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  作者: 西洋
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前編 砂紋

環 前編 砂紋


1.


 砂の神殿で、幼い巫女は夢を見た。


 固く張りつめた肉にきめの細かい褐色の皮膚。乙女の腹の上に銀の鱗を立てた蛇が載っている。男の腕程の太さの蛇はとぐろを解いて、太腿の間に分け入っていく。乙女の顔には紗の布が幾重にも被せられて、その表情をうかがい知ることはできない。蛇が這う動きに合わせるように胴が波打ち、大きく反り返った。膝から下が強ばって痙攣を起こしたように震え、足の指がぎゅっと縮まる。腿の間から延びる蛇の太い胴は下肢に絡みつき、小刻みに伸縮を繰り返す。乙女の全身からは玉のような汗が吹き出していた。蛇が動くたびに白濁した液が寝台の上に滴り落ちる。

「あ……あ、ああ……」

 蛇は、にゅるり、と乙女の陰門から這い出て、寝台の横に滑り降りた。鎌首を持ち上げるように背伸びをし、美麗な若い男に変わる。古風な装束を纏い、布で覆った頭は連ねた玉石で飾られている。男は乙女の顔を覆っていた布を取り払い、再びその上に覆いかぶさった。その眼窩を細い舌で、ぴちゃぴちゃ、音をたてて舐め、口を吸っている。


 見てはいけないものを見た。


 七歳のイェリズはそう思った。何事が起こっているのか判らぬまま、見てしまったものを怖れた。目を覚まさねばと焦るのに、目が覚めるどころか夢の中に色も形も持った自分が入り込んでいく。こんなに近くにいたら、夢の二人に自分の存在が気づかれてしまうのではないか。 覗き見ていることが知られてしまったら……益々焦って、爪で腿を抓ったり、自分の腕を抱きしめたりしてみるが、何の痛みも感じない。


 その時、男は乙女から口を離して言った。

「我は、この都の地下に流れる川の主。太源神のお許しを得て、そなたを娶った。そなたの孕む子は、太源神への贄となるであろう。その子の名はイェリズ」

 男は振り返ると、ずっとそこにイェリズがいるのを知っていたかのように、その顔を見た。

「我が子よ。そなたの肉と血は、この父が太源神に奉じる」

 イェリズが思わず後退ると、男の腕の中にいた乙女が顔を見せた。イェリズの腿の内を生温いものが伝い、流れ落ちて行った。


 イェリズは母を知らない。母デニズも神殿の巫女であった。先王の妹にあたり、王によって太源神に奉じられた。

 砂漠の民である遊砂族は小さな部族ごとに集住しているが、都の神殿に祀る太源神への信仰で一つに結ばれていた。部族長・家長が強い権限をもつ民であり、各部族長が一族の娘を巫女として神殿に奉じる。その頂点に位していたのが王の一族の巫女、すなわちイェリズの母だった。

 しかし、そのような身でありながらデニズは父の知れぬ子を孕んでしまった。当然の如く、母娘ともども聖俗双方の則より見捨てられた。それでも、獄中で産死した母はさほどの屈辱を味わうことはなかったであろう。

 イェリズは望まれぬ子であった。王家の血を引くがゆえに捨てるわけにもいかぬ。一応は神殿の巫女として育てられることになった。巫女はみな血筋の良い娘ばかりであったが、イェリズはだけは蔑まれ、冷たく扱われた。


 十になったばかりのころ、イェリズは深夜になって高位の老神官の私室に呼び出された。部屋は数本の蝋燭が灯るだけで薄暗く、酒の匂いがした。老神官はイェリズに酒を勧め、健やかに過ごしているか、日々の務めに励んでいるかと、いつになく白々しい言葉をかけた。ぎごちない会話がひと段落すると、老神官は人払いをした。下仕えの者たちが退室し老神官と二人だけになった時、イェリズは自分の身に何が起ころうとしているのかを解した。神官はイェリズを敷物の上に押し倒して衣を剥ぎとり、幼い体の上にのしかかった。

 イェリズは抵抗することもなく、ただ自分に近づいてくる醜い皺だらけの顔の中の目を真っ直ぐ見ていた。老人の瞳の中に映る自分の顔は怯えていない。それだけでいいと思った。急に老人の目は光を失い、濁ったように感じられたかと思うと、イェリズの首の横に顔面から突っ込んで倒れた。偶然にも、老人の寿命は事を為す前に終わったのだ。

 イェリズは運命に抗うことにも、人に報復するということにも、全く関心を持たぬ少女だった。しかし、その時は生まれて初めてささやかな復讐を試みることにした。

 息をしていない老人の皺だらけの手に自分の衣を握らせ、何一つ身につけぬままで廊下に飛び出した。大変でございます、神官様が急にお倒れに……ああ、どなたか……全裸の巫女は、その棟に住まう神官たち皆に聞こえるように、息をしていない神官の手当てを求めて喚き続けた。

 こうして老神官の不名誉な最期は、神殿中の公然の秘密となった。あのお方は着衣のままだった、やり損ねてお亡くなりになったのだよ、御気の毒に。神官たちは身分の高い巫女に手を出さないだけで、神殿の自室に遊び女を招き入れるものも少なくはない有様であったから、暴露されねば不名誉でもなんでもないことだった。神官たちは老神官の不行状よりも、殊更に騒ぎ立てた無知な小娘に腹を立てた。

 実際のところ、その時まで、イェリズの同様の欲望を抱いていた神官は少なくはなかった。王家の血を引くとはいえ、お情けで神殿に置かれているような巫女である。遊び女とさほど違いはなかったのだ。高貴な女は月のものが始まれば顔を覆うようになる。神官たちは、いつイェリズが女になるか、誰が一番に手を着けるか……興味本位で見ていた。実のところ、巫女の密通を咎める資格のある神官など、殆どいなかったのだ。

 しかし、老神官の死を機に男たちの態度は一変した。誰一人、イェリズを自分のものにと考えることはなくなった。一人の偉大な神官の死を貶めた巫女。小娘に神官の神聖さを侵されたのだ。事あるごとにイェリズは広間に引きずり出され、執拗に暴力的に罵倒された。指一本触れることなく、神に代わって<不吉>で<汚らわしい女>を言葉で痛めつけることで男たちは奇妙な快楽を共有し、一体感を持った。イェリズは神官たちの連帯感を高揚させる生贄となり、そのかわりに「肉体の純潔」を保ちえたのだった。

 しかし、イェリズは己の「肉体の純潔」の意味が良くわからなかった。

 肉も血も、全てが太源神に奉じられているならば、私の肉などどこにもないではないか。神のものにしろ、人に下げ渡されるにしろ、私が関わることではない……ならば、私は何なのだろうか。

イェリズにとって、肉は纏わされた外皮のようなものでしかなかった。肉が外皮でしかないならば、その中は……イェリズは自分の内を覗き込んだが、そこには大きな(うろ)があっただけだった。 身体の成長よりも早く大きくなっていく虚に不安を感じ、イェリズは手あたりしだいの知識を放り込んでいく。学ぶという行為は、自分がここに在ることを肯定してくれる細やかな自傷でもあった。


 外皮と虚の間の痛みで地上に繋がれたまま、イェリズは夢の中を浮遊する。


2.


 草が戦ぐ。風が夜の匂いを運んでくる。


 野営のための幕を張り終えて、火群は顔を上げた。既に辺りには闇が沈殿している。立ち上がり、他の兵たちが食事の支度や馬の世話など慌ただしく動き回っているのを見渡す。


 華国が東夷と呼ぶ地域は遊牧の民の地。大方は国らしい国を持たぬまま部族ごとに暮らしている。華国はこの地域を征ぐことを望み、フォアビン将軍の下、多くの将を各地に送った。火群は、そんな将の一人クォシャン大将の軍に配された歩兵である。しかし、火群自身は華人ではない。北方の属国である邦から徴用された兵だ。

 背を伸ばして顔を上げたその姿は夜目にも、際立っていた。何よりもまず、僅かな光をかき集めるように肌の色が白い。他の兵たち同様、筒袖の短い上着、細身の袴に脚絆という身なりだが、髪、瞳の色が薄く淡い灰色がかかっていて、彫の深い顔立ちは端正だ。黄褐色の肌に黒い髪、黒い瞳を持つ華人とは明らかに異なる。髪は、髷も結わずに短く無造作に切り、顔にかからないように耳に掛けている。粗末ななりだが、すらりと上背がある体躯には優雅すら感じさせる。とにかく美しい男だ。しかし、暗い目をしていた。美しさを台無しにするほど、陰気だ。まだ三十には届かないが、分別臭く冷めた表情が年寄りじみた印象を与える。

 幕を張り終えると、火群は命じられるままに水を汲みに行った。野営地のさほど遠からぬ所で細い流れがちょろちょろと頼りない音を立てている。湿った気が心地良く感じられる。このあたりは雨の乏しい地で、道中は草原か礫の転がる砂漠が続いた。乾いた肌が息を始める。

 二つの桶を水で満たすと、天秤棒に掛けて担ぎ上げた。たぷんと跳ねた水が光る。見上げると、いつの間にか穹天を透き通すが如き丸い月が出ている。

 遥か彼方まで途切れることなく続く空ならば、人は同じ月を見るのだろう。此の地でも、彼の地でも……望郷と呼ぶには殺伐しすぎる思いを抱いて、月明りに顔を向ける。

 野営地に帰り着いた火群は、天秤から外した桶を両手で抱きかかえて、大将のもとへ運んだ。大きな幕が広く四方を囲って視界を遮っている。火群は警固の兵に刀を預けてから、幕の中に入った。二重に張られた幕の奥、大将は下帯姿で大きな盥に座している。大将は三十過ぎの剛健な男で、若い従官がその筋骨逞しい背を流していた。

