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episode7:戸惑いの音

「いらっしゃい! また弾きに来たの?」


 私たちは顔を見合わせた。

 一体ピアノの人というのがどちらを指しているのかわからなかったが、私たちはこの店に来たことがあるらしい。

 どう対応すべきか悩んでいると、その様子を覚ったのか、店員さんは「とりあえず、席にどうぞ」と近くの丸テーブルを勧めた。

 私たちは言われるがままに席に着いた。席に着くと、店の端にあるアップライトピアノが目に入った。あれを私たちのどちらかが弾いたんだろうか。

 中は思いの他広く、四人掛けの丸テーブルの席がいくつかと、海を望む窓際に対面で座れるテーブルが三脚ほど。

 どれもが使い込まれた木の家具で、深みのある赤茶色をしている。照明も明るすぎず暗すぎず、喫茶店としてはこの上ない雰囲気だった。

 考えていると、先程の店員さんがお冷を運んできた。


「ご注文は?」


 さすがにパンの耳と言えるような雰囲気ではない。私は咄嗟にメニューを開いて、一番安そうだったぺペロンチーノを注文した。トウコさんは手を上げて、


「すいません、パンの耳ってありませんか?」


 これにはさすがに頭を抱えた。

 彼女は元々こういう人間だったのだろうか。それとも彼女が普通で、私が必要以上に他人の目を気にする人間だったのか?

 私にはわからないがとにかく恥ずかしかった。


「ああ、サンドイッチに使ったパンの切れ端ならあるよ」


 店員さんは人懐っこい笑顔でそう言うと、伝票を置いてキッチンの方へ戻って行った。


「あの……」

「はい?」

「朝から思ってたんですけど、結構勇気ありますよね」

「んー、そうですかね……。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と言いますし」


 照れ笑いを浮かべるトウコさんであったが、それは何か違う気がする。

 愛想笑いを返しつつ、私はなんとかトウコさんに持っていかれつつある調子を取り戻すため、アルバイト情報誌を取り出した。

 今日回ってみてダメだったところに斜線を入れていく。トウコさんが覗きこんできたので、私は二人で見られるようにテーブルに情報誌を広げた。


「他にどんなバイトがありましたっけ……」

「今日行かなかったところで近場だと、警備員とかホテルのフロントとか……。ただ、警備員は女性だと雇ってくれないかもしれませんし、ホテルのフロントは条件が厳しそうだったりで」


「うーん……」


 二人でアルバイト情報誌を挟んで唸っていると、「おまたせー」と陽気な声で店員さんが戻ってきた。

 ぺペロンチーノと、なんとそれっぽく盛りつけられ、ジャムが添えられたパンの切れ端が出てきた。私は感動してしまった。


「こっちはサービスね。ってあれ、バイト探してるの?」


 店員さんはテーブルに置かれたアルバイト情報誌を見て私たちに訊いてきた。


「え、ええ。まあ」


 私が代表して答えると、店員さんは唇に指を当てて何やら悩み始めた。


「ねえ、ピアノ弾いてよ」


 今度ははっきりとトウコさんの方を見て言った。どうやらピアノの話はトウコさんのことらしい。


「わ、私ですか?」

「他に誰がいるのよー。何日か前にはあれだけお客さんを沸かせてたのに」


 何日か前……? 私は咄嗟に訊ねた。


「すいません、それっていつのことでしたっけ?」

「え? えーと……。三日くらい前だっけ?」


 三日前……。

 全く思い出せないが、そんなに近い時間に私たちはここに存在していたのか。この人はもしかしたら、私たちが何者なのかを知っているのか?

 そんなことを思っている間に、トウコさんは店員さんに背を押されてピアノの前へと連れて行かれた。店員さんに期待の眼差しを向けられて、仕方なくピアノ椅子に腰を下ろすトウコさん。蓋を開けると白と黒の艶やかな鍵盤が姿を現した。

 トウコさんは少しの間その鍵盤に目を落としていたが、やがて撫でるように指を下ろした。

 転がるような和音が、静かな店内に響いた。

 また少しの静止を経て、次の一音。さらに一音。もう一度和音。何かを確かめるように、ゆっくりと音を紡いでいく。

 次第に音は速度を増していき、リズムが生まれ始めた。緩やかな伴奏にメロディーが寄り添う。私は体中が粟立つのを感じていた。私は立ち上がった。

 私の中に、今までに感じたことのない――いや、正確には今の私が初めて感じたであろう、郷愁のようなものが溢れだしていた。

 過去の無い私が郷愁なんてことを言うのは滑稽かもしれない。

 だけど確かに、この音色に何かを感じる。静かで、時に烈しさを孕んだこの音に。

 あの楽しそうな後ろ姿に。

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