振り出しに戻る、です。やはり東池袋のマンションから手繰り寄せていくしかなさそうです。不本意ながら、水戸部氏に頼ることにしました。
「はい」
「お忙しいところ、すみません。午前中にお電話をお受けした京北大学病院の水野と申します」
「ああ、さっきはどうも」
「ナシダさん、じゃなくてイノマタさんの件であらためて電話させていただきました」
「ああ、警察の件ならもう聞いたよ。そっちにも連絡あったの?」
表情が変わるのを咄嗟にこらえましたが、考えてみると電話は表情までは伝えません。
「警察の件ですね?」
話を合わせます。
「ああ、あの野郎、金も払わないくせに俺をガラ受けに指名しやがって、刑事課の河野って人から、東池袋警察まで来てくれって電話があったばっかりよ」
ガラ受けとは身柄引受人のことです。急転直下、イノマタもしくはナシダが像を結んだ気がしました。
「ほっとくわけにもいかないから、これから行ってくるよ。わざわざ電話くれて、ありがとね」
こちらこそ、貴重な情報をありがとうございました。
次の連絡先はほかにあるはずがありません。東池袋警察署に電話して、刑事課の河野氏を呼び出しました。
「お世話になります。京北大学病院事務職員の水野と申します。そちらに留置中とお聞きしたのですが、ナシダタカシさんの件で電話を差し上げました」
「ナシダ?ああ、通称 梨田隆、戸籍名 李隆生。無銭飲食で勾留中です」
またしても違う名前が出てきました。
「それにしても、ずいぶん耳が利きますね。京北大学病院さんには、こちらからも問い合わせようと思っていたんですよ」
「ナシダさん、あ、李さんですか…、昨日遅くに急性アルコール中毒で搬入されて、今日の早朝に自主退院された患者さんです」
「本人の供述通りですね。そのあとすぐにファミレスでモーニングサービスのセットを食べて、逃げようとしたところを店員に取り押さえられて現行犯です」
「何時頃のことだったのですか?」
「午前6時20分、身柄確保」
これを聞いて、変な色気を起こしてしまいました。
「あのぉ…、うちの入院費なんですけど…、留置中の受診ということにはしていただけないものでしょうか?」
「いやぁ、それは無理ですね」
言うだけ言ってみましたが、さすがに無理な相談でした。苦笑交じりに一蹴されてしまいました。
「と言うことは京北大学病院さんの医療費は払っていないということですか。病院代を払ったらお金がなくなったと供述したのですが。あっちもこっちも食い逃げというわけだ。しょうがない奴だな」
「せめて健康保険の資格だけでも分かればと思っているのですけど。以前は北区の国保に加入していたようですが」
通名でも住民登録はできますので、吉村肛門科に提示された国保には梨田隆と記されていたのでしょう。
「そうですか、残念ながら健康保険までは分かりかねます」
「お住まいは東池袋のマンションと聞いているのですが」
「ええ、東池袋パークサイドハイツ601」
口を滑らせた情報をこちらが得ていないことを悟られないよう、喉の弾みを抑えながら話を合わせます。
「では、当院で書かれた申込書の住所と同じですね」
と言いながら、急いでインターネットで検索します。
「東池袋2の19の○○の東池袋パークサイドハイツですよね」
「そうです」
住所特定、成功!
