後編 墨闇
1.
「妻女を娶られたばかりだというのに、このような僻地へ遣わされるとは、佐官殿も貧乏籤を引かれたものですな」
砂漠の海が広がる。
初老の副官ティエンの追従笑いを、佐官と呼ばれた若い将ホン・ロンは突き放すような目で見ていた。身に着けた甲冑は赤漆を多用した副官のものの方が奇抜だったが、目の肥えたものならば、一見地味に見えるホン・ロンの甲冑の細工の贅沢さに驚くであろう。渋好みというわけではなく、この男が気に入ったものを身につけようとすればこうなるのだ。それが許される恵まれた育ちをした男だった。
「式の翌日に婿君が出立では、奥方も随分寂しい思いをしておられることでしょう」
経験上、自分より若い上官に媚びるには、下卑た馴れ馴れしさで振舞うのが良い。ティエンはそう思っていた。さしたる家柄でもなく特別の才もない男にすれば、当然の処世である。しかし、この若い上官には逆効果だった。
「一度会ったきりだから、寂しく思うこともないだろう。……さあ、行こうか」
口では鷹揚に受け流したが、その顔にはありありと不快の色が現れている。
ホン・ロンは華国の武官で、今年二十六になる。父は北方夷域の属国邦で司令官を務める有力な将軍。もの心ついたときからその恩恵を受けて育ったために、上役の顔色を伺うといったことには縁がなかった。取り立てて美形というわけではないが、嫌味のない顔立ちで、意思の強そうな目が好男子という印象を人に与える。骨太な体躯、日に焼けた黄褐色の肌、濃い眉……まさに男らしい外見だ。普段は快活だったが、時々、妙に神経質な表情を見せる。
父将軍が持ってくる縁談を断り続けたホン・ロンだったが、この度の縁談の相手は自分の上役の息女でさすがに断り兼ねた。婚礼を済ませた花嫁は参列した両親と共に実家へそのまま里帰りした。花嫁はまだほんの子供で、夷域へ派遣される花婿の帰りを婚家で待たせる必要もないだろうと両家で合意したからだ。ホン・ロンが自分の妻に会ったのは、この婚礼の儀の一度だけである。
ホン・ロンは妻女を持つことを面倒に思っていた。出世には必要なことなのだろうが、利害を考えて選んだ妻を側に置いておくのも煩わしい。それよりも気に入った女ができれば、身分や家柄と関係なく妾にして側に置く方がいい。女が嫌いなのではない。むしろ、自分の側に置く女というものに過度の理想を持っているのかもしれない。
かつて、実際、妾にしようと思った女もいなかったわけではない。ホン・ロンは妻室に迎えたかったが、家柄に問題があった。この女を妾にし、室を持たなければよいとその時は思ったものだった。その時は若かったから、一途にそう思った。しかし、その女に未練があって今まで妻を娶らなかったわけではない。ただ、それ以来、妻を持つということ自体が、この男には厄介ごとになった。縁談を受けた後も、花嫁から逃げるように東夷派遣の任を自ら望んだ。婚礼など、ただ煩わしいだけだった。
あまり親しくなりたいとも思えない副官とともに、二百ばかりの手勢を率いて、ホン・ロンは砂漠の中の小集落へ向かっている。その先には、華国に属さぬ墨湖という夷域が広がる。本格的な墨湖攻めに先行して、亜城に居所を構えて準備を行うように命じられていた。本格的な戦が始まる前の状況把握が主な役目であり、戦地に向かうほどの緊迫感もない。有力者の年若い子息が派遣されるには格好の、安全な任である。
亜城は華国に属するとはいえさほど重要視されておらず、華国の兵は全く配されていなかった。遊砂族系の民が住まうという。湧水を用いた果樹栽培が細々と行われている他、石切りを生業としている寒村だということしか、華本国は把握していない。
やれやれ、気が重い。
ホン・ロンは頭を振った。軽薄な口をきく副官のことより、式だけ挙げて置き去りにしてきた幼い花嫁のことより、もっと気の重いことが待っている。
他国の領土を侵す尖兵なのだ。
東夷への派遣を希望した時は、遊砂都に駐留する将との交代要員のつもりだった。
「華国の領土として、帝の恩恵に浴せ」などということが、何の大義になろうか。領土への野心など持たず、公の行き来を重ねて、富を回すことの方が互いの国にとっての利になるはずだ。ホン・ロンがそう思おうとも、華国は墨湖の背後にある墨海交易を掌ることを望んでいる。墨湖だけではない。華国は外へ外へと終わりない領土拡大のための戦を続けている。そして、その内部には独立の機会を狙っている小領域をいくつも含む。まるで作り上げていく側から波にさらわれる砂の城のようだとホン・ロンは思う。そんなことに意味があるのかと。
父が実質的な統治者となった邦という北方の小国で、ホン・ロンは少年時代を過ごした。彼にとって、邦は第二の故郷であった。父の下、将の見習いをしたが、邦への愛着が強まるにつれ、他国の領土を侵すということの意味を考えずにはいられなかった。
それで、嫌になった。
父の下を離れ、華本国へ戻って中央軍に属したが、今度は東征の尖兵だ。諾々と呑み込んできたものが、今、胸焼けを起こしている。
一行は亜城の集落に旗を掲げて馬を進めた。日干煉瓦の家々は貧弱だが、遠巻きに見ている村人の身なりは悪くない。男たちはゆったりとした長い上着に幅広のズボンを身に着け、頭に布を巻きつけている。女たちは黒い布を頭からすっぽりかぶっているが、顔は覆っていない。遊砂の女は人に顔を見せないとホン・ロンは聞いていた。この地では遊砂の神も寛容なのかもしれないと、妙に感慨深く思った。
まずは村長と面談し、墨湖攻略のための助勢を求める。事前に文を送っていたので、取り立てて問題はなかった。亜城は遊砂族系の住民の村だったが、遊砂王の統治下にあったこともなく、華国に服したのも早かった。村長は顎鬚を蓄えた小太りの中年男で、華本国の武人の顔色を窺っておどおどしている。そういう姿を見ると、ホン・ロンは自分が大きな罪を犯しているような居心地の悪さを感じるのだった。
華国兵のために、村は饗応の支度をしていた。三頭の羊が潰され、串焼きになっている。羊の脳はそのままの形で蒸しあげられ、羊の内臓と一緒に煮込まれた野菜と豆のスープはいかがわしい臭いを放つ。果実で作ったという珍しい透明な蒸留酒もある。呑みなれぬ酒は香辛料の効いた肉によくあった。旅の疲れもあいまって、兵たちは知らぬ間に悪酔いしている。
副官、村長と一緒の卓を囲んでいたホン・ロンは、ほとんど酒を飲まずに肉ばかり食べている。スープから漂う糞尿臭さに辟易しつつ、焼肉に使われている香辛料の名や産地、効能などを村長に問う。一方、副官は何かと村長に絡む。この副官殿は、背も高くがっちりした体格で口ひげも蓄えた男らしい風貌なのだが、釣り目がちの細い目を瞬かせて村長に因縁をつける様子は、嫁をいびる姑のような女々しい陰湿さがあった。ホン・ロンは村長を気の毒に思った。
「ここで農作物はとれるのか?」
水を向けると、村長はほっとした顔を見せる。
「果物程度で……穀物などは殆ど下の津から入れています」
「村の者の稼ぎは?」
「砂漠での交易と、津での荷揚げ、あとは石切り場があります」
稼ぎが生業の中心なら、本国が把握しているより豊かな村なのかもしれない。この地でとれるわけでもない香辛料がふんだんに使われるぐらいだから……とホン・ロンは考えを巡らせる。
「食い物も酒も悪くないが、女が駄目だ」
副官はまた絡んできた。
「色は黒いし、毛も硬そうだ」
下品な男だ。ホン・ロンは露骨に眉をしかめた。
「管を巻くだけなら、もう床に入ったらどうだ。遊砂美人は、髪も目も漆黒なのが売りだと聞くが」
ホン・ロンが適当なことをやんわり言い返すと、副官殿は横を向く。村長は言い出し難そうに話を変えた。
「実はご報告せねばならぬことがございまして……砂漠で行き倒れていた華国の兵を一名、村でお預かりしております。どこかへ引き渡そうにも人手が足らず、こちらに留めておりました」
「そうか。どこの隊のものか。当人は何と申しておる」
「……それが、何もかも忘れてしまったようで……自分が何者なのかもわからぬらしいのです。身なりから華国の兵で間違いないと思うのですが、どうもその、顔が……」
「顔がどうした」
「華国のお人ではないように思います」
「ここへ呼んでくれ」
村長が何か合図した。
「我が華国軍には、夷域・属国から徴用された兵もいる。全てが華人ではない。華人でないからと言って、不審なものということはない」
村長は安堵の表情で大きく肯いた。
「こちらでは、石切り場の手伝いなどをしながら、皆とうまくやっております。不審者だとか脱走者だとか、そういうものではないと思っております」
その時、部屋に男が入ってきた。疲れた顔をしている。かといって、醜いわけではない。寧ろ整い過ぎた顔だ。日焼けはしているが、一見して判るほどに、肌や髪、目の色が薄い。確かに華人ではない。不審がられるのも仕方ないだろう。村人たち同様の服装で、髪は髷も結わずに後ろになでつけている。
ホン・ロンはその顔に見覚えがあった。随分前のことだから、確信は持てなかったが、見覚えのある顔だった。
2.
