2
少女は、名をシルヴィアというらしい。
笑顔なんてものを少しも浮かべない、鉄面皮の少女。……簡易な自己紹介は済ませたものの、彼女は俺を名前で呼ぼうとはしなかった。いわく、神子様は神子様、ということらしい。
「こっち」
最低限のことだけ告げて、彼女は谷の奥へと入っていく。
いや、谷と呼ぶのはおかしいかもしれない。亀裂だ。地面を50メートルに渡って裂いており、人一人がギリギリ通れるほどの足場が伸びている。
シルヴィアは迷わず入っていった。
足場はかなり悪い。加えて底は見えず、踏み外したらその瞬間、あの世まで真っ逆さまだろう。……飛んで奥まで進めりゃ楽なんだが、こうも狭いと竜化自体ができない。
「ひいいぃぃ……」
紫音の反応は、至極当然とも言えた。
一歩一歩、確かめるように彼女は歩いていく。俺はペースを合わせているからともかく、シルヴィアとは大きく距離を開けてしまっていた。
「な、なんでこんなところ、通らなくっちゃいけないのー! 普通に外歩けばいいじゃん……」
「駄目、敵に見つかる」
「敵ってのは、さっきの連中か?」
問いかけに、シルヴィアは頷いたあと首を横に振った。どっちだよ。
しばらく降りていくと、左手の方に穴が見える。彼女は俺達が付いて来ているかどうか確認せず、穴の中へと入っていった。
「うう、こんなことなら身体鍛えとくんだった……」
「おぶっててやろうか? 下手して踏み外したら大惨事だぞ」
「う、ううん、大丈夫。先輩にそこまでお世話になるわけには……あと恥ずかしいし」
疲れ切った意地で、紫音は時間をかけつつも追いついてきた。
シルヴィアのあとを追って、ようやく穴の中へと入る。足場はさっきと比べ物にならないほど安定していた。傾斜になってはいるものの、転がり落ちる程のレベルではない。
出口までは10メートルもなかった。
しかしどこに繋がっているのか――シルヴィアは登り終えてしまったようで、視界に中にはいない。かといって俺達を呼びに戻る気配もなかった。割といい加減な性格なのかもしれない。あるいは天然とか。
隣にいる紫音の呼吸は、乱れる幅を徐々に大きくしていく。
やはり相当な疲労があるんだろう。シルヴィアがこの辺りに住んでいることを祈るしかない。人里に行けば、もう少しまともな休息が取れるはずだ。
「ふ、ぅ」
最後の一歩を踏んで、視界は一気に開けた。ここ数日見ていた地平線はどこにもない。――ましてや、荒れた土地すらここからは見当たらなかった。
町がある。
中世を思わせる、石と木による町だった。太陽の光はない。洞窟の中に建てられているようで、空は冷たく分厚い岩盤によって覆われている。
もっとも、決して暗い空間ではなかった。
そう、それがおかしい。建物には近代の匂いがしないのに、町の所々には街灯が立っている。暗闇なんてのは、街角に追放されただけの存在だった。
「みんな、神子様が来た!」
奇妙な風景へ釘づけになっていると、シルヴィアが高らかに宣言する。
するとどうだろう。町の人々が一斉に集まり始めた。……この反応だけで、彼らが神子の到着を今か今かと待っていたのが推測できる。
口々に出てくる神子様コール。他人から持ち上げられることに慣れていない俺は、ただ立ち尽くすばかりだった。
集まった者は子供から老人まで。いずれもシルヴィアと同じようなローブを羽織っている。彼女が持っていた白い角も、サイズは違えこそ全員が持っていた。
なんなんだコイツらは。こっち敵視しているわけじゃなさそうだが……。
「神子様、こっち。族長に紹介する」
「あ、ああ……って紫音、大丈夫か? 休むか?」
「ん、今は大丈夫」
無論、そんなのは口だけだ。
でも彼女は、頑なに弱音を吐かない。きっと集まってきた人々に警戒しているんだろう。歓迎されてはいるが、どういう理由で彼らが歓迎しているか分からないのだ。身を預けるような真似は、したくても出来ないのが本音だった。
シルヴィアの後について、俺達は何の整理もされていない岩肌を歩いていく。
住人は全員が集まったわけではないらしい。窓から、神子様! と声を荒げて手を振る者が何人か。かなり年配の者が多かった。
「――なあ、ここにいる人たちは何なんだ? そもそも神子って……」
「族長が説明する。私達については――神子様の同族。貴方の敵じゃないから、安心して」
「同族?」
始祖魔術の使い手、ということか?
想像して、俺は直ぐに首を振る。始祖魔術は本来、量産不可能なオーダーメイドだ。術を伝え続ける家の頂点に立つ者、ただ一人が継承できる。
ここにいる全員が同族だとすれば、彼らは何かしらの方法で始祖魔術を量産していることになる。
……有り得ない、と否定できる根拠はない。俺達は少し前、量産化された始祖魔術を目にしている。もしかしたらここでも、同じ技術が流通しているかもしれない。
でも、あの角は?
それだけが解釈できなかった。身内にだって、あんな角を生やしている魔術師は見たことがないし。
「ここ」
考えている間に、大きな家が目の前にあった。
他の家すべてが平屋なのに対し、ここだけが二階建てだった。町の中で一番権力を持っている人物だと、住宅から表現している。
シルヴィアはそのまま中に入っていった。横に立つ紫音は、俺にしがみ付く力を一層強くする。
「神子様、早く」
なかなか入ってこない俺達を気にして、シルヴィアが催促した。
今度こそ、俺は家の中に踏み込んでいく。でも、警戒心が一番大きくなっているのは紫音だろう。しがみ付いたまま、落ち着きのない様子で内部を見回している。
中には玄関らしい玄関がなかった。居間とキッチン、あとは二階に通じる階段があるだけ。
シルヴィアはその階段を上っている。途中で止まってこちらに振り向き、早く、と髪のように紅い瞳が呼び掛けていた。
岩を削っただけの単純な階段を、俺と紫音は進んでいく。
「よくぞ参った、神子殿」
登りきる少し前で、数度目になる歓迎の言葉を聞く。