「住民票はあるのでしょうか?」
「照会したけど住民登録なし。居候じゃないですかね。住所不定と同じですよ」
住所不定!そのことばが装飾音を伴って聞こえました。
「身柄引受人が来たら今日中に釈放しますので、京北大学病院さんの支払いもするよう言っておきます」
「ご配慮、ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いします」
とお礼を言って受話器を置きましたが、それで患者が払いに来るとは到底期待できません。
数日後に東池袋警察の河野氏に改めて問い合わせ、李隆生さんが釈放されたことを確認すると、住所不定を裏付けるため、東池袋パークサイドハイツ601号を確かめに行くことにしました。
ネットで地図を出力し、場所を示しながら東氏に同行を求めると、珍しく東氏は興味に顔を輝かせて(脂をテカらせて、と言った方が事実に近いのですが)、むしろ急かされて現地に向かいました。東氏が乗り気だった訳はこのあと分かります。
池袋駅から10分ほど歩くと8階から10階建ての古いマンションが立ち並ぶエリアに着きました。一棟ずつマンション名を確認して歩き、人のいない管理人室の張り紙に東池袋パークサイドハイツの名称を見出して、まずは建物を特定しました。
「ああ、ここか」
東氏がそう呟きました。ここか、の意味もこのあと分かります。
さて、過去にも患者宅を探しに池袋のマンションを訪れたことがありますが、築年数の古い池袋のマンションほど怪しいものはありません。個人的にイケブクーロン城と名付けています。
集合の郵便受けを見ても、聞いたこともない社名が歯抜けに貼られている以外、個人の名札はほとんどありません。それでも郵便局員は入居者を把握しているのか、郵便物やチラシが投入口からはみ出している郵便受けも少なくありません。公共料金の通知などを失敬して抜き出して、患者宅であるか否かを判断するのが常套手段です。
建物の中に入っても人の生活の気配がなく、子供の声など無縁な寒々しさがあります。止むなく一人で訪問したときなどは、妖気漂う伏魔殿のような佇まいから一刻も早く解放されたくて、最低限の確認を済ませると逃げるように建物から出ました。歩道に出て、人や車の往来を目にして人心地がしたものです。
このとき訪れた東池袋パークサイドハイツは郵便受けを見ると、各階8戸ずつの9階建てのようでした。601号の郵便受けを開けてみましたが、チラシが詰まっているのみで、患者の名乗った3つの姓に宛てた郵便物は一つもありませんでした。小まめに郵便物を取り出しているのか、入居者がいないのか判然としません。
ただし、このマンションにはこれまでに訪問したマンションとは違う用途があるようでした。郵便受けに名札はないのですが、802、604といった3桁の部屋番号を紙で切り出して、部屋番号だけが目立つように張り付けたテナントが多数あるのです。気づいてはいましたが特にそれが何なのか考えもせず、東氏と並んで6階に行くエレベーターを待っていると、わずかの間に男性が一人、エレベーター待ちに加わり、さらにカゴが着くまでの間に20歳代後半ぐらいの女性が心持ち距離を取って隣に立ちました。と言って、挨拶を交わしたりはせず、むしろ目を合わせないよう意識している様子でした。
人の気配を感じさせなかった、これまでの池袋のマンション探訪とやや勝手が違うと感じていると、エレベーターのカゴが着き、今度は中から30歳代と思しき女性が降りてきました。こちらも伏し目な堅い表情でした。
「いいよなぁ」
東氏がまた呟きました。対照的な嬉しそうな表情です。
それでやっと理解しました。このマンションには風俗店の事務所が多数入居していたのです。部屋番号だけを強調したテナントの正体はそれだったのです。店名の標示は都条例で禁止されているので、客にアピールしようにもそれ以上のことはできないのでしょう。
「いいよなぁ。仕事にするぐらいだから、よっぽど好きなんだろうなぁ」
何を言っているのだ。めいめいが止むを得ない事情を抱えているに違いないのです。好きでこんな仕事をしている女性がいるとでも本気で思っているのか。
同じ女性として憤りを覚えました。同じ女性として…。
そこではっとしました。私も同じ商売の人に見えるのでは…。