「名前は?」
「……覚えていない。ここでは、シンと呼ばれている」
その男は敬語を使わない。ティエンは「こいつ、まともな華国語も話せない」と吐き捨てた。「この辺りでは、名無しの遭難者をシンと呼ぶ慣習があるので……」と、村長がとりなすように申し添える。
「そうか、これを持て」
ホン・ロンが傍らに立てて置いた刀を投げ渡すと、男は癖のある動作で受け取った。
「構えてみろ」
腰を落とし、独特の型をとる。
「佐官殿、こいつは夷域から徴用した野蛮人に違いない。こんな屁っぴり腰では使い物にならん」
それは北夷の国、邦の正統な剣術の構えだった。ホン・ロンは、隣の副官に気取られぬよう素っ気なく言い放つ。
「邦人だ。顔立ちで判る。故郷や家族のことも、全く覚えていないのか」
男は黙って頷いた。
「身元の分かるものは何か持っていなかったのか」
また男は頷き、村長がまた助け船を出す。
「助けられた時にはそういったものは何も持っていなかったようです」
どうしたものか。ホン・ロンは考えあぐねた。しかし、本人が覚えていないというなら、そうしておくのが良い様にも思う。嘘をついているなら、無防備にあんな構えを見せることもないだろう。考えがまとまらぬまま、男のガラス玉のような瞳を見ていると、押し込めてきたものが苦いものが湧きあがってくる。
父の支配する邦へ移り住んだ少年の日、ホン・ロンは常にこの男を意識していた。自ら邦を離れたのも、この男の影から逃れたかったからかもしれない。
華国が邦に服従を迫った時、月将軍嘉袁は徹底抗戦を唱えた。華国は、邦の内部分裂を狙って、嘉袁と敵対する土将軍寧安と手を組んだ。そして嘉袁に謀反の疑いをかけ、邦王の手で処刑させたのだ。この後、王家は温存されたものの傀儡政権となり、実質は華国から派遣されたホン・ロンの父が邦の統治者となった。
月将軍は邦の民に絶大な人気があった。その忘れ形見である火群は、王家の血を引いていることもあって、邦の独立を願う人々の期待を一身に集めていた。
美しく、賢く、強い。何事にも秀でた王子よりも王子らしい高貴な御子。
民は火群の登場を待ち望み、ホン・ロンはそれ以上であることを父に求められた。旧王国の象徴たる火群よりも、華国による新しい統治者の後継者たるホン・ロンの方が次代の王子に相応しくあらねばならない。ホン・ロンは様々な資質に恵まれていたし、努力家でもあった。幼い頃より文武に励み、人並み以上だという自信は本人にもあった。しかし、火群とて、当然、然るべき教育を受けていた。ましてや邦の伝統的な歌舞や武術といったものまで、生粋の邦人と競わされるのは、ホン・ロンには荷が重すぎた。
同時に、ホン・ロンは自分が火群の立場を奪っているのだという思いに取りつかれていた。そのことで父に反発し、仲違いもした。
偶然、火群の母が謀反を企てていることに気付いたホン・ロンは、父に知られぬ前に、出自や身分、ありとあらゆるものを火群から奪い、華本国軍に無名の兵として放出することで国外に逃がした。月将軍の子であることも、王家の血をひくことも、神前で棄てさせた。さもなくば、母と妹を殺すと脅して、棄てさせた。本意でなかろうと、一度国の神に誓約した以上、違えることは許されない。利用する価値も、殺す価値も無い、そんな人間にしたのだ。
火群を助けるためにやったことだったが、同時に残酷な打算を働かせている自分にホン・ロンは気づいていた。
――これでこの男に脅かされることはない。
これで火群本人と、その母、妹の命を守れたのは事実。互いにこれで良かったのだと、納得しようとした。しかし、納得しきれなかった。罪悪感は取り返しがつかないほど大きくなり、ホン・ロンも邦から逃げ出すしかなかったのだ。
今、目の前に自分が全てを棄てさせた男が、自分を過去から逃げさせ続けている男が、いる。
同じ目をしていた。そうだ、同じ目だ、と思った。
蛍火はあどけない少女だった。世間知らずで、善良ではあったが思慮深くもなく、無邪気で……まさか妹だとは思いもしなかった。自分の素性を打ち明けても、求愛するまでは、臆することなく振舞っていた少女。まさか嘉袁将軍の娘、火群の妹だとは。偶然知り合った娘に好意を持ち、妻に迎えようとその素性を調べたばかりに、その母の謀を知ることになってしまった。
ホン・ロンは、辺境の地で巡り合った男に、偶然以上のものを感じていた。自分の尾をくわえこんだ蛇のように、終わりのない因縁の環に取り込まれている。幼稚な感傷だと独り苦笑する。気の重い任務を前に運命などというものを意識するのは、ただ単に己の無力さから目を逸らしたいだけなのかもしれない。
逃げても、逃げても、逃れられない。何かに絡め捕られるような感覚。ホン・ロンは、ただ恐れた。
その夜、ホン・ロンは、硬い寝台に敷かれた毛氈に寝そべり、久しぶりに女のことを思い出していた。村長から提供されたのは、調度らしい調度もない、がらんとした清潔な土壁の小部屋。その天井の何もない一点を見つめる。
あれは寺の二十日講会だった。赤い錦に金の刺繍。美しい装束に身を包んだ舞師が花のように揺れている。胡蝶の舞だ。十八歳のホン・ロンは目深に笠を被って邦の武人になりすましていた。境内の石段に腰を掛け、膝にのせた画板の上でせっせと絵筆を動かす。
昔は四六時中絵を描いていた。邦の街並みや人々、祭礼や習俗……絵にしたいもの、脳裏に焼き付けておきたいものは沢山あった。雨のにおいが混じるひんやりとした空気。木々の深い緑。木造の塔には甍が連なり、釉が艶やかに光る。どんなにあの地を愛したことだろう。それらを皆、描きとめたかった。
輪郭を墨で追い、朱を散らす。誰かの無遠慮に覗き込む目を感じて、手を止める。無防備なその気配……小さな子どもかと思って見れば、身なりの良いおっとりした十五・六の娘だ。名を尋ねると「胡蝶」と悪意のない嘘が返ってきた。
今まで生きてきて、自ら妻に迎えようと思ったのはこの女ただ一人だけだったのだから、何か特別な美徳があったはずなのだが、それが何だったのか、ホン・ロンには今でも思い当たらない。容姿は確かに端麗であったが、他にも美しい女と出会う機会はあったように思う。手に入れることができなかった女だったからかもしれない。妻妾に迎えなくとも、一度でも自分のものにしていたなら、もうとっくに忘れていたかもしれない。
もともと邦人は華人に比べて肌も髪も瞳も色が薄いが、蛍火の色の白さは特別だった。陽の光の下では透けてしまうのではないかと思うほどで、どこか儚かった。からかうと眉をへの字に寄せて、頬を上気させた。警戒心を持たぬ娘の顔は話をしているうちにどんどん近くなる。何度、抱きしめようと思ったことか。しかし、そうすれば壊れてしまうようでできなかった。
「胡蝶」の本当の名が蛍火で、処刑された嘉袁将軍の娘だと分かった時、この娘を娶ることで自分も邦の人間になれるのではないかとすら思った。後から考えれば、それはお粗末で短絡的な打算であった。王家の血を引く蛍火の母は、火群を擁立する一派に担がれて、杜撰な謀反の計画に加担していた。ホン・ロンが思っている以上に、その恨みは深く……当然と言えば当然のことであった。
ホン・ロンは、火群にも蛍火にも国を棄てさせた。自分が見逃しても、早晩、父に知られる。父ならば、それを口実に嘉袁将軍の縁者を一掃するだろう。自分のしたことは、彼らの命を助けるためだったのだ。そう自分に言い聞かせながらも、納得できない。目の前から火群を消し去りたかっただけではないのか。蛍火だけなら……妾一人守ることぐらいはできたはずだった。結局、自分は火群を怖れ、その妹を側に置くことを怖れたに過ぎない。
考えれば考えるほど、ホン・ロンは自己嫌悪に陥った。耐えられず、自らも邦を離れ、華都へ上り、父の下から帝直属の中央軍へ移り……何もかも忘れたかったのだ。
3.
寝苦しい夜は、拍子抜けするほど穏やかな朝を連れてくる。それは暫くの事であったが、気持ちを切り替えるには十分だ。ホン・ロンは自分の職務に専念することにした。
辺境の地図ほど、あてにならぬものはない。他者に目を向けさせたいものしか記されていないからだ。華国から持参した地図には、亜城の村人が物資を入れる津の存在すら記されていない。陸路・水路を押さえずして戦は勝てない。ホン・ロンは正しい地図を作ることから始めねばならなかった。
村長から地の利を知る男を一人借り、数名の兵を連れて周辺を回った。副官ティエンに留守居させ、シンを連れて行く。案内させても村の男が全てを見せてくれるとは限らない。肝心の交易の場所や相手について聞き出そうとすると、男は華国語が解せないふりをする。やり取りを聞いているシンは、時々、怪訝そうな顔をみせた。
「とりあえず、津へ案内してほしい」
男は曖昧な返事をして、動こうとはしない。黙っていたシンが口を開いた。
「今日はこれまでにされたらどうか。皆、日頃の仕事で疲れている。代わりに自分が佐官殿を石切り場へ案内しよう」
石切り場か。この男、何を考えているやら。
横柄で、投げやりな口利き。ホン・ロンは、恐れながらも、この男に興味を持たずにはいられなかった。村から連れてきた男がその場を去るのを見送ると、シンは馬の首を返す。
「ここに来てどれぐらいになる?」
「一年ちょっと…」
「土地勘は?」
「まあ、多少」
口が重い。話を続けるには、忍耐が必要だった。
「石切り場で手伝いをしていたのだったな」
「ここでは、野良仕事は女子供がすることだ」
礫の目立つ荒地から岩場に抜けた。赤っぽい砂岩の洞窟の入り口にたどり着く。背面はそそり立つ灰色の岩しか見えない。
「あの崖の向こうには行ったことがない」
そう言うと、シンは洞の中へ入っていった。ホン・ロンも後に続いて入る。中は外光をとる窓が幾つもあって明るかった。柔らかい砂岩は切り出しが容易なのだろう。洞はかなり人の手が加わっているようで、十分な広さがある。まるで倉庫だ。さらに進むと、一見して石切りの現場とわかる所に出た。
「で、ここで石を切り出して、どこへ運ぶのだ?」
ホン・ロンが声をかけると、前を歩いていたシンは振り返ることもなく「石を運ぶには船が一番だ」と言いながら木製の分厚い扉を両手で押し開いた。
開けた視界の奥は薄暗く、ホン・ロンには何も見えなかった。息を止めると水の音が聞こえる。暫くすると目も慣れ、岩を刳り貫いて引き込まれた地下水路と船着き場が薄らと姿を現す。
「ここが津か?」
「ここも、だ。多分」
船着き場へ降りてみると、繋がれた船はさほど大きくない。水路が地上に出る場所で船を乗り換えるのだろう。
「どこへ通じる?」
「自分は石をここまで運んだだけだ。この先は知らない」
水路だけ見ていても、どこにつながるのか、方角すらもよくわからない。しかし、水路は亜城のような村には生命線のはずだった。亜城と墨湖の交易は本国も気づいているが、その実態は把握されていない。
船で漕ぎ出してみようとホン・ロンが纜を解きかけると、シンが手で制止した。
「砂漠で倒れていても、華国の兵は衣服で判る」
持って回った言い方をする。華国の兵が水路を利用している姿が見られるのはまずい、ということか。ならば、どうしたものか。ホン・ロンは考えあぐねる。シンは無表情のまま水路の向こうの闇を見ている。
「私の任は下調べに過ぎない。大した権限を持たされているわけではない。しかし、華国に武力で強引に墨湖を蹂躙させたくはないのだ。墨湖に利のある形で交渉の席に着かせたい。ことを大きくせずに、良い方向に物事を進めたいのだ。シン、貴様ならどうする」
「そういうことは佐官殿が考えること。自分ならどうもしない」
態々、自分からをここへ案内しておきながら、えらく素っ気ない。不貞腐れているというのとも一寸違う。興味がないといったところか。ホン・ロンは恐る恐るシンという男を見極めようとしていた。もし、この男が自分ならば……
どちらにしろ、水路は押さえねばならない。ホン・ロンは饗応の食卓を思い出した。ふんだんに用いられた多彩な香辛料。彼等は交易の民、商人なのだ。恐らくは、墨湖とも外海とも繋がっているに違いない。どうしたらこちらの物資の補給路が確保でき、そして、相手の補給路を断てるのか。村の者が口を閉ざすなら、別の手段を考えなくてはいけない。
この周辺を押さえている「魁星」は誰なのか。ホン・ロンは、急に思い立った。
華国全土を覆う商人の組織はと呼ばれている。広域で活動する商人たちがよりどころにする相互扶助の組織だ。そこには海賊・山賊といった輩まで含み、隠然たる力を有していた。地域ごとに「魁星」と呼ばれる元締めが存在するという。
この際、魁星の協力を得られないものだろうか。今、砂岩を一番必要とするのは……確か、砂漠に隣接する華の小都蕊では大々的な寺院造成をしていたはずだ。蕊なら、二・三日でなんとかなる。
仕切り直しが必要だとホン・ロンは思った。華都では、亜城は砂漠の寒村だという話しか聞こえてこなかった。しかし、このどこにつながるかわからない水路を見ると、この地域一帯への見方が変わる。此処は点でしかない。
この日は、これで村に戻った。村長は「石切り場を見られたとか」とおずおずと探るように尋ねて来た。
「ああ、見た。石切り場など初めて見た。面白かった。私の墓石はここで誂えよう」
「折角ですが、ここの石は墓石には向きません。やわらかすぎるので、風化が早い」
「それは好都合だ。墓石など早く朽ちるのがよい。華都に帰るときに、馬に引かせて持って行こう」
村長は、安堵の表情を見せた。安心しただろう。船とは言わず、わざわざ馬に引かせると言ったのだから。そんな村長の表情に気付かなかったように、ホン・ロンは「飯にしてくれ」と言葉を続けた。
明朝、四人の兵を連れて蕊へ向かうことにしたホン・ロンは、その中にシンも入れた。亜城に残る兵の管理を副官に委ねると同時に、陸路に作る要塞の場所とそのために必要な資材を書き上げておくように指示した。ティエンは、蕊行きの理由を知りたがったが、「有能な貴殿がいれば、ここは事足りるだろう」と言われて、片眉を少し上げた。
蕊への道は礫砂と岩場が続く。地下水脈があまり深くない場所を通っているのか、点々と水の湧いている場所があり、厳しい道のりではなかった。馬の脚は早く進み、空は青く天は高い。シン以外の兵たちは上官がいないかのように、後ろで軽口を叩いている。
「墨湖の兵は、どんな感じかな」
「そりゃ、色黒で髭の濃い大男で……」
「見たことあるのか?」
「遊砂の兵なら見たことがあるぞ。針金のような毛むくじゃらの…」
見たことのないものには、恐れが先行する。知識は不安を和らげるだろうと、ホン・ロンは知っていることを少しばかり話してみる。若輩の身でも、上役としての配慮は示さねばならない。
「墨湖の民は遊砂と同じ故、外見はさほど変わらない。神が違い、戒律が違う。遊砂の男は勇猛果敢で、馬上から振り下ろすのに都合のいい、反った幅広の長刀を使う。墨湖の軍がどんなものなのかは想像がつかないが、似たり寄ったりではないか」
知識は不安を増幅することもある。兵たちは黙り込んでしまった。実際、勝手の違う相手と戦うというのは、妖怪退治のようなものだ。ホン・ロンも剣術は学んだが、馬上で斬り結んだ経験はない。華兵なら、まず遠射・長弓、それから長柄のもの、最後に刀。騎馬のまま抜刀し突き進んで来るという東夷の兵と戦うことには不安を感じる。
妖怪退治ならば、まだ良いが。
ホン・ロンが振り返ると、シンが何か遠くを見ていた。鳥だ。小さくもない白い鳥が低い空を飛んでいる。
砂漠を飛ぶ鳥もあるのだ。見なければ、砂漠に生きている物がいることなど、気付くこともなかっただろう。些細なことでも知ってしまったら見過ごすことができなくなるものなのだろうか。
シンは目で追い続けている。ホン・ロンはそんなシンを見ている。シンは鳥を見送ると、何かを否定するように首を振った。それから見られていたことに気づき、露骨に無表情を作った。
蕊の街へ辿り着いたのは、燃えるような赤い夕陽に包まれる少し前だった。寺院の建設だけでなく、街路の修繕が彼方こちらで行われていて、街は活気がある。ここまで来ると行き交う人は華人が多く建物も華国風だ。ホン・ロンは少し安堵した。
4.
