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韋駄天次郎吉 Running of Jirokichi

作者: tetsuzo

芝愛宕下、増上寺門前には大名屋敷や大身の旗本が住む、広い屋敷が続く。どの屋敷も高い塀に囲まれ、深閑としている。その一角に譜代の大名屋敷にも勝るほどの巨大な敷地があり、鬱蒼とした木立の中にこじんまりした屋敷がひっそり建っていた。

大権現様が江戸に幕府を開いたころから、この地に住まう大地主山田次郎衛門の屋敷である。宝暦二年(1752)秋、次郎衛門は恰幅の良い、肥満した身体を大儀そうに立ち上がらせ、奥方お栄の部屋に向かった。

「お栄。次郎吉の様子はどうだ」

「はい。今は眠っているようですが、起きると喘息の発作がひどく、食も進みません。あの年頃の子供は外で元気よく飛び回って遊んでいますが、次郎吉は不憫にも、生まれてこの方、外に出たことも無く、ああして寝たり起きたりでございます」

「ふむ。哀れといえば哀れな子供。親として何とかしてやれないものだろうか」

「いつも滋養のあるものをと心がけてはおりますが、何しろあの食の細さ。痩せこけ、普通の子供の半分しか目方がありません」

「医師の先生の意見はどうだ?」

「はい。この薄暗い、陽もろくに当たらぬ屋敷を出、身体を鍛えれば丈夫な子になるはずで、重い病に冒されているわけではないと仰います」

「後継ぎはこの次郎吉だけだ。何とか丈夫に育って貰わないと、百五十年続いた山田の家も儂の代で終わってしまう。次郎吉は儂等歳とってからの子供故、赤子のころ些か甘やかし過ぎたのかも知れぬ」

「そうですね。生まれててこの方、欲しいものは何でも与え、猫可愛がりしたのが、いけなかったかも知れません。私たち夫婦は年老いて、次郎吉の身体を鍛えるなど思いもよりません。この際いっそ思い切って町場へ里子に出し、そこで新たな暮らしをさせたら如何でしょうか」

「一理ある。さて何処へ里子に出せばいいものか」

「どうでしょう。山田の稼業とは正反対のようですが、威勢のいい鳶職がふと思い当たりました」

「馬鹿な。鳶は末端の下賤な職人。幾らなんでもそのような者の家に我が息子を里子にだすなど断じて許さぬ」

「では、どんな仕事なら宜しいのですか?まさか相撲取りでもあるますまい」

お栄の剣幕にたじたじとなった次郎衛門。口争いではいつも負けてしまう。不承不承だったが、いつも出入りしている芝一体を受け持つめ組の頭、五郎蔵に相談を持ちかけた。

「頭。私の息子だが、喘息持ちで身体もひよわだ。頭も知っての通り、ウチは何もしなくても食っていけるが、家主(いえぬし)になるにはそれなりの体力と器量が必要と思う。お貸ししている店子さんに敬われるとまでとは言わないが、人々の暮らしを預かるんだから、色々相談に乗ってやる必要がある。頭は顔が広い。息子を預かって鍛えてくれるような御仁を知らぬだろうか」

「へい。あっしのところで息子さんを預かれればいいんですが、生憎とあたしも寄る年波。身体がいうことを利きません。今年中に隠居し、め組から引こうと思っておりやす。だが、以前あっしが鍛えた、丁度良い年恰好の男がおりやす。深川の哲次って野郎ですが、面倒見が良く、男っぷりも中々のもんで、町中から慕われておりやす」

「そいつはいい。頭。早速にでもその哲次さんとやらを紹介してください」


七歳だった次郎吉は、深川六間堀の(とび)、哲次の下に里子に出された。哲次は女房に先立たれ、子供もいない一人暮らしで、飯を炊くにも不自由しており、喜んで次郎吉を引き取った。哲次は四十を少し超えた年季のいった鳶で、町火消しの組頭も勤めていた。組は本所深川十六組の中組で凡そ五十ヶ町が受け持ちだ。担当町内の火事だけでなく、近隣に火災があれば何処へでも駆けつけるのが決まりである。特に先頭を走る(まとい)持ちは、重い火事場装束を身にまとい、三貫以上もある纏を担いで走らなければならないから、強靭な体力と迅速な疾走が求められる。哲次は次郎吉を一目みて、そのひ弱な身体つきに驚いたが、この子供を丈夫に育てあげれば、恩義ある五郎蔵、ひいては芝の大地主次郎衛門に報いることが出来る。次郎衛門は毎年深川の祭りや堀の浚渫費用に大金を寄進している。言わば深川の隠れた大旦那だ。そう思った哲次は次郎吉を火消しの花形、纏振りにさせてやろうと密かに誓った。鳶というのは、普段大工と一緒になって土台や足場造り、建前などをしているが、町内の井戸や長屋の修繕、下水や掘割の清掃、祭りの段取りや差配など、町の暮らしに無くてはならぬ役目を果たしている。町の人々のあらゆる相談にのり、皆から慕われなければならない。人間としての器量の大きさや粋な男気も必要だ。これは火消しで人を救い、火事を防いでいくうちに自然と身につくものである。


哲次は次郎吉に走らせることから始めた。火消しは半鐘が鳴ればいつでも、どこへでも火事場へ駆けつけなければならない。走りが遅ければ、先に着いた他の組が火消しを差配する。だから、どの組もイの一番に現場に到着しようと競い合い、全力で町を走るのである。真夏の暑い時期、冬の凍える時期、雨が降っても雪が積もっても、次郎吉は毎朝二里の道を走らされた。小柄な次郎吉が懸命に走る姿は、町内でも評判になり、走り終えた次郎吉に菓子を振舞ってくれる女房もいた。やがて喘息の発作も出なくなり、走ったあとは食も進み、見る間に頑健な身体に変わって、逞しく育っていった。次郎吉は生みの親のことを思い出すこともなく、十年が過ぎた。


小名木川と中川の合流地点から迫り出した中州に背の高い濃い緑色の葦が密生し川風に揺れている。(ふな)番所(ばんしょ)はこの中州の対岸にあって黒松の木立に囲まれるように建っている。番所につめる役人は絶えず行きかう荷や人を載せた大小の船、筏師(いかだし)の乗る材木筏などに目を光らしている。小名木川の狭い川面は江戸に向かったり、下ったりする人々を乗せた沢山の船で、いつも混み合った。

