要諦†ルイ
クローはそろそろ行かないと、と言ってあっさり背を向けた。
「、また会えるか?」
振り返った彼は穏やかな微笑みを浮かべていて。
「また来る」
あの時クローに着いて行けなかったのは、信じたくないという思いが強かったから。
でも多分、クローの言った事は本当なんだろうなと感じていた。
だって、初めてその気配に気付いたときから、包まれるように暖かな想いを感じていたんだ。
オレは生まれつき、自分に向けられた気持ちを敏感にキャッチしてしまう性質がある。
でも、今まで生きてきて、あんなにむず痒いような、泣きたくなるような透明な感覚は感じた事がなかった。
そう、両親…と思っていた人たちからすら感じた事はない。
けど、母さんも父さんも心からオレを愛してくれてたのは本当だと思う。
一緒にいると安心出来るし、胸が暖かくなるし、オレも大好きだと思っていたから。
クローはオレを外の世界へ促す事はしなかった。
今が幸せならそのままでも良いと思うなんて、絵本で見た女神みたいな顔で言っていた。
その時は綺麗だなって、それしか思わなくて、混乱してたし、曖昧に頷いたけど。
真実を聞いた瞬間は足元が真っ暗になった気がした。信じていた世界が間違ってたと知る衝撃は凄まじく心を揺さぶる。
それでも動揺が長くは続かなかったのは、やはりクローの存在があるからだろう。
全部を受け入れてくれる存在。
正しいとか間違いとか、そんな事どうでもいいとサラリと言ってのける。
優しくて強くて綺麗で、あんな人がどうしてオレをこんなに想ってくれるのか不思議でならなかった。
同じ造られた存在だから?
そういえば、クローは不安になったりしないんだろうか?
両親も知らず、自分だけ周りと違うと知りながら生きてきて、一人で。
あの穏やかな眼差しや落ち着いた心地好い声や優雅な仕草を見る限り、そんな事全く感じさせない。
考えれば考える程、逞しい人だと思った。
†††
心が決まるのは意外と早かった。
次にクローが来てくれたら一緒にここを出よう。
心残りがないと言えば嘘になる。
ここを出たら、両親や友達にはもう会えないだろう。
血が繋がってなくてもいい。両親は本当に沢山愛情を注いでくれたから。
仲のいい友達には、真実を伝えようかとても迷って、結局伝えない事に決めた。
まずはオレが外へ行ってみて、それからまた考えようと思って。だって今のオレには外がどんな所か分からない。
もうすぐお別れだなと思いながら過ごす日々は、前よりずっと大切に感じた。
見るもの全てが愛しくて、何でもない事に泣きたいような気持ちになった。
幸せだから。
幸せだったから。
造られた世界と知ってもその気持ちは変わらなかった。感謝すら感じた。
オレが造られた存在だってちゃんと受け入れてみると、怒りやどうしようもない気持ちも感謝に変わった。
誰もが創られた存在じゃないか。そうだ、同じ生命なんだ。
クローの気持ちが少し分かった気がした。
どうでもいいんだ。造られた理由も生まれた方法も。
だって、オレは今、生きてる。
昔、母さんが寝る前に話してくれた事がある。
神さまは、何でも出来る神さまは、何が出来るか識るために、あるとき沢山の分身を創った。そして、その分身と一緒に様々な体験をしている。
神さまは無限の愛のエネルギーだから、分身たちも無限の愛のエネルギーで創られている。
神さまは分身たちに無限の愛を注ぎ込んだのだ。
『そしてそれは私であり、あなたなのよ』
生命は神さまが創ったもの。
みんな神さまに愛されてる。
『君という存在を』
クローは、
オレを…神さまに創られたオレを見てくれている。
そう思ったら涙が出てきた。
後から後から流れて、止まらなくて。
今の世界を失っても、両親や友達と離れても、オレは幸せだって感じてるんだろう。
クローが、居てくれるから。
ここから離れても記憶は残る。何も失わない。何も。
大丈夫。全部、大丈夫なんだ。
†††
柵を飛び越えたとき全身に強烈な電気が走った。けたたましい警戒音が響き渡る。