 火群は幕の中で湯気を盛んに上げている釜に水を注ぐと、一礼して幕の外へ退いた。出入り口の近くに、大将と従官の刀が揃えて置かれているのが見える。天幕の布と薪とをそれぞれに抱えた二人の兵が、火群と入れ違いに幕の中に入って行った。顔は鍋墨を塗りつけたように汚れ、目だけをぎらつかせている。

 一体、何故に斯くも汚れたものか。

 奇異に思いつつ、すれ違う刹那、薪を持つ男の懐に鈍く光るものを火群は見た。渦巻を象った異形の……そう見えた。華国の兵のものではない。夷域の将の刀だ。

「おい、待て」

 思わず幕の中に取って返すと、薪の男が従官の口を塞いで、その胸に夷の刀を突き立てていた。もう一人の賊は大将の刀を手にしている。渦巻刀の男は従官を転がし放つと、火群に向かって来た。咄嗟に身をして賊の背後に回りこんで右肩甲の裏を拳打した。そのまま大将に刀を振り翳すもう一人の賊の懐に潜り、その手首を持ち上げるように両手で掴む。

 火群は、徒手の一歩兵である。そのまま幕の外へ飛び出して、賊の襲来を外の警護兵に伝えればよかったのだ。別に大将がどうなろうと、火群には関係なかった。しかし、幼い頃に叩き込まれた護衛術のままに体が動き、賊と大将の間に自ら割って入ってしまった。この男にすれば、大きな声をだす方が煩わしかっただけなのかもしれない。

 とにかくそのまま捻じ伏せんと力を込めたとき、熱いものがぐっと火群の腹に食い込んだ。先の拳で動きを封じたつもりだった賊が、渦巻の直刀で火群の右脇腹を突いている。

 歩兵たちは腹当て鎧を支給されていたが、野営地では警備以外の雑用をする者は外していた。火群も腹当てを着けていなかったが、右脇に脇楯かわりの漆皮を宛てたままでいた。刃はその皮を貫いたものの途中で引掛り、深く貫くことも、抜き取って再び斬りかかることもできない。文字通り、抜き差しならぬ状態であった。肉を抉られる激痛を感じながら、火群は握った賊の手だけは離さなかった。忠誠心からではない。今、この手を放せば、大将ではなく我が首に刀が振り下ろされる。腹の刃が止まっている間に、掴んでいる方の賊を抑え込まねばならない。いつ死んでも構わないと思っていたはずが、額に脂汗を浮かせて、満身の力を両の手に込めている。腹圧が食い込んだ刃を押し返すように感じられた。

 しかしそれも寸刻。盥を脱した大将は、従官の刀を手にすると、二人の賊を背後から斬り棄てた。

 大将は従官の死を確認してから、屈みこむ火群の傍らにやってきた。労わるようにその背に手を添えて横たわらせる。

「助かった。貴様、名は何と申す」

「邦の国、月の将軍嘉袁の子、火群」

 大将が腹の刃を引き抜くと、その痛みで火群は気を失った。


3.


 蒼い香り。

 イェリズは、長椅子から体を起こし露台に出た。澄み切った空に浮かぶ月が割れている。欠片の一つに手を伸ばすと、ざらついた感触が掌に当たった。

 繰り返し降る夢をイェリズは組み合わせる。

 手に力を入れると、欠片は粉々になり、指の間からこぼれ落ちる。


 夢はいつもそう。夢はいつも。


 淡く儚く、それでいて無関係ではなく、つながっていることだけが理由になる。その曖昧さに不安になりつつ、それが人の世なのだろうとイェリズは思う。


 朝、礼拝の後、小参拝室の掃除をし、法具で荘厳する。日々、繰り返してきた勤めも、どこか愛おしく思えた。楽しいこと、嬉しいこと……何一つ、いい思い出などなかった。それでも、ここでの生活に愛着を持っていた。イェリズは初めてそのことに気付いた。

「……さま…」

 気を取られていたイェリズは、人の気配を感じとれず、びくり、とする。一人の老神官が入り口近くに立っていた。

「イェリズさま、御精が出ますな」

 イェリズは、このケマルという老人が嫌いではなかった。身分は低いが、品があり、何よりも他の神官たちと距離を置いていることが好ましく思えた。

「御老人、何かありましたか」

 水を向けても、言い悪げにしている。天気の話から始まって、当たり障りのないことを話し、話題が無くなると押し黙った。

「祈祷をしなくてはいけないのでしょう。私は巫女ですから、それが務めです」

 老人は眉をひそめて、首を横に振った。

「皆さま、御断りになられたのです。……いつも、私があなた様にお願いするのはそういう時ばかりですが。でも、今回はいつもと違います。相手は、異人で、我々の神を信じてもいません。しかし、華国の将からの依頼で……断ることもできません」

「わたしは、構いませんよ」

「良いのですか」

「ええ、時が決まれば教えてください」

 複雑な表情の老人を横目に、イェリズは銀の鉢の曇りを布で拭っていた。漠としたものが形になっていく。背を這うような不安と、両腹の下に蟠る冷たい塊を抱えて、平静を装う指が微かに震えた。


 あとは押し流されるしかない。夢が終わる。しかし、私がここに在った意味は何だったのだろう。そう思いながら、つかんだ月の破片に手触りがあったように、イェリズは今ここに在るのだった。

 

 その夜、イェリズは最後の夢を見た。手の中にあったはずの欠片は、みるみる白い小さな鳥になって羽ばたいた。

「あ…」

 目で追うと、鳥は月へ向かった。鳥が月に溶けると、欠けていない月の端から砂粒が滑り落ち始める。


 不安と隣り合わせの夢は脳を溶かしていく。天空の砂で残りの時を量りながら、イェリズは甘美な終わりを夢見ていた。


4.


 火群が目を醒ましたのは硬い寝台の上だった。体が思いのままに動かないと気付いてから、漸く助かったことを解する。大将に名を問われた時は、よもや助かるまいと思った。軽輩の身故、遠征の途上での手当など期待しなかった。

 賊の刀など、見過ごせば良かったのだ。邦王のための護衛術で、俺は一体何を守ったものやら。自嘲気味に独り言ちる。

 火群は、北方の小国邦の武人の家に生まれた。邦が華国に屈したのは十三の時。父将軍は斬首された。母や妹が今どうしているかは知らない。囚われて暫く邦都の衛士として使役され、その後、華国軍に徴された。

 恨みや憎しみの心が無かったと云えば、嘘になる。しかし、火群はなぜか執着とは無縁な人間であった。憎むことにすら拘りかねた。いつしか、何かが欠け落ちた。痛みは在るが、欠け落ちて失われたものが何なのかを知る術もない。全てが致し方ないことだった。

 痛みを確かめるように、体の端端まで気を巡らせ、周囲を見渡す。白い土壁の小部屋。杲杲と陽光が満ちている。薫物であろうか、甘い香気が空を漂う。

 人が部屋に入って来る気配がしたが、火群は体を動かせない。

「気が付かれた様にございますよ」

 しわがれた声がして、老人がにゅっと顔を出す。白く粗末な髭が痩せた頬から顎を申し訳程度に覆っていた。彫の深い顔立ちで、僧帽のようなものを頭に載せ、ゆったりした長い上着とズボンを身に着けている。火群は、傷を負った場所が華国に与する遊砂族の都に近かったことを思い出した。

 老人は丁寧な華国語で話し掛けてくる。

「ここは遊砂族の神殿でございます。時折、華国の負傷兵をお引受け致しており……あなた様は酷いお怪我でございました」

 果たして、遊砂族に預けられたのだ。

「大将様のお命をお助けになられたとか。丁重にお世話をする様に申し付かっております。遊砂では、傷の平癒を巫女が祈るのが常でございまして……」

 大将を庇うつもりはなかった。しかし、それ故に厚遇を受けることとなったのだ。老人は目で後ろを示した。其処には頭からすっぽりと白布を被り、目ばかりを露わにした小柄な人物が立っている。

「神殿の巫女でございます。大将様からのお心遣いにて……」

 老人は退き、代わりに巫女が近寄ってきた。両手を翳して歌うように唱え始める。

 若い声。口元を覆っているにも関わらず、まじないの詞は朗々と天井に舞上った。巫女の手首まで隠す袖の内より、甘い香が波立つように吐き出される。知らない花の香。嗅いだ覚えのない香で、火群は遠い日々を思い出す。

 父の軍装の革の手触りや、母の裳裾が床を滑る音、食んだ菓子でべたついた幼い妹の丸い頬。

 蘇ろうとも薄絹を被せたようにどこか他人事だった。甘くもどかしく苦しい。それ以上思い出したいとも思わず、身動きもできないまま居心地の悪さに耐えた。

 呪文が漸く終わる。巫女は翳していた手を患者に向けて動かした。不意に手が迫ったことに驚いた火群は、思わずそれを払い除けた。動けないと思っていたために、必要以上の力が入ってしまった。巫女の長い袖が絡み、装束の彼方此方が引っ張られて鼻から下を覆っていた布がずり落ちる。

 花の顔とでも云うべきか。

 火群は珍しく女の顔に気を取られた。褐色がかる頬は硬質な外郭をなぞり、小さな頤に引き纏められている。濃く長い睫毛に縁どられた大きな瞳は濡れたように黒々と光り、小さな唇はぽってりと柔らかい丸みを帯びていて、妙に生々しい。

 巫女は動じることなく乱れた装束を正すと、何事もなかったかのように再び手を差し伸ばして男の両頬に触れ、真っ直ぐにその目を凝視した。挑むような強い眼差しに、火群も思わず睨み返したが、巫女は目を逸らさない。

「神の御加護を」

 静かで力強い声。呪文はともかく、これは確かかに効きそうだ。悪くない。火群はそう思った。細い指が何度か頬を撫でると、触覚は徐々に輪郭をなくしていく。痛みと疲れと、理由のない安堵。そして、自分とは無縁の異郷の麗人。眠るには丁度良い具合だった。

 

5.