下総の大網元の一人娘、おりんは母親と共に、老船頭が漕ぐ(ちょ)()(ぶね)に乗り、行徳河岸から深川の佐賀町河岸に向かっていた。おりんの母親おまさは深川の料亭ふかがわに出入りする芸者だった。ふかがわを良く利用する客の中に、毎月日本橋の乾物問屋に海産物の取引にやってくる下総白子浜の網元、館山善衛門がいた。善衛門は大柄で真っ黒に日焼けしており、網元らしい豪快な男だった。善衛門は店にくると必ずおまさを呼び、時には泊まっていくこともあった。やがておまさは善衛門に見初められ、身請けされて白子浜の網元の女房に納まり、おりんを生んだ。おりんは母親似なのか、目鼻立ちのはっきりした大層な美人に育った。おまさは白子浜のような荒くれた漁師ばかりの漁村で娘を育てるのを忍びなく、善衛門と離れ、娘のおりんを連れ実家のある浅草へ戻るのである。

船番所の役人は荷を改め、ここを通る船を止めて乗客の人別や目的を詮議、問題の無いものだけが通行を許される。役人は執拗に江戸入りの理由をおまさに聞いた。おまさの江戸入りの訳が、年取った母親に代わり、代々続く料理屋の女将になると聞かされた。役人は自分も上役から一度だけ連れて行って貰った高名な料理茶屋と知り、小半刻して二人を解放し再び船に乗ることが出来た。船番所から小名木川に入ると川幅が急に細くなる。おまけに川の両側には荷降ろしのため舫った小船が並んでいる。老船頭は雨の日以外殆ど江戸川端の行徳から佐賀町河岸を往復しているから、狭い水路を縫って勢い良く船を進めた。万年橋をくぐり、川幅は広がって大川に出た矢先である。急に突風が吹いて、川上に向かう大きな材木筏が二人の乗る船の方へ向きを変え接近した。筏には板櫓があるだけで、上乗りする二人の筏師も行き足を止めることも方向を変えることも出来ず、飛び出してきた猪牙船は筏にぶつかり、転覆してしまった。老船頭とおまさは運よく筏につかまり筏師に助け上げられた。衝突の瞬間おりんは(へさき)先近くに座っており、衝撃で川に投げ出された。必死でもがけばもがくほど、川の深みに流され、強い潮の流れにつかまって、どんどん川下に流されていく。今は秋口で川の水はそう冷たくはないが、着物を着たまま川に投げ出された、おりんは早く引き上げないと溺れ死んでしまう。母親の悲鳴を聞き、丁度河岸の火の見櫓を見回りに来ていた火消し鳶の次郎吉が母子が船から落ちる所を見、猛然と土手を走っておりんが落ちた場所まで来ると、素早く半纏を脱ぎ捨て、下帯ひとつになって大川に飛び込んだ。次郎吉は水路の多い深川育ちだから水練も達者だ。思ったより潮の流れは速い。流されていくおりんが遠ざかっていくように見える。次郎吉は一旦深く潜ると手足を真っ直ぐ伸ばし、ついで両手両足を開いて急速に引き付ける。逞しい腕が瘤のように膨らみ、流れに逆らって強く後ろに掻く。水を掻くと同時に顔を上げて息をつぐ。房総の漁師に伝わる平泳ぎという泳法だ。速い。忽ち溺れ掛かっているおりんに近づき、襟を掴んで、ひっぱり、川辺に向かって泳ぎだす。力強い泳ぎで暫くすると浮いている筏に泳ぎ着き、おりんを引き上げた。為す術も無く見守っていた筏師も、次郎吉の素早い働きに驚いていた。次郎吉は助けた二人の帯を緩め、胸を押して呑んだ水を吐き出させる。遠巻きに見守る見物人から声があがる。

「若い衆。見事だ。ぶつけた儂等が助けなくちゃならねえところだが、ありがとさんよ」

「なに、おいらは六間堀の火消しだ。人を助けるンは、商売ェなんだ」

「助かった。筏を岸に着けるぜ。二人を陸に上げ、着物を乾かさなきゃなんねえ。幸い助けるのが早く、水はそう飲んじゃいねえようだ」

「番屋に運ぶんだ。番屋はこの上の橋の(たもと)だぜ」

三人で母子二人を番屋に運び込んだ。自身番の爺さんが囲炉裏に火を起こし、気付け薬を飲ませたり、着替えの古着を出してくれた。母子は着替えて火に当たり、爺さんの出してくれた熱い焙じ茶を飲むと、やっと人心地ついた。

「どなたか存じませんが危ないところをお助けいただき誠に有難う存知ます。私は訳あって娘を連れ、下総白子浜より生まれ故郷の浅草鳥越に戻るところでございます」

「災難だったでござんすねえ。あすこは出会いがしらの事故の多いところでござんす。こんなこたあ、理由にもなんにもなりませんが、あっし等筏師は川並(かわなみ)(しゅう)と違って筏を急に止めたり出来ねえんで」

「私たちを泳いで助けてくださった若い衆はどちらにいらっしゃいますか」

「ありゃ、変でがす。たった今まで此処に居たんですが、いなくなっちまった」

「一言お礼を申し上げたいのですが」

「あっしら年中筏に乗ってますんで、町衆のことは詳しくねえんで。申し訳ありやせん。ですが、確か深川六間掘の火消しだとか言っておりやした」


次郎吉は火事場で人を助けたことは何度もあるが、川で溺れた人を救ったのは初めてだった。救い上げた娘は、水をくぐったあとも極めて美しく、着ているものも高価らしい。番屋に留まりお礼を言われても面映かったし、自分とは身分の違う娘と知り合って近づきになれる訳もない。係わり合いになるのも面倒と思って姿を消したのである。人助けをするのは仕事の内だという火消し鳶としての矜持もあった。

