episode2:名前
僕はあのアパートの前まで戻ってきた。外から見るとやけに薄っぺらい建物だ。
ショートケーキのようなその建物の先端にあたる部分に階段があり、僕はそれを上って二階の一番奥の部屋を目指す。
廊下は静かで、他の部屋から生活音らしきものは聞こえてこない。あの部屋以外に人は住んでいないのだろうか。
そして、僕はその部屋の前に立った。坂を上って少し乱れた呼吸を整え、チャイムを鳴らす。
すぐには反応がなかったが、しばらくするとあの女の人が恐る恐るドアを開けてくれた。
「どうも、さっきは突然飛び出しちゃってすいません」
「良かった、戻ってきてくれたんですね」
僕の姿を見て彼女はそう言った。僕が戻ってきたことがなぜ彼女にとって良いことなのかが解らなかったけど、僕は曖昧に微笑んだ。
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど、お時間大丈夫ですか?」
「私も聞きたいことがあるんです。外は寒いですから、とりあえず中に入ってください」
そう言われた時点で、僕はすでにその先の展開が読めてしまった。困ったことになった。
部屋に入ってすぐに、僕はその部屋の異常に首を傾げた。
家具の配置が乱雑過ぎる。全ての家具の辺が平行にならないようにしてあるかのように、無秩序にソファやベッド、本棚が置いてあった。
僕は彼女にソファを勧められたが、他に座れる物がパイプ椅子しかなさそうだったので、彼女にソファを譲って僕はパイプ椅子に腰かけた。
部屋は暖かかった。コートを脱いでパイプ椅子の背にかける。ソファのすぐ横ではアンティークな石油ストーブが柔らかい光を放っていた。
彼女もソファに座って、それから困った様子で俯いた。
「何から話し始めればいいのか……」
僕は先手を打ってみることにした。
「もしかして、自分が誰なのかわからないんじゃないですか?」
言われて、彼女は驚いたように僕を見た。
「そう、なんです。もしかしたらあなたなら私のことを知ってるんじゃないかと思って」
予想通りの答えに僕は苦笑した。
「ごめんなさい。僕もあなたと全く同じことを考えてここに戻ってきたんです」
「え……」
「僕も、自分が誰なのかわからない」
なんだこの奇妙な空間は。記憶を失った二人が、誰のものかもわからない部屋で暖を取っている。こんな事態が現実に起こり得るのだろうか。僕はさっきから、作為のようなものを感じずにはいられなかった。
「とにかく現状を整理しましょう」
僕はそう彼女に提案する。
「僕はこの部屋で起きて、あなたに水を貰って出て行き、自分が誰かわからないことに気付いて戻ってきた。あなたは? 目覚めてからどうしましたか?」
「私は、あなたの隣でソファに座って眠っていたみたいです。目が覚めた時にこの人は誰だろうと思ったんですけど、凄く頭が痛くて、喉の渇きも酷かったので、とにかく流しまで行ってお水を飲みました。それからあなたが目を覚まして、同じように辛そうだったので、水を」
「なるほど」
「そのあと、あなたが出て行ってしまって……。てっきりあなたの部屋だと思っていたんですが」
「僕もここはあなたの部屋だと思って出ていきました。まぁでも部屋についてはあとで調べれば何か手掛かりが出てくるでしょう。……ちなみになんですが、何か身分を証明できるものはありませんか? 保険証とか、免許証とか」
彼女は不安そうに首を振った。
「お財布はベッドに脱いであった私のコートの中にあったんですけど、身分がわかるようなものはありませんでした……」
僕はまたしても頭を抱えた。
「僕の財布にも無かったんです。こうなってくると誰かに捨てられたとしか思えない」
彼女の顔にわずかな恐怖が浮かぶ。
「誰かって……誰です?」
「わかりません。でもこんな状況、自然に発生すると思いますか?」
「私には、わかりません……」
「僕も確実にそうだと言える自信はないんですが……」
二人して険しい顔のまま沈黙する。僕は空気を変えるために一つ提案をした。
「あの、とりあえず呼び名を決めませんか」
「え?」
「便宜上、何か名前があった方がコミュニケーションを取りやすいでしょう」
彼女は少し悩んで、頷いた。
「それもそうですね」
同意を得たので、僕は立ち上がって本棚に向かった。そこから適当に一冊本を取り出して、パラパラとめくってみる。
「えっと……じゃあ仮に、自分をキョウイチ。あなたをトウコと呼ぶことにします。いいですか?」
「トウコ……はい」




