2058年の断片
気がつくと、そこにあったのは小学校の頃に通っていた通学路だった。今も度々通る交差点で、僕は一向に変わることのない信号が青になるのを待ち続けていた。
道を行く人はおらず、車も通りそうにない。僕ただ一人だけがそのスクランブル交差点の歩行者用信号が青になるのをただひたすらに待っていた。
どれくらい待っていたのだろう。5分か10分か、1時間か、はたまた数秒か。
ふと赤色から変わらない歩行者の信号から目を離し、北と南で向かい合う自動車用の信号を見た。 赤色だった。
東と西で向かい合う信号を見た。 赤色だった。
あれ、と思ってしばらく全ての信号機を見回していた。
いくばくかの時間が経っても、どの信号もまるで「俺はずっと生まれた最初から赤以外になったことはない」と言わんばかりにその少し濁った赤色の主張を続けていた。
この信号は全てのランプが赤く点灯していたのだ。
だから、いつまでたってもどの信号も青にはならない。
さすがに、何かがおかしい。
先ほど道行く人は僕以外にいないと言ったが、実際に僕がそれに気がついたのはこの時だった。
いや、もしかすると僕がこの違和感を感じるまでは普通に人が歩いて、車も走っていたのかもしれないが、兎に角今は僕一人だけしかそこにはいなかった。
気持ちが悪かった。気味が悪かった。不安で、不穏で、ひたすらに不気味だった。
世界に自分一人が取り残されたような感覚。
何からかはわからないけれど、逃げ出したかった。何故そう判断したのかはわからなかったけれど、僕はすぐ近くに以前お世話になった保育所があるのを思い出して、そこに駆け込んだ。
一向に変わらない赤信号の横断歩道を走って抜けて、3軒行けばそこに着いた。記憶通りに小ぶりなボロボロの木造建築で、横開きの入り口扉に鍵はかかっていなかった。
滑り込むように中に入り、扉を閉めた。レールを滑り勢いよく縁に叩きつけられた扉はこの静かな世界においてとても大きな音を立て、勢い余って3回ほど跳ね返ったあと、やっとぴったりと元の位置で停止した。
こんなにも騒がしくすれば中にいる人が様子を見に来そうなものだが、やはりというか、ここにも人の気配はなかった。
動悸が激しくなる。僕はほんの数十メートルを走っただけで息が上がるほどの運動不足ではなかった。この異様な状況に耐えられず、ストレスで負担がひどくなっていた。
ひとまず落ち着きたかった僕は、部屋のなかを歩き回ることにした。先ほども述べたように、この保育所は大きくなく、1回が3部屋、2階が2部屋で、それぞれの部屋は扉で仕切られてもいない。
歩き回ると言っても広めの1階ですら20秒もあれば1周できる程度で、ぐるぐるとそこを回っていた僕がなにも考えないことに飽きて壁に目を向け、そのカレンダーを発見するのにはそう時間はかからなかったように思う。
カレンダーは7月を開いていた。今日は7月の13日だったはずで、それ自体は何の問題もなかったが、しかしそのカレンダーの右上に小さく書かれた「2058」という数字は、僕にとてつもない衝撃を持って揺さぶりを掛けた。
僕の認識では、今日という日は2016年の7月13日だった。しかしカレンダーは2058年を指し示している。
落ち着きかけていた動悸が再び激しくなる。
たった一人取り残されて、世界に置いていかれた感覚がまた僕をどこかに引き寄せる。
目眩と吐き気が押し寄せ、僕の意識とは関係なく体が崩れ落ち、膝を着く。視界が中央を除いて白く染まり、強烈な耳鳴りが僕を更に襲った。
理屈ではなく、絶対的な何かが僕に今が2058年であることを確信させた。2016年という認識こそが誤りであり、今は2058年であると世界が定義された。
床に手をついて浅く呼吸を繰り返していると、閉めてきた玄関の扉が開いた。
そちらに目をやると、そこにいたのは僕の母親だった。
母さんは驚きと心配そうな目で僕を見て、どうしたのかと僕に尋ねた。
僕は冷静ではなかったけれど、どうにか辺りのようすがおかしかったことと、2058年であることへの違和感を告げた。
母親はそれを理解しなかった。
道には普通に人がいるし、今が2058年なのは彼女にとって明らかな事実だった。
僕もおかしいと思ってはいた。人がいないことと西暦が違うことを除けば、この世界の様子は明らかに問題がなかったからだ。ただひたすらに、自分だけが異質だった。
自分だけが人々を認識できず、2016年に生きていた。
なにも問題はないのに、自分の知っているものと違う世界。
先ほどまでの人がいない孤独感とは違い、この世界で自分だけがおかしいとという感覚に、僕は耐えられなかった。
だから、現実逃避をしたのだ。
正しいのは僕であり、2016年だと現実を否定し、2058年を否定し、2016年を肯定した瞬間に、僕はこの世界が夢であると悟った。
この異様のすべては夢のせいで、目が覚めれば2016年の7月13日だと、そう繰り返した。
早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ早く覚めろ
いくら声に出して繰り返しても、夢が覚めることはなかった。
目を見開き、歯を食い縛り、全身に力を込める。しかし一向に夢から覚める気配はない。
唐突に地面から突き上げるような揺れを受け、不安定なポーズを無理矢理維持していた僕は態勢を崩し地面に手を着いた。
手に小石が食い込む感触と、初夏の日差しによって熱されたアスファルトの熱が伝わってきた。
先ほどまで木張りの床に立っていたにも拘らず、今の僕は室内ですらない道路に蹲っていた。
地面を見つめていた頭を上げて周りを見れば、普段と同じように人々が歩いていて、思い思いに話したり、スマートフォンを弄ったりしていた。
彼らが僕の側を通るときに一瞥していくのを見て僕は慌てて起き上がった。
そこはいつも通りの世界だった。僕がおかしな行動をするとほんの少し関心を寄せて通りすぎていく、普通の人々が暮らす普通の世界だった。
けれど彼らの話すことばに耳を傾けるとその単語だけがいやにハッキリと聞こえるのだ。
「2058年」
ああ
やっぱりこれは
とんでもない
悪夢
だ
本作品は私が実際に見た今までで一番クソだった悪夢をそれとなく文字に起こしたものです。
「僕」は目覚めないままの方が流れ的によかったのでそこで作品は落としましたが、私はきちんと2016年に帰ってこれているので安心してください。
認識が正しければ幽霊ではないはずで、この作品が呪われているようなこともないと思います。
私の書いた三文小説では伝わらないかもしれないので解説しておくと、日付のみが未来になっている世界に放り込まれた夢です。
その他には一切現実との差異はなくひたすらに普通と異常の板挟みにされる苦痛を味わいました。多分実際に体験しないと何が苦痛なのかはわからないと思うのでこれを読んだら是非このページを表示したタブレットなりスマホを枕の下に挟んで寝て、同じ夢を見てくれればと思います。