この時おりんは十五歳、次郎吉十七歳だった。


おまさの実家は浅草鳥越の料理茶屋「いちまつ」である。母親は連れあいを亡くし、子供は下総に嫁いだおまさだけだったから、年老いた今、早くおまさに店を継いでもらいたかった。かと言って連れ合いの善衛門が白子浜を離れる訳にも行かない。おまさは店を継ぎ、仲居を雇い軌道にのるまでという約束で家を出たのである。母親のやっていた店は、幕府の米蔵が立ち並ぶ浅草お蔵に近かった。米蔵に縁の深い札差や両替商、蔵宿の主人、(おお)御番組(ごばんぐみ)御書院番(ごしょいんばん)の組屋敷に住む旗本などの富裕な上客が通った。口の奢った客も多く、板前は鐡蔵という深川の平清で修業した老練が勤めている。いちまつは三味線堀に面した小洒落た二階屋で、玄関前には小さいながら手入れの行き届いた庭がある。おまさは隠居した母親に代わり女将として陣頭に立って、二十人いる仲居や女中、板前や小僧を仕切り、更なる評判の向上に努めた。娘のおりんはおまさを手伝って、若女将を勤めた。おりんは若女将となっても女中達に交じり、店の座敷の掃除は勿論、店前の清掃や庭の手入れを毎朝欠かさず行っていた。おりんは昨年大川で船が沈み、溺れかかった時、名も言わず立ち去った、助けてくれた男の面影を忘れてはいない。土手を勢い良く走り、冷たい水に飛び込み、逞しい腕で襟首を掴んで泳ぎ、岸に引き上げてくれた男の姿を。その人は眩しいほど凛々しく、笑顔が美しい人だったと思う。一度あってお礼の言葉を言いたい、その思いは強くなる一方だった。深川の町火消しだと聞いたが、仕事が忙しく、そう遠くない六間堀に出向く機会は訪れなかった。


深川の鳶の頭、哲次が次郎吉を火事場へ真っ先に駆けつける纏振(まといふ)りに就かせようとしたには、別の訳があった。今哲次が率いる小名木川北を管轄する中組には、先棒を走れる足自慢は何人もいたが、小名木川南を受け持つ南組の三組、佐賀町の纏振り(ごん)()の圧倒的な走りにいつも煮え湯を飲まされていた。半鐘が鳴り、どの組もほぼ同時に詰め所を出発するのだが、権次はいつも先陣を切り屋根に纏を立て、火事場を差配してしまう。勝ちを取った組の頭は消火や打ちこわしの段取りなど全て主導権を得、敗れた組の面目は丸潰れになる。哲次の組は「亀組」とまで陰口を叩かれる有様だ。権次は六尺豊かな大男で歩幅が広く、筋骨隆々で猛然と走る。傍らを通る者など弾き飛ばされて仕舞うほどだ。かって哲次が纏持ちで走っていたころは、常に先陣を切り、誰も哲次についていけぬ走りを誇っていたにも関らずだ。哲次は次郎吉の走る姿を見て、この男は将来モノになると見込んだ。だが只漫然と毎日走っているだけでは駄目だ。持って生まれた才を大幅に伸ばしてやるきちんとした指導が必要だ。そこで哲次は(つて)をたより早飛脚伝吉のもとを訪ねた。伝吉は浅野の殿様が江戸城内で刃傷事件を起こし、切腹の沙汰が下ったとの報せを、播州赤穂までたった四日で送り届けたという、伝説の飛脚である。あれから五十年が過ぎ、七十近くのはずだが、矍鑠とし今も飛脚を指導育成しているという。

「伝吉のとっつあん。あっしは深川の鳶、哲次と申します。ウチの組は火事場への到着がいつも佐賀町の奴等に負け、亀組だなんて嘲りを受けておりやす。佐賀町にゃぁ、権次っていう突拍子もなく早く走る怪物がいて、そいつに走り負けるんでござんす。ウチに鍛えればモノになりそうな次郎吉っていう若ェ衆がおります。とっつぁんのお力を借り、次郎吉を男にしてやってはくれねえですか」

伝吉は老齢の自分に礼を尽くし、真っ直ぐこちらを見る眼差しにこの男は本気だと思った。

「深川六間堀の哲次っていやあ、儂も聞いたことがある。いつもイの一番に火事場に駆けつけ、勇壮に纏を振っていたのも知っている。ようがす。儂も「(はやぶさ)の伝」と呼ばれた男だ。その次郎吉とやらを鍛え上げ、お前ェさんの跡を立派に継げるような走りをさせてみようじゃないか」

翌日から伝吉は六間堀の火消し詰め所に通ってきた。伝吉はまず黙って次郎吉を走らせ、じっと見ることを繰り返し、その日は帰ってしまった。次の日朝早く、伝吉は再びやってきて、いきなり持ってきた草鞋を差し出し、次郎吉に履かせた。固さの異なる藁を幾重にも重ねて編みこんだ分厚い草鞋である。草鞋には長い革紐がついており、それを膝下まで何度も交差させて巻き上げ締める。履いてみると驚くほど足に吸い付き、小石やぬかるみを踏んでもビクともしない。

「いいか。早く走りたきゃ、腕をしっかり振れ。それと顎は引いて呼吸が楽になるようにしろ。上体をまっすぐ立て、姿勢を正しくするんだ」

「肝心な足の運びはどうすればいいんで」

「相手の権次は図体のデカイ奴だと聞いた。お前の歩幅じゃ絶対適わねえ。勝つためにゃ、足を早く動かす。腿は高くあげて、歩幅や速度を一定に保つんだ」

伝吉は何度も連続して二丁(約二百二十メートル)の距離を全力で走らせ、これを繰り返した。終わると上半身を鍛えるため、鉄弓を引かせたり、重い石を持ち上げさせた。呼吸を大きくさせようと、顔を水に漬けて堪えさせたり、大きく息を吸っては吐くを繰り返す鍛錬を課した。厳しい鍛錬は数ヶ月毎日行われ、次郎吉は以前の倍速で長距離を走りきることが出来るようになった。以前は一里の道を走り終わったあとは、息が上がり、疲労で倒れ込むこともあったが、今は三里走ったあとも普通に喋ることが出来、疲れを感じない。身体は引き締まって無駄な肉一片もついていない。

「競って走るとき、決して相手の走りにくっついて走っちゃなんねえ。自分の走る速さを守れ。それも八分の力でやるんだ。力を出し切らず()めに矯め、走らなきゃなんねえ距離の八分目に達したら、矯めておいた力を一気に解放し、全速で疾走、相手を抜き去る。相手は最早ついてこられぬ筈だ。もしついて来る様だったら、この遣り方を繰り返し揺さぶりをかけろ。しまいにゃ、相手はへばって崩れちまう」