 

 イェリズは、その短い生涯に白い雄獅子の夢を何度も見た。

 獅子はイェリズに全く気付かないようだったが、イェリズは宙に浮いて見下ろしていたり、傍にいて頭を撫でていたりする。いつもそのうちに巫女と獅子は溶け合って、境目がなくなってしまうのだ。

 それは虚のせいだとイェリズは思った。

 その若い獅子の体内にも、イェリズと同じような大きな虚があった。イェリズが衣の前を開き、自分と獅子の虚を合わせるようにして添い伏すと、一つの宙になる。そこには不思議な調和と心地良い均衡があった。その中を漂いながら、夢の中で夢を見るのだった。


 灌木の下、物憂げに体を丸めて蹲っている獅子をイェリズは抱いていた。鬣も生えそろわぬまだ若い獅子だが、牙からも爪からも血を流している。頭を撫でてやっても、ぐったりと目を閉じたままだ。何度も何度も頭を撫でているうちに、イェリズはそのまま獅子になった。

 

 父獅子の声がする。

「背に王を負うのがさだめ。我らが身は王と国を守るためにある。誰よりも強うなれ」

 若い王は異国から取り寄せた毒の酒を飲み、父の背に跨ったまま、太刀を振り下ろす。父獅子の首はごろりと地に落ちた。

 毒の所為か、乱心か。どちらにせよ、もはや王は獅子を必要としない。

 若い獅子は茨に覆われた塔に押し籠められた。毎夜毎夜、王に酒を注いだ臣の娘が餌付けに来る。

「日々の糧を差し上げましょう。わが肉を差し上げましょう。王に、我が父に忠誠を。さすれば、私の産むあなたの御子は月の将軍の名を授けられることでしょう」

 白い顔の娘は衣を開き、肉づきの良い胸を露わにして、褥に潜りこんでくる。追い払っても、追い払っても、知らぬ間にそこにいる。腹が減らぬわけではない。しかし、父の無念を思い、そのようなものは断じて食まぬと歯を食いしばった。

 王のため、国のため、忠を尽くした父は、なぜ王に斬られねばならなかったのか。父が信じたものを信じ、日々励んできた自分は何だったのか。誰を守り、誰に向けるべき牙、爪だったのか。盲信してきたものがとるに足らぬものだと認めれば、父が哀れに思える。いや、それ以上に自分が惨めだ。死んでも、食まぬ。我は月の将軍の子。誇り高い獅子の子なのだ。

 耐え続けた。しかし、三千日目の夜、耐えきれなくなって、目の前に長々と伸びた娘の白い喉を食いちぎった。

 血溜まりに膝を着き、腹から温かい腸を引っ張り出して、無我夢中で貪る。娘の腰に手をつくと、股の間から何か桃色のぬめりとしたものが滑り出た。指先ほどの大きさで、目ばかりが大きい、魚のような肉塊である。か細い声が震えた。

――父よ――

 我が子のはずがない。娘と交わったことなど一度もないのだ。その小さな魚類を踏みつけ、押し潰そうと力を込める。

――父よ――

 ぞっとしてひるむと、小さな魚はけたけたと笑いながら、水の中を泳ぐように部屋の隅へ、闇の中へ、消えて行った。足の裏には赤い膠のようなものがへばりついている。

「どうかなさいましたか。お召し上がりになって下さいませ」

振り返ると、娘が自分の生首を盆にのせて、こちらに捧げ持っている。

「ひもじくていらっしゃるのでしょう。何を躊躇うことがありましょう。私はあなたさまの御子を孕まねばなりません。さあ」

 盆の上の娘は、平然とした表情で喋り続ける。

「あんな魚みたいなものじゃ、どうしようもありませんわねぇ。次は、猛々しい子を。あなたさまの恨みと憎しみを孕み、大きく育んでさしあげましょう。さあ、私を……」

 盆ごと娘を押しのけて、部屋の扉を蹴破った。後ろから茨が伸びてからみついてくるのを振り払い、暗闇の中に飛び出した。

「お逃げになるのですか。逃げれば、もう、戻れませぬ」

 走っても、走っても、娘の声だけは追ってくる。

「忠ですって?気づいていらっしゃるのでしょう。月の将軍が斬られたのは、奥方の兄上、あなたさまの伯父上を新しい王にしようとなさったから。気に病まれることはありません。私を娶れば将軍家は父の下で再興し、その貴い血は私の子に引き継がれます」

 違う、父は身を挺しても王を守れと、それが道だと教えてくれた。そんな父が、未だ若い王を廃して高齢の伯父を王に推す理由などあるものか。

「理由?あるじゃありませんか。あなたさまですよ。将軍は、我が子に王家の血が流れていることをお忘れにならなかったのです。伯父上が王になれば、あなたをその太子にすることができる……あなたを王位につけるのも夢ではない……」

 理由は俺か、俺なのか。本当に、そんなことなのか。俺の中に流れる血が、父を、国を、陥れたのか。

「目を逸らしても、何も変わりはせぬのに、お逃げになるのですか」

 光も見えぬ中、闇雲に、ただ声から逃れるためだけに走った。何度も足を取られ転がりながら、がむしゃらに走った。

「お棄てになるのですか。何もかもお棄てになるのですか」

 たとえそうであっても、ここから逃げることを卑怯者のように言われる筋合いはない。それに、こんなことで何を棄てるというのか。問われるのも不本意だが、今はとにかく気味が悪い。これ以上、娘を食むわけにはいかない。そんなことは考えられない。

「どうしていけないのです。先ほどはお食べになったではありませんか」

 愕然とする。そうだ、一度、娘の肉を口にしたのだった。空腹に耐えきれず、口にした肉は甘く温かかった……美味いと俺は感じたのだ。

「もう、犯したのですよ。何を怖がるのです」

 果たして、自分は何か罪を犯したのか。それは本当に自分の罪なのか。

「逃げ続ければよい。あのできそこないの魚があなたの幼い妹を喰らうでしょう。あなたが逃げたからです。全てあなたの行いの結果。自分を呪い続ければいい」

 逃げないという道はあるのだろうか。戻って、娘を爪と牙で引き裂けばよいのか。それが正しいことなのか。何が正しいことで、何が正しくないことなのか。そして、自分は、何をしなくてはいけなかったのか。分からない。何も分からない。だから、俺は逃げているのか。


 空が白むまで走ると、漸く声は消えた。周囲を見渡すとそこは荒野で、ようやく見つけた灌木の根元に蹲った。疲れ果てて、うとうと眠っていると、誰かが頭をなでる。目を開けると、黒い強い瞳を持つ異国の少年がこちらを覗き込んでいた。

「行きたいところがあるんだ。その白い背に乗せてくれないか」

「自分で勝手に行きたいところに行けばいい」

 疲れていた。眠りたかった。少年の手の動きを感じながら、目を閉じて首を横に振る。

「私の足はさっきあなたが潰してしまったじゃないか、父よ」

はっとして目を開けると、足の萎えた少年はにこにこと笑っていた。

 これが律と言うものなのかもしれない。獅子は少年を背に跨らせ、その指差す方向に向かって歩きはじめた。


6.


 体の痛みの所為か、火群は異教の神殿で得体のしれぬ悪夢ばかり見ていた。何が追って来るのかわからないまま、見知らぬ荒涼とした平野を裸足で逃げ回わった。自分はずっと逃げ続けているのかもしれないと、火群は思った。

 過去は棄てた。恥ずべき行いがあったわけではない、母と妹を守るためには仕方なかった。それでも今の自分を認められない。邦王を守る護衛術で大将を護って、少しは恰好をつけたつもりだったのだろうか。


 考えない方が良い。棄てた。もう棄てたのだ。


 悪夢と現の境界は曖昧で、凝視すればするほど身動きが取れなくなるような気がした。


 傷が癒え、痛みから解放されると、火群は猛烈な無聊に倦んだ。「異人」の身故、勝手も許されず、神殿内の限られた場所で過ごさねばならなかった。何か務めがあるわけでもなく、慰みも楽しみもない。

 初めに顔を見せた老人はケマルという名の下級神官で、この神殿唯一の医者でもあった。華国の負傷兵を預かっていると云ったが、皆が送られてくる訳でもないようで、少なくとも火群が他の兵と顔を合わせることはなかった。火群は、殊更丁重に遇されたのだ。

 遊砂族は砂漠の交易を掌る。華国に服属するとはいえ、遊砂王族の統治下にあった。王宮や神殿がある都は、枯れることのない水源を抱えた交通の要衝。水の不便を感じることもなければ、物資も豊富に見える。兵が傷ついた体を休めるには恵まれ過ぎた場所だった。

 その上、火群の身の回りのことは神殿の下働きの女たちが面倒を見てくれた。交易を生業とする遊砂の人々は華国語を能く話したし、火群も片言なら東夷の詞を解したので、不便はなかった。女たちは異境の美しい男を珍しがって、何かと構ってくる。色々詮索されるのを煩わしくも思いつつ、女たちのお喋りに付き合うのが、火群の退屈凌ぎとなった。

 然し、若い男であるにも関わらず、火群は女に全く興味がなかった。邦で軟禁されていた八年間、父と敵対して華国側についた土の将軍寧安の監視下に置かれたが、その際、世話係として、将軍の妾腹の娘、美峰があてがわれた。将軍は自分の娘に高貴な血を引く子を産ませようとしたのだった。少々年上だったにしろ、美峰は決して醜い女ではなかった。だが寧安将軍にそっくりであり、火群にとって魅力的な容貌とは言いかねた。その上、美峰は目的を果たさねば父に見捨てられると思い込んでおり、形振り構わず必死だった。そんな娘に毎夜強引に迫られた結果、火群が女嫌いになったのも無理のないことだった。必要なのは子種だけか、否、自分が必要とされるのは種馬としてだけなのか。嫌悪感だけが大きく育った。