と言うより、この場にこうしていて、ほかの何に見えるでしょう。さらに言えば、東氏と連れ立つこの姿は第三者的に見れば、指名した客と指名された女以外の何物でもありません。
心が悲鳴を上げました。思わず顔を伏せた居ずまいは風俗嬢そのものでした。
掃除の行き届いていないエレベーターに乗り込んで、いささか慌てて6階のボタンを押すと、驚くほど速く扉が閉まり、バッグの端を挟んだまま上昇を始めました。
「こういうのを戸開走行って言うんだよ。今の建築基準じゃ設置許可が下りないなあ」
人の気も知らないで、東氏は呑気に講釈を垂れていました。
6階でそそくさと降り、悠然とあとに続く東氏を待つ間に、一階で一緒にエレベーター待ちをしていた男性客と目が合ってしまいました。
この階にはどんな店があるのかな?といった興味に満ちた表情でしたが、あいにく事務所に戻るわけではないのです。
「この階にはどんな店があるのかなぁ」
横に並んだ東氏が言いました。同じこと考えるなよ。風俗店好きの男性は思考が同じなのでしょうか。
薄暗い通路の両側に各戸の鉄扉が並んでいます。先まで行くとL字型に右に折れた外廊下になっており、その一番奥の扉が目的の部屋のようでした。部屋番号が傷跡あらわに剥がされていましたが、603号、602号に連なる位置であり、その先は非常階段であることから、そこを601号と断定して間違いなさそうでした。表札はもちろん出ていません。
一目見て異様だったのは、601号のドアのポストの中からコードが伸びて、非常階段の横の業務用電源コンセントに挿さっていたことです。そうです。ビルの電気を盗んでいたのです。電気のメーターは静止していました。
ドアの横の曇りガラスの窓から覗く限り、室内に電灯が点いている様子はありませんでしたが、窓辺に生活用品の容器が並べられていたので、コンセントのことと考え併せれば、居住者がいるのは確実です。
東氏がドアのベルを押しましたが、室内からチャイムの音は聞こえてきません。何度押しても同じでした。ドアチャイムの電源もしくは電池も切れているのでしょう。もちろん応答はなく、声をひそめている様子さえ感じられませんでした。よほど気配を消し慣れているのか不在なのか、どちらかでしょう。
「抜いてやろうか」
言うが早いか、東氏がビルの電源に挿さっていたコンセントを抜いてしまいました。それでも室内の様子に変化はありませんでした。連絡を請う旨の手紙をドアのポストに入れて、この日は退散です。
エレベーターで一階に戻ると東氏はカゴから降りずに、
「じゃ、わしは用事があるから、ここで」
と言って、ご機嫌な顔を折り返し上昇するカゴの中に消しました。何という分かりやすい用事でしょう。不得要領な顔を繕って東氏を見送り、私は薄気味悪いビルから足早に立ち去りました。
一週間ほど待ちましたが、イノマタタカシからもナシダタカシからも李隆生からも連絡はありませんでした。この分かり切った結果を受けて、イノマタさんの受診を確認してすぐに第一報した東池袋福祉事務所に再度電話を入れました。相談係の板倉氏にここまでの経緯をそのまま説明し、改めて緊急保護の検討を請うと、
「分かりました。現地を訪ねて確認されたのであれば、現住所不明として保護の対象となり得ます。念のため郵送でもう一度手紙を出して、患者の反応を見て下さい。お話を聞く限り、それで反応があるとも思えませんが、一週間後に結果をお知らせ下さい」
と言って、前向きな検討を約束してくれました。
考えられることはすべて初動で済ませておきましたので、それからの一週間は待つだけでした。患者からの連絡などあるわけがありません。
「やはり反応ありませんでしたか。実は区の地区担当者も数日前に現地を訪ねて、管理人にも情報提供を求めたのですが、居住者がいることが確認できたのみで、それが患者なのかどうか判断できませんでした。本人と特定できる人物の居住が確認できなかった以上、住所不定として扱うしかありませんね」
これが板倉氏を通した福祉事務所の判断でした。ずいぶんと迂回しましたが、結局は緊急保護という元の鞘に収まりました。
当院を受診した酔っ払いがいたことは確かなのですが、結局この人は誰だったのでしょう。この仕事をしていると、ちょっとしたミステリーに出会うこともあります。