次郎吉は二十歳になった今も鍛錬のため毎朝走っていた。六間堀の詰め所を出ると大川沿いを下り、富岡八幡の大鳥居をくぐって永代寺の門前を抜け、木場から堀沿いに砂村新田まで走る。畑の畦道を通って、中川に出、川沿いの土手を北上して亀井戸村、転じて源森川沿いを東進、吾妻橋で大川を渡り、浅草寺前の道を通って南進、三味線堀から神田川、永代橋で再び大川沿いの道に出る。その道を北進して帰着する行程である。凡そ八里(三十二キロ)の道程を一刻(二時間)足らずで走り抜ける。三味線堀の「いちまつ」前は毎朝五ツ頃(八時)に通った。丁度そのころおりんは店の前を掃除し、水を打っている。規則正しい足音をたて、考えられぬほどの速さで店の前を走っていく男を毎朝見送っていた、おりんは何度も見ているうちに、男がどこかで見た顔だと思い当たった。顔を上げ、姿勢を正し、腿を高くあげ走り去る男を見ると、何故か顔が赤らむのを感じる。誰だろう。ある朝、通りがかりに男がおりんに向かって笑みを浮かべた。その心を融かすような笑顔を見て、おりんはその男が昨年自分と母親を救い出してくれた深川の火消しだと気がついた。翌日からおりんはまともに男の顔を見ることが出来なくなった。男の走る足音が近づいてくると、胸が早鐘のように高鳴り、顔が火照ってしまうからだ。一度でいいから引き止めて、きちんとした礼を言わなければならない。しかし、男の澄んだ目と凛々しい体躯を遠くから見ると、もう駄目だ。用水桶の陰から男の走る姿を垣間見るだけで、口を利くなど絶対に不可能だ。おりんは男に激しく恋心を抱いてしまったのである。言うまでもなく鳶で火消しは江戸の花とも言われる、憧れの職業だ。肩から袖まで紅い帯の入った濃紺の印半纏、ぴっちり細い白い股引、いなせな姿はそれを着て歩いているだけで尊敬の眼差しを注がれる。まして男は汗ひとつかかず、喘ぎもせず非常な速さで走り行く。たっ、たっ、たっ、たっ、たっ。

おりんは目を固く(つむ)っていても、男の足音を聞き分けられるようになった。


一方、次郎吉も三味線堀前の広い通りを走るたび、自分に向ける美しい娘の熱い眼差しに気づいていた。何度か目を合わせると自分が昨年大川で助けた娘だと気がつき、どぎまぎした。あんなにも美しい娘だったのか。あの時は夢中で娘を番屋に届けると直ぐに立ち去ってしまった。格式ある料理茶屋の前を掃き清める娘。美しい着物を着て、長い黒髪をまとめ結い上げて、白い項を見せる。楚々とした身のこなし。引き込まれるような黒目勝ちの大きな瞳。細く華奢な手で髪を掻き揚げる仕草。薄紅を引いた唇は、いつも僅かに開いて、今にも微笑みそうだ。次郎吉は娘の姿を認めると、わざと足を早め、全速で通り抜ける。


何ヶ月か、二人は出会うたびに、互いに顔を赤らめ、恋心を募らせていった。夏のある日、おりんは、ここまで走ってくる男が、喉が渇いているに違いないと気づいた。男の住む深川は水が悪く、水売りから生ぬるい飲み水を買っている筈だ。おりんの店では、浅草寺鎮護堂の湧き水を毎日汲んで使っている。冷たいこの水を走る男に飲ませてやったら、どんなに喜ばれるだろうかと思った。今日声を掛けよう、明日こそと思っているうちに日が過ぎ、眩しい日差しが容赦なく照りつける盛夏となった。おりんはその日、清水の舞台から飛び降りるような、勇気を振り絞って通りに出、男の行き手を遮るようにして声を掛けた。

「あ、あの、もし。()(えん)さん、冷たいお水がございます。一口飲んでいってくださいまし」

「あ、あっしのことですか?手前は臥煙(町奉行配下の火消し)じゃございません。似ているけど町火消しでござんす。ありがてえ。喉がからからだった」

娘は大振りの茶碗になみなみと注いだ冷えた水を男に差し出す。男は一気に飲み干した。

「大層うめえ水でござんす。有難う。止まったら汗が噴出しやがった」

「まあ、ひどい汗。これでお拭きになって」

娘は真新しい白手ぬぐいを差し出す。

「こりゃどうも。あっしは深川六間堀の中組頭哲次のもとで厄介になっております纏持ちの火消し次郎吉と申します。毎朝早くから、お店の前を走りぬけ、ご迷惑のことと存じます。お詫び申し上げます」

おりんは震えながら、続ける。声が我知らず掠れて聞き取りにくい。

「お詫びだなんて、め、滅相もありません。毎朝お通りになるのを、た、楽しみにしております」

「さ、さいですか。失礼でござんすが、お嬢さんのお名前は何と仰るんで」

「た、大変失礼仕りました。私はこの「いちまつ」という料理茶屋の娘、おりんと申します。は、母が是非貴方様にお目にかかりたいと申しております。走りのご鍛錬中申し訳ございませんが、なにとぞ少しだけお上がりくださいますようお願い致します」

消え入るような声だ。

「おりん様の母上が私に?」

「訳はその時申します。さ、さ、どうぞお上がりなって」

「こんな汚れた格好で、このような店に上がる訳には行きません」

「そんな遠慮はご無用です。さ、早く」

おりんに急かされ、次郎吉は見事に磨き上げられた式台を通り、仲居らしい女に客間に案内された。次郎吉はもとよりこのような高級な茶屋など初めてだ。与えられた座布団も敷かず畏まって、身を固くしている。女中が芳醇な煎茶と和菓子を運んできた。暫くすると、得も言えぬ高雅な香りとともに、おりんと母親が入ってきた。おりんは先ほどの着物を着替え、より美しく装っている。俯いてもじもじしていたおりんが意を決して語り始める。顔が真っ赤に染まっている。

「おかあ様。こちらは次郎吉さんと仰る、町火消しさんです。ほら、随分手を尽くして探していた、昨年大川で私が危うく溺れ死ぬところをお助けくださったお方なんです。毎朝店の前を走っていらっしゃる方でございます」

