碇 †クレシェンテ
闇と光の世界が一つになる事は、前々から分かっていた。その際、世界の半分が失われる事も。
ただ一つ予想外だったのは、光の世界のシステムがあまりにも我々のものと異なること。
光の世界の人々は、何故だかとても生きるのに必死らしかった。
生きる場所を確保するのも食料を手に入れるのも自由に出来ないという。
この命がここに在ることに、この命がここに在り続けることに、一体誰の許可が要るのだろう。
我々は摂理により存在している。ここに在るために必要なものは、何もない。
†††
「エリッセ、これは階級について、こっちは居住区についてだ」
日々、光の者からの音信は途絶えることがない。
そこで議論されている内容が我々には理解出来ないような話ばかりで、対応に追われるエリッセも疲れた様子だ。
「彼らは利権という言葉を使わねば話が出来ないのか…」
「我々の辞書に追加しなくてはならない言葉は多いな」
うんざりと書面を眺めるエリッセ。
「無駄に複雑な様式も鬱陶しい」
自分たちのために簡潔さやいかに楽に行うかを追究して来た我々とは、彼らは向かった方向がまるで異なるらしい。
「…彼らはシステムの統一を望んでいるんだろう?」
「ああ。こちらとしては、あちらに合わせる気は全くないとよくよく伝えねばならない」
自分たちに合わせろと言ってきた彼らに、我々は唖然としたものだ。
窓の外に目を遣り、ファイルを閉じる。辺りはすっかり闇に呑まれようとしていた。
「続きは明日」
「…ああ」
エリッセは自身に対する関心があまりにも薄い。そんな彼だから、俺は全てを捧げる気になったのだ。
†††
風呂から上がると、窓辺の椅子に腰掛け、ぼんやり月を眺めているエリッセの姿があった。
白銀の波打つ髪は月明かりに照らされて仄かに青に色付き、白い寝着から覗く褐色の肌は艶やかな色気を醸し出す。
どこか憂いを漂わせる雰囲気と相俟って、彼はとても幻想的だった。
ひどく不確かな存在。現実味の薄い存在。でも確かにここに存在している。
「エリッセ」
ゆるりと向けられた紫の瞳。感情表現の乏しいそれは宝石のように美しい。
そこに自分が映っているのだと思うと、安堵と妙な高揚を覚えた。
「…今日は満月だ」
落とされた言葉に誘われるように窓辺へ近寄り、夜空を見上げる。
雲一つない空は煌めく星々に埋め尽くされ、一等輝く青白い満月が世界を明るく照らしていた。
「綺麗だな」
自分の思いを述べることすらあまりないエリッセに代わって、それを口にするのは俺の役目のようになっている。
「ああ…」
昼間より幾分柔らかく感じるその声に口許が上がった。
「夜はいい。静かで穏やかで…心が和らぐ」
「機嫌がいいな」
「あなたの機嫌がいいから」
目を瞬いたエリッセ。それからふっと息を吐いて目を閉じる。
「…そうかもしれない」
あんまりにも自身に無頓着な彼のことは、今や俺の方が詳しく分かっているような気さえする。
彼自身そう思っているようなので、どうしようもない。
†††
エリッセは出会ったときからどこか浮世離れした雰囲気があった。
ぼんやりと風景を眺めている事が多く、周りに無関心。
一人ぽつんと木陰に佇んでいたりするので人嫌いかとも思いきや、本当に関心がないだけだった。
好き嫌いという感情を抱くほどの関心すら、彼にはないのだ。
それは何にしてもそうだった。
頭の回転が早いエリッセは、大人たちに面倒事をよく押し付けられていた。
拒否をすればいいものの、彼には造作もない事のようで、いとも容易く引き受けては淡々とこなしてしまう。
終いには体のいい道具のように扱われ初め、そうされて尚、本人はどうも思っていないのだった。
第一表情がない。
感情を現さない。
見ているこちらが耐えられなかった。
腹が立って苦しくて悔しくて辛くて痛くて、どうしようもない。
どうしたら感じてくれるんだ。
どうしたら伝わるだろうと考えて。
エリッセは本当に何も感じていないのだろうかと。なぜ、そんなに他人事にしてしまえるのだろうと思ったとき。
ああ、この人は生を願っていないのだと悟った。
生きているから生きている。
執着は何もなく、死が訪れるまでただ、生きている。本当にそれだけなのだと。