宿に入ると、ホン・ロンは兵たちには朝迄の暇が与えた。一人で街の守備責任者であるペイフュン少将の屋敷を訪問するつもりだった。しかし、他の兵のように飲みにも行かず宿に籠ろうとしているシンを見掛けて気が変わった。
こいつ、巻き込んでやる。
離れたところから他人事のように見ているその目が気に食わない。私と同じ場所へ立たせてやる。私と貴様と何が違う?批判したいなら、言ってみろ。
ホン・ロンは、腹の中で罵っていた。ガラス玉のような色の薄い瞳を見ると居たたまれなくなるのだ。あってしかるべき憎悪すらも見えない、虚空のような……苛立ちに背を押されて、シンを連れ出す。
少将の屋敷では、暫く控えの間で待たされた。椅子に腰を掛けると、添机の上に多色刷りの木版画の束が無造作に置いてあった。シンは、それを手に取って興味深げに見ている。芝居絵の類だ。おどろおどろしい鬼形の女が見得を切っているように見える。華国流の技巧の絵だが、鬼女は東夷の装束を纏っていた。「砂鬼大明神」と題がついている。
「シン、それは何だ?」
「知らん。芝居の出し物ではないか」
そこへ、ペイフュン少将が入ってきた。
「ようこそ、ようこそ。ああ、それ、良かったら持って行って構わないよ」
対面に座した少将は四十前の長身の痩せた男だった。位階はさほど変わらず、家柄はホン・ロンの方が上だが、気さくな口のきき方をする。ホン・ロンには、それがかえって小気味良かった。
「ここ一年ほど流行った芝居で、その刷り物はお守り兼お土産として、旅客によく売れているんだ。嵩張らず値段も手ごろで、蕊土産に最適」
少将は饒舌だった。武人と言うより、商人を思わせる柔らかい物腰。しかし、どこか侮れない鋭い目をしている。分をわきまえた上で賢く立ち回る器用さ。ホン・ロンは、少将に自分の持っていないものを感じ取る。
「妖怪の芝居の刷り物が、お土産でお守りとは……」
「ふふ、ご時世のあだ花というところでね。遊砂の情勢は耳にされているだろう」
遊砂族は、華国に服していたが、王族による自治が認められており、一国の態を保っていた。しかし、華国は王族の内紛に付け込んで介入し、傀儡の幼王を立てることに成功する。
「さほど血も流さずに王をすげ替えたのだから、大したものだ。王権の根拠となる神宝も華都へ移されることになった。神宝に奉仕する王族の巫女も一緒に連れて、小隊が砂漠を渡ったんだが、季節外れの砂嵐が吹き荒れて……小隊の殆どが砂漠で命を落とした。小隊を率いた将と数名が隊商に助けられたが、それぞれが後でいろんなことを喋った」
ペイフュン少将の語りは、だんだんと怪談めいてくる。
「神宝を奪われまいと、巫女が砂嵐を操り、大暴れ。そして、巫女は神宝を掴んで砂嵐に乗り、天に駆け昇っていった。芝居になって、こういった絵も作られた。これを持って砂漠を渡ると砂嵐除けになるんだそうだ」
「はぁ、それで『大明神』と?」
「語呂がいいからな。御利益がありそうだろう」
目を剥き、禍々しく耳まで裂けた口から炎を吹き出し、大きく開いた手の指にはとがった長い爪が伸びている。人はこういうものに御利益を求めるものなのか。ホン・ロンはつくづくと眺める。
「まあ、可哀想と言えば、可哀想なんだ。季節外れの砂嵐とはいえ、調べてみれば、百年には一度か二度そういうことは起こるものらしい。しかし、巻き込まれた者たちはそうは思わないだろうし、後ろめたいことがあれば尚更だ。生き残った将は正気を失っていたが、他の生き残りの話では、どうやら彼が巫女を斬り捨てたというのが本当のところらしい。こうして遊砂王族の巫女姫君は、今では見知らぬ街で鬼の大明神さまになっているというわけだ」
少将はシンに目を止めて、「それ、何枚でも、好きなだけあげるよ」と言った。シンは首を横に振り、手にしていた刷り物を元の場所に戻す。
少将は別室に二人を案内し、夕食を饗した。卓の上の料理は華国と東夷が混じりあう、多彩で豊かなものだ。異国の珍しい酒もある。ホン・ロンの表情を見て、少将は軽口を叩いた。
「地方官は実入りが良くて結構だ、と、顔に書いてある」
「私の父も北方の邦に長いので……」
地方に赴任して財を蓄えるものは少なくないことは、ホン・ロンも知っている。自身も邦では随分贅沢な暮らしをした。
「邦か。ならば、あがりはここと比べ物にならないだろう。それで、邦人をお使いか」
少将は顎をしゃくってシンを指す。少将はシンに興味があるようだった。単に邦人が珍しいだけかもしれないが、シンの美貌なら興味を持たれるのも仕方ない。
「……邦からずっと連れ歩いてきたわけではなく、偶々、この任務で配属されただけです」
「ふむ。邦の男というのは、作り物のような顔をしているものだな。整いすぎている」
少将の露骨な視線を無視するように、シンは手掴みで骨付き肉に喰らいついていた。少将は血のような色の酒を注いで寄越す。
「さてと、亜城に滞在されているとか。愈々、本国は、遊砂を押さえた今、墨湖を目指す、ということだろうか」
「そういうところです」
「で、何を聞きたい」
「蕊に亜城の石材が入っているはずです。誰がどのように運び込んでいるのか」
「なるほど、それで蕊に来たというわけか。水路について聞きたいのだろう」
ペイフュンという人物は頭の回転が速い。形にこだわらず威厳を示すこともなく、抜け目なく。武人というより商人の雰囲気がある。
「水路の地図はない。恐らく墨海から墨湖へ続く太い水路があり、他に、枝別れした小水路もある。魁の商人が荷を動かしているが、水路の支配は魁ではなく墨湖の商人が行っている」
「ならば、このあたりを管轄する魁星と会えば、墨湖の商人の動きもわかるはず……」
「魁星は君に会わない」
少将は即座にきっぱりとした口調で返してきた。其処には明確な意思が込められていた。
「私が知っていることなら教えるし、魁星に伝えたいことがあれば伝える努力はしよう」
――この人は魁と関わっている。もしかしたら、この人が魁星かもしれない。
ホン・ロンは、ペイフュン少将を味方につけねばならないと思った。
「この街は華国と墨湖・遊砂の交易の上に成り立っている。華国と墨湖が戦になって、物の流れが止まれば、この街も終わる」
迷惑気な少将を見ながら、本音を打ち明け、自分を曝して、協力を乞うことを選んだ。思いばかりが迸るように言葉を押し出す。
「私の裁量で戦を回避できるはずもない。回避できないなら、被害を少なくしたいのです」
「……遊砂のように」
石を投げ込むような無遠慮さで、シンは会話に口を挿む。手についた肉の脂を布で拭い、卓の上の料理を見ながら独り言のように続ける。
「遊砂の民は、さぞかし幸せなことだろう」
その物言いが無性に癪に障った。ホン・ロンは立ち上がりざま、シンの喉輪に手を押し込み、椅子ごと足を払う。体は抵抗なく派手に跳び、受け身をとって床に転がった。
――なぜ、こんな些細なことで、私は手を出してしまったのか。
ホン・ロンは手の中の鈍い感覚を握りしめる。シンは、わざとらしくのろのろと体を起こし、相変わらず他人事のような顔のまま、椅子に座りなおす。
「その辺にしておいたらどうかね。言いたいことはわかるよ。他国に情けをかけられるほど、我々武人に権限はない。軽々に人の心配などせぬことだ」
そう言うと、少将は平然と椅子に腰かけたまま倒れた盃を空け、新たに酒を注いだ。
「水路の河口を押さえ、魁の商人を遡上させなければ、墨湖への穀物供給は八割方断たれる。外海を使って対岸と直接的に船の往来ができるのは、一年の間にひと月だけだ。しかし、そういう手段をとることが誰のためになるのかは、私は知らん。知らんが、華の武人である以上、本国からの命であるなら従わざるをえない。まあ、突っ立っていないで、飲め」
突き出された盃の酒は赤く濁っていた。
5.
穀物がとれない墨湖を落とすには、水路を確保して、魁の商人を止め、備蓄の尽きるのを待てばいい。魁に属する商人は複数いたが、ホン・ロンはペイフュン少将を介して、武器と食料の流れを止めるように、魁星と話をつけた。いずれ墨湖の商人とも話をせねばなるまい。どちらにしろ、少将とよい関係を築くことが大切だと考えた。
――物の流れを一時止めるだけだ。すぐに元通りにできる。少しずつ全体を和平に誘導する……
戦功をあげて成し遂げられるようなことに、ホン・ロンは興味がなかった。
遊砂でも、本国は最小限しか兵は動かさなかった。たかが佐官の先走りであっても、被害を出さずに成し遂げてしまえば、結果自体をひっくり返そうとはしまい。
良くも悪くもホン・ロンの父は有力者だった。少々のことは大目に見てもらえたし、ちょっとした手柄ぐらいでは「親の七光り」と言われるだけだ。どちらにせよ、ホン・ロンは人の評価というものを軽んじていた。自分がどう評価されるかということに無頓着だった。
本国には、陸上の要所数か所に堡を新設することと水路の確保による兵糧攻めを進言し、最小限の人員と物資の補給を要請した。本国から与えられた猶予は一年。この間に墨湖との間で話がつかなければ、本国から大軍が送り込まれることになる。本国は墨湖戦を楽観視していたが、それでも被害を出さずに恭順の意を示させるという若造の意見には乗ってきた。そのためにも、最小限の補給で最大の効果を出さねばならない。
飢えで犠牲者を出すのが目的ではない。多少屈辱的であっても交渉の席に着かねばならないと、墨湖側に思わせるのが目的だ。時間はあまりない。人員も限られている。だからこそ、こちらの策が徹底していることを示さなくてはならない。河口側から五か所の津については、力ずくで墨湖の警備兵を排除した。戦闘らしい戦闘にもならなかったが、このことで魁に属する華国の商人と墨湖の関係は一気に悪化した。
このような強硬な措置をとったが、密かに小水路を利用して墨湖へ物資を運んでいるものがいるらしかった。ホン・ロンは、ペイフュン少将のもとへシンを使いにやって探りを入れさせる。シンは少将に気に入られており、連絡役には最適だった。
シンは誰に対しても敬語を使わなかったが、見るからに華人ではないため、華国語が不自由なのだと周りが勝手に解釈した。実際のところ、北夷の国々は早くから公の場で華国語を用いているので、名家の出身であるシンが流暢に話せないはずはなかった。シンはもとより周囲を小馬鹿にしているところがあり、そして、どうもそういうところが少将に好かれているようだった。
何はともあれ少将は協力的であったし、シンはいつも必要な情報を得て戻ってきた。
「女、らしい」
シンは、ぼそっと言った。
「魁に属している商人だが、通達を無視して墨湖に食糧を運んでいる」
奥歯に物が挟まったような言い方をする。
「その女の素性は?」
「はっきりしたことは……自分と同じような北夷の人間らしい。本名ではないだろうが、通り名は胡蝶」
ありふれた名だった。北夷では女の名前はさほど種類が多くない。花鳥風月や人が愛でる小動物と言ったものの名を便宜上つけるだけだ。同郷の女故に口が重いのかと、ホン・ロンはシンの様子を注意深く見る。
「通達が守れないなら船荷を押さえるしかない。その女が利用しそうな水路を探し、捕縛する」
シンもそのつもりで少将から水路の略図を預かってきていた。ホン・ロンには水路の地図はないと言っていた少将だったが、シンには提供したようだ。
「罰する必要はないのだ。暫くの間、商いは他でやってもらえばいい」
北夷の女ということでホン・ロンは気を使ったつもりだったが、シンは、黙ったまま、図面に線を引いている。
「なぜ、女は魁に従わずに、商売を続けているのだ。商人は、多かれ少なかれ、強引でなければやっていけないのだろうが……」
「……女は、墨湖の有力者イル大人のお気に入りだ」
同じ年頃の娘を失ったばかりだった大人は、商談に現れた女を娘分として遇するようになったのだという。大人とその女の間には利害以上に親子のような絆があるらしい。
利害以外で動いているなら、女には大人を裏切るわけではないということを説くしかない。納得はしないかもしれないが、これ以上、荷は運ばせない。ホン・ロンは、気負い立った。
場所を選び、罠を仕掛けて時を待った。
灌木の茂みでも、闇が深ければ身が隠せる。深夜、小水路が幹水路へと合流する場所に兵を潜めさせていた。川の流れる音の中に、時折、鳥の気配が混ざる。
長い緊張に飽きて、今宵はもう来ないかと諦めかけたとき、水音が変わった。船を目視してから、合図し、進行方向に仮設した水門を閉めさせた。松明を持った兵士が陸上で船を囲み、それから後方の水門も閉じる。船乗りたちは武器を手にして兵士とにらみ合っている。
「船荷を墨湖に運ぶなと、聞いていなかったのか」
声をかけても、返事はない。
「おまえたちの頭に話がある。出てこい」
船乗りたちはざわつき、やがて立派な体躯の中年男が前に出た。
「頭は北夷の女だと聞いているが」
すると、荷の上に座っていた子供が立ち上がった。他のものが肌脱ぎしたりしている中、全身の殆どを暑苦しいぐらい布で覆っている。筒袖の上着、細い袴、手甲に脚絆。頭巾を外すと、それは女だった。ホン・ロンが、もう二度と逢うこともないと思っていた女だった。
「武器は積んでいません。墨湖の命の糧を運ぶことが罪ならば、どうぞご随意に」
松明の揺れる明かりに照らされた女の顔を見ながら、これは幸運なのか、不運なのか、ホン・ロンは判じかねていた。
自分の知っている胡蝶なら、説き伏せることもできるのではないか。「胡蝶」と名乗っていることにも希望を感じた。しかし、この女が邦を出た後、どう生きてきたのか、ホン・ロンは知らない。
――私のせいで、国を棄てたのだ。今更、何を話す。
「佐官殿、御指示を」
シンの声でホン・ロンは我に返る。シンの顔を見たが、無表情のままだ。
「北夷の女だ。見覚えはないか」
シンは首を横に振った。見覚えがないのか、十五年以上も会っていないから顔が分からないのか、それとも……
「佐官殿、御指示を」
過去から逃げてきたはずだった。ホン・ロンは唇を噛む。
――動じている場合ではない、今は……
当初の予定通り、船と船荷を没収し、船乗りを河口の津に留め、女は亜城に連れて行くことにした。
女が墨湖の大人と懇意だというならば、やってもらわねばならないことがある。
割り切れるものと割り切れないもの。諦めていた何かが自分の中でせめぎ合い、うねるのを感じる。冷静に慎重に事を運ばなくてはならないのは分かっている。それでも内側から抗いきれない何かが波のように押し寄せてくる。
大事を成しとげるだけの冷徹さを。そう欲しながら、何か得体の知れないものに引き込まれていくような無力さを、ホン・ロンは感じていた。
6.