「そうでございましたか。いつぞやは娘が危うきところをお助けいただき、お礼をと常に念じておりましたが、生憎とお名前を聞きそびれ、今日に至ってしまいました。その節は冷たい水をも厭わず、流れの速い大川に飛び込んでおりんを救ってくださった、貴方様に心より御礼申し上げます。今日は急にお引止めしましたので、命の恩人である貴方様に後日改めてお礼を申し上げたく存じます。その時は貴方様の親代わりをお努めされている組頭様も一緒にお招きし、当店のささやかな料理を召し上がっていただけたら幸いでございます」

母子の心の篭った丁寧な挨拶と気高い美しさに次郎吉は呆然としていた。後日、頭と共に必ず此処を訪れると約した次郎吉は再び走って家路をとった。自分と面談する僅かな時間のために、わざわざ着替え装ったおりんの美しい姿が、頭にこびりついて消えそうもない。後姿をいつまでもおりんが見守っていた。


見事な筆遣いの女文字の文が六間堀の哲次と次郎吉に齎されたのはその時から二日後のことであった。遣いの若い女中が持ってきたのである。文には明後夕刻、次郎吉に先年助けてもらったお礼に一献差し上げたいとあった。返事を待つ女中に哲次は次郎吉から凡その報告を受けていたので、喜んで伺うと申し伝えるよう頼んだ。

「次郎吉。えれえことになった。鳥越の茶屋「いちまつ」っていやあ、幕府のおえら方か、大店の旦那方が利用する大層な店だ。それをあっしらみてえな柄の悪りい、職人が行ったらどうなるものか」

「頭。あっしもそう思います。このまえ座敷に上がって茶を戴いた際なんざ、しょんべんちびりそうになりやした」

「お前ェの人助けがトンだ招待を引き出したな。こうなったら、鳶や火消しの面目を失わぬよう、気張って行くしかあるめえ。なぁに。高級料亭って言うても、たかが酒を飲ませ、飯を食わせるところに過ぎん。綺麗な女将と若女将に礼を言われるのも悪かねえ。おっと、礼を言われるのはお前ェの方だったな。羨ましいゼ」


翌々日、秋空はからりと晴れ上がり、夕焼けが堀を赤く染めていた。哲次と次郎吉は正月以外は袖を通さぬ黒紋付に袴を着け、駕籠を奢って行くことにした。顔なじみの駕籠担きが来た。

「頭と纏持ちの若い衆。一体どうしたんで。えらくめかし込んで。今日日なんぞいいことござんすか」

「おうよ。滅法いい女ンところへ行く。駕籠屋。浅草は鳥越の茶屋、いちまつ迄やってくんな」

「ひいっ。か、頭。あすこは金が有り余る札差や両替の旦那方が利用する店だ。頭といえどもあすこに行くのは、十年早ぇ筈ですが」

「煩ェ。黙って走れ」

二人を乗せた二丁の駕籠は新大橋で大川を渡り、次郎吉が毎朝走る道を逆に行って、夕闇せまるころいちまつの門前に立った。いちまつの門には大きな高張り提灯が灯され、女中が門前に迎えに出ている。玄関を通ると仲居頭が鄭重に来着の礼をいい、先に立って案内する。通された座敷は先日次郎吉が招かれた絢爛な座敷とはことなり、簡素な数奇屋作りの流麗な部屋であった。目の詰んだ備後表の畳、面皮付の柱、吹き抜けの欄間に八欠けの落としがけ。天井は低めに抑えられ節目を見せる赤松だ。床は二間幅の踏み込みの漆ぬりで脇には銀の筆返しのついた吊り床、いずれにも秋の野草が赤絵の器に無造作に生けてある。開け放った縦しげの明かり障子の外は、低い広い縁台で庭と一体のように見えた。庭には大きな灯篭に火が灯され、辺りを照らし出している。

奥の深い庭は草苔で埋められ、棚造りの藤の花が幾重にも下がり、庭園の奥には配置を吟味して埋められた岩と枝ぶりも見事なもみじの老木が覗いている。風流を解せぬ哲次と次郎吉も感嘆し、声が出ぬ。見事に計算しつくされた数奇屋の結構である。座敷は十二畳ほどで、床前の上座に案内され、座すように促される。二人は度肝を抜かれる以上に緊張し、震えて膝が定まらない。やがて月の形をした引き手が静かに引かれ、音も無く太鼓張りの襖が開いて、女将と若女将が入ってきた。二人とも目が覚めるような艶やかな小紋を着ている。極楽の天女は斯くやと思わせる美麗さである。おりんの装いは淡い黄色の地にごく小さい白い野菊の花が一面に散った小紋で、雪のように白い肌に良く似合った。漆黒の長い黒髪を(やっこ)島田(しまだ)に結い上げ、藤の花を飾っている。唇には薄く紅を差し、蜜蝋でも塗ったのか、濡れているかのように妖しく光って誠に美しい。

「本日はようこそおいでくださいました。女将を務めております、おまさと申します。今後ともご贔屓(ひいき)のほど宜しくお願い致します」

三つ指を突き、丁寧な辞儀をする母子に哲次と次郎吉は慌て、自分たちもお辞儀する。もう良かろうと顔を上げても母子はまだ頭を下げたまま。再び頭をさげる。

「お、おまさ殿。あっしら風儀もなにも(わきま)え無ェ鳶職でござんす。第ェ一こんな大層なお店に揚がらせて貰うなんて、全くの初めてのことで、悉皆解りません。よ、よ、宜しくお願いします。あっしは深川は六間堀で鳶の頭を務めます哲次、こっちは纏振りの次郎吉ともうしやす」

「まぁ、頭。娘のおりんは次郎吉さんとお逢いするのが嬉しくて、昨夜はろくろく寝ておりませんから、お化粧ののりが悪くて困ると何度も言っていましたのよ」

「おかぁ様。そのような舞台裏のこと次郎吉さんに話してしまうなんて、嫌っ」

仲居が燗をつけた徳利と突き出しの八寸を運んでくる。

「おりん。俯いてもじもじばかりしていては、お客様に失礼ですよ。私は哲次さんのお相手を務めますから、貴女は次郎吉さんに御酒を注いで差し上げなさい。さぁ、もっと次郎吉さんに近づいてお料理を勧めなさい。まだ何も手を付けていらっしゃらないわ」

