episode00:はじまりの日
「どこ行くんだよ」
「どこでもいいじゃないですか」
私は弾きたいようにピアノを弾き倒して、店を飛び出した。
お客さんたちは盛り上がっていたようだけど、あんな感情任せのピアノに価値なんて無い。
きっと審査員はそう言うだろう。
私は行く先もわからないまま海沿いの道を歩き続け、男は私のあとを付いてくる。不毛だ。
「どこまで付いてくるつもりですか」
「どこまで行くつもりですか?」
「知りません」
「なにそんなに怒ってるんだよ。客にピアノウケてたじゃないか」
「あんなの、酒に酔った人間が騒ぎたいだけでしょう……」
「俺も多少酔ってたけど、素直に良いと思ったよ」
「どこが? 酔っていたとは言え、ミスタッチだらけだったし、リズムもヨレるし……」
「でも嘘が無かった」
その言葉に、私の競歩のような歩みは次第に速度を落としていった。
「嘘が無いってなんですか」
「だって今の音楽って嘘だらけだろ? 歌の音程を機械で直したり、ミスったところだけ録音し直したり。そんな嘘だらけの小奇麗な音楽より、俺は君の人間臭いピアノの方がよっぽど好きだけどね」
なぜ。
なぜそんなことを言うの。
みんなそうやって調子の良いことを言って。
私のピアノなんて全然大したことないのに。
これまでの人生の半分以上を費やしても、何一つ結果の出せないピアノなのに。
なぜ、そんなに嬉しいことを言ってくれるの。
「誰にも選ばれなかったって言うなら、俺が選ぶよ。俺は君に富も名声も与えられないけど……それじゃ物足りないかな」
「やめて……」
私はもう歩けなかった。
「もうやめて……わかったから……」
目から溢れ出てくる熱いものを必死に手で拭うけど、お酒が入っていたせいか、なかなかそれは止まってくれなかった。
私がこんなになる前に、あなたがそんなになる前に、そう言ってほしかった。そしたら私は見ず知らずのあなたのために、ピアノを弾き続ける一生も悪くないと思えたかもしれないのに。
「うん。わかったなら自分の家に帰りな。こんなおっさんに付き合うことはないよ」
「……もう私は満足しました。何も思い残すことはないです」
「……なんでそうなるんだよ」
「悔しいですけど、今の言葉は本当に嬉しかった……。嘘が無かったから……。私をおだてるわけでもなく、下心があるわけでもなく、私を生かすために、好きと言ってもらえたから。私の全てだったピアノを、好きと言ってくれたから」
ようやく涙が止まって、私は男を真っ直ぐに見つめた。
「……それこそ、やめてくれ。俺はそんなに良い人じゃない」
「そう、あなたは良い人じゃない。でも悪い人でもない。ただ素直だっただけ。自分の気持ちに素直に生きた結果、そうなってしまっただけ」
「……俺は悪い人だよ」
「本当に悪い人は、悪い人であることを明かしません」
「じゃあなんだって言うんだ。今度は君が俺を説得しようって言うのか?」
「違います。……もう、終わりにしましょう。何もかもが悲しいから。遅すぎたから」
海沿いの道を走る車のヘッドライトが、私たちの影を作っては消していった。
私たちはもう道には戻れない。
「……本気か」
「……はい。あなたのおかげで覚悟ができました。あなたが命を絶つと言うのなら……私も連れていってください」
・・
私は男に連れられて、やけに薄っぺらいアパートに連れてこられた。
「俺のアパートだ。実質使ってるのは一部屋だけで、あとはほとんど物置きと化してるけどな」
男は二階の一番奥の部屋の鍵を開け、中に入っていく。私もあとに続いた。
部屋に足を踏み入れようとして、その足が止まった。
「何、これ……」
部屋の中にあるあらゆる家具の配置が、どう見てもでたらめだった。まるで空き巣に荒らされた後のようだ。
「ああ、俺のこだわりなんだ。秩序の無いものに美しさを感じる人間でさ。写真もそういうのばっか。君のピアノと一緒……というのは失礼か」
男は苦笑しながら、窓を開けて換気をする。長い間帰っていなかったのだろう、部屋の中は少しカビ臭かった。
「ソファにでも座ってて」
そう言い残して、男は部屋を出て行ってしまった。
私は部屋のど真ん中に斜めに置かれたソファに腰掛ける。壁には色褪せた様々な国の新聞記事の切り抜きが貼られていた。
一応テレビもあったが、ブラウン管だ。もしかしたらあの人は地上波放送が終わったことすら知らないのかもしれない。
しばらくして、男は大量の酒瓶を抱えて戻ってきた。
「一○二号室は酒蔵なんだ。これは秘蔵のコレクション」
「死ぬ前に酒盛りですか……」
「違うよ」
酒瓶をテーブルに並べ終わると、男はコートのポケットから薬瓶を取り出し、それもテーブルに置いた。
「あっちで飲んでた割と強めの睡眠薬だ。酒と一緒にこれだけ飲めば、多分致死量は超えるだろう」
「……」
私は瓶を取ってラベルを見る。
現在日本で処方されている薬は、よっぽど大量に服用しない限り死ぬことはないらしい。
でもこれはどこかもわからない外国の薬だ。きっとこの人の言う通り、死ぬことになるんだ。
「その前に、身分を証明するもの、何か持ってるか?」
「保険証くらいしか……」
「貸してくれる?」
私は財布を取り出して、保険証を男に渡した。男も保険証や免許証、パスポート、クレジットカードなどを取り出し、私のものとまとめた。
そしてバスルームに入り、天井にある点検口を開けてそこに放りこんでしまった。
「光熱費は俺の口座から引き落としになっていて三年くらいは持つし、管理してる会社の人間が訪ねてくるようなことも滅多にない。身分を証明するものも隠した。死体が発見された時、俺たちは多分何者でもなくなってる。……それでもいいか?」
「……死んだ後のことなんて、考えてもしょうがないです」
私たちはソファに並んで座って、思い出話をした。
少しずつお酒と薬を飲みながら、子供の時のこと、学生だった時のこと、初恋のこと……とにかくくだらないことを話した。
やっぱり死ぬのは怖かったから、そうやって気を紛らわせないと駄目だった。
お酒の力で薬がかなり効いてきて、意識が朦朧としてきた。
「……案外辛くないな」
「……そうですね」
男は最後に、瓶に残った薬を口に放り込み、酒で一気に流し込んだ。
空になった酒瓶を床に転がして、ソファに背を預ける。
「……先に逝くよ。最後に君みたいな人と一緒に居れて、嬉しかった」
「……私も、最後にあなたが選んでくれて嬉しかった」
「生まれ変わってまた君に会えたら、もう一度ピアノが聴きたいな……。恋人になるのも良いかもしれない……。それで……それから……」
「それから……?」
「……おやすみ――さよなら――」
「……さよなら」
私の言葉を聞いて、男は動かなくなった。
この人はなんでさよならを付け足したのだろう。
私はなんでさよならを言わなきゃいけなかったんだろう。
他にも沢山の素敵なおやすみに繋がる旅路があったはずなのに。
神様お願いします。
もし生まれ変われたら、またこの人に出会えますように。
そして私を選んでもらえますように。
そしたら私はこの人のためにピアノを弾きます。
――私はきっと、そんな人生を、幸せに思えるから。