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episode00:おわりの日

 寒い。冬の夜の海だから当たり前か。

 目の前には黒い空と海が広がっている。なんともおあつらえ向きだ。

 さっきから後ろで警察官が何やら喚いている。ご親切に誰かが通報したらしい。迷惑な話だ。

 さっき私が放った「近づいてきたら手首を切ります」の一言のおかげか、今のところ無理矢理私を取り押さえるようなことはしない。

 私は今日死ぬつもりでここに来た。

 この先進入禁止の看板を乗り越え、海にせり出しているコンクリートの道を歩いている時、こんなもの入水自殺のための花道じゃないか、と笑ってしまった。

 靴を脱いでぼうっと海を見ていたら、いつの間にかこんな騒ぎになってしまった。私がぐずぐずしていたせいだから私が悪い。でもそろそろ行動に移さなきゃ。

 不意に背後から足音がした。警察官の喚き声がさらにうるさくなる。

 私は持っていた剃刀を手首に当てて、いつでも引けるように準備する。別にこれで死ねるなんて思ってない。止めようとする人間への脅しのつもりだ。

 しかしその足音は私の真横まで来て、そこに腰を落ち着けた。


「やあ」


 私の隣に座った顎鬚を蓄えた男が、海を見たままで言った。


「何か用ですか。止めるつもりなら手首を切りますよ」

「別に止めに来たんじゃない。死ぬ前にちょっとおっさんと話さないか」

「なぜ?」

「なぜって、冷たいな。君に話を聞いてほしいんだよ。それでもしよかったら、俺も一緒に死んでいいかな」


 真面目顔で何を言っているんだこの男は。

 しかし私は正直なところほっとしていた。実際のところ私は躊躇っていた。

 多分死ぬのは怖くないけど、死ぬまでの苦しみや、死に損ねた時のことを想像してしまうと駄目だった。

 少しだけ執行猶予を貰おう。


「話くらいなら、いいですけど」

「そっか。じゃああっちにある喫茶店に入ろう。気難しいじいさんが一人でやってる店なんだ。潰れてなければいいけど」


 私は男に連れられて、車のショールームの上にある古びた喫茶店に入った。私たちが空いている席に座ると、店員さんが駆けてくる。


「いらっしゃい。ご注文は?」

「ハイボール。君は?」

「え、喫茶店なのにお酒があるんですか?」

「うち夜はバーになるんだ」

「はあ……じゃあカルーアを」


 私はもう二十六になるが、お酒はカルーアしか飲めない。店員さんは注文を復唱して、カウンターに戻っていく。


「あの子は初めて見た。バイトかな」

「さあ……」


 知るわけがない。この男についてきたのは間違いだっただろうか。

 なんだかんだうやむやにされて、説得でも始められたらたまったものではない。

 私はさっさとこの男の話を聞いて、また海に戻ることにした。


「それで、話ってなんですか?」

「ああ、その前に君の話を聞かせてよ。なんで死のうと思ってたの?」

「なんで私が話さなきゃいけないんですか」

「まあまあ。これから一緒に死ぬかもしれないんだから、お互いの身の上話くらいしとこうよ」


 死を語っているというのに、この男の口調はとんでもなく軽い。どうも調子が狂う。


「私は……生きる術がなくなったからです」

「生きる術? リストラでもされたの?」

「いや……選ばれなかったんです」

「選ばれなかった? あ、どうも」

「はい、ハイボールとカルーアね。追加で注文があったらでかい声で呼んでー」


 店員さんは飲み物を置いてさっさと別のテーブルに行ってしまった。

 私はとりあえず一口。甘いコーヒーリキュールの味が口に広がる。男はハイボールをあおって、おっさんくさい呻き声を上げた。


「寒い冬に冷えたハイボールを温かい室内で飲む。贅沢だねえ」


 どうでもよかったので私は無視した。


「なんの話だっけ。ああ、選ばれなかったとかなんとか……。就活で失敗したとか?」

「まあ、そんなもんです……」

「就活で失敗したくらいならいくらでも立て直せるでしょ。自殺するのは早計なんじゃない?」

「……立て直せないから死のうと思ってるんです」

「立て直せない理由は?」

「私が……何もできないから」


 なんでこんな話を見ず知らずの男にしなきゃいけないんだ。屈辱的だ。


「何もできないなんてことはないでしょ。まだ若いんだし」

「できないものはできないんです」

「頑固だね。もったいぶらずに話してみてよ」


 もういい。全て話してしまおう。私のくだらない自殺願望を。


「……ピアノを弾くことしかできないんです」

「ピアノ?」

「小さい頃からピアノを習ってました。上達が早くて、先生や両親から褒められました。友だちからも褒められました。だから私はピアノを弾き続けて、ピアノで生きていくんだと信じてました。それ以外のものなんて必要ないと思って生きてきました」