母親から促されて、おりんは次郎吉の傍に寄った。なんと良い香りなんだろうか。(かんば)しく漂うおりんの身体中から発する甘い匂いに、次郎吉は酒を飲まぬ前から酔っていた。伏目勝ちに此方を見る瞳の深い色。そっと差し出す指の細さ。何か話しかけねば。こんな機会は二度と現れることは無いだろう。だが、何を話したらよいか解らない。様子を察した哲次が話を継ぐ。

「次郎吉。おりん様は屹度(きっと)火消しのことはご存知無ェに違いない。そいつをお聞かせしたらどうでい」

「へっ、へい。お、おりん様。火消しっちゅうのはですね・・・・」

「あら、おりん様だなんて。私のこと、おりんちゃんって呼んでください」

そういうと、おりんは恥ずかしさのあまり又顔を伏せてしまう。

「お、お、おりんちゃん。江戸は火事が多うござんす。享保の頃、町奉行だった大岡様が町火消し四十八組、本所深川十六組を創設されました。それより以前はお旗本を中心にした定火消し十組が置かれ、臥煙という火消卒がおりやした。おりんちゃんが最初あっしのことを臥煙さんって呼びましたね。良く覚えておりやす」

「次郎吉さん。面白いわ。続けて」

「頭とあっしは深川のうち小名木川より北の火消しを担う中組の七組に属します。おりんちゃんのいる鳥越は八番組、ほ組が担当です」

「受け持ちの町以外の火事の時は出張らないのですか」

「いや。大きな火事の時は何処へでも走っていきます。あっしは纏持ちですから、一番に現場に駆けつけ、纏をあげます。纏を先に上げた組が火事場を差配できるのです。火消しは所属する組の名誉のため、競って走ります」

「まぁ、それで次郎吉さんは毎朝走って鍛えていらっしゃるのね」

「左様です。富岡八幡の大鳥居の手前に真っ黒にぬった大きな望楼があるのをご存知ですか。いつも櫓の上には二人以上の見張り番が詰めておりやす。火事を望見したら即座に半鐘を鳴らします。火事が遠い時はじゃーん、じゃーんと一打づつ打ちます。近くなるにつれ、二連打、三連打、五連打となり最後は摺半(すりはん)と言って槌を鐘の中に入れ掻きまわすのです。この音を聞いたら直ぐ逃げた方がいい。あっしらは鐘の音を聞いたら、物見に火事の場所を聞いて銘々鳶口、差又、龍土水、水桶、鉄砲などを抱え、ひたすら走ります。大体総勢二十人がとこでござんす」

「私見たことあります。火事場装束を着け大勢の火消しさん達が町を脱兎のように走る姿を」

「火事が大きいと消すのが難しい。そんな場合延焼を防ぐため、火事が広がりそうな建物などを片っ端からぶち壊します」

「凄いわ。聞いているだけでわくわくしちゃう。もしもこの近くに火事があったら、次郎吉さん駆けつけてくれますか」

「も、勿論でござんす」

頭が話題を火事に振ってくれたお陰で、普段無口で口下手の次郎吉もかなり喋ることができた。話題が途切れそうになると哲次が話を継いでくれた。その間料理が美麗な器に盛られ次々と運ばれてくる。金目鯛と松茸の椀、子持ち鮎、黒鯛やひらめのお造り、毛蟹の酢物、最後は鮑の炊き込み飯。どれも非の打ち様もなく美味で、二人は堪能した。板前が挨拶に来た。

「本日はようこそお出でくださいました。手前、いちまつの板場を預かる鐡蔵と申します」

「とても旨かった。今度この綺麗な女将目当てに来たいものだ」

「まあ、ご冗談ばっかり。あたしはモオお婆ちゃんですよ」

「とんでも無ェ。どうみても三十路前でござんす」

哲次はおまさの妖艶さに参ってしまったようだ。

「儂等これから忙しくなりやす。今年は三年に一度の八幡様の大祭でござんす。あっしら鳶は祭りの支度で忙殺されます。この次郎吉は連合渡御の神輿、深川北の先棒を担ぎます。五十以上もの神輿が勢い良く町を練り歩き、壮観でござんす。女将さんもおりんちゃんも是非ご覧くだせえ」

「おりんは昨年まで下総におりましたから、江戸の祭りは見たことが無いんです。私は若いころこちらで芸者をやっておりましたから、何度も見ておりますが。そうだわ、次郎吉さん。おりんをあの賑やかな宵宮に連れて行ってくださいませんか」

「お、おかぁ様。次郎吉さんはお忙しいのよ。そんな急にお願いするなんて、とっても失礼よ」

「大丈夫でござんす。宵宮にゃ、次郎吉がおりんさんのお供させていただくよう、きっちり申し渡しやす。頭の私が言うんだから間違いねえ」

「か、頭。あっしはまだ行くとも何とも言ってねえ」

「わかっとる。お前ェの顔にゃあ、おりんちゃんと一緒に宵宮見物してえとはっきり書いてある」


酒と料理を満喫したふたりは女将の手配してくれた駕籠で六間堀の火消し屋敷に戻った。

「お前ェおりんちゃんにすっかりほの字のようだ。あんな素晴らしいお嬢さんは見たことも無ェ。大事に大事にするんだ」

「へい」


祭りが近づくにつれ、鳶たちの忙しさは尋常で無くなった。神輿や山車の整備、お旅所の設置、注連縄つくり、吊るす膨大な数の提灯の製作、担ぎ手が着る半被や手ぬぐいの注文、町の肝煎り達の意見の聴取、遣らねばならぬことが次々出てくる。

八幡様の宵宮は精進潔斎した巫女が華やかな舞を舞い、引き続きお能が行われる。一方境内の隅の土俵では幕内力士の土俵入りと奉納相撲が興行され近郷近在から夥しい人が集まる。みやげものや食べ物屋、金魚すくいや的場、怪しげな出し物を演る小屋、演武や軽業を見せる芸人など種々雑多な出店が出て大変な賑わいなのだ。次郎吉はうきうきしてその日を待った。