「ルイ!!」
クローの声を聞きながら意識は霞んでいった。
鳥の囀ずりに導かれるように浮上する。
「痛いところはあるかい?」
「ここは…」
心配そうな顔に首を振ってから辺りを見渡す。
鮮やかな緑に青い空。
「君のいた所からだいぶ西にある森だよ。磁気が強いがために人間はあまり近寄らない」
まだ少しぼんやりする頭でクローに手を引かれて歩いた。
緩やかな上り坂を進み、突然視界が開けたとき、目の前に広がる光景に呆然とした。
どこまでも広がる大地。
家が密集している所やうねうねとカーブを描く川やマスのように敷き詰められた畑、畑、畑。
遠くに広がる青くキラキラ光る所は果てが緩やかにカーブして空へと繋がっていた。
広い、広い世界。あまりにも広大な大地。空。
「これが僕たちの生きている世界」
言葉を返す事も出来ず、その壮大さに圧倒されていた。
刻一刻と姿を変えていた空は、その内橙色に変わり、紫色になり、最後は闇に沈む。
そうして現れたのは瞬く星たち。満天の星空がきらきらと煌めく。
「世界は…こんなに、綺麗で、広くて、輝いてたんだ…」
「…僕も君を知るまで気付かなかったよ」
星空を見上げていた目をクローへ向けると、彼は穏やかに微笑んでいた。
明るい夜空のお陰で表情までよく見える。
「クローは世界を知ってたんだろ?」
「知ってたけど、見えてなかったんだ」
どうしてだろう?
微かに首を傾げると、長い指が延びてきてオレの頬を滑った。
「僕はね、君を知るまで愛を識らなかった。だから世界の美しさにも気付かなかったんだ」
「愛…」
「世界を美しく見せるのも鮮やかに見せるのも愛なのさ」
緑色の暖かな瞳を見ていると、これがその"愛"なんだと思う。
じっと見詰めていたら、その顔に苦笑が浮かんだ。
「白状すると、僕はずっと独りだと思って生きてきたんだ。だから君を知って独りじゃないと分かって、嬉しかった」
家族を知らないというクロー。
こんなに愛に溢れた存在なのに独りを感じていたなんて。
でも今は違うと言う。オレがいるから。
オレも小さな世界から抜け出したけど、孤独は感じていない。クローがいるから。
とっさにクローの手を握った。
「クロー、」
言葉が喉に突っ掛える。
伝えたい想いがあるのに、何て言ったらいいか分からない。
「君に会えて幸せだ。君に会うために生まれたんだと思うくらい」
「オレ、オレも」
ぶわっと胸が熱くなり、言葉を続けられなかった。
包み込むように抱き締めてくれる優しい腕にすがりつく。
こんな気持ち、初めてだ。
両親といたときよりも深い安らぎを感じ、溢れる暖かい想いが頬を濡らす。
そういえばクローは同じ細胞から造られたと言ってたっけ。
それならオレはクローの弟のようなものなのか。
兄弟だからこんな気持ちになるのかな。
誰より近い存在だから。
「これから君と居られるなんて夢のようだよ」
こんなに想ってくれる人がいる事の方が夢みたいだ。
「クロー、オレも幸せだ」
会えて良かった。知れて良かった。
本当の世界はうんと輝いていて、優しくて、綺麗だ。
クローの花が綻ぶような美しい笑顔につられて笑って。
「君が望むだけ、傍に居ていいかい?」
どこまでも優しい声に、止まった涙がまた溢れだした。
「それなら、ずっと一緒だな」
ぐじゃぐじゃになった顔で笑うと、クローは睫毛を震わせながら目を見開いた。
美しい緑色の瞳から透明な雫が流れ落ちる。
思わず息を呑むくらい、綺麗だった。
胸を埋め尽くす感謝、感謝、感謝。
この気持ちを誰に伝えよう?
クローに、両親に、友達に、造った人に、世界に、神さまに。
ありがとう
ありがとう
神さまの愛は、確かに無限だ。
これにて完結です。
このお話はこの世界について色々知った頃に書いたものです。今の時期にはもう時代遅れかもしれません。
それはもう過ぎ去りしこと。あるいは、解離した世界の話となった、と言った方が良いかもしれません。
それでは。
ご愛読、ありがとうございました。