 しかし、この神殿で火群に構ってくる女たちは、単に物珍しいだけであった。神の違う異人など、色恋の対象にもならないのだ。火群も、どうせ療養中の間だけの事と、気楽に女たちのお喋りに付き合う気になった。気の紛れるような面白おかしい話を女たちが勝手に喋ってくれればいい。 それでも女たちは何かと詮索してくる。身の上話をしたくなかった火群は、それに代わる話題を提供することを思いついた。

 異境の兵は、傷の平癒を祈ってくれた美しい巫女に恋するのだ。手の届かない高貴な異人への恋。なんと情緒的で甘美で……非現実的なことだろう。

 他愛のないことだ。恋の話をすれば、女たちは最早それ以外のことを詮索しない。作り話であろうと実害はないはず故、気も咎めない。半ば監視されて過ごしている異人が巫女に懸想しようとも、それ以上どうなるといったこともなく、且つ、それは周知の事であった。それでも女たちは恋の話を好んだし、かれこれと逞しく当て推量をして勝手な助言をするのも好きだった。そして、火群が聞きもしない話まで色々と教えてくれたのだ。

 イェリズさまとおっしゃるのですよ。神殿の巫女さまたちは、皆、名家の御出身で……異人の兵の祈祷など引き受けないものなのです、気位がお高くて。そういう務めを一手に担うのが、イェリズさま。女たちは声をひそめる。いえね、こんなことを云ってはいけないんですけどねぇ、あの方の母上は……先王の妹君で、一の巫女でいらっしゃったのに、父親の知れないお子をお産みになったのですよ。ええ、ええ、勿論、あってはならぬことです。ですから、イェリズさまは先王の姪御さまなのですが……不吉だとか、汚らわしいとか、神官さまたちから毛嫌いされておられるのです。


 火群は巫女の顔を思い出した。そんな境遇の女は何を思うのか、我が身のそれと似ているのだろうか。そう思ってから、火群は、比べても詮無いものを比べる己を笑った。それらは全く別に在って、重なり合うことのないものだ。


 作り言の恋は女たちの間で広まり、色々と憶測を纏って大きくなっていった。大きくなって、ある日突如、起こり得ぬはずの実害が形を現す。


 朝、火群が食堂でケマル老人と食事をとっていると、物々しく数名の警備兵が室内に入って来た。兵の一人に何かを耳打ちされた老人は駭然とし、息を調えてから、話を切り出した。

「火群殿。何かの間違いかとは存じますが、神殿の宝物庫から盗まれた宝石が、あなた様の寝台の下で見つかったそうでございます」

 火群には身に覚えはなかったが、こういう時は神妙にするしかないことは分かっていた。兵士に促されるまま神妙に神殿の広間へ向かう。

 広間に入ると、その正面には重々しい彫刻が施された大きな龕があった。十人ばかりの神官たちが左右に対面して着席し、数名の巫女や神官の侍者と思われる身形のものが立ったまま隅に集まって居る。手荒に扱われることもなくその場に引き出されたものの、険悪で威圧するような目が一斉に異人に向けられた。

 上座を占める鶏の如き容貌の老神官が立ち上がると、手にした杖で石の床を打った。

「イェリズは既に白状しておる。盗むように頼まれたか?」

 神官は、強い訛りのある横柄な華国語を用いた。

「……有り得ん」

 理不尽さに、火群の口から不用意な唸り声がこぼれる。父の件があってから敬語を使うことを嫌うようになった火群は、口数自体も少なかったが、たまに口を開くと独り言のような不遜な物言いになってしまう。

「何だと?」

 神官は、きりきりとこめかみの血管を膨らませ、怒りを露わにする。

「巫女様とお会いしたのは祈祷の時、一度だけのこと。それは皆が知っているはず」

 火群は神官の気を静めるべく、今度は能うるかぎり丁重に、且つ簡略に応える。

「神殿内、許された場所以外には立ち入っておらぬ」

「貴殿とイェリズは恋仲だと聞いたが」

 火群は漸く自分の戯言の所為だと気付く。このような面倒を引き起そうとは思いもしなかった。イェリズにすれば青天の霹靂。自分の軽挙を悔んだ。

「こちらの懸想に過ぎぬ。巫女様には関わり合いのないこと」

 対座している神官たちは互いの顔を見遣って頷きあい、入り口に近い一人が手を挙げた。扉が開き、両側を兵に挟まれるようにして巫女が入ってくる。頭と顔を布で覆っていても、それがイェリズであることは容易に察しがつく。

「イェリズ、火群は全て話したぞ」

 神官は東夷の詞で決めつけるように云い、巫女は、厭味なほど流暢な華国語で応えた。

「そうでございましょう。この御仁に隠さなくてはならぬことなぞ、お有りにならぬでしょうから」

 若い女らしからぬ強い物云いに一同が騒めく。

「顔を晒してものを云うがいい」

 更に周りが騒めいた。遊砂族の高貴な女は人に顔を見せない。顔を晒せというのは大勢の前での辱めである。それは犯人も定かでないまま、皆の苛立ちを収めるための生贄の如き仕打ちであった。

 イェリズはゆっくりと、しかし、躊躇することなく、頭と顔を覆っている布を外した。無表情のまま、今度は東夷語で云う。

「この方にも私にも、後ろめたいことなど何もございませぬ。私は夢を見ました。神の夢です。変事があれば神宝の所在を検めよと神は申されました。この度のことは神の御示しになられたものであって、人の技ではありません」

 信心のない火群には、巫女が云うことは突拍子もなく思えた。しかし、それは神官たちも同様であった。

「神が御神宝を検めさせるために宝物を隠したと?」

「はい」

「恥知らずにも程がある。自分の盗みを神の所為にするのか」

「私は盗んでおりませぬし、斯くの如く宝石は戻ってきております。御神宝をお検め下さい」

 人を説得できる申し開きではない。しかし、巫女は至って冷静だ。

「何の為に御神宝を検めるのだ?」

「……私の知るところではございませぬ」

 神官は態々露骨に呆れ顔を装い、頭を横に振った。

「二人を閉じ込めておけ。長老衆にお集り頂き御神宝を検分する。皆を退出させよ」

 広間から連れ出された火群は、巫女とともに一室に閉じ籠められた。



7.


 そこは神殿内の普通の一室で、監視の兵は外にいたが、牢獄といった場所ではなかった。イェリズは一応王族であったし、火群も華国から預かった兵であることが配慮されたのだ。

 とはいえ男と一室に籠居させられたこと自体、巫女には懲罰である。顔を覆う布も取り上げられたままだ。神官たちの仕打ちは、事の真偽を求めるよりも、寧ろ巫女を虐げるための行いに火群には思えた。生まれ故に侮られているだけでなく、イェリズ本人の声や姿が神官たちの嗜虐の情を助長しているのではないかとも思った。狭い部屋の片隅で壁に寄りかかるように床に腰を下ろしている巫女は、間違いなく美しいのだが、頑ななまでに毅然としている。火群には、このような年若い女人を蹂躙し屈服させたいと欲する歪んだ気持もわからなくもない気がした。そう思うことを後ろめたく感じながら、できるだけ離れた場所に腰を下ろす。

「申し訳ないことを致した。軽はずみに噂など……」

 片言の東夷語で火群が謝ると、巫女はじっと凝視してから、邪気ない笑みを見せた。

「退屈凌ぎで雑談に興じようにも、あなたには人に話せることがない。話を作るしかない……」

 火群は出鼻を挫かれたような気分になった。表情に反して、巫女の口から出たのは聞かされて気分のいい話ではない。全てを見通したかのような物云いは、小馬鹿にされているようでもあり、強ち的外れでも無いだけに気持ち悪くもある。言うだけ言うと、巫女は悄然と下を向いた。

「ごめんなさい。でも、これでおあいこ。噂など些細なこと。気にはしていない。ただ……」

「ただ?」

「容易ならぬ事態なのです。でも、あなたには何ら関係ないこと。大丈夫。知らぬことは知らぬとおっしゃって、早く元の軍へお戻りなればよいのです」


 最初は申し訳ない、気の毒にと思った火群だったが、年若い巫女は頑なで、ありとあらゆる人の情を拒んでいるように見えた。協力し合うような接点がない。

 厄介なことになった。一体どうなるのか。濡れ衣だと身の証を立てねば罰されるであろうが、火群には何ら手立てが思いつかない。

 

 昼近くになって、二人は再び広間に引き出された。正面の龕がだらしなく口を開けている。神官たちは益々険悪な顔で睨んでいた。先ほどの巫女や侍者たちの姿は見えず、年配の神官ばかりが参集している。イェリズは臆することなく顔を上げて、真っ直ぐ前を向いていた。

「宝石だけでは飽き足らず、畏れ多くも御神宝に手を着けたのか、イェリズ!」

頭から叩きつける神官の怒声を、女の声が切り裂いた。

「笑止。一介の巫女がいかにして龕を開けようぞ。これは神の意思である。御神宝はガラバ石窟の岩寺にある。日を空けずに兵を以て迎えに参れ」

 先程とはうって変わって、神憑りしたような物云いだった。否、芝居掛かっているというべきか。

御神宝は、宝石とは比べ物にならぬほど重大なものなのだ。その御神宝も盗まれ、所在を知っているということになれば、罪を認めたようなものだ。イェリズの態度は神官たちの怒りを益々煽った。

