39話 私を狙うのであれば、相応の覚悟で臨んでください
気付けば雨が少し強くなっている。
しとしとと降りつける雨が戦場の熱をゆっくりと冷まし、血を洗い流してゆく。
アイエスはゴブリンどもの異臭を嗅がぬよう、口だけで呼吸をして息を整えた。
頬を伝う雨の雫を汗のように拭い捨てると、返り血を浴びていたようで手のひらが仄かに赤くなる。
「これではまた身を清めなければいけませんね」
言ってアイエスは間近にいるゴブリンを見やる。
両目に矢を浴び、血の涙を流す一匹のゴブリン。
手にした石器をべろりと舐めまわし、滴る真っ赤な鮮血でのどを潤している。それが同族の血と知らぬままに。
「ゴ、ゴブ……」
「ゴブゴブ、ゴブゴブ」
「ゴブー」
この場を囲うゴブリンどもは、各々勝手に慌てふためくばかりで収拾がつかない。
狂戦士と化した同族をなんとかしようとするもの。
そんなの知ったことか、それよりも獲物を狩るのだと腹音を鳴らすもの。
いっそ退くべきだと退路を指差し弱腰になるもの。
「逃げたければご自由にどうぞ。 私を狙うのであれば、相応の覚悟で臨んでください」
歯切れの良いアイエスではあるが、ゴブリンどもが人語を理解できるはずもない。
だが凛々しい彼女の立ち姿と、同族の目に刺さる矢を見るに、自分らの置かれてる状況は理解できる。
無論それで餌を諦めるゴブリンどもでもないが。
なにせ目の前にいるのは極上の馳走だ。
しなやかながらに肉付きは良く、それでいてなんとも柔らかそうな肉をしているではないか。
それにさっきの叫び声だ、泣かせばさぞかし胸にくる悲鳴をあげるはず。
ああ泣かせたい、そうでなくばただの解体作業ではないか、それではつまらない。
一致団結したのか、ゴブリンどもの卑しい眼差しがアイエスに集まる。
「ゴブッ♪」
「ゴブゴブッ、ゴブ~」
その態度を見るにアイエスは嘆息する。
確かに今のは挑発する意図もあったが、まさかここまで舐められるとは思わなかった。
どうも獣以外が相手では、自分の華奢な容姿が原因で舐められてる気がする。
理由はそれだけではないだろう、さきのゴブリンは離れた位置から射たわけだが、今はもう入り乱れており多勢に無勢だ。
愚かなゴブリンどもだ、きっと「これだけ仲間がいるんだから、自分だけは大丈夫」とか根拠もなく安心してるに違いない。
溜め息を吐き、前向きに考える。
戦場において舐められるとは、それ即ち敵を欺くことと同意なのだ。
であるならば――
「私なりに警告はしましたよ? ここからはあなた方の自己責任となります」
さあ、ここからは狩りの時間だ。
アイエスはゴブリンどもに弓矢を構える。
自分に迫るは七匹のゴブリンだが、それに対し番えしは僅か一矢だ。
ゲタゲタと小馬鹿した笑いをするゴブリンどもが、手にした得物をぶらぶらと振るいながら歩いてくる。
その間にもアイエスは戦況を鑑み、やつらの得物を見やる。
――石器に棍棒……それだけ? 遠距離からの攻撃はなさそうですね。
遭遇した時から、どこかみすぼらしいゴブリンどもだと思っていた。
改めて見ると、それがよくわかる。
弓矢や投石紐すらなく、槍や刃物の類は一切ない。
もっとも仮に矢を射られようが、槍や短剣を投げられようが、避ける自信はあるのだが。
しかし不思議だ。
人を襲えば武器など調達できるし、獣を狩れば牙や爪で一応は作ることもできよう。
見た感じでは体力面に問題はなさそうで、栄養失調とは無縁そうだ。
妙なちぐはぐを覚えたアイエスは、眉をひそめて僅かに首を傾げる。
されども戦いに迷いは不要、故にアイエスは疑念を払拭して弦を引き絞る。
幾許かの思案を置いて、矢は放たれた。
降りつける雨をものともせず、ひゅんとした風鳴りを連れて飛んでゆく。
「♪~」
しかしそこは根拠なき安心を抱くゴブリンども。
まさか自分に当たるとは露程も思わず、鼻唄まじりにほくそ笑むゴブリンまでいる始末。