胡蝶は、邦の武人嘉袁将軍の娘で、真の名を蛍火という。火群の五歳下の妹である。
将軍が斬首された後、再嫁した母に伴われて商人の養女となった。一家の不幸は、あまりこの娘の心に傷を与えなかった。幼すぎたのだ。自分を可愛がってくれた兄は少し思い出せても、家に寄りつかなかった父将軍については明確な記憶がなかった。
養父烏鵲は嘉袁将軍が目をかけていた商人で、将軍の失脚とともにその商いも傾いていった。それでも妻という形で身柄を保護した嘉袁将軍夫人には臣下の礼を取り続け、援助を惜しまなかった。将軍夫人には隔てを以て接した烏鵲であったが、幼い蛍火との間には父娘の温かい関係を築いた。養父に愛されて、蛍火は比較的恵まれた少女時代を過ごす。
蛍火は実父とのかかわりの薄い娘だったが、さらに、実の母親との関係は険悪と言ってよいものだった。母が自分に流れる王家の血を誇り、手元にいない嫡子火群を盛り立てることを望めば望むほど、養父との穏やかな生活を愛する蛍火との溝は深まった。蛍火は商人の娘として分相応に生きていきたかったのだ。
十六の時、寺の二十日講に通い、蛍火は奉納舞の絵を描いているホン・ロンと出会った。顔を上げるまで華人だと気付かずに、その手元を覗き込んでいた。魔法のように滑稽な戯画が筆から滑り出てくる。ホン・ロンは一枚描き終るとそれを突き出し、蛍火は咄嗟に眼前のそれを掴んだ。
「貰ったら、有り難うと言って名前ぐらい教えてくれるものだ」
顔を上げた男が華国人であったことに驚きつつ、感じの良い若い異性だということに蛍火は動揺した。
思わず絵を受け取ってしまったものの、名を教えるような軽々しい振る舞いもできない。その時の舞の演目が「胡蝶」だったから、とりあえず胡蝶と名乗った。
「胡蝶ね、ふふん」
ホン・ロンは鼻で笑った。書物の中でしか恋を知らなかった世間知らずの娘は、その悪童のような笑顔であっけなく恋に落ちた。
それが恋であったのは間違いなかっただろう。しかし、少女は恋に恋していたのも事実であった。相手が自分の親の敵とも言うべき相手だと知ると、ますます自分の恋を運命的なものと思いこむようになった。諦めねばならない理由がはっきりすればするほど、自分の感情がゆるぎない劇的なものに思えた。
ホン・ロンの側に上がる話もあったが、受け入れられるはずもなく、そうこうしている間に母の謀反が発覚する。ホン・ロンの計らいで、蛍火は養父とともに邦を逃れ出た。
蛍火にとって、ホン・ロンは命の恩人となり、思いは体内で結晶のように固まっていった。邦を出て、養父の商売を手伝って辺境を旅しながらも、蛍火は過去の思い出に恋したまま、時を過ごしていたのだった。耐えること、思い続けること……それが世間知らずな娘の恋の証となった。
7.
「佐官殿の馴染みの女で?」
亜城の村へ戻ると、副官が意味ありげに小指を立てた。「そうだ。大事に扱え」というと目を丸くする。
――下品な男だ。
ホン・ロンは、眉間にしわを寄せた。
自室へ連れて行き、改めて良く見てみると、胡蝶の顔にはさすがに昔の少女らしさはなかった。しかし、年相応の色気とか、女らしいふくよかさとか、そういったものとも無縁で、陶器の人形のように硬く熟していない感じがする。髪を小さな髷にしているので、とても頭が小さい。
胡蝶は、ここまで別に反抗するわけでもなく言われるままに従っていた。途中で顔を出したシンの顔を見て少し驚いていたが、それについての感想を口にすることもなかった。面差しは良く似ている。シンが見るものに緊張感を強いるほどに整い過ぎていて、かつ陰気であるのに対し、胡蝶の顔にはどこか親しみを感じさせるような大らかさがある。シンがさっさと部屋を出て行くと、胡蝶は硬い表情に戻った。
「お義父上は、烏鵲殿は、お元気か。今、どこにおられる」
「元気にしております。どこぞの空の下で」
「こちらでの商いは長いのか」
「いえ、さほど」
ホン・ロンの中で残酷な感情が頭を擡げる。
「私のことは、恨んだか」
胡蝶は固まった表情のまま、長い沈黙の後で「いいえ」と応えた。
「では、忘れたのか」
「はい」
「そうか」
――恨みもせずに、忘れたか。
過去の重さの違いを知ることは、ホン・ロンを傷つけた。ホン・ロンにとって、胡蝶は単純でわかりやすい少女のはずだった。
「なぜ、通達を守らなかった?」
「荷を運ばねば、墨湖の民が飢えます。貧しいもの、弱いものから飢えていきます」
こんなことを言う女ではなかったとホン・ロンは思った。正論を振りかざすような物言いはしなかった、と。
「なぜ、墨湖を従わせたいのですか。もう、沢山の国を従えてきたではないですか。地上の全ての国を従わせなければ、満足できないのですか」
「私になぜかを聞くな」
「あなたは卑怯です」
女の色の薄い目が真っ直ぐホン・ロンを見ていた。
同じ目だ。
ホン・ロンは苛立つ。
卑怯者と呼ぶ側の人間の方が、むしろ幸せなのではないのか。怨嗟を向けられようとも、好きでこの場に立ったわけではない。どのように罵られようと、自分は何一つ、自ら欲したものを力で手にしたことはないのだ。
それでも、卑怯だと。
やり場のない怒りで、目の前がぐらぐらと動いた。
「私にできることは、墨湖の被害を小さくし、尊厳を守って交渉の場に立たせることしかない」
「お情けで守ってもらうようなものは、尊厳ではありません」
責められるほどの罪を自分は犯したか。飲まねばならない毒を飲んできただけではないか。
震えが止まらなくなった。
女の白い喉に手を伸ばした。ペイフュン少将の前でシンを引き倒した時と同じ感覚だ。色の薄い目は大きく見開き、怯えた表情を見せる。
危うさを目にしたとき、その崩れる時を待つ緊張感に耐えられずに、自ら破壊することを選んでしまう人間もいる。ホン・ロンにはそんなところがあった。
力で人を支配するということがどういうことか。どうせ責められる身ならば、手を汚し、他を蹂躙して欲するものを手にすればいい。
女は、力なく形ばかり抵抗した。悲鳴を上げたり、助けを呼んだりはしなかった。そうしたところで、誰かが助けに来ることもなかっただろう。
長い間、大切に思っていたものを、ホン・ロンは自分で踏みにじった。守ってやる必要のない尊厳だったのか、自分に問うことも放棄した。思考を停止して、手に入れたものを見た。
記憶の彼方でどこか美化してきた思いは薄汚れたただの欲に成り下がり、偶像は木偶になった。それでも手の中にあった。
「私になぜかを聞くな。私に何ができる」
ずっと見開いたままだった女の目が、閉じた。
――これで、その目で責められても納得できる。私は正真正銘の卑怯者だ。
胡蝶はその背中を静かに柔らかく抱いた。まるで子供が捨て犬を抱くような、愛も思慮もない、ただの柔らかさだとホン・ロンは思った。
8.
なぜ、御自分を傷つけるのです。
胡蝶は言葉を飲みこむ。今、この仕打ちを受けた自分がそう言っても、さらにホン・ロンを傷つけるだけ。ホン・ロンは、決して自分に見せようとしない大きな暗い虚のようなものを胸に抱えている。埋めることなど、自分には到底出来ない。そんな気がした。
あの時もそうだった。
叶わぬ恋で傷つきたくない。無理やり終わらせるしかないと思っていた恋が、終えられないものだと知ったのは、相手が自分に払った犠牲の大きさに気付いた時だった。
「なぜ、あんなこと、なさったのです」
二度と逢ってはならないと思っていたにも関わらず、直接、顔を見て問わずにはいられなかった。立ち寄りそうな場所に足を運び、小さな寺院の祭礼で稚児行列の絵を描いているホン・ロンを漸くつかまえた。邦の国では比類なき権力を持つ男を父に持つはずのその人は、無心に絵筆を動かしている。まるで、目の前のものを必死に描きとめることで、それ以外を見ないようにしているかのように。そんなホン・ロンに、蛍火は思ったままの言葉をぶつけてしまった。
「何のことだ」
「剣舞です、あの奉納舞です。貴方様は邦のことをよく御存知です。邦の者より、深く御知りです。なぜ態々、人に笑われるように舞われたのですか」
「私が下手くそだっただけのことだ」
軽薄さを装い、自分を悪者に仕立てる。それがこの男の習い性なのだと気付いても、なぜそこまでと思わずにはいられない。
「いいえ、貴方様は」
兄を貶めぬために、泥を被られたのでしょう、それはなぜ。
乱暴な言葉が問いを遮る。
「そなたのためだとでも言わせたいか。自惚れるな」
問うても答えてはくれまい。自分のためだけではないのかもしれない。胸に空いた大きな虚がそうさせるのかもしれない。それでも、蛍火は確信した。もはや恋は終えられまい。自分は一生、「胡蝶」として生きるのだ。傷つくのが嫌でも、再び相見えることがないとしても、これは運命。
男が民の前でわざわざ笑いものになることを選んだのを見た時、それは逃れようのないものだと思った。
国を捨てることになった時も、男は言った。
「私は、そなたを利用した。だから、恨んで、忘れろ。」
いつもそうだ。そうやって、いつも、いつも……
埋められなくても、せめて胸の虚ごと抱きしめることができるなら。
しかし、今、胡蝶は、実際、どう振舞えばいいか分からなかった。異郷での再会はあまりにも突然で、何の心の準備も出来ていなかった。誇りを忘れた慎みのない女と思われてしまえば、軽蔑されるのではないか。恩ある養父や大人に迷惑をかけて平気でいるような厚かましい女とも思われたくない。ただでさえ、ホン・ロンは、以前にも増して大きな虚を抱えているように見え、もはや自分のような女には何の価値も見いだせないのではないかとも思う。
心を乱すのはそれだけではない。ホン・ロンの傍に仕える邦人らしい兵。あの兵は何なのだ。自分の顔を見ても眉一つ動かさない。兄のはずがない。冷淡なほど、自分に全く関心を示さなかったではないか。そう思いながらも心が騒ぐ。
自分の置かれた状況と立場と感情とに折り合いをつけられぬまま、胡蝶は混乱していた。
9.
武人が現地で女を調達するのはよくあることだ。
皆がそれを普通に受け入れ、二・三日も立たぬ間に、胡蝶は妾としてホン・ロンの身の回りの世話を受け持っていた。
シンと胡蝶が互いを兄妹と気付いているのかどうか、ホン・ロンには判断できなかった。他の華国兵や亜城の村人は、二人が似ていても、北夷の民はこんな顔立ちなのかとしか思わないだろう。しかし、邦人を見慣れているホン・ロンにすれば、二人が他人には見えない。二人も互いを意識しないはずはないと思うのだが、どちらも気付いているようなそぶりを見せない。
ホン・ロンは、胡蝶に解ってもらいたいとか、許されたいとか、心を開いてほしいとか、もはや、そういうことは何も期待していなかった。配下の者たちの身柄を押さえられている以上、胡蝶一人逃げ出すわけにはいかないだろう。恨み言をいうこともなく、淡々と過ごしていること自体が、自分への無言の批判のように思える。心の伴わない腕の柔らかさに痛みを感じつつ、それでも執着する。
今まで自分に許さなかったことを踏み越えて、堕ちていく感覚にホン・ロンは襲われた。
人から見たら自分はどう見えるのか。シンは自分をどう思うだろう。どう思われても仕方のないことだ。自分で踏み越えたのだ。そう思いながらも、シンの顔はまともに見られない。見る必要はない。自分はこの隊の将、シンは兵にすぎない。恐れる理由はない。
貴様の妹を犯した。何か問題があるか。
頭の中でそう口汚く弁ずる自分を嫌悪する。
しかし、シンの態度に変わったところはなかった。むしろ、以前より丁寧な応対で、突き放すような物言いが減った。思い切って、
「魁の女の扱いを、どう思う」
と、尋ねると、
「別に」
と言い、珍しくその後に言葉を続けた。
「女の扱いと、墨湖の扱いは、分けて考えた方がよいかと」
ホン・ロンは、胡蝶を使うつもりだった。
胡蝶は、もはや一方的な愛玩物でしかないような気がした。この女に愛されることはなく、利用することでしか繋がることができない。だから、必要なときには利用する。利用するしか、この女を自分のものにしておくことはできない。
ホン・ロンは自分を痛めつけ続けていた。
「女に、墨湖の大人との交渉をさせる」
シンは顔色を伺うように見ている。ホン・ロンも、シンの顔に軽蔑の色が浮かばないかを見ていた。
「私の女だ。問題ない」
シンは特に表情を変えることはなかった。
堕ちていく。
罪悪感と焦燥と孤独。ホン・ロンはもがいていた。
10.