「己が如き巫女に、託宣の真似事など許さぬぞ」

 怒声が幾重にも覆い被さる。

「王族の面汚し」「汚らわしい身で」

 神に仕える者の口からは出たとは思えない詞が、礫のように投げつけられる。異人である火群には理解し兼ねる俗語もあった。しかし、若い巫女は気丈に顔を上げ、表情を変えることもない。

「ガラバ石窟へ兵を。さすれば全て明らかになること。他に御神宝を探す当てもありますまい。御神宝を龕に安置してから、私のことは如何様にでも為されるが宜しいかと」

「ああ、そのように致そう。もはや、王族としては遇さぬぞ。身包み剥いで地の果てへ追い放ってやろうぞ。それまで華国の客人と懇ろに名残を惜しんで過ごすのだな」

 神官は吐き捨てて、手で追い払うような仕草をした。兵士たちが火群とイェリズそれぞれの両脇を抱えた。

「神官様」

 火群は、無駄を承知で訴え出た。巫女がどうであれ、己の過ちは負わねばならない。生来の真面目さが久方ぶりに顔を出す。先程の不用意な発言のこともある。東夷の詞を能うるかぎり丁寧に繋ぎあわせる。

「懸想致したのは、当方の勝手。巫女様に越度なく、その身を責められる所以もござらぬ」

 神官たちは無言の儘であった。ケマル老人だけが小さく何度も肯いている。

 運命など人智の及ばぬところで定まるものなのだ。故に猶のこと、手を尽くさなければここに在ることの事理すら失ってしまう。恐らく今の我が身はその為だけに息をしている。今更、そう気負う自分を火群は苦々しく思った。


 二人は再び同じ部屋に戻されたが、相変わらず巫女は彼方を向いて押し黙ったまま座っている。火群は苛立ちを抑えながら尋ねた。

「巫女様は何か御存じの上で、隠しておられるのか」

 火群の方を向いたイェリズの顔からは、今迄の人を寄せ付けない頑なさが失せていた。

「何かをお知りになりたいのですか」

「知っていれば手の尽くしようもあろう」

 巫女は目線を泳がせてから、ふっと嘆息した。

「知っていてもどうにもならぬことの方が多いとは思いませんか」

「知らないよりましではないか」

「……そうでしょうか」

 巫女は若い女らしからぬ深い諦めをその身に纏っている。それは火群とよく似ていた。

「御神宝というのは?」

「御神宝は、の御神体である玉石の刀。遊砂族の正統な王の聖なる力の源です。王はこれを都の神殿に祀り、民を治めるのです。元々交易と遊牧とを生業にする遊砂族は、血縁で結ばれたもののみで集り住まい、各地に点在して、夫々で暮らしております。唯一、皆が心を一つにするのは太源神への信仰のみ。王権が神への信仰と分かちがたく結びついている以上、御神体を失うことは王の資格を失うことと同じなのです」

 巫女は異国の詞を操っているとは思えないほど、理路整然としている。

「私もあなたと同様、傍より見ているだけの身です。何も変えられぬのに、知っているから辛い。……知る必要などありません」

「何を知っていると?」

「私には未来が見えるのです」

イェリズは軽い口調で云い、半ば呆れて返す詞もない火群を興味深げに眺めている。

「まさか、信じたのですか?」

 勿論、信じるはずもない。火群は、占いや神託など信じたことはなかった。

「望んだことが見えるわけではありませぬ。されど、見えたことは外れないのです。そして……未だそれを信じてくれる方にお会いしたこともございません」

 戯れなのか、妄言なのか、将又、何等かの真実がそこにあるのか。巫女が聡明なだけに、火群には量りかねた。

「俺の未来はご覧になられたか?」

「いいえ」

「ならば、巫女様、あなた御自身のは?」

「勿論」

「それは、狡い」

 火群は珍しく気安げな言葉を口にし、イェリズも笑顔を見せた。

 その顔を見ながら、戯言であれば良いと火群は思った。自分の恋の話は軽挙であったにせよ、戯言で気が紛れたのも事実。何はともあれ、今、この巫女と運命を共にしているのだ。一人だけ取り残されるのは適わない。重ね合わせても致し方ないものを重ね合わせている。火群は己の弱気を自覚せざるを得なかった。


  8.


 一室に閉じ込められることになったイェリズだったが、もともと生まれてから神殿の外に出たことがない。閉じ籠ることには慣れていた。

 神官たちは外出することもあったが、巫女達はほとんど外に出ることを認められない。それでも神殿に仕えて数年もすれば、親元に引き取られ、普通に嫁していくのが常であった。引き取られるあてのないイェリズのような巫女もいないわけではなかったが、そんな女たちは皆、頑なに自室に引き籠り、やがて生きていることすら人々から忘れ去られていくのだった。イェリズも同様の運命を辿るはずであった。

 イェリズの小宇宙は、石造りの神殿という閉じた場所から体内の虚に繋がっていた。イェリズはそんな閉じた世界を支配する神でもあった。


 顔を布で覆うようになった頃、イェリズは小さな鳥を籠で飼うことにした。親と逸れた雛鳥を下仕えの女から貰い受けたのだった。胴体の羽衣が灰褐色で、顔の色は淡く、嘴は薄く朱を差したようだった。愛らしく懐き、餌をやれば手の上に乗るようになった。

「可愛い我が弟よ。一緒にお喋りできたら、どんなに楽しいでしょう」

 世話をしているうちに、小鳥はまるで言葉を解するような仕草をするようになった。イェリズは喜び、せっせと小鳥に話しかけ、ある日、とうとう小鳥は普通の子どものように片言で喋り始めたのだ。

「姉上サマ、オ話シテ」「オナカガ、スイタ」

 イェリズは初めてできた話し相手を愛しんだ。小鳥は成長して賢くなり、イェリズの部屋に飽きて外へ出たがるようになった。

「オ外ガ、見タイ」「イロンナコトヲ、知リタイ」

 自分が勤めで小鳥に構ってやれない時は、人の集まる食堂や広間に鳥籠を置いておくようになった。言葉を喋る珍しい小鳥は、人の興味をひき、神官や巫女、下仕えの者たち……皆が、かわるがわる話しかけた。

 そうしているうちに、イェリズは小鳥の背にこぶのようなものができていることに気付いた。指で触ってみると、どうやら背骨が丸く曲がっているようだった。

「イタイ、イタイ」

 イェリズは心を込めて小鳥を看病した。鳥は曲がった背中のまま、急に醜く大きくなった。籠にも入らなくなって、イェリズの寝台を独占し、だらりと横たわっている。

「姉上サマノ祈祷デハ、ナオラナイ。他ノヒトニ、飼ワレタイ」

 鳥は顔を歪めて、そう訴えた。

「私と一緒にいるのはお嫌なの?お医者様にも見てもらっているのに、どうして他の人に飼われたいの」

「コレハミンナ、姉上サマノ所為。姉上サマノ虚ノ所為」

 イェリズがなだめようとして伸ばした手を、醜い大鳥は太い嘴で噛んだ。皮がねじ切れるような鈍い痛み。イェリズは泣きたくなった。ぽたぽたと赤い血が落ちて、寝台に敷いた布を染めていく。

「キライ。キモチワルイ、虚。キモチワルイ、イェリズ」

 鳥はイェリズを押し退けて、寝台から床に降り立った。

「ここを出てはなりませぬ」

「キライ、イェリズ。キライ、死ンジャエ」

 制止を振り切って、鳥はよろよろと窓に向かい、そこから外へ羽ばたいた。

「ああ、ならぬ……」

 追いかけようとしたその眼前を、轟音と共に銀の稲妻が走る。イェリズは咄嗟に顔を両手で覆って蹲った。胸を押さえながら恐る恐る窓の外をのぞくと、雷に頭を撃たれた弟は、焼け焦げて庭の石畳の上に落ちていた。


9.


 イェリズの抱えているものと己がそれとが似ているのではないかという火群の思いは、その是非を問うような性質ではなかった。寧ろ是非が明らかになることを怖れた。巫女と親しくなることも望まぬ一方で、火群はその一挙一動に気を取られ、勝手な解釈を加えた。

 籠居は長引いたが食事は三度三度きちんと運ばれ、扱いは決して悪くはなかった。ケマル老人だけは、毎日のように顔を出し、気遣ってくれる。火群は若い女人が男と一緒なのは気の毒だと訴えたが、老人にもどうともし難いようで、小奇麗な衝立を持ち込むことのみが許された。

 老人の話では、御神宝はイェリズの云ったとおりの場所で発見され、無事に神殿に戻されたとのことだった。しかし、それによりガラバに於いて現王に対する謀反が企てられていたことが発覚した。兵火の前に事は露顕したのだが、その首謀者は分からぬままであるという。当然、誰が御神宝をガラバへ移したのかが問題となった。御神宝の安置された龕は、王位継承権を持つ者上位十名が保管する鍵のうち少なくとも三つを揃えないと開けられない。乃ち、少なくとも王位継承権を持つ三名が御神宝を移すことに加担していたということになる。移した先に兵を集めていたとなれば、明らかに王位簒奪の企てである。

 最早、神殿の宝石泥棒など瑣末なことだった。異国の下級兵士と後ろ盾もない巫女のことなど、気に止めるものはいなかった。「王族の皆様が疑心暗鬼になっておられるようで……」とケマル老人が零すとイェリズはその枯れ枝のような手を取る。この巫女でも人を気遣うことがあるのだと、火群は意外に思った。

「元々そうでございますよ。皆々様が夫々に思惑の異なる後ろ盾をお持ちなのですから、致し方あるますまい。されど、今は都を混乱させぬことが肝要です。王と王都の警固を怠らぬように……内も外も……」

