episode12:ピアニスト
店が忙しくなったのは夕方近くなってからだった。
仕事を終えた社会人たちが、夕食を目当てに続々と来店する。
私はキッチンで注文された料理の皿を並べ、付け合わせをひたすら準備する。
ヨシキさんがメインの調理をして、料理が出来上がると、私はそれをホールの二人に渡す。
「宮野さん、生姜焼きセットできました」
「おっけー」
「ちょっと混んできましたね……」
「まだまだー、混むのはこれからよー」
宮野さんはそう言って、軽やかにテーブルの間を縫って行ってしまった。これ以上混むのか……。
トウコさんはお客さんの対応に追われ、店内の端から端まで行ったり来たりしていた。
頑張れトウコさん。私は心の中で呟いて、キッチンに戻った。
・・
注文が途切れてキッチンが落ち着いた頃。
店内にスローなジャズが流れ始めた。キッチンの壁にかかっている時計を見ると、丁度午後七時。店がバーモードに切り替わったらしい。
ホールに出てみると照明の光度がさらに落とされていて、店内の空気が琥珀色に染まったように見える。
「あ、キッチンはもうじーちゃん一人で大丈夫だから、キョウイチ君もホール手伝ってあげて!」
宮野さんは複数のお酒を同時に作りながら、ホールを駆けまわるトウコさんを目で指した。
私は慌ててトウコさんのところまで行って、空の皿が山積みになったお盆を受け取る。
「これ、下げればいいですか?」
「あっ、ありがとうございます」
そう言うと、トウコさんはまた別のテーブルへと空の皿を回収しに行った。
キッチンはキッチンで力仕事があったりして大変だったけど、ホールもかなり重労働なようだ。
私はキッチンで洗い物をするヨシキさんに皿を預けると、すぐにホールに戻ってトウコさんを手伝う。
どうやら喫茶店からバーに切り替わる時間帯が一番忙しいらしい。
夕飯を食べに来たお客さんがそのまま店内に居座ることも多く、さらにお酒目当てでやってきたお客さんも増える。
しかしその時間帯を乗り切ると、多少ゆっくりすることができた。
店の上品な雰囲気のおかげか、お酒をがばがば煽って騒ぐような客はいない。
それぞれがゆっくりとこの落ち着いた時間を楽しんでいた。
空いたグラスを回収してヨシキさんに渡し、またホールに出ようとしたところで宮野さんに捕まった。
「あ、キョウイチ君。もう休んでいいよ。この時間になればもう私一人でも大丈夫だから」
空いているカウンター席にはすでにトウコさんが腰かけ、真っ白に燃え尽きていた。
私もお言葉に甘えて、トウコさんの隣の席に座る。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です……」
全然大丈夫そうじゃなかった。
「よく宮野さんはあの時間帯を一人で乗り切ってましたね」
「んー? 適当にやったらなんとかなるもんだよ」
「多分宮野さんは効率の良いやり方を経験から知っているんだと思います。私たちはきっと無駄なことを沢山してしまっているんじゃないですかね……」
「キョウイチ君真面目だねえ。確かに色々ツッコみどころはあるけど、二人とも初日にしては上出来だよ。お酒の作り方は徐々に覚えていけばいいし……。だけど、もう一つだけやってもらいたい仕事があるんだなー」
「あ、はい。言ってもらえれば」
「残念、キョウイチ君じゃないんだ。トウコちゃん」
「……はい?」
「ピアノ弾いて!」
「……へ?」
俯いていたトウコさんは顔を上げ、とても複雑な表情をした。
「やっぱりお洒落なバーと言えば、頃合いを見て始まる生演奏でしょ!」
宮野さんはそう言って目を輝かせる。
「で、でも……私、正直どんな曲をどれくらい弾けるのかわからないんですけど……」
「大丈夫大丈夫、雰囲気でいいから! 好きなように弾いてみてよ」
「え、ええー……」
「ボーナスとしてパスタ、ベーコン、レタス、トマト、各種調味料などを出そう」
私とトウコさんは顔を見合わせた。実際のところ、給料よりも明日食べるものが必要だった。
「……やります」
トウコさんは立ち上がり、ゆらゆらとピアノの前まで歩いて行く。
食べるために女性を働かせているようで、なんだかよくわからない罪悪感が。
トウコさんが椅子に座ると、宮野さんが店内BGMの音量をゆっくりと下げる。
お客さんのざわめきがはっきりと聞こえるようになった。この空気の中、突然演奏を始めるというのは結構な勇気が要りそうだが……。
一度大きな溜め息を吐いて、トウコさんは鍵盤を叩いた。
凄くゆっくりで力強い、というかもはやヤケクソ感漂うイントロで、ブルースが始まった。
よくあるスリーコードで一周伴奏をした後、トウコさんのアドリブが始まる。
そのアドリブがまた、なんとも面白かった。
というのも、別に歌詞がついているわけでもないのに、トウコさんの「疲れたー!」とか、「家に帰って寝たい!」のような気持ちが、音を聴いているだけでわかったからだ。
それはお客さんにも伝わっているようで、トウコさんが時折無茶苦茶なメロディを入れると、指笛や歓声が返ってくる。「わかるわかる、俺も疲れたよ!」と答えるように。
私はついに堪え切れず、笑ってしまった。ゆらゆら揺れながら、ピアノで暴言を吐きまくるトウコさんが面白くて仕方なかった。きっとトウコさんも後になって、自分の意外な一面に驚くだろう。
でも私は、そんなヤケクソなトウコさんも好きだった。