砂嵐だ。
目を閉じていても分かる。体の周りの空気が暴れ、切れるような音を立てる。やがて耳がおかしくなって、わんわんと詰まったような耳鳴りだけになる。
誰かが俺の上衣の胸元を引っ張っている。俺も手放してはいけないかのように、不自然な姿勢のままで何かをつかんでいる。
華奢な女の肩。誰だ。
俺には妹がいたはずだ。いや、こんなところにいるはずはない。どこかで幸せに暮らしているはずだ。そのために棄てた。もう関わってはいけない。
風が静まって、耳鳴りが止む。恐る恐る目を開けると、俺は何もない砂漠に一人で屈みこんでいるだけだった。俺を引っ張っていたものも、俺がつかんでいたものも、そこにはない。感覚は残っているのに、何もない。
これはいつもの夢だ。繰り返し見る、意味のない砂漠の夢。
遭難した自分は砂嵐を怖れているのだ。だから、こんな夢を見る。いや、解せぬ。この夢は決して怖くない。この砂のどこかから何かが俺を呼んでいる。それは漠として思い出せないが、間違いなく自分の失くしたもので、体内の中の何かと引き合うように懐かしい。
いつもの夢と同じように、俺はその何かを探し始める。そして、いつもと同じように砂に埋もれて眠る女を見つけるのだ。女だと分かるのに、何故か顔は見えない。妹や母ではない。もっと生々しい女。見えもしないのに、そう感じる。
この女に恋焦がれたことがあったのか。だから、こんな夢を繰り返し見るのか。俺が失くした何かというのは、女の事なのか。俺は女に惚れたことがあったのだろうか。どうもしっくりこない。第一、惚れた女なら、なぜ、顔が分からない。
砂を払っても、払っても、女の顔は見えない。掻きだした砂は見る間にさらさらと滑り落ちてきて、きりがない。
その時、一つ、異国の名が思い浮かんだような気がした。
「イェ……」
――いけません――
一瞬浮かんだ名は、消えてしまった。甘ったるい花の香りがする。砂で顔を隠したまま、女が泣いている。思い出してやらねばと思うが、花の香に包まれると次第に夢から引き離されてしまう。
香りを振り払い、無理に夢にしがみつく。再び砂を掘り返そうとすると、後ろから誰かが俺の袖を引っ張った。振り返ると、そこには華国人らしい少年が立っている。黄褐色の肌、太い濃い眉、黒々とした強い目。十歳ぐらいだろうか。簡素な装束だが、麻は見るからに上物で、見事な細工の飾り帯をつけている。しかるべき武家の子だ。こんな夷域の砂漠にいるような子供ではない。
「どうした、何だ?」
「助けて。砂が街を呑みこんでしまう」
少年の指差す先には、ぼんやりと都市の城壁らしい灰褐色のものが浮かんでいる。
「心配はいらぬ。蜃気楼だ。惑わされねば、畏れる必要はない」
指差したまま、何か言いたげに、じっとこちらを凝視している。
「父上、母上はどこにおられる。送ってやろう」
少年は蜃気楼に目を向けた。
「帰る場所はない。貴方と同じ」
急に、この少年を知っているような気がしてきた。もしや、この少年が帰れないのは自分の所為ではないのか。妙に不安になり、少年の両肩を掴んで、その強い目の高さまで屈む。
「坊が言うように、砂があの街を呑みこむなら、猶更、あそこに行ってはいけない。それに、人が砂を止めることなどできない。家の者と逸れたなら、とりあえず、俺と一緒に来い」
「嫌だ、あそこへ行く。一緒に来てくれないなら、一人で行く」
駄々をこねるように体を捩って俺の手から逃れると、少年は蜃気楼の方へ歩き出した。ひょこひょこと右足を引きずっている。
「あれは蜃気楼だ。追いつけるものじゃない」
強引に捕まえて、肩に担ぎ上げるが、手足をばたつかせて派手に暴れる。
「おい、いい加減にしろ」
急に肩が軽くなった。砂が舞いあがり、視界が急に悪くなる。
――クスクスクス――クスクスクス―――
誰かが笑っている。子供の声。あの少年か。いや、女の子の声もする。
誰なんだ。誰でもいいから、蜃気楼など追うな。戻ってこい。
――クスクスクス――クスクスクス―――
笑い声と一緒に、甘い香が周囲を満たしていく。全身の感覚が溶けていく中で、意味のない夢に意味を探す。外側から形を失っていく俺は、一瞬、冷たく濡れた柔らかい唇が耳朶に触れるのを感じた。
11.
ホン・ロンは、本国から補充した兵を要所に配置し、墨湖への食糧輸送を止めた。この状態で、何としても話し合いに応じさせねばならない。本国に介入させないためにも、出来る限り目立たぬように水面下で……ホン・ロンは、ペイフュン少将を頼りにして交渉の相手を探ってもらっていたが、少将自身の腰は重い。
「墨湖は、有力商人などから選ばれた代議員の評議会が最高決定権を持つ。王がいるわけではないから、遊砂のような首のすげ替えではすまない。代議員を根こそぎ味方につけねば、事は動かない。まあ、君が頑張るのだな」
少将の言うことはもっともだった。少将は、ホン・ロン程、楽観的ではなかったし、自分に火の粉がかかるようなことは避けたいと思っていた。その一方で、どこかこの若者の行動を後押ししたいという気持ちもあった。あくまでも、自分に不利益にならない範囲でということではあったが。
何はともあれ、少将がこの地域の魁を抑えてくれたことの意味は大きかった。それだけでも感謝せねばなるまい、とホン・ロンは思っていた。
胡蝶を利用することは、思い切りがつかぬまま、先延ばしにしてきたホン・ロンだったが、手持ちの時間が尽きる前に、然るべき相手と交渉を始めねば、意味がなくなる。墨湖を戦火で蹂躙したくない。味方の被害も最小に抑えたい。胡蝶に納得させるしかなかった。
ホン・ロンが自室に戻ると、胡蝶は衣服をたたんで片付けていた。手を止めて立ち上がり、茶の支度を始める。
「茶はいい。こちらへ来て、座れ」
ホン・ロンは長椅子に座り横に招いたが、胡蝶は正面に来て膝を着き、頭を下げた。
「そなたの知っている墨湖の話をしてくれ」
「……商いの国ですが、皆、誇り高く、絵や音楽、詩を好み、街は美しい。対岸の異国とも定期的な交流をし、砂漠に咲く碧の花と称えられています」
陳腐な言葉だと、ホン・ロンは思った。邦も美しい国だった。祭礼には、花のように色とりどりの衣装の舞師が、典雅な音楽に合わせて揺れた。しかし風土や人にどれほど愛着を持とうと、自分は異物でしかなかった。胡蝶が墨湖を思おうと、墨湖の人間になれないのと同じに。
「私が、本国の命に背いて兵を退いたとしよう。どうなるか、わかるか」
「あなたやあなたのご家族が華国に罰されるでしょう」
「そうだな。本国の父母、兄弟姉妹、妻も、無事ではすまない」
「わかっております」
「わかってはいない。私が退き、家族が罰されても、この地には次の将が軍を引き連れてくる。その将が墨湖を落とせなければ、次の将と兵が差し向けられる。私が兵を退いても、少しの時間が稼げるかどうかだけの問題だ。私が退かなければ、墨湖の民に配慮ができるかもしれない」
「そのようなこと」
胡蝶は両手で顔を覆って蹲った。ホン・ロンは強引に左腕をつかんで体を起こさせた。胡蝶は暴力を振るう時のホン・ロンを見るのが嫌だった。自分が苛立たせているのだと感じ、どうしていいのかわからなくなるからだ。眉をしかめ、目を閉じて顔をそむけている。
「私に手をかせ。墨湖のために」
「できません、御恩のある大人を裏切るようなことは」
「そなたが色仕掛けでつかんだ商売相手を、か」
大人との関係を揶揄された胡蝶は声を上げずに暴れた。しかし、つかまれた腕を振りほどくこともできず、ただじたばたしているだけだった。
――なぜ態々侮辱してしまうのか。
ホン・ロンは、非力な女を力で押さえつけている自分に苛立った。
――なぜ、私はこんな言い方をする。
左腕をつかんだまま軽い体を床の上に引きずり倒し、暴れる足の上に腰を下ろし、両腕を完全に床に押し付けた。
「私とともに手を汚せ」
――大切に思うものに憎まれる痛みを、そなたにもくれてやる。
自分の中の醜いものが噴き出す。
――壊してしまえ。何もかも、壊してしまえ。
「それは、本当に墨湖のためになるのですか」
「ああ」
「大人のお命は守っていただけますか」
「約束する」
押さえつけていた体から力が抜けた。手を離し、腰をあげた。見下ろすと、女は離されたままの姿勢で、宙を見ていた。
――なぜ、こんなことを繰り返してしまうのだろう。
感情の箍が外れる。自分が女に暴力をふるうなど、思いもしなかった。なぜ、冷静でいられないのか。望んで女を痛めつけている残酷な自分がいる。これが私なのか。
ホン・ロンは部屋を出た。頭を冷やす必要があった。
――やろうとしていること自体はさほど間違っていないはずだ。冷静さを欠くことが問題だ。あれが私をどう思おうとも、それは大したことではない。そうだ、今更、もう……それは大したことではない。
馬で集落を離れて、石切り場に向かった。目的があったわけではない。地下水路は封鎖しており、兵を配置していた。石切り場の入り口にはシンがいた。腰を下ろし、柔らかい岩肌に小刀で何かを彫っている。
「何をしている」
声をかけるまでホン・ロンに気が付かなかったようだった。
「……暇つぶしを」
見られたくなさそうに、彫っていたものに手で影を作った。手を掴んでどかせると、粗々とした人の顔のようなものがあった。
「何か思い出せるかと思ったが、駄目だった」
「全く何も思い出せないのか?」
「遭難する前のことは何も覚えていない。ただ…」
「ただ?」
「女が砂の中で眠っていた」
「女?」
「だが、顔がわからない。気味が悪いから思い出したいと思うが、出てこない」
シンは小刀で石の顔の真ん中を打った。
「貴様の女か」
「たぶん、違う」
二人は洞窟の入り口の側で腰を下ろし、岩壁に寄りかかって高い空を見ていた。
「自分が誰かわからないというのは、どんな感じだ」
「自分が誰かということに囚われずに済む」
「私は囚われているのか」
「辛ければ、囚われているのだろう」
無関心を装いつつ、シンもホン・ロンを観察している。
「女はどこかに囲っておけばいい。墨湖とは無理に交渉せず、本国から将軍が大軍を率いて来るまで待てばいい。……と、ペイフュン少将は言っていた」
「貴様なら、そうするか」
「……わからん。佐官殿がこだわっていることもわからんではない。ただ、俺には思い出せない女の顔程の意味もない」
――意味がない、か……。
「女に、墨湖の大人と交渉させる」
シンは、珍しく、悲しげな顔をした。
「それは前に聞いた。決めたなら、迷うのはやめたらいい」
「貴様には全てが他人事か」
「自分には何かを変えることはできない。そう思っている。それが、佐官殿と俺の違うところだ」
――私と貴様は、そんなに違うか。
遥か彼方、遮るもののない開けた視界の中を白い鳥が通過する。何か目印になるものがあるのだろうか。ホン・ロンは一瞬、気をとられた。シンもそれを放心したかのように目で追っている。見送った後、我に返ったようにこちらを見た。
「迷われるな。力になれることがあれば、手を貸す」
思いがけない言葉だったが、ホン・ロンには強ち上辺を取り繕ったものとも思えなかった。
12.
