episode10:意外な幸せ
「ふうー……」
アパートに戻ってきてソファに腰を落ち着けると、長い溜息が出た。これでしばらく食料に困ることはなさそうだ。
トウコさんも後からやってきて私の隣に腰を下ろした。ソファに深く背を預けて、
「ふー……」
どうやら疲れたのはトウコさんも同じらしい。
「お疲れ様です」
「疲れました……どうしてここはこんなに坂が多いんでしょう」
「本当ですね」
私は苦笑しつつ、宮野さんからもらった紙袋を開けた。
「おお……」
「何が入ってました?」
トウコさんが覗き込んできたので、私は紙袋の中身をテーブルに出していく。
「サンドイッチと……コーヒーの粉ですね」
「す、凄い量……」
紙袋の底にコーヒーの粉が入ったパックが二つ、そして敷き詰められるかのように、ラッピングされたサンドイッチが入っていた。
「あ、何かメモが……」
“賄いの余りだよ”
宮野さん、賄い作りすぎじゃないだろうか……。
折角なので、早速コーヒーを頂くことにした。埃を被っていたマグカップを二つ棚から出して、洗いながらお湯を沸かす。カップに粉を入れてお湯を注ぐと、喫茶店の中に充満していた香ばしい匂いが漂った。
私たちはソファに戻り、ストーブで暖を取りながらコーヒーを啜る。
「でも、残念でしたね。私達のことがわかるかもと思ったんですが」
「……」
トウコさんは答えない。またコーヒーの暗闇に目を落としている。
「どうかしました?」
「……すいません、こんなことを考えるのは良くないかもしれないんですけど……。少し、ほっとした自分もいるんです」
「ほっとした?」
トウコさんは頷き、コーヒーを一口。
「今日、凄く楽しかったんです。過去が無いことは不安だけど、失うものがないなら、私これから何にでもなれるんだなって思って。でも、私たちを知っている人がいて、私の知らない私もいて……。それを知るのが、怖かった」
だから今朝はあんなに楽しそうだったのか。私はそんなに前向きにはなれていなかった。
「でも、ちゃんと知らなきゃダメですよね。現実的に考えて、このまま生きていくことって難しいですよね」
「……」
私は答えられなかった。
記憶の無い者が社会で生きていくには、様々な問題がある。どんな過去があるにしろ、公的機関に助けを求めるのが正解なのは間違いない。でも――
「怒られたら、謝ればいいんです」
「え?」
「トウコさんが知りたくないなら、それでいいと思います。好きなように生きて、怒られたら謝ればいいんです」
目尻に涙を浮かべたトウコさんは、私に満面の笑みを見せてくれた。