 そこで巫女は口籠った。

「私が申し上げることではございませんね」

「いえいえ。ただ、私が承っても詮無いことでございますが」

 巫女もケマル老人には柔和な表情を向ける。

「あなた様が御神宝を動かしようもないことは、皆が存じております。早晩、ここから出られましょう。案ぜずにお過ごしなさいませ」

 ケマル老人は火群に視線を向けると、軽く会釈をして部屋の外へ出て行った。老人が去ったのを確認してから、火群は改めてイェリズに尋ねた。

「警固を怠るなとは……まだ、何か起こると思われるのか」

 巫女は再び無表情を装っている。

「……王族の内紛で都の治安が乱れれば、華国が介入する口実になりましょう。……さすれば、あなたは容易に軍に戻れて、却って良いかもしれません」

 慥かに華国は遊砂族王家の弱体化を謀るであろうし、隙があれば介入してくるだろう。火群も目の当たりにしたことだ。邦が華国に服することになったのも内紛に乗じてのこと。父は斬に処され、対立していた一派も力を削がれ……国は潰えた。そして、そのきっかけは……火群はそこで思考を停止する。

「何故、あなた様は御神宝のことを話されたのか。盗人より謀反者と疑われる方が厄介であることは気づいておられただろうに」

「……兵を起こす前に止めたかった。巻き添えにしたことは申し訳なく思っております。されど、あなたはいずれ華国軍に無事に帰る。それに……」

 イェリズの無表情が崩れた。嘆き、哀しみ、痛み。それは刹那に過った。

「今ならまだ止められるかもしれない。見えてしまったことも変えられるかもしれない……」

 いつになく思い詰めた面持ちだったが、神懸りの詞に火群は返しようもない。薄い慰めを口にする。

「受け入れたくないこと、不吉なことならば、信じなければ良い」

 巫女は目を閉じ、首を横に振った。

 

 その後も容易には部屋から出られなかった。調べがあるわけでもなく世の中から忘れ去られているかのようだった。実際、誰も二人のことなど気に掛けていなかったのだろう。辛うじて世話係のケマル老人が職務に勤勉であったが故に、三度の食事に事欠くようなことはなかった。一緒に過ごす日々を重ねていっても、この若い男女はともに打ち解けようとはしなかった。


 ひと月程過ぎた或る朝、ケマル老人が青ざめた顔で現れた。

「大変なことに相成りました。王が退位なさいます」

 老人の話は行ったり来たりと要領を得ず、イェリズが順に話を引き出す。

 王は誰かに毒を盛られ、一命は取り留めたものの退位が決まったという。私兵が小競り合いを繰り返して混乱し、イェリズが案じた通り、東夷攻めのために周囲に配されていた華国の兵が治安維持を掲げて都に雪崩れ込んできたのだ。

「火群殿をこちらにお預けになった大将様も、今はこの都におられます。明日、華国軍の仮営所へ出頭するようにとの御命令でございます。今、こちら側の手配をしております」

 宝石泥棒の件は有耶無耶なまま、火群は遊砂都に進駐してきた華国軍に戻ることになった。

「謀反の首謀者や王に害を為した者のことは判明したのでございましょうか」

 イェリズが顔を引き攣らせながら低い声で尋ねると、老人も云い難そうに声を潜める。

「……エクレム様が昨夜拘束され、尋問を受けておられます」

「……!!」

 イェリズは息を呑んで膝をついた。

 ケマル老人は長話をした割に、支度があるからと慌ただしく去って行った。打ちのめされたようにイェリズは部屋の隅で背を向けて座り込んでいる。

「犯人を知っておられたか」

 華奢な肩が震える。珍しく動揺を隠せない様子の巫女に、火群は残酷に追い打ちをかける。この巫女には人にそういう感情を起こさせる何かがあった。

「捕えられたのは親しい方か。謀反の企ても聞き及んでおられたか」

「いいえ、いいえ……」

「……まさか、庇うために、俺を巻き込んだか」

「違います!」

 巫女は振り返ると、不躾な異国の兵を睨め付ける。

「あなたは、明日、無事にお戻りになるのです。詮索は無用です。エクレム様は未だ十五歳。最年少の神官でございます。あの方の罪……あの方の罪など……一体何がありましょう」

 激しく訴えていた詞は、途中から消え入りそうな嘆きに変わった。

「……止められない。私には何も止められない」

 再び背をむけた。巫女は泣いているようであった。

 傍らで人が悲しみに暮れているのだから、子細を知らずとも、神懸りに付き合えなくても、憐れんでやるべきなのだろう。だが、火群はそんな気にはなれなかった。漠と同じ荷を負っていると思っていた女は、自分の関わり知らぬものを守ろうとしていただけだった。火群は酷く落胆した。それは勝手な感情だった。

ここを出る寸前まで、そうと気が付かなかったのは幸いなことだったのかもしれない。

 火群は自分を納得させた。


10.


 翌日、華国軍の仮営所に出頭すると、火群は再び例の大将の下に配された。大将にすれば、火群は験が良い男なのだ。従官代わりに身近に仕えるよう命じられ、馴れ馴れしく話し掛けられた。火群にとって、こういう相手と会話をすることは甚だ苦痛ではあったが、御蔭で我が身に起こったことの子細を窺い知れたのであった。

 事の発端となった宝石泥棒の犯人は神殿の下働きの少年で、数度にわたって盗みを働いていたらしい。周囲も薄々気付いていたが、発覚を恐れた少年は異人に罪を負わることを思い付いたようだ。神官たちは神官たちで、それを口実にイェリズを辱めようとしたに過ぎない。イェリズが騒いだために、全くの別件である謀反が露顕したのであった。十五歳のエクレムという神官本人に野心があったかどうかはともかく、その母方は有力な一族であり、水面下では王族を二分するような事態となっていた。火群は、大将の口振りから、華国は密かに少年神官を擁立する側と通じていたのではなかろうかと思った。全て華国の策謀とまでは云えないにせよ、虎視眈々とこの機は伺われていたのだ。

 何にせよ、全ては何ら火群とは関係のないことであった。

 間もなく謀反の張本として少年神官が斬に処された。イェリズの云うように、十五歳の少年の罪の有無など問題ではあるまい。華国の後押しで先王の末子が即位した。僅か三歳の幼児だという。

 即位に合わせ代替わりの挨拶として、幼王の代わりに御神宝が華国の都へ上ることとなった。それはさながら、神の人質とも云うべきものであった。

 恐らく全ては周到に準備されていたことであり、火群やイェリズがどう振舞おうとも何ら関係なかっただろう。

 クォシャン大将は御神宝の警固役として華国へ戻る命を受け、火群もそれに従うことになった。奇縁と云うべきか、イェリズも御神宝に奉仕役として同行することとなったのだ。

「然るべき巫女を質に取りたかったのだが、あやつらも、死なれても困らぬ者を出して来おった。王の血筋のものだと云われれば、こちらもそれ以上は云えぬ。まあ、御神宝を持ち出せるのだからよしとせねばなるまい」

 聞きもしないことを大将は自慢げに話し掛けてきた。夕食の給仕の手を動かしながら火群は聞き流す。側に仕える以上は受け答えをしないわけにはいかなかったが、出来るだけ喋りたくなかった。

「貴様に縁のある女人のようだな。異郷の美しい姫となれば、見過ごす手もない。道中、巫女の世話は貴様がしてやると良い。なに、生きて故郷に帰ることもない女だ。遠慮はいらん」

 下卑た戯言だ。火群は、心遣いとも取りかね、調子を合せて軽口を叩く気にもなれなかった。神官たちがイェリズを異人の男と一部屋で寝起きさせたのは彼女の身体を汚すためであり、当然そういう関係になっているだろうと邪推されていた。何しろこの兵は巫女に恋焦がれていたのだから……口は災いの元だと、火群は改めて後悔する。


「縁があったことは確かでございますが、相手は高貴な巫女様故、お気遣い頂くようなことではございませぬ」

 大将は「ふむ」と軽く息を咀嚼した。不愉快ではあっても、むきになって弁明することでは無い。火群は態度に出さないようにさりげなさを装う。

 遊砂の都を立つ前日、火群は神殿のケマル老人のもとへ挨拶に赴き、手当や世話の礼を述べた。神殿の外向きの階段に腰を下ろして暫し話をする。陽の下に座ると、老人は干からびて一回り小さくなったように火群には見えた。

「御神宝を神殿に安置することなく、幼い王の統治が成り立っていくとは到底思えません。私が口を挿むようなことではないのですが……残念です」

「御気持ちは察する」

「遊砂の者が蒔いた種です。仕方ありますまい。……ああ、そう云えば、イェリズ様が御神宝に随行されます。御聞き及びでしょうか」

 ああ、と頷いて思いおこし、老人に問う。

「先だって刑に処されたエクレムという方と巫女様は親しい間柄だったのか」

「イェリズ様が親しくされていた方などはおられませんよ。あの方の所為ではございませぬが、父親知れずということもあって周りがあの方を忌嫌っておりました。エクレム様とは同じ神殿で住まいしていても顔を合わすこともなかったのでは」

 そう云ってから、老人はうーんと唸り、「もしや」と詞を繋げる。

「エクレム様は確か、御年五つで神殿に入られたはず。王族が幼くして神殿に入ると王族出身の若い巫女が世話役を致します。十歳になるまで、遊び相手・話し相手を務めるのです。エクレム様の時も、何人かの巫女が交代でお世話を致したはずですが……イェリズ様も世話役をされたかも知れません。しかし、それも随分前のことで、その後、付き合いがあったなどという話は聞き及びません。何れにせよ、イェリズ様には親しい方はおられませんよ。あの様な方でございますれば、何方かと親しくなればその方に迷惑が掛かると思っておられたのでは」

 ケマル老人はイェリズに同情的であった。

「父君のことはあの方の所為ではございませんが、あの方も誰かの庇護を得ようとすることのない方で……可愛げがないというか……御神宝の一件でも、神官の皆さま方を敵にまわしてしまいましたし……まあ、御覚悟はしておられるのでしょう」

 老人は眩しそうに天穹を仰いだ。砂の混じった乾いた風が吹き、空は少し赤みを帯びている。

「道中、砂漠で独りになることのないよう、お気を付けなさいませ。砂嵐の時は動かぬように。地元の者でも砂漠で迷えば助かりません」

 二人はその後取り留めのない話をして別れた。火群は、随分長い間自分を見送っているケマル老人から痛みを感じていた。老人は途方に暮れているのだ。一つの時代が終わる。その意味を考えるには、遑が無さ過ぎるし、彼の人は親切過ぎる。もう会うこともない異人と別れることすらが、不安を掻き立てるのだ。

 似た空気を嗅いだこともあったと、火群は思う。唯、それは全て流れて過ぎていった。痛みはあるが、欠け落ちて失われたものが何なのかは知る術もない。

 火群は空を見上げた。太陽が黄色い。

 御神宝を奪われる太源神は怒るだろう。しかし、いつしか忘れられ、緩やかに死へと至るのだ。

 鼻先に甘い香が触れたように思った。周囲を見渡したが、香を焚きしめたような女の姿はなかった。


11.