ホン・ロンは、副官に知らせることなく、会談の準備を秘密裏に行った。場所は、ホン・ロンが掌握済みの領域で一番内陸に位置する津に設定する。捕えておいた胡蝶の配下の船乗りたちを放ち、大人と連絡を取らせる。胡蝶には文を書かせた。もはや抗うことはなかったが、酷く憔悴して見えた。それでも、物事は動いているとホン・ロンは自分に言い聞かせる。
会談の当日、ホン・ロンは僅かな手勢を連れて、津で待った。胡蝶も伴い、シンを側に置く。約束の時をやや過ぎて、船が下ってきた。武装した男たちが、ぞろぞろと船から降りてきて、その後ろから武具を身に着けていない恰幅のいい老人が現れる。
「大人様っ」
駆け寄ろうとした胡蝶の腕を、シンが無言のままつかんで乱暴に引き戻した。
「イル大人。ご本人のようだな」
ホン・ロンは本人が出てくるかを一番危惧していた。老人は胡蝶を一瞥し、真っ直ぐ威圧するような目をホン・ロンに向けた。
「話があって呼んだのだろう。聞こうではないか。まずは、私の娘を離しなさい」
シンが手を離すと、胡蝶は大人の側へ駆け寄り、足元に伏して許しを乞うた。
「そなたのせいではない。何も関わってはいけない。あちらへ行って耳を塞いでいなさい」
大人は胡蝶を抱き起こし、シンの方へ押しやった。その時、大人はシンの顔を見て、「ああ、君か」と言った。
「この者を御存じか」
大人は感慨深げに大きく頷いた。
「砂漠で死にかけているのを私の隊商が拾い、墨湖へ連れ帰った。服装から華国兵と判ったから亜城に送った。墨湖と華は国交がないが、華の遭難者などは亜城に帰している」
座を指すと、大人は黙ってそちらに向かった。大人の手の者と、華国の兵が一定の距離を置いて向かい合う中で、会談を始まった。
華国を宗主国として藩属してもらわねばならない。従ってくれれば、国は残せるはずだ。従順であれば、攻撃される理由は減らせる。……説得力のないことを言っているという自覚は、ホン・ロンにもある。
大人は目を閉じて聞いていた。そして、「服従するぐらいならば、滅んだ方が良い」と言い、目を開けた。
「そういう考え方も、ある。華国は強い。墨湖を攻め落とすことなど容易いだろう。それでも我々にも誇りはあるのだ。……しかし、私の命運は尽きている。半分死んだような身になってみれば、誇りよりも、より多くの者の命の方が惜しいと思う。皆を説得してみよう」
意外なほど、あっさりと受け入れられたことに拍子抜けしつつ、ホン・ロンは手を差し出す。分厚い手で握り返されても、何か狐につままれたような気がしていた。
「佐官殿は、運命というものを信じるか?少し、不思議な話をしよう」
そういうと大人は語り始めた。
彼是、十五年ほど前のことだ。私は商用で密かに遊砂の都に行った。墨湖と遊砂は断交しているから、滅多に足を踏み入れることはない。しかし、遊砂の装束を身に着けてしまえば、もともとは同族だから、外見から墨湖の民とは気付かれることはない。
墨湖と遊砂の一番の違いは信仰だ。せっかく遊砂の都に来たのだから神殿の見学をしていこうと考えた。我々の神ではないから、拝むためではない。どんな建物で、どんなふうに祀られているのか、といった興味からだった。物珍しさで神殿をうろついていたら、不思議な娘に会った。
白い衣を着た、十にも満たぬ娘だった。美しい容貌だったが、なぜかかわいらしいとは思わなかった。むしろ大人びた表情は不気味ですらあった。娘は私の左手の腕飾りをくれという。磁石を付けた特注品で貴重なものだったから、私は断った。
すると、その娘は、「私に下さったら、一人の命が助かり、その者があなたの大切なものを助けるでしょう」と言った。それでも躊躇していると、「あなたは下さいますよ。それに、これはいずれあなたの手に戻ります」と言う。気持ち悪くなって腕飾りを渡すと、娘は礼を言い、「あなたは大切なものを失うでしょう。しかし、あなたはその代わりを見つけられるでしょう」と言った。
高価なものを寄進したのだから、代わりではなく、大切なものを失わないようにすることはできないのかと尋ねると、できないと言う。そして、この腕飾りが巡り巡って戻ってきたら、その時には命の終わりが近いので心穏やかに過ごすようにと言った。喜捨した人間に対して、あんまりな予言ではないかと思ったが、娘は「全ては環の一部に過ぎず、全ての結果は何らかの原因となります。あなたの命も、私の命も、善きことを生み出すためにあるのです」と言う。訳の分からないまま、頭を下げ、再び頭を上げた時にはもう姿はなかった。
奇妙な出来事だった。それでも十年近く何事もなく時間がたって、忘れていた。娘が子を産み損なって死んで、嘆き悲しんでいる時に胡蝶と出会うまでは、奇妙な予言を思い出すことはなかった。私には、息子は何人もいるが、娘は末子の一人だけで、何物にも代えがたい宝だった。息子たちも、妹を可愛がっていた。
胡蝶の外見は、決して娘とは似ていなかった。しかし、早く一人前の商人となって父親の役に立とうと懸命に振舞っている様が娘を思い出させた。これが、代わりなのだと私はすぐに気付いた。
そして、一昨年、砂漠で拾った男の腕にこれがあったのを見て、私は自分の運命を悟った。
大人は、腕をめくって玉石のついた腕飾りをホン・ロンに見せた。
「胡蝶を娘分としたのも運命、あれが佐官殿を連れてきたのも運命、そして私の腕飾りを着けて砂漠から生還した男がここにいるのも。私はそれを受け入れて、次へ繋げよう。私の尽きる命が、善きことを生み出すように」
大人との会談は、無事終了した。不思議な話は、なんとも言い難かったが、大人がそう信じていることで穏便にことが進んでくれるならば、それでいい。ホン・ロンはそう思った。大人が墨湖の有力者の意見をとりまとめてくれることを期待した。
ホン・ロンが亜城へ戻ると、ティエンが待っていた。この件では、ティエンに話をしていなかったので、露骨に嫌な顔をしていた。「自分を差し置いて、どこの馬の骨ともわからぬ卑しいものを重用されている」とブツブツ言っている。
「貴殿のことは尊重している。シンは歳が近いから、使い走りをさせるのに勝手がいいのだ」
「佐殿は、邦でお育ちだから、北夷の人間が好きなのはわかっております。華人より夷域の人間の方が、心が通じるのでしょう」
ホン・ロンは、内心、この副官を軽んじていた。言わせておけばいいと、気にも留めなかった。無能な人間程、人の足をひっぱることに労力を注ぐものなのだということなど、ホン・ロンには思い及ばぬことであった。
何はともあれ、会談は無事済んだ。ホン・ロンは軽い疲れを感じた。部屋に戻ると、先に部屋に入っていた胡蝶が灯りを点けずに寝台に伏している。
「これで済んだ。もう、何もしなくていい」
珍しく優しい言葉が出た。
「悪かった」
できることでも、やってはならないことがある。勢家の息として、属国に住まいしたからこそ、決して自分に許さなかったこと。それを踏み越えた自分を悔いながら、胡蝶を手放すことができない。
囚われているのは、胡蝶でなく自分なのだ。
言葉で償える筈もない。髪を、背を、撫でた。
随分長くそうしていて、それから、そのままホン・ロンは胡蝶の横で眠った。疲れで押し寄せてくる眠気の中で、ただ柔らかいだけの腕が自分を抱くのをホン・ロンは感じていた。
13.
大人の尽力で、墨湖との交渉が可能になり、正式なやり取りが進められた。墨湖国内の反対勢力がなくなったというわけではないが、彼らにとっての国家とは相互扶助のためのものであって、忠誠を尽くすようなものではなかった。武力でなく交渉で優位に立つことを志向するのは自然なことでもあったから、墨湖側も交渉の場を持つことを望んでいた。誰がそこで主導権を握るかの方がができた連中には重要だった。
何にせよ、ホン・ロンには物事を決められる場ができたことがありがたく思えた。墨湖との交渉内容については本国に報告し、武力での制圧は不要であることを主張し、その上で上級指揮官の指示を仰いだ。
自分の階級では、この地の責任者ということにはならないことは、ホン・ロンも分かっている。本国から派遣されてくるのは将軍相当のはずだ。そうなれば、墨湖の運命はその将に委ねられる。それまでにできる限りの手は打ちたかった。
ホン・ロンは、細心の注意を払っているつもりだった。
しかし、ある日、予告なく華国軍が大挙して出現し、墨湖を包囲した。
まだ猶予はあったはずだった。
今、兵を送り込まれるような手抜かりはなかったはず。兵を率いてきたフォアビン将軍を亜城に迎えると、ホン・ロンはすぐさま面会を求めた。
「貴殿がホン・ロン殿か。今までご苦労だったな」
将軍は熊のような立派な体躯で、豪快な口髭と顎鬚を蓄えていた。
「予定よりも早いお出ましかと存じますが、何か不都合でも」
「うむ、貴殿が夷狄の人間に情を通わせ過ぎで、華国の利益が損なわれている、という声を漏れ聞いたのでな」
「そのようなことはございません」
「まあ、予定より少し早く着いただけのことだ。これからの指揮は私が執る。いろいろと情報を整理したいから、貴殿の副官を借りたい」
「はっ」
ホン・ロンは頭を下げながら、思わぬところで副官に足をすくわれていたことに気付いた。慥かに、あの男は好きではなかった。距離を置きつつも配慮してきたつもりだったが、不満を抱いて本国の将軍に注進していようとは。
ホン・ロンは亜城の留守部隊の責任者に留め置かれた。フォアビン将軍は大軍を誇示して墨湖を包囲し、強引に交渉を終えた。将軍の下で、墨湖は新政府を樹立したのだった。
ホン・ロンは完全に蚊帳の外となった。それでも下交渉があったからこそ、穏便に事がなったとホン・ロンは思いたかった。欲しかったのは手柄ではない。流れる血が少なく済んで、墨湖の民の手に政が残れば、それでいい。
フォアビン将軍は、墨湖内に華国兵を連れて入った。ホン・ロンは、亜城と墨湖を行き来していたが、落ち着くに従って墨湖に住まいすることが多くなった。その役目は、専ら今までの後始末であり、それが終わりしだい任を解かれて華都へ戻ることに決まっていた。
武人としては不遇な扱いだが、やることはやれたとホン・ロンは思っていた。
墨湖との交渉が自分の手から離れたことで、ホン・ロンはようやく胡蝶と向き合う余裕もできた。墨湖や華、邦を話題にする必要もない。胡蝶に案内させて墨湖の街を歩き、昔のように戯画を描いた。それを見て胡蝶は笑った。笑う胡蝶の顔にもう無邪気さはない。笑っていても、昔のままではない。変わって当然なのだが、ホン・ロンには、全てが自分の償うべきことのように思えた。
「もうじき、私は華都に帰る。そなたは連れて行きたい」
胡蝶は何も答えなかった。それでも、こうして時を積み重ねれば、いつかはとホン・ロンは思った。
そんなある日、不穏な動きがあると、ペイフュン少将から曖昧な警告の手紙がホン・ロンの元に届いた。真意を問うべくシンを蕊に送り出した直後、大人一家・使用人とその家族までが連行されたという知らせが入り、事情が呑み込めないまま、急いで将軍のもとに向かう。
将軍が司令部兼住宅として使っているのは接収した豪商の別邸で、街の中央の広場に面して、豪華な作りを存分に示していた。大理石の柱やタイルが艶やかな光を放つ中に、無粋な兵士の姿が幾重にも映り込む。慌ただしく駆け降りる兵とすれ違いながら、将軍の執務室へ向かった。
扉を叩き名乗ると、入室の許可が出た。中に入ると、将軍とその配下の者、そしてかつて自分の副官だった男がいた。
「都に戻る準備が済まれたか」
将軍は、上機嫌で、昼から一杯ひっかけているようだった。目の端に朱を指したように見える。ティエンがにやにやしながら言った。
「いやいや、折角ですから、面白い見世物が済んでから御帰りいただくのが良いかと」
「面白い見世物?それより、なぜ、今、イル大人を捕える理由があるのか、教えていただきたい」
取り巻きが露骨な嘲笑を見せる中、将軍はそれをなだめるように言った。
「理由など、問題ではない。佐官殿はお若い。属国を服従させるにはいくつかやり方があるが、これもありふれたことだ。貴殿の父上も、邦ではさほど変わらないことをされたと聞いているが」
「イル大人は反対派ではなく、我々に対して極めて協力的でした」
「ああ、だが、もっと協力してくれるものもいる。それに、あやつは人望がありすぎる」
「それが理由でしょうか?」
「理由など問題ではない、と言ったであろう。三日後に広場で処刑を行う。ここで、盛大に見物の宴を催し、華国の威を墨湖の民に知らしめる機会とするから、貴殿もそれを見物してから都に帰られるとよい。父上からも舅殿からも、宜しくと文を頂いておる」
教え諭すような言い方が、ホン・ロンには不快だった。
「いずれ貴殿も人の上に立つ身になるのだから、覚えておくのだな。あやつには欲がない。欲がない人間というのは扱いにくいのだ」
愚弄しながらも、ホン・ロンの父と舅殿の手前、言葉を取り繕っている。ホン・ロンは、それが今まで自分が必死にやってきたことの結果なのだと思い知らされた。
ホン・ロンが宿所に戻ると、蕊へ行ったはずのシンが帰ってきていた。途中、少将の使いと出会い、墨湖へ戻るようにいわれたとのことだった。その際にシンが使者から聞き出したことと、将軍の言ったことと併せて考えれば、ホン・ロンにも何が起こっているのか理解できた。将軍は、大人に対立する一派を手なづけて、この機会に旧保守派を一掃するつもりなのだ。同時に、戦いがなかった分、派手に処刑を行うことで、墨湖の民に華国への恐れを植え付けようとしているらしい。
血を流さぬために戦を避けた。なぜゆえ血を流すことに拘る。
あまりに理不尽だとホン・ロンは思うが、全く策が思いつかない。もはや将軍を止めるには、上位の者へ働きかけるしかない。しかし、父のつてを頼るにしても、三日では、文すら届けられない。
ホン・ロンは頭を抱えた。
「もう、術はない。諦めたほうがいい」
シンが珍しく気遣う言葉をかけて寄越すが、ホン・ロンは諦めきれない。
――誰か頼れないか。少将の進言では軽い。遊砂はどうだ。遊砂の幼王を動かせないか。シンを蕊に送り、駄目元で、少将に遊砂王へ働きかけてくれるように頼もう。水路を利用すれば、蕊への行き来は二日。蕊から遊砂へは……駄目だ、やはり間に合わない……
それでも諦めきれず、ホン・ロンはシンを再び蕊に送った。自分の手札がない以上、情けないことだが、他人の見えない切り札をあてにするしかない。シンは「女に気をつけろ」と言い残し、直ぐに立った。
――何かないか。俗世の理で止められないなら、あとは神だ。
この処刑が、墨湖の神の怒りに触れるような忌があるなら、民の暴動を招きかねないとごねる理由にもなる。将軍が知らなくても知れば従わなくてはならないと思うような理由があればよいのだ。ホン・ロンは、早速、墨湖の神官を呼んで話を聞いてみるが、何も理由を見つけられない。それでもこじつけられるような何かないか、探させてみる。……しかし、最早、何かしているということで、自分を慰めているにすぎなかった。
食事をしていなかったことを思い出し、ホン・ロンが自室に戻ると、胡蝶の姿が消えていた。荷物を持ち出した様子はなかったが、部屋はきれいに片づいている。誰も出かけたのを見ていないという。
もう、帰ってくる気はないのだろうとホン・ロンは思った。
――恨み言も別れの言葉もなく、あれは出て行った。
引き出しを開けると、ホン・ロンが買い与えた装身具がきれいに並んでいる。胡蝶が欲しがったのではなく、商人が持ってくるものをホン・ロンが片端から買い求めたのだ。こんなもので機嫌がとれると思ったわけではなかったが……引き出し一杯の愚行を見下ろす。
――大人の命は守ると約束した。その約束を守れない私の側にいる理由はないのだ。
昔の胡蝶は自分に対して特別な感情を抱いていたと思っていたが、それはあの時に終わってしまっていたのだとホン・ロンは思った。
――いつも、そうだ。空回りして、一人で疲れ果てているだけだ。
ホン・ロンは酷い眩暈に襲われた。自分のしようとしたことは何だったのか。胃の腑から何かを引きずり出されるような感覚を覚え、何も口にしていないにも関わらず、嘔吐した。
14.