宵宮の九月二十二日がやってきた。次郎吉は新しいゆかたを着、帯を締め、草履を履いて、いそいそと鳥越に向かった

六間堀から鳥越までは凡そ一里十丁(五キロ)。半刻(一時間)で着く。早く着きすぎ大川端で時間を潰す。おりんと約束の七つ(四時)丁度、次郎吉はいちまつの門前に立った。暫くすると中からおりんが一人で出てきた。赤や緑の秋の花を散らしたゆかた、黄色の名古屋帯を締め、髪はお団子に結い上げる割れしのぶ。桔梗の花を挿している。俯いた横顔は可憐としか言いようも無い。可愛らし過ぎる。

「お、おりんちゃん。かぁ〜いい」

おりんは唇を突き出して怒ったふりをする。

「やぁねえ。次郎吉さんたら。そういうおべんちゃら、貴方らしくないわ」

「だ、だって言わずにいられぬほど素敵なんだもの」

「さ、行きましょう」

それからの道程はいつも走っている道とはまるで違って見えた。永代橋の太鼓のように盛り上がった天辺(てっぺん)に立つと、提灯の並ぶ広い通りが見通せる。大鳥居から先は六万坪余を誇る八幡様の広い境内も人で一杯だ。次郎吉ははぐれないためと自分に言い聞かせ、おぞおずとおりんの手を取った。柔らかくひんやりしたおりんの手。この自分が美しい女性と手を繋いで歩いていることが信じられぬ。饒舌な語りは必要無かった。繋いだ手からおりんの気持ちの全てが伝わってくる気がした。小物を売る店で可愛い小袋や簪を買った。安物だったが、おりんは目を輝かせて喜んだ。

「おりんちゃん。少しお腹が減ったね。お団子でもたべようか」

「嬉しい〜。買って、買って」

みたらしと餡子のついた餅は柔らかく旨い。ふたりは陰になった桟敷に腰を下ろし並んで団子を食べた。

「あら、次郎吉さん。お口のまわりに葛餡がついているよ。取ってあげる」

おりんは次郎吉の唇に自分の唇を寄せ、餡を吸い取った。唇と唇が重なった。


明けて九月二十三日は八幡様の本祭りだ。次郎吉が先棒で担ぐ深川北の駒番は今年十六番。先頭から数えて十六番目に遣ってくる。おりんは母親のおまさと共に、八幡脇の茶屋に席をとり、今や遅しと待っている。通りに面するこの茶屋に部屋を確保するのは容易では無い。いちまつを利用する客に、永代門前町を仕切る博徒の大親分、門仲の研吾郎を拝み倒して、やっと手に入れたものだ。おまさはずっと以前、研吾郎に抱かれたこともある仲である。


おりんは昨夜次郎吉と生まれて初めて交わした口付けの感触に今も呆然としている。広小路を続々と神輿が威勢のいい掛け声を上げ練り歩く。町の人たちは担ぎ手に盛大に水を掛ける。おりんたちのいる茶屋の前では、担ぎ手が一斉に腕を上に伸ばす差し上げが行われ、歓声に包まれる。一番神輿が通ってから一刻もたったころ、次郎吉の姿が見えた。濃灰色の法被、晒木綿の腹巻、締め込み、白足袋はだし、被り物は斜めにキリッと巻いた捻り鉢巻。次郎吉はびっしょり汗をかき、弓なりになって神輿の先棒を担いでいる。茶屋の下はお旅所になっていて、ここで担ぎ手が交代する。担ぎ終えた次郎吉はおりんの待つ、部屋に上がってきた。

「まぁ、次郎吉さん。汗びっしょり。こっちへいらっしゃい。汗拭いて差し上げるわ」

次郎吉は諸肌を脱いで、裸形となりおりんの隣で胡坐をかいて座る。凄まじく盛り上がった筋肉、引き締まって割れた腹、太い腿はおりんの胴ほどの太さがある。肌はつややかに光って浅黒い。おりんは手ぬぐいを何度も替えながら、次郎吉の肌を拭った。

おまさが冷酒と料理を勧める。次郎吉はあっと言う間に呑み且つ平らげていった。おりんは二人の距離が急速に縮まったと感じた。おまさは気を利かせ先に帰った。おりんは甘えた口調になる。

「ねえ、ねえ。次郎吉さぁん。いつまでも裸だと目の行き所がないわ。ちょっと待って」

おりんは用意してきた風呂敷包みを解く。新しいゆかたと帯と下駄が入っている。

「これね、この前貴方と頭がいちまつにいらしたあと、すぐに日本橋の呉服屋さんに行って誂えたものよ。りんが着せてあげる」

細い縞が入った渋めの藍色のゆかたと薄茶の帯だ。おりんは白地に赤いぼたんの花を散らせた鮮やかなもので、二人揃って歩くことを考えたのだろう。おりんは次郎吉を立ち上がらせ、背伸びしてゆかたを肩から着せかけ、手を回して帯を締めてくれる。着せて居る時何度もおりんの手が次郎吉の肌に触れる。

「とっても良く似合うわ。次郎吉さん、素敵よ」

「て、照れるなぁ。おりんちゃんこそ今日も凄くかぁ〜いい」

「少し歩きましょうか」

八幡様の前の堀は仙台堀と呼ばれ、大川に通じている。二人は手を繋いで、堀脇の小道をゆっくり辿った。長屋の悪童達が囃し立てる。二人とも顔を赤く染めたが、繋いだ手は離さない。幾つかの橋を過ぎ中ノ橋で大川際の佐賀町に出る。二人は大川の土手の草叢に並んで腰掛けた。大川は夕日に赤く染まり、川原で餌を啄ばむ白鷺も橙色に見える。そよ風が頬をなぶり、感傷的な気分に浸る。次郎吉はおりんの腰に手を回してそっと抱き寄せた。


師走の二十三日のことである。宵のうちから吹き出した強い北風は夜半過ぎてますます吹き荒れた。新吉原の大見世角海老楼の酔客の煙草の不始末から起きた火災は、強風に煽られ瞬く間に吉原全域に広がった。いつも閉じられている大門が開放され逃げ惑う遊女や客で、唯一通じている日本堤は押し合いへし合いの大混雑。富岡八幡前の大望楼の張り番は、吉原付近で火の手が上がるのを見て、直ぐ半鐘を打った。火災は大川の向こう側で、深川への延焼の恐れは少なく、ゆっくりとした一連打を打った。火事を注意深く見つめていると、火は急速に南西側に広がって行く。