そう思ったら怖くなった。
悲しくて堪らなかった。
勝手だと分かってはいるが、生きようとして欲しかった。
だから全てを懸ける気になったのだ。
俺が重石になって、死を待つだけの彼が生きようとしてくれるように願った。
結果を言えば、エリッセのスタイルは変わらなかった。
しかし、変わった事もある。
感情を現してくれるようになったのだ。彼の中に漠然としてあったそれを、前より感じているようだった。
そんな少しの変化に、当時はとても嬉しく感じたものだ。
†††
その日、会談を無事終えた俺たちは帰宅の路に着いていた。と言っても向かう先は学園な訳だが。
橙色から紅にかかる美しい大空の色合いに圧倒され、進む歩も緩やかだ。
その言葉のない穏やかで満たされた空間の中、突如殺気が突き刺さる。あっと思った時には俺は強い力で地面に押し倒されていた。
爆発音と共に強風に乗って砂塵が舞い、思わず目を瞑る。
それが止んだとき、急いで身体を起こそうとした。
エリッセ、エリッセは
「…古典的な攻撃だったな」
砂埃が収まった視界で捉えたエリッセは、鎌鼬にやられたかのようにあちこち服が破けて血が滲んでいた。
鬱陶しそうに埃っぽくなった髪を耳にかける左手の甲からも血が流れている。
エリッセは俺を咄嗟に庇い、傷を負ったのだった。
「あなたは…!」
何事もなかったかのように立ち上がろうとしたエリッセに覆い被さる。込み上げた感情はどうしようもなかった
「もっと自分を大事にしてくれッ」
付き人でありながら力の及ばない自分に腹が立つ。口を開けば何を言ってしまうか分からない。
黙々と怪我を治癒する俺をいつもの無表情で見ていたエリッセを睨み付けてしまったとき、彼は本当に自然に、口許に弧を描いて見せたのだ。
初めて見た表情だった。
惹き付けられるように唖然として動きを止めてしまう。
エリッセはそんな俺の様子を気にするでもなく口を開いた。
「大事にしている」
「、どこが」
「お前は私のものなんだろう?」
言葉が出ないとはこの事だ。
穏やかな紫色を細めた彼に熱いものが込み上げた。
「初めて見る」
そう言って艶やかな褐色の指を伸ばしたエリッセに顎を微かに撫ぞられた。
何の事かと顔に手をやり、自分が泣いている事に気付く。途端に恥ずかしくなり、投げ槍に腕で頬を擦った。
「あなたの笑みも初めて見た」
俺の言葉に目を瞬いたエリッセ。
「…そうだったか?」
「ああ」
どうやら自分が普段笑わない事すら気付いてなかったらしい。これではいつ笑みを浮かべたかも分かってないのではないか。
「涙というものはなぜ流れるのだろう?」
急にそんな事を問うてくる。思わず嫌がらせかと勘繰ってしまったが、彼に他意がないのは十分承知していることだ。
治癒が済んだので少し乱暴に彼の手を引き、立たせながら適当に答える。
「感極まったとき、他に感情の現し方がないからだろう」
「お前は何の感情にやられた?」
これには思わず目をそらしてしまった。
「…エリッセ、察してくれ」
「呆れたか?」
「いや…あなたもいずれ分かるときが来ると願っている」
全てに無頓着だったエリッセが感情に興味を示している。それが嬉しかった。
「原因が分かれば見る方法も浮かぼうが…」
落とされた小さな呟きに思わず一瞬固まってしまう。
「あなたは俺を泣かせたいのか?」
思わず平坦な声になってしまった。エリッセの考えている事がさっぱり分からない。
こちらに視線を向けた彼は目を細め、何でもない風に言う。
「綺麗だったからな」
普段感想をあまり口にしないのに何故こんなときばかり。
熱くなった顔を見られぬよう、歩調を早めて歩き出す。
「クレシェンテ?」
不思議そうにこちらを見てくるエリッセ。無視をする訳にもいかず、口が勝手に動いた。
「あなたが満面の笑みを見せてくれたら感極まって涙も流れるかもしれない」
何を言ってるんだと益々恥ずかしくなり、歩調も更に早まる。
しかし残念な事に、俺より背の高い彼は不平も言わずに隣に並んできた。
「たまにしか見られないからこそ、価値があるものなんだろう」
そんな結論を口にして頭を撫でてきたエリッセ。
言いたい事は色々とあったが、どれも声にはならなかった。