万策尽きた。ホン・ロンは大人との面会を頼んだが、叶えられなかった。叶えられたとして、今更、何を大人に語りかければよいのか、本人にもわからなかった。
思っていたより早く、シンが帰ってきた。ホン・ロンには、シンが戻ってきてくれたことは心強く思えた。ホン・ロンの顔を見ると、シンはまず首を横に振った。落胆することでもなかった。
少将はあまりこの件には関わりたくないというのが本音であったが、ホン・ロンにも情が移っていたので、大人のことは助けようとせずにやり過ごして早く華都へ帰れという助言をシンに託していた。
「一応、少将は帰り際にこれを持たせてくれた」
シンが取り出したのは、以前に少将の家で見た「砂鬼大明神」の刷り物の束と、それとは別の刷り物数枚だった。
「なぜ、これを?」
別の刷り物の方は、生きているように精緻な肖像画だった。遊砂風の美女が神々しく描かれている。文字も書かれているが、古式な遊砂文字で判読できない。
「一昨年、砂漠で死んだ巫女だ。華国の人間は鬼の大明神と面白おかしく芝居にしたが、遊砂では神宝を華国から守った聖女として崇めるようになった。華国からの独立を望む遊砂の民はこんなものを作って、巫女をもてはやしている。遊砂王も無視できなくなって、神宝と巫女が砂漠に消えた月を聖女の月と定めた。このひと月の間、遊砂では、華国への不服で投獄された者の恩赦が行われ、ありとあらゆる刑の執行が禁じられている」
「今が、遊砂の忌月だということか」
「そうらしい。……そんなことぐらいしか思いつかないと少将は言っていた」
遊砂の忌月。墨湖と遊砂は、もともと同族にしろ、神が違う。遊砂の忌を持ち出しても、説得力に欠ける。しかし、ホン・ロンはこんな無理やりなことまで考えてくれた少将を有難く思った。それは、東夷に詳しい少将にも密かに隠し持っているような手札はないということでもあった。
ホン・ロンは、嘆息した。
二種の刷り物を見比べると、同じ巫女の姿を描いたものとは到底思えない。鬼気迫る恨みの形相の大明神と、静かに慈愛に満ちた微笑を浮かべた聖女。どちらも本当の姿ではないだろう。そうあってほしいと願う人の心の中の姿を描いたに過ぎない。
「遊砂の王は、聖女の月に凄惨な処刑が行われれば、不快に思うだろうな。王が不快であっても、墨湖のことに口を挿むわけにもいくまい。また、将軍がそれを気に留めないとなれば、意味がない」
悪足掻きだ。自問自答するホン・ロンの傍らで、シンも刷り物の女の姿を見ていた。ホン・ロンは、まるで長年自分の片腕だったかのように深刻な顔で絵を見ているシンに気が付いて、不思議な気分になった。
「何かいい案は思いつかないか?」
シンは頭を振って、刷り物を私に渡した。
「いい女だ。だが、策は思いつかない。なるようにしかならない」
こんな時に、シンのような男が、刷り物を見て「いい女」などと言うとは。冗談一つ言わない男だが、それなりに気遣ってくれているのか。
ホン・ロンには不思議だった。シンが自分に寄り添おうとしているように思える。まるで保護者のように。自分も気が付けばそんなシンに頼っている。シン、いや火群が自分を恨んでいないはずはないのだ。本当に全く覚えていないのだろうか。記憶がないふりをして自分に取り入り、密かに復讐の機会を狙っているといったことを想定するべきなのかもしれない。しかし、ホン・ロンにはどうもそうは思えなかった。
いずれにせよ、なるようにしかならない。そう覚悟するしかなかった。
為すすべなく処刑の日を迎えた。それでも、ホン・ロンはぎりぎりまで説得を試みる。将軍やその取り巻きに刷り物を見せながら、今が聖女の月であることなどを説明したが、一笑に付された。少将からもらった刷り物のうち、肖像画風のものは見向きもされなかったが、砂鬼大明神の芝居絵の方は皆の興味を引き、束で持って行った絵があっという間になくなった。
「砂漠の鬼女か」
「これは面白い。国元に送ってやろう」
「土産話になるな」
説得できると思っていたわけではなかったホン・ロンだったが、やりきれない気分になる。
「佐官殿、心配召さるな。遊砂の神が怒り、鬼女が出たら、我らが成敗してやる」
「おうおう、そのために腰の刀があるのだからな」
あからさまに腰抜けと嘲われながら宴の間に入る。広場に向いた大きな出窓があり、将軍以下ぞろぞろとそこへ並ぶ。正面には処刑台が準備されていた。
広場は民衆で埋め尽くされていた。大人はすでに処刑台の上に立たされており、その家族、家の者、使用人などが手足を縛られた状態で、丸く一か所に集められているのが見下ろせた。悪趣味に仰々しい銅鑼が鳴り、それを合図に、将軍が出窓から民衆に手を振った。
大人は堂々としたものだった。儀式めいた作法で華国兵が大人を跪かせ、木の台に首をのせた。
此の地に神が在るというならば、ただ我が罪を赦せ。
ホン・ロンの心の臓は鉄の爪で握りつぶされるような悲鳴を上げる。断頭人が細い刀を振り下ろしたその瞬間、全ての音が地上から消えた。わんわんと頭の中で揺るぎだけが共鳴する。ホン・ロンは、丸いものが桶に転がり落ちるのを見た。
再び、銅鑼や様々な鳴り物が賑々しく雑音を放つ。
「さあ、宴にしよう」
将軍は室内に戻り、着飾った墨湖の女たちが料理や酒を運び始める。後の処刑は酒を飲みながらじっくり見物する、ということらしかった。ホン・ロンは大人の首が台の上に晒されたのを見届けてから、最後に室内に入った。
自分の席につくと、扉が開いて酒器を奉げた女が一人入ってきた。他の女たちよりも仰々しく着飾っており、威儀を整えるための太刀を模した飾りを腰に下げている。それは、墨湖で最も格式ばった正装であり、宴席に侍る女人の装束ではない。女は抱えていた酒器を胸の高さまで降ろし、顔を上げた。それは胡蝶だった。
邦人である胡蝶が墨湖の正装をしているというのは奇妙な光景で、皆が異様なものを感じて、辺りはざわついた。何をしに来たのか。ホン・ロンは連れ出さねばと焦るが、既に人目が集まっている。
「将軍、あれが佐官殿の例の女で……」
ティエンが厭味をこめて、態々周りに聞こえるように将軍に御注進する。
「ふうむ、北夷の女とは血の通わぬ人形のようだな。肌が白すぎる。だが、それもまた一興。佐官殿御執心の女の顔をよく見せてもらおう」
将軍が盃を突き出すと、胡蝶は酒器を再び高く掲げてそのまま前に進み、丁重に頭を下げた。何かをやらかす前に止めねば。ホン・ロンは益々焦るが、止める術がない。その時、胡蝶はごろりと酒器を落とした。拾ってやるふりをして、ホン・ロンが前に出ようとした、その一瞬のことだった。
胡蝶は前に屈み、腰の太刀飾りの鞘に仕込んでいた一尺ほどの直刀を取り出した。前のめりになって低い姿勢のまま、将軍に体当たりする。胡蝶が悲鳴に似た声を上げて刀を引き抜くと、将軍はその場にずるずると崩れ落ちた。
全身に鮮血を浴びた胡蝶は、手を震わせながらも、周囲を睨みつけていた。時折、威嚇するように刃物を振り回すが、武術の嗜みがないのは明らかだった。このままでは斬り捨てられる、取り押さえねばとホン・ロンは身構えるが、なぜか他の将も兵も手を出さずに遠巻きに見ている。不思議なにらみ合いの時間があった。
「砂漠の鬼女だ…」
誰かの呟きが、不自然なぐらい大きく響いた。
ホン・ロンは、皆が手を出さない理由に気付いた。
先ほど土産にと各々が手にした「砂鬼大明神」の刷り物と違わぬ姿の女がそこにいる。ぎらぎらと光る色素の薄い瞳、血の気の感じられない白い肌。血まみれの異形。自分たちの知らない夷域の鬼神の姿に、皆が恐れを抱いたのだ。
周囲を見回すように睨んでいた胡蝶の目が、ホン・ロンに止まった。
――ああ、そうだな。
将軍を手にかけた今、そなたが差し違えてもと思う相手は一人しかいない。
不器用に刀を握り直し、引き裂くような声を上げて向かってくる女の顔を、ホン・ロンは呆然と見ていた。
もし、砂漠で死んだ巫女が鬼になったとすれば、今の胡蝶のような顔をしていたのかもしれない。そう思いながら。
15.