「こりゃぁ、大火事になるぞ。早く三連を打て」

次郎吉は六間堀の火消し詰め所でぐっすり眠っていた。二階の座敷で同じく寝ていた哲次は鐘を聞いて飛び起き、階下に走った。木槌で火消し達が枕代わりにしている丸太の小口を思い切り叩く。全員一度に目覚めた。その時見張りが詰め所に飛び込んできた。

「か、頭。火元は吉原。火は急速に南西に拡がっておりやす。一刻もしねえうちに浅草阿部川町、田原町や鳥越町など丸焼けになっちまう。大火事でごんす」

「な、な、何っ!鳥越がぁ!こうしちゃいられねえ。おいっ!次郎吉。飛び出せ。おりんやおまさが危ねえ!」

素早く刺し子半纏と錣頭巾、飛脚の伝吉から貰った特別誂えの草鞋を履き、纏を片手に突進した。が、直ぐに伝吉の教えを思い出し、歩幅を整え、いつも走っている速度で姿勢を正して走り出した。鳥越までは一里十丁。八分の一刻(十五分)で駆けつければ、助けられる。足の運びを一段と早めた。永代橋に差し掛かった時である。向こうから猛然と走りこんでくる一団がある。高々と丸南の纏を掲げている。佐賀町の権次率いる組だ。

次郎吉の纏の印は丸中である。丸南はあっと言う間に丸中を追い抜き、引き離して行く。

「次郎吉兄イ。権次の野郎だ。奴に先駆けされちゃあ、たまらねえ。速度をあげろ」

「このまま行く。神田川沿いに走り新シ橋を渡る時が勝負時だ。それまで俺に合わせて走るんだ」

次郎吉は自分の走りの歩幅に合わせ、はっ、はっ、はっと声を上げた。皆それに倣う。上り坂、狭い道、下り坂。全く速度を変えず走り抜ける。次郎吉は走りの師匠伝吉の言葉を胸の内で反芻していた。〈矯めて、矯めて、一気に爆発させる〉一里を過ぎ、神田川沿いの狭い通りから新シ橋が見えてきた。前を走る丸三の権次の速度が僅かに鈍ってきた。次郎吉達は速度を変えないから、その差は急速に縮まってきた。

「野郎共。一気に行くぜ!」

次郎吉は急激に速度を上げ、権次に追いつくと忽ち追い抜いた。

「て、手前ェ、何時の間に」

「先行くぜ」

狭い道を二つの集団がすり抜ける。鳶口が塀に当たって火花を散らす。権次は急に速度を上げ走る次郎吉に追いつけず、逆に速度を落とした。ぜいぜい言う息で、へたり込もうとする身体を辛うじて保って、歩くような速度になってしまう。次郎吉は火事場目掛けて一目散に走り去った。ここから三味線堀までは長い一本道。


その日、いちまつでは大勢の客が帰ったあと、片付けて戸締りし、寝についた。おまさは一階の帳場奥の女将の部屋、おりんは二階の自分の部屋だ。二階で寝たのはおりん一人。八つの鐘が鳴り、丑三つ時(午前三時)摺半が激しく掻き鳴らされ、ぐっすり寝ていたおりんは目が覚めた。板戸を開けると障子が真っ赤に染まっている。強風に煽られ既に十に余る町を焼いた火が、この鳥越を舐め尽くそうとしている。あっと言う間もなくいちまつは紅蓮の炎に包まれた。開けた戸板から、ごおっと音を立て、火の粉が吹き込んでくる。あっけないほど容易く天井を炎が走り、屋根に抜ける。肌が焼け、髪が焦げた。おりんは悲鳴を上げた。垂木が焼け落ち、梁が火に包まれ、業火がいちまつを包み蹂躙していた。おりんは表の窓を開け、張り出している露台から顔を出して、助けを呼んだ。下の階から答えは無く、皆逃げたらしい。おりんは屹度次郎吉が駆けつけるに違いないと念じた。着物の裾に火が着く。慌てて揉み消す。袂が焦げる。おりんは着物を脱ぎ捨て、襦袢一枚。火は迫ってくる。屋形が燃え落ちるのは、寸刻の余裕も無い。

「次郎吉さん、次郎吉さん・・・来て・・・早く来て・・・・・」

火炎が頬をなぶる。もう駄目だ。おりんは目を瞑った。どれくらい時間がたったろう。火に巻かれ、目を閉じた。焼き尽くされるのだ。・・・・・・・・・・・・

その時だ。


たっ、たっ、たっ、たっ、たっ。

忘れもしない力強いあの足音!

おりんは閉じていた目蓋を上げ、外を見た。豆粒ほどの小さい塊がグングン大きくなってくる。足音は徐々に高く大きくなる。

顔が見える。次郎吉だ。次郎吉が真っ先に駆けつけてくる。

次郎吉がどんどん大きく近づいてくる。

「おり〜んっ。おり〜んっ。今助けるぞ」

力強い大声。おりんは嬉しさでしゃくり上げる。次郎吉はいちまつの前の用水桶から水を何杯も頭から被り、炎の中に飛び込んだ。

「やめろ次郎吉。危ねえ。家中火が廻った。焼けおちるぞ」

頭の叫びを後ろに、次郎吉は焼け焦げながら二階に登り、おりんを見つけ、抱き取った。あとは良く解らない。無我夢中でおりんを抱え、下に降り、外に転げ出した。身体中に火が着いていた。皆は必死で水を二人に掛けた。


方々に火傷を負い、擦り傷だらけだった二人は医師の手当てを受け、眠った。一夜明け、二人が目覚めるとおまさと哲次が枕元で見守っていた。

「次郎吉。お前、権次の組を抜き、真っ先に駆けつけた。今日からお前ェを韋駄天次郎吉と呼ぼう」(つづく)


いつものお笑いやお色気シーンを減らし、真面目な純愛物語に仕立てました。この物語の主人公おりんにはモデルがおりますが、イメージだけを取り入れ、現実の出来事とは全く無関係です。

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[一言] 鐡蔵さん、こんばんわ。 前作では、生意気な書評をしてしまい申し訳ありませんでした。 それにしてもストーリーの組み立て方が上手ですね。物語の山場がぐっと盛り上がっていて、手に汗にぎりました。…
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