 遊砂の都を出発した華国軍の兵は百余名。道案内の商人の他、遊砂の人間はイェリズのみだった。砂漠の中の集落を繋ぐようにして二十日程進めば、遭難の恐れのある地域は抜けられる。砂馬と呼ばれる背の低い馬を足に用いた。

 隊の半ばよりやや後ろに御神宝を納めた箱を置いた馬があり、その後ろがイェリズ。イェリズの世話を命じられた火群は、その馬の側について進む。巫女は乗り慣れない馬に危なっかしく身を預けているが、深々と布を被っているので表情は見えない。相変わらず交わす詞もなく、馬の鼻息と砂を踏む音が振動に合わせて聞こえてくるだけだった。

「……ください」

「は?」

 呟いた声は覆い被さった布地に吸い取られてよくは聞きとれない。火群が問い返そうとすると、止まれという一声が響いた。

「砂嵐だ」

口々に皆が叫んでいる。

「集まって、離れるな!!」

隊の前へ全体が縮むようにして集まり、皆、下馬して姿勢を低くする。火群もイェリズの側に屈んだ。砂嵐は直ぐにやってきた。商人たちの声がする。

「直ぐに通り過ぎる。砂を吸い込むな!!」

 目を閉じ、鼻と口を布で覆って下を向いた火群の頭の上で、風の唸る音が渦を巻いている。これが砂嵐か。目も開けられず、手探りでイェリズの肩を掴んだ。

「御無事か?」

「ここに居ります。目は閉じていて下さい」

 風で声が切れ切れになっていた。イェリズは火群の上着の胸元の布を掴んで引っ張っている。

 間もなく空気が無くなったように風の動きが止まり、音が消えた。火群は目を開けて様子を見る。イェリズの肩を不自然な姿勢で掴み続けていた右手が痺れている。イェリズも上着を掴んでいた手を離し、パタパタと火群の体の砂を払った。

「目や喉は痛みませんか」

 神殿の外に出ることのない巫女でも砂の民らしく慣れたように振舞うものなのかと、火群は少し笑った。

「あなた様こそ、大丈夫か」

 イェリズは少し不機嫌そうに目を細め、「……常ならば砂嵐は起らぬ時季なのです。だからこそ旅慣れた商人にも風が読めない……仕方がありません」と、独り言つ。

「引き返せるものなら……」

「帰りたかろうが、逃げれば遭難する」

 脅すような云い方はしたくはないが、大人しく従ってくるならば華都までは守ってやれる、と火群は思った。しかし、イェリズは守られる必要などないのかもしれない。

「逃げはしません。参りましょう」

 火群は馬に乗って姿勢を正すイェリズを見ながら、ほんの少し前に上着を掴んでいた手の重みを感じていた。


 誰かを守りたかったか。誰かに頼られたかったか。俺は母も妹も守らなかった。母や妹は俺を頼っただろうか。


 考えまいとしてきた。考え始めたら身動きが取れなくなりそうで、考えたくなかった。


 所詮、何も成し得なかった。そして、何も取り戻しようの無いことだ。


 隊は再び動き出す。終わりの見えぬ砂の果てへ。ざわめきすら砂粒に変わる。火群にはそう思えた。


 季節外れの砂嵐が幾度も繰り返し、行程は大幅に遅れた。遭難者は出ていなかったが、一晩目は集落のある場所まで辿り着けず、取敢えず途上の水場に野営することとなった。其処は大きな岩の裂け目で、各自が平坦な場所を求め、塒を定めた。

 男ばかりの中での雑魚寝故、火群は巫女に自分から離れぬよう重々念を押す。しかし当人は心に留める様子もない。火群は目を閉じてみたものの、闇の中の人の気配に何度も目が覚める。その都度、闇に眼を凝らして巫女の安否を確認した。

「そんなに気になさっていては眠れないでしょう。そちらへ参ります」

 確かに体を寄せていれば、一々気にしなくてもすむ。

「しかし……」

 相手は年若い巫女。ましてや周囲からは邪推されている間柄。火群は躊躇したが、黒い影は滑るように動く。巫女は行儀よく横に座ると幼子のような仕草で膝を抱えた。ぎこちなく並んだまま洞の岩壁に寄り掛かり、各々が顔前の黒い中空を見ていた。

「眠らなければ、明日の旅に差支えます」

 巫女は手で隣の男の袖の布を掴んだ。勝手に離れていくことはないから安心して眠るようにという意思表示であり、そういう配慮を示されたことに男は気を良くした。

「お聞きしてもよいか」

 返事はなかった。

「何故、御神宝のことを口にされたのか。黙していたならば事は露顕せず、少年神官も命を落とさずに済んだかもしれない」

「……そうかもしれません……でも…都での戦は避けたかった……何よりも、私はあの方が逃げて下さることを望んでおりました。時期尚早と一旦引いてくれるのではないかと」

「最初から成らぬ謀反と思われていたのか」

「……私がエクレム様から話を聞いていたと思っていらっしゃるのでしょう。違います。私はあの方から秘密を伺うような立場ではございません。私があの方と話をしたのは、もう随分前のこと。あの方が幼い時に、数度、話し相手を務めただけ。今は挨拶の文を交わすこともない。信じてはいただけないでしょうが、私にはあの方の未来が見えてしまっただけなのです」

「ならば当人に直接助言を……」

「そんな間柄ではありません。それに申し上げたところで、あの方はお信じにならないでしょう。もし、信じていただけたとして、あの方が周りの大人たちを止められるでしょうか。私は離れたところに騒ぎを起こして、早く逃げ出してくれることを願うだけ……詮無いことでございました」

 そう遠くもない場所に大勢が居るはずだったが、窟の中は信じられないぐらいに静かだ。闇が音を吸い込んでいる。深い澱みの中にいるように、僅かに体を動かしても黒い気の塊が動く。

「あなたは、私に懸想をしているかの如く振舞われた……」

「……申し訳ない」

「私も、誰かを大切に思いたかったのです。二度と会うこともない、詞を交わすこともない幼い方を、弟のように思いたかった。長じたあの方とお会いするつもりもなかった。私には、あの方を大切に思う我が身だけが大事だったのです」

 なぜその様な話をするのか。誰のための言い訳か。お互いの境を取り外せば、自分が目を逸らしてきたものを見ることになる。火群は心ない詞を口にした。

「……非難されたいのか」

 一体何を非難するというのか。それは実害のないもののはずだった。苛立ちを感じながら、そのまま巫女にぶつけたことを火群は後悔した。

「もう休んだ方がいい。たとえ、未来が見えるとして、見えたものが我が身で負えると思うのは傲慢だ」

「……ええ、ありがとう」

 イェリズはぎこちなく頭を火群の肩にのせた。唐突な行為だったが、この女なりに精一杯甘えているのだと火群は思った。人に好意を示す術を知らぬのだ。火群も人に甘えられることに慣れていなかった。それでもその夜は同胞の子犬のように頭を寄せて眠った。


 このまま荒ぶる流れに蹴散らされることなく、深い闇の底で沈殿し続けていられるなら、欠け落ちた何かの痛みを反芻し続けなくても済むのではないか。

 夢は夢。一夜限りでも見られるなら幸せだ。

 火群は儚いものを望んだ。


12.

