41話 それはもちろん、この十字架に誓います
樹林のぬかるみを存外に速いペースで進む。
森暮らしのアイエスは当然として、リチャードもぬかるみに足をとられる様子はない。
リリスを背負ったまま、休むことなくきびきびとした足取りで歩いている。
体幹がかなり鍛えられてるのが見て取れる。
何かを担いだままぬかるみを歩くというのは、思っているよりも骨が折れるものだ。
エルフでも魔物でもそれは同じ、ただ自然のなかで育ってるが故に鍛えられてるだけのこと。
きっとリチャードは森ともリリスとも、長い付き合いをしてるのだろう。
「微妙に空が明るいけど、リリスちゃん体は平気?」
雨は止めど陽は射さず、空気が湿気を孕む梅雨らしい天候になっている。
アイエスは空を見上げ、雲に透けてる仄かな明るさから太陽の位置を計る。
光点は西にあり、つまり昼はもう過ぎている。
お腹は確かに空いてきたが、今はそれよりもリリスの体を心配すべきだろう。
なにせ彼女は陽射しに弱いのだから。
「うん、フード被ってれば平気」
「ローブも結構濡れてますが、蒸れたりしません?」
「大丈夫。 陽射しがダメなだけで、暑いだけなら全然へっちゃら。 これでも夏には強いんだから」
リリスはくすりと笑んで俯く。フードを引いて目深に被りながら。
その太陽から隠れるような仕草に、アイエスの胸がまたもちくりとする。
日を浴びれないというのは、どんな気持ちだろう。
いくら思案したとて、結局のところ彼女の苦しみは彼女にしかわからない。
でもきっと、リリスの為に自分ができることはあるはずだと、アイエスは首にあるロザリオを握る。
「何か私にできることがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
「うん? お姉さんどうしたの急に?」
問われて返事に困ってしまうアイエス。
露骨に哀れむのも失礼というもの、少なくともリリスには頼れる父親と飼い狼がいる。充分に幸せな日々を送ってるのだから。
「えーとですね、さっき話してたことです。 もしリリスちゃんが助けが欲しい時は力添えしますので」
「うん……。 もしその時が来たら、私のために祈りを捧げてくれる?」
「それはもちろん、この十字架に誓います」
「そっか。 嬉しい、ありがとう」
どこか哀しげに話すリリスは、アイエスの首に下がる十字架を見つめ、うっすらと儚げに笑む。
彼女の言う祈りとは、魔法のことだろう。
話しながらアイエスは魔法について考える。
今あるのは治癒と守護の二つ、使えるのはどちらか一度、二度目を使えば精魂果ててしまう。
今の自分では役者不足だ、もっともっと強くなければ他者は救えない。
それに、あの騎士も止められない。
「あ、見えてきた」
「おや、集落に到着ですか?」
「うん。 頑丈な家だから、安心してゆっくり過ごしてってね」
言いながらリリスが視線を投げた先を辿ると、木々の隙間の向こうに、見慣れぬ形をした石造りの建物が見えてきた。
壁一面に蔦が這って葉が茂っており、経年こそ感じるが劣化は見られない。
彼女の言う通り、確かに頑丈そうな建物ではある。
エルフ的にも悪くない雰囲気なのだが、でも一般的な人にはこの良さは解り辛いかもしれない。
そんな感想を抱きながら、アイエスは樹林を抜けて集落へと着いた。
集落とはよく言ったもので、確かにそれは村とも呼べないような場所だった。
樹林のなかを不自然に伐採したような空き地で、近くを見渡しても人が活気してる様子はない。
少し離れた位置に井戸が一つあるだけだ。
何よりおかしいと思ったのが――。
「建物って、もしやこの一棟だけですか?」
「うん、そうだよ?」
それが何か? とでも言いたげに、リチャードから降りたリリスが小首を傾げてアイエスを見やる。
なんのことはない。彼女にとってこの建物は、住み慣れた我が家なのだから。
「開き戸が多いですね」
「うん。 私たちだけじゃなくて、皆もここに住んでるからね」
どうやら数世帯での共同生活らしい。
口ぶりからして、家族以外の人たちとの家族ぐるみの付き合いといったところか。
「それじゃお姉さん。 やることやっちゃおうか」
「はい?」
「お父様がじきに狩りから戻ると思うから、それまでにお着替えしなきゃ」
「……え?」
「だって、男の人の前じゃ恥ずかしいでしょ?」
「まあ、それはそうですね」
「大丈夫、着替えなら貸すから。 私が着てるこのローブ、同じのが家の中に何着もあるの。 それこそお姉さんが着れそうなのもね」
言ってリリスは羨ましそうな目でアイエスを見る。
より正確に言えば、彼女のよく育った胸元にだが。
とはいえ淫靡な目で見られてる訳でもないので、嫌悪感など抱くはずもない。
アイエスはこれに関してはもう、苦笑いを浮かべる他なかった。
「それじゃ一緒に着替えちゃおっか?」
して直後に、より大きな不安がアイエスを襲う。
このまま流されれば、自分の正体が曝されるのは不可避だろう。それはいけない。
なんとかこの危機を脱せねばと、アイエスの心にこれまでとは異なる焦燥が走る。
さりとて無邪気なリリスの瞳を目の当たりにして、どう切り抜ければ良いものか。
ゴブリンなどより余程手強い、思わぬ伏兵と遭遇した気分になった。