「……なるほどね」

「だけど私は選ばれなかった。どんなコンクールでも。どんなオーディションでも。私はこの歳になってようやく、勘違いしていたことに気付いたんです」


 男はグラスを揺らしながら、納得したように頷いた。


「でも勘違いしてたことに気付けたなら、今から普通に生きていけばいいじゃない」

「……何者にもなれないまま普通に生きていくくらいなら、死んだ方がマシです」

「若いね」

「……」


 私は馬鹿にされたような気がして、カルーアを一気に飲み干した。自分のこの行動もなんだか子供っぽくて、段々腹が立ってきた。

 わかっていますとも、自分が子供なんだってことくらい。でもこの世界に生を受けて、大きな世界を知ってしまった以上、限界まで手を伸ばしたいと思うのが普通なんじゃないの?


「じゃあ何者かになった男の話をしようか」


 どうやら今度は男の話らしい。気取った感じが鼻につく語り出しだ。


「俺カメラマンやってるんだ。二十歳の時に賞を取ってから、十二年間カメラで食べてきた。さすがに誰でも知ってるってほどじゃないけど、業界内じゃそこそこ名前が通るくらいにはなったんだ」


 男は得意気に言ってグラスを傾ける。


「そのそこそこ名の知れたカメラマンさんが、なんでこんなところでお酒飲んでるんですか」


 私の質問に、男はグラスを傾けたまま固まった。しばらくそのまま虚空を見つめて、やがてグラスを置いた。


「逃げてきたから」

「え?」

「二日前までソマリアにいたんだ。いわゆる戦場カメラマンってやつ。かなり危ないところに知り合いのジャーナリスト数人と取材に行ってたんだけどさ。案の定、武装勢力に拘束された。俺は隙を見て逃げ出して何事もなかったかのように帰国。残ったやつらがどうなったかは知らない」


 男がつらつらと語った言葉を飲み込むまで、しばらく時間がかかった。

 そして飲み込んだ後に、昨日の夜に部屋でぼうっと見ていたニュースを思い出す。

 

 “ソマリアでジャーナリストの一団が拘束され、数名が殺害された”。

 

 この男が、そのジャーナリストの一団の一人だというのか? しかしそうだったとして、私にはわからなかった。


「折角生きて帰ってこられたのに、どうして一緒に死ぬなんて言い出したんです?」

「君、自分勝手だって言われない?」

「は?」

「自分の命が助かったことなんてもうどうでもいい。今俺の中にあるのは、命欲しさに仲間を見捨てて逃げてきた自分への……なんというか、諦めだけなんだよ」

「諦め……?」

「俺はどうしようもなく救いようのないクズ野郎ってことさ」


 そう言って男は酒を呷る。


「思い返せば俺も勘違いしていた。

 賞を取っていい気になって、俺はカメラマンとして生きていけるんだと思っていたけど、実際仕事なんて微々たるもので、とても食べていけるようなもんじゃなかった。

 俺は知り合いのコネで戦地の取材に同行して、それからようやく食べていけるようになったんだ。

 中には本当に高い志で、戦地で一体何が起こっているのかを伝えるために写真を撮る人もいる。だけど少なくとも俺は、他人の不幸や死を食い物にしてきた。

 そして最終的には世話になった人たちを戦地に置き去りにしてとんずらだ。多分もうみんな殺されてる」


 お酒が入って饒舌になってきた。飄々としているようで、その実この男は激しく動揺している。


「わかったか? 選ばれたってダメなやつはダメだ。本当の意味で選ばれるのはほんの一握り。凡人が何者かになんてなろうとするもんじゃない。何者でもないまま、平穏無事に一生を過ごせることを祈るべきだ」

「……それは、私に生きろと?」

「だって君、本当に死ぬ気ないでしょ?」

「……」


 これは図星なのだろう。本当に死ぬ気があるならもう死んでいる。あんな人目につくような場所に行ったりしない。私は結局、死をちらつかせて誰かに注目して欲しかっただけだ。

 私は立ち上がった。


「どうした?」


 男を無視して、私は喫茶店の隅にあるアップライトピアノのところに来た。

 椅子に座り、鍵盤蓋を開けた後、私は一度深呼吸をして、鍵盤に指を叩きつけた。恥ずかしさや自分への怒り、沸き上がるあらゆる感情を音に乗せた。

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