目前に迫る女の顔を見ていた。体がぶつかる衝撃を感じたが、痛みはない。
「……蛍火…」
唸るような低い声がごく身近から聞こえた。
シンが体で女を止めていた。ホン・ロンの体にぶつかっていたのはシンの体だった。兵が長槍で脇から突き、シンと揉みあっていた胡蝶の体が床に崩れ落ちる。シンも膝を着き、血で汚れた顔をこちらに向けた。
「……女は死んだ。祟りがあるぞ。早く遺骸をここから出さねば」
下賤な兵の言葉ではあったが、諸将、誰も異議を唱えない。血まみれのシンは鬼女とよく似ていた。まさに、異形の一類。その言葉は禍々しく、有無をも言わせぬ雰囲気があった。他の将が言葉を発せずにいることを良いことに、ホン・ロンはてきぱきと目の前の怪異の始末を差配した。戸板で女を自分の宿所まで運び出すよう兵に命じ、シンもともに下がらせる。
胡蝶の一突きで将軍は死に、この後の処刑は急遽、中断・延期となった。
勿論、将軍を手にかけた犯人がホン・ロンの女である以上、彼の立場は非常に厳しいものとなったのは間違いないことだった。しかし、それ以上に、皆は目の前に示された「怪異」に動揺していた。状況に対して有効な説明がなされることを期待し、それを東夷をよく知るホン・ロンに求めた。
ホン・ロンは、今回のことで民が遊砂の巫女を連想することのないように、極力、事件の詳細を伏せるように提言した。女の遺骸は、後の障りが無いよう、人目につかないように処分すると請負う。また、遊砂王に巫女の神託を求めるなどの協力を得ることが望ましい……など、都合のいいことを至極もっともらしく語った。
ホン・ロンは、女が大人の娘分であり、監視するために手元に置いていたこと、数日前から行方知れずになっていたことのみ弁明し、自分の処分については次に赴任してくる将の手に委ねると申し述べた。
残った将は皆、得体のしれないものに決断を下すことを恐れ、とりあえず問題を先延ばしすることを選ぶ。誰もホン・ロンの言うことに異議を申し立てることはなかった。
ホン・ロンは慌ただしくその場を収め、宿所に戻った。皆が怪異に目を奪われている間に、冷静さを取り戻す前に、やっておかなくてはならないことがあった。ホン・ロンは自分の配下に、今日もし何かあればシンに従うように指示しておいた。それでも、動揺している様子が見て取れた。
「どうか」
「傷は深いですが、御命にかかわるようなものでは」
ホン・ロンが控えの部屋に入ると、簡易な寝台に横たわっていたシンがうっすらと目を開ける。
「女は無傷だ。自害しないように、拘束した」
「器用なことを」
胡蝶の刀を右手で、兵の槍は右脇腹で受けたらしかった。激しくもみ合うことで周囲の目をごまかし、怖がって誰も側に寄らないのをいいことに、気絶させた女を「死んだ」と運び出させたのだ。自分は深手を負いながら、胡蝶の血で汚れているだけのように振舞い、あの場にいた皆を欺いた。
シンは問いに答え終ると、うつらうつらとし始めた。
その顔を見ながら、ホン・ロンは、邦人である武術の師の言葉を思い出していた。師は、月の武を褒め称えていた。「日を一番近くで守るのが月。身を挺し、我が肉を断っても守り抜くのが月の将の武」と。月の武は、守りの武。鉄壁の防備がその本質なのだと。
出自を捨て、名を捨てても、シンはやはり月将軍の唯一の後継。守りにこそ、その本領を発揮する。あの時、慥かにシンは「蛍火」と呼んだ。でなければ、こんな無茶なことができるはずもない。しかし、シンが守ったのは妹だけではなかった。記憶が戻ったなら、ホン・ロンが何者かも思い出しただろう。王を守るべき武でシンが守ったのは、妹と、敵ともいうべき男。ホン・ロンには、それが解せなかった。
16.
血を流し、痛みを抱えながら、荒れた土地を歩いている。前にもこんなことがあった。意味もなく、歩き続けている。もうここで休んで、終わりを待てばいいのに、何故か歩き続けている。
気が付くといつの間にか礫の目立つ場所から砂漠へと変わっていた。砂漠……益々、歩くだけ無駄ということか。自然と、口から乾いた笑いがこぼれた。やり残したこと、思い残したことがあるわけでもない。望むことなど、とうに諦めていた。それでも、こうやって歩いている。
なだらかな隆起を上りきると、足がもつれて反対側に転げ落ちた。はいつくばって顔を上げると、砂の中に小さな箱のようなものが半分埋もれているのが見えた。
ああ、ここか。
確信を持って、砂を掘った。全てを忘れたわけではない。全てを思い出したわけでもない。だが、彼女がここにいることは分かった。箱は手の中に納めたはずだった。しかし、箱を掘りだしても指は見えない。そこから更に三回、両手で砂を掻きだした。現れたのは手ではなく、石を彫り出したような硬い女の顔だった。深い眼窩に溜まった砂をそっと払う。ずっと思い出せずにいた顔が、そこにあった。
「貴女はこれで良かったのか。俺にはそうは思えん」
頬を手で撫でると、まるで眠りから覚めただけのような穏やかさで女は目を開ける。それは驚くことでも、畏れることでもないように思えた。
夢を見続けているように潤んだ瞳が宙をさまよう。額に残った砂を指で払うと漸くその焦点が定まる。
以前、この目を真っ直ぐに見つめた。陽光の射し込む白い部屋。甘い花の香り。薄い絹の手触り。眠りにつく前の満ち足りた呪文。褐色の肌、黒い髪。美しく頑なな巫女。
「教えてくれないか。これで良かったのか」
「ええ、これで良かった」
「どうしてそう思える」
「私も貴方と同じ。逃げることで精一杯だったのかもしれない。でも、私は貴方を生かせた」
「俺を生かして、何か意味があったか」
終わらせることもできず、意味もなく歩き続けている。逃げ続けているだけの俺を生かして、意味があったか。俺の命にそれだけの価値はあるか。
「あなたも生かそうとしているでしょう」
「俺が?」
「助ける筋合いのない人。でも、貴方はそうしたかった。戦功や政事で世を変えるような大人物でもない。貴方もわかっている。でも、生かしたいと思ったのでしょう。そうやって、人はつながっていく……ほんの少しずつ……血を流して何かを無理に変えても、世に合わないものは、また元に戻ってしまう。命を超えて、長い時を辛抱強く待つしかない。誰かを生かすことだけが未来につながる。私は貴方を生かせた。だから、こんな私の命でも無駄じゃなかったと思えるもの」
女は幸せそうに笑っていた。
17.
胡蝶は、奥の部屋で、手足を縛られ猿轡をかまされて床に転がされていた。大人以外の処刑が延期となったことを告げられても、全く反応しない。視線一つ動かさず、起こしてもされるままになっている。
ホン・ロンは、そんな胡蝶を見下ろしていた。
大それたことなど何も考えない、平凡な娘だった。実父が死んでも養父に愛され、イル大人にも可愛がられた。穏やかに、幸せに生きていくことができるはずだった。
自分が追いつめた。自分が壊した。
悔やもうとも、もはや何かで償えるということはないのだと、ホン・ロンは思った。
恐怖からその場の雰囲気に流された将たちも、いずれは冷静になる。冷静になれば、ホン・ロンやシンの小芝居に疑問を持つだろう。隠し果せるはずもない。今のうちに、胡蝶を養父の元へ逃がすしかない。この地から遠ざければ、魁が彼らを守ってくれるだろう。
ホン・ロンは胡蝶の色の薄い細い髪をつかみ、腰刀で切り落とした。着こんでいた装束を脱がせ、下着だけにして、顔や手足、首に鍋墨を塗りたくる。この地では目立ちすぎるその白い肌を少しでも隠すために、何度も重ねて塗りたくった。自分で体を動かさない女の着替えは厄介だったが、誰にも手伝わせなかった。
上着で体を包み、腕を持ち上げ、袖を通し、紐を結ぶ。筒袖の長袖と細袴を着けさせて、手甲と脚絆を巻いた。少しでも隠れるように、少しでも動きやすいように。祈るように胡蝶の支度を調えた。
「兄上は……一緒に逃がしてやりたいが、あの傷ではまだ馬に乗せられない。それに、二人一緒では目立ちすぎる。後で、必ず、兄上も逃がしてやるから、今は気をしっかり持って一人で烏鵲殿のところに帰るのだぞ」
胡蝶を空の酒樽に押し込み、中身の入っている酒樽と一緒に、荷台だけの馬車に乗せた。正式な届けを出したうえで暗くなってから墨湖を発ち、亜城を目指す。ホン・ロンは亜城の留守部隊の責任者だったから、届出さえしていれば、さほど不審な行動ではないはずだった。亜城へ着くと石切り場に向かい、そこで馬から樽を下ろした。足が萎えたように立とうとしない胡蝶を肩へ担ぎ上げて、船着き場を目指す。
繋がれていた小舟に胡蝶を座らせ、猿轡と手足の縄を外す。舟には、華国軍の過所船札を下げ、懐に魁星あての書面を挟む。
「このまま水路を下って河口まで行け。魁に保護を頼んである。少しでも、ここから遠く離れてくれ。顔はできるだけ人前に晒すな。言葉はわからないふりをしろ。頼むから……」
生き延びてくれ、と、先の見えない真っ暗な水路に放つ女に向かって言えなかった。
「いつかどこかで、もう一度逢おう」
胡蝶は、最早、何も反応を示さない。壊れた人形のように、そこにあるだけだった。これ以上、壊さないように、ホン・ロンはそっと舟を水面に押し出した。舟は滑るように抵抗なく流れに乗り、やがて、ゆっくりと墨のような闇に吸い込まれていった。
地上のどこかでなくとも、いつか分かり合えるところで、もう一度逢おう。憎んでも恨んでも構わないから、もう一度巡り逢おう。光のない闇でも、その時をただ待つ。ホン・ロンは、残りの時間を静かに計り始めた。
18.
胡蝶を送った後、私は亜城で幾つかの用事を済ませた。自由がきく間に少しでも後始末をせねばならない。淡々と手を動かす。
再度、蕊の少将に協力を求めた書簡を送り、今度は遊砂の人間との橋渡しを頼んだ。
それから、邦にいる父に宛てて、文を認めた。自分は華国の将として恥じることは何もしていないということと、妻を不名誉でない形で離縁してほしいということを伝えた。父は、きっと、共感はしてくれないだろうが、理解はしてくれるだろう。ずっと反発し続けた息子のことだから、諦めもついているかもしれない。私は心のどこかで父を信頼し、頼りにしていた。父が邦に赴任しなければ、良い息子でいられたのかもしれない。言い訳をしても始まらぬ。永の別れを認めた文で、最初で最後、不孝な我が身を素直に詫びる。
墨湖に帰り着いたときは、再び日が暮れていた。さすがに疲れを感じたが、街の中が割に平穏なことに安堵した。ことはまだ何も動いていない。宿所に戻り、自室で不在中の報告を受けてから、シンの休む部屋に向かった。
寝台に横たわるシンは、子供のように幸せそうな寝顔を見せている。無表情なことが多いだけに、こんな顔もするのかと思った。こんな時にこんな顔をして寝ている男と、それを見て面白がっている自分とがいた。案外、人は図太くできている。
昔、この男の剣舞を見たとき、張りつめた緊張感と威圧感に圧倒された。遭難した兵として現れた時は、一切を背負うのを止めたように見えた。忘れた、と全てを他人事のように言える立場が羨ましかった。私が将軍の息子としてぬくぬくと暮らしている間、火群は屈辱的な扱いを受けていたはすだ。それでも、羨ましいと思った。勝手なものだ。
もし貴様が私だったら、どう生きたか。問うてみたいという気もしたが、語る人間でもなかろう。もっと、貴様とは話をしたかった。恨み言の一つも、その口から聞きたかった。
「戻って来なければ、良かったものを」
目を開けるより先に、シンは呟いた。
「気が付いたか。具合はどうだ」
「問題ない」
「横になっていろ。落ち着いたら、蕊へ逃がしてやる」
シンはいやいやというように手を振って、上半身を起こした。
「女と一緒に逃げたかと思った」
「ああ、そうだな」
まるでシンの口ぶりはそれを望んでいたのかのようだ。それでは、シン一人を見殺しにするということになるのだが。
「もう、逃げ出すのは難しいぞ」
「ああ」
寝台の横に椅子を引っ張りよせて腰を下ろす。
「シン、都にいる私の妻は、今年十三になる。母親が代筆したような文が時折来る。私が上官殺しに関わって、そのまま行方をくらましたのでは、不憫だろう」
大人の関係者の処刑も、延期になっただけで取りやめになったわけではない。まだ逃げ出すわけにはいかない。ここで私は自分が負わねばならぬものを負う。それが私の最後の戦となろう。たとえ何一つ良い方に変えられないとしても、最後まで義を通したい。
「そうか」
シンはいつになく穏やかな表情を見せている。私のしたことは許されることではないのに、不思議とシンからは憎悪を感じない。
「いい夢でも見たか? 寝ながら、にやけていたぞ」
「にやけて? まさか」
「うれしそうだった」
シンは口元だけで笑みを作る。
「砂で眠る女の夢を見た」
前もそんなことを言っていた。やはり、馴染みになった忘れられない女がいるのだろう。
「女の顔はわかったのか」
「見ようとしても、いつも顔に砂を被っていてわからなかった」
「何だ、わからずじまいか」
「さっき、初めて顔を見た。……笑っていた」
「笑っていた?」
「幸せそうに笑っていた。なぜか、泣いているではないかと思っていた。しかし、笑っていた」
「それだけか」
「ああ……」
シンはねじって体を起こそうとし、苦痛で顔を歪める。視線の先には水注があった。碗に水を汲んで口元に寄せてやる。
「女が笑って砂漠で待っている。だから、蕊にはいかない。俺もここに残る」
何を言い出したものか。シンは知らぬ顔で水をすすっている。
「貴様が胡蝶を庇ったのは諸将が見ている。今、逃げ出さねば、逃げられんぞ」
「それは、俺がさっき言った」
シンが笑った。見たことのない明るい笑顔。まるで悪戯っ子のような笑顔だ。なぜ今そんな顔をするのか。
「女は笑っていた。怒っても、悲しんでもいなかった。だから、それでいい」
独り言のように呟く言葉の意味は分かりかねる。
「残る理由は、女なのか?」
「そうだ」
「……無茶苦茶だな」
無茶苦茶だが、そんな理由も悪くない。そんな気がした。
シンはどうやら、最後まで私につき合ってくれるつもりらしい。何かを成し遂げることなどはできなかった。女一人、幸せにできなかった。それでも、孤独ではない。それだけで、惨めではなかった。
女が待っている……そう思えば、もう少し頑張れるかもしれない。胡蝶は私を許す時が来るのだろうか。
砂の海にさざめく光は、何もかもを飲みこんでいくだろう。
聖女の月はもう満ちる。