時を置かずに、放たれた矢は多勢のなかを通り抜けてゆく。
一匹、二匹、三匹、果てには七匹、掠りもせずに空を裂くばかり。
だがそれこそがアイエスの狙いだ。
「ゲエエエエッ!!」
矢が八匹目のゴブリンに命中する。
つまり狂戦士と化したゴブリンにだ。
矢が深々と突き刺さった左肩をだらりと下げ、不意の一撃に驚きと苦悶の顔を見せた。
やつは呆けていたのだ。無理もない、やつのなかでは既にもう獲物は倒していたのだから。
ならば教えてやらねばならぬ。
獲物はまだ生きているのだと、そして今からお前を屠ろうとしてるのだと。
「ンゴッ!」
「ゴブッ!!」
「ゴブゴブッ!?」
ゴブリン狂戦士の雄叫びにゴブリンどもが一斉に振り向いた。
矢は確かに自分らに当たらなかったが、あれはちょっとまずい、いやかなりまずい。
体付きを見ての通り、あいつはこの群れのなかじゃ一番の力自慢なのだ。
「ゲッゲッゲッゲッ!!」
戦意高揚させ、鼻をひくつかせるゴブリン狂戦士。
興奮しきったゴブリン狂戦士に冷静な判断力などあろうはずもなく、逃走などどいう選択肢はない。
あるのは不意打ちされた苛立ち、狩り損ねた憤り、それからアイエスの肉を貪りたい欲だけだ。
目は見えずとも行き先はわかる、矢を放たれた方角へと猛進すれば良いのだ。
「グエエエエエエエッ!!」
「ゴブッ! ゴブゴブブ、ゴブブゴブッ!」
「ンゴッ! ンゴッ! ゴブゴブゴーブブブッ!」
ゴブリンどもに狂戦士と化した同族が迫る。
見るなりやつらはまたも慌てふためく。
戦況は乱れた。その隙を見逃すアイエスではない。
彼女は自分に背を向けてるゴブリンへ足払いをし、前のめりに派手に転ばせる。
「ゴ、ゴブ~ッ!」
すると乱雑と並んでた為か、ゴブリンどもは倒れまいと仲間の背を押したり足を引っ張ったりし、次々と雪崩れるように転んでゆく。
してさっきまで最後にいたゴブリンが先陣となり、文字通りゴブリン狂戦士とぶつかることとなった。
「ゴッ……ゴブッ! ゴブッ!」
「ゲッゲッゲッゲッ!!」
命乞いでもしたのだろう。だが視界はなく聴覚もいかれた狂戦士は、躊躇いなく仲間を撲殺した。
その後も足元に倒れる仲間を次から次へと石器で滅多打ちにしてゆく。
血飛沫が雨にまじって振り注ぎ、時々肉片や臓物も降ってくる。
アイエスが左肩を射抜いたのには理由があった、利き腕を落としてしまえば、こんなに暴れられないだろうからだ。
「グエッ! グエッ! グエッ!」
ゴブリン狂戦士の暴走は続く。
獲物はどこだ、肉を喰わせろ、悲鳴を聞かせろと、石器を振るう手を止める気配などまるでない。
程なくして最後の一匹が同族の肉隗に埋もれたまま手を伸ばした。立ちあがろうとし、手近にあるなにかを掴む。
だがそれは狂戦士の足だった。
狂戦士はすぐさま唸りをあげ、石器を全力で振り下ろす。ゴブリンどもは死に果てた。
「ゴフーッ! ゴフーッ!」
ゴブリン狂戦士はなおも獲物を探している。
息をまき、鼻をひくつかせ、足元に転がる同族の肉隗を苛立たしげに踏み散らす。
凄惨極まる戦場を遠巻きに見ながら、アイエスは慣れた手付きで弓矢を構える。
残る矢は三本、そして敵はゴブリン狂戦士ただ一匹のみ。
「あなたは充分にご活躍なさいました。 もうお休みなって結構です」
やはり一瞬だった。
よく研がれた矢はゴブリン狂戦士の逞しい胸板を易々と突き抜け、心臓を射抜く。
間断なくもう一矢、そして更にもう一矢、合わせて三本の矢が心臓に突き刺さる。
のたうつ間すらなく、狂戦士は仰向けに倒れて絶命した。
あれ程の興奮状態だ、一矢では絶命するのに時間がかかっただろう。
ならばせめて最後は苦しまずに逝くよう、アイエスなりの慈悲だったのだ。
戦闘は終わった。
最弱なる魔物が一種、ゴブリンから傷を一つも負うことなく、アイエスは後方に待つリリスとリチャードのもとへ向かう。
戦いで熱ばんだ彼女の体を、降り注ぐ雨がそっと冷やした。