 

 目を閉じたイェリズは、昔見た夢のことを思い出す。


 遊砂ではない。見たことのない巨木がところどころに見える。木造の建物は釉のかかった艶々光る瓦をのせている。異国の景色だ。イェリズはそれを薄い膜越しに眺めている。

 空を突き刺すような茨の塔が見える。

こんもりと緑の葉を茂らせた木の下で、黄褐色の肌の少年が膝を抱えて泣いている。足元には少年には不似合いなぐらい大きい太刀が転がっていた。

「どうして泣くの」

 何処からともなく現れた白い肌の少女は、少年の側に屈んで顔を覗き込む。少年は顔を上げると、自分よりもずっと幼い少女を見て、きまり悪そうに袖で涙をぬぐった。

「何でもないんだ。稽古しなきゃ」

 少年は太刀を掴んで立ち上がり、歯を食いしばって振り始める。しかし、太刀が大きすぎてふらふらしている。

「習い始めたばかりなのね」

「昨日から……」

「私の兄様も小さい時から大きな太刀で稽古したわ。慣れたらできるようになるわ」

「どれぐらい稽古したら慣れる?」

「三年ぐらい……」

「駄目だ、そんなんじゃ、駄目なんだ。明日、試合だから」

 少年は、太刀に振り回されながら、泣きべそをかいた。

「そんなの無理だわ」

 慰めるように、少女は太刀を握った少年の手に触れる。少年は動きを止めて、少女の顔を見た。

「この塔の中に白い男の子がいるんだ。僕より少しだけ年上の……父上はいつも僕とあの子と競わせる。そして、僕が勝たないと許してくれないんだ」

「頑張っても負けることはあるわ。一生懸命やっても……それでも、お許しいただけないの。そんなに負けるのが嫌なの」

「負けちゃいけないんだ。僕だって、一生懸命、やっている。でも、あの子は僕より何でもできるんだ。競馬で負けた時、父はあの子の馬を殺した。歌で負けた時、毒であの子の喉を焼いた。太刀で負けたら……負けてしまったら……」


「兄様が勝つわ」

 

 少女は塔を見上げていた。色の薄い瞳が、光を吸い込みながら彼方を追う。

「仕方がないわ。達人だもの、勝ってしまうわ」

 

 少年は愕然として太刀を取り落とした。白い少女は屈んでその太刀を拾い、少年に向かって両手で捧げ持った。

「兄様の腕、斬り落とされてしまうのかしら」

 少女はあどけなくて、何も分かっていないのか、哀しいのか、その表情からは窺い知れない。

「仕方がないわ。」

 

 イェリズは見ていた。

 受け取った太刀を握ったまま、ふらふらと膝をついた少年の胸を、虚が黒い穴を開けていく。少女は白い蝶になって、その中へ吸い込まれて行ってしまった。

 蝶も夢を見るのかもしれない。もう自分が見ることがなくなった夢を。イェリズは思い返しながら、それを希望と呼んでいいものなのかわからぬままでいた。


13.


 翌日も酷い砂嵐が吹き荒れた。それから丸二日、野営地から動くことも叶わず、無駄に時が過ぎた。食料に余裕はあったが、季節外れの砂嵐が続くことに皆の不安は募っていった。

御神宝の祟り。

 異教の国に御神宝を運ぶことが太源神の怒りを買っている……そういったことが真しやかに広まっていった。

 三日目の朝、大将が自らイェリズのもとにやってきた。

「巫女殿が居ながら、この体たらくか」

 イェリズの顔を見るなり怒声を発する。紳士然と構えていることが多い大将が、あからさまに苛立ち、且つ酷く憔悴している。

「巫女殿が奉仕して、御神宝を御移し申し上げるのだ。祟りを受けるはずがない。祟りだというのならば、巫女殿に何か越度が御有りなのではないか」

 イェリズは、この野営地に籠って以来、頭から布は被っているものの顔は露出していた。怒鳴りつけられても、静かな無表情を崩さない。

「御具合が随分お悪そうですね。商人たちの薬は効きませんか」

 大将はぎょっとした様子で腹を押さえる。

「私の薬を差し上げましょう。痛みは軽くなりましょう。それでも華都へ向かうのは無理なこと。遊砂の都へ戻って医者に診せねば手遅れになります」

 イェリズは懐から小さな包み取り出した。

「何故、私の腹痛を知っているのだ」

「巫女は祈祷を致します。病人は見慣れております」

「薬などいい!」

 落ち着きなく動き回りながら、大将は苛々と怒鳴り続ける。

「引き返せと申すか。それは巫女殿の思う壺だな。自分の越度を棚に上げて!!」

 異教の男と番うことを巫女の越度というならば、イェリズに責められる理由はなかった。

「……神が御神宝を移すことに御怒りなのです。私も怒りを鎮めるよう祈祷いたしますが、それでは足らぬでしょう。都へ戻り、再び神殿へ安置せねば……」

「御神宝を再び遊砂の都に戻すことなどできん!決して、許されんのだ!」

 睨みつける大将を、巫女は突き放すような顔で見ている。罵倒されるのは慣れていた。

「御神宝は持って行かれると良いでしょう。私はここに残り、皆様が次の集落へ辿り着くまでの間の祈祷を致しましょう。それから、ここを立ち遊砂の神殿へ帰り、そこで正式の祈祷を致します。大将様も遊砂へ同行して下されば、手遅れにならずに済むはずです。本隊は副官様に御任せなさいませ」

「それはご立派な助言だな。先ずは今吹き荒れている砂嵐を何とかして頂きたいものだ。そんな神通力があるならば、な!」

「止めましょう」

 静かな口調だったが、声は窟の中に響き渡った。耳をそばだてて、大将と巫女のやり取りを聞いている多くの気配が息を呑む。

「止めてみせましょう。昼過ぎにはここを立てるように致しましょう。さすれば、私の申し上げたことも聞いていただけましょうか」

 大将は暫く巫女を睨んでいたが、「砂嵐が本当に止めば考えてやろう」と、吐き捨てて去って行った。

 火群は憤りを感じた。

なぜ、砂嵐を止めるなど、引っ込みのつかないことを云うのか。なぜ、怒りを買うような態度をとるのか。態々、立場を悪くするイェリズに腹が立った。

 大将が去ったのを確認して、イェリズの両肩を掴み、岩壁の奥に押し付けた。周りに聞かれないように、顔を近づけ声を潜める。

「帰りたいのはわかるが、無理を言うな。大将と諍うな。砂漠を抜けるまで我慢するのだ。良いな」

 イェリズは悪びれることなく真っ直ぐにこちらを見ている。

「帰りたくて云っているわけではありません」

「いい加減に致せ。俺は、俺は、話を聞いている」

 苛立ちが詞を荒くする。

「今まで誰も話を聞かなかったかもしれないが、俺は聞いている。したり顔で、人を小馬鹿にするのは止めろ。殺されるぞ」

「帰りたくて云っているのではないのです」

 肩を強く揺さぶると、イェリズは力なく首を横に振った。

「私は……二度と遊砂の都に帰ることはありません」

「無礼を致した」

 もう、良い、と火群は思った。ぐったりとしている巫女を座らせる。

人の強情さを案じてやるほど、当方は御親切にはできていない。もう、良い。

「私が何かを為すのではありません。何かを為せるはずもございません」

 一礼をして離れた火群の背に、いつになく頼りなげな声が追ってくる。しかし、火群は振り向きたくなかった。身勝手だと思った。差し伸べた手を掴まないなら、それまでのことだ。

 火群は、巫女の側を離れて大将の側に侍した。大将も苛立っていた。見るからに体調が悪そうで、火群の顔を見ると手招きし、人払いをした。

「どう思うか、あの巫女を。なぜ、私の体の具合まで知っておるのだ。誰かがあの女に教えているのではないのか。あの女は誰ぞの手先で、何かを企んでいるのではないのか。遊砂では、あの女は王族とはいえ……後ろ盾もない、とるにたらぬ者と聞いたが……何かおかしくはないか」

 声を潜め、神経質な口調で問い質す。

「巫女様に不審な所は見当たりませぬが……御具合が宜しくないことは、今なら自分が見ても分かるかと……」

 大将は落ち着きなく体を揺すり、頭を何度か擦る。

「……いや、おかしい、おかしいだろう。第一、御神宝が紛失した時も、あの巫女はなぜそれを知り得たのだ」

「巫女様でございますれば……」

「馬鹿げている。そんなこと、貴様だって思ってはいまい。貴様のことも調べたのだぞ。私は貴様を買っている。名家の出ではないか。家を再興しようとは思わないか。力を貸してやらぬでもない。私に忠義を尽くせ」

 これまで火群は、大将には些か好意的な感情を持っていた。今迄仕えた華国の将の中では真面だと思っていた。こんな物云いをする大将は、正直、余り見たくなかった。

「良いか、火群。あの得体のしれぬ巫女から目を離さず、不審な行動はないか見届けよ。出来得る限りあの女に取り入って、何を企んでいるのか聞き出せ。良いな」

「は」

 一応、頭は下げた。

 家の再興など有り得ないだろう。それは火群が一番理解していた。それを餌にする大将という人に忠義を尽くす理由もなかった。


 それから間も無くして、イェリズは一人で岩の裂け目の奥の方で儀式らしいものを始めた。荘厳されてもいないただの岩場で、相応の装束も身に着けていない女が立ったり座ったりしながら、呪文のようなものを唱えている光景は、ただ滑稽だった。最初は興味津々で集まっていた観衆からも失笑が漏れた。

 しかし、昼に近づくにつれ砂嵐が収まっていき、儀式を終える頃には青空に変わっていた。兵たちはもはや巫女を笑わなかった。砂嵐を止めたように見えたのだ。大将は、イェリズの提案を呑まざるを得なくなった。戻らなければ命に関わると云われた大将の腹痛は益々悪化している。

 大将とイェリズ、そして火群も含めて十余名の兵が残り、副官が残りの兵を連れて御神宝とともに先に進むことになった。

 

14.


 昼過ぎに本隊は野営地を立った。二日以上続いた砂嵐は止み、不気味なほどの静寂が広がる。残ったものは、所在無げに大将の側に集まっていた。イェリズは洞の奥まったところで独り祈り続けている。大将に女を見張れと云われた火群は、少し離れたところに控えて居た。皆が巫女を怖れて寄りつかねば、その身を気遣う必要もない。声の届く程度に離れていればよかった。

 イェリズが誰かと図って何かを企てているということは無いと火群は思っていた。砂嵐を操る化け物にも見えない。多分、医学や気象の知識を持っているのだ。女の云う未来が見える力も勘が鋭いといった程度のことだろう。火群は元来そういうものを信じない。気持ち悪いとも、恐ろしいとも思わなかった。

 それでもイェリズから離れているのは、大将とは違う苛立ちがあったからだ。

 この女が嫌われるのは、不思議な力のためではなく、男親が知れないためでもなく、人を寄せ付けないその依怙地さの所為のように火群には思える。味方を作ろうとしない可愛げの無さ、強情さを見るにつけ、化け物扱いされるのも自業自得だと思った。

 しかし、その依怙地さは、振り返ってみれば、我が身にも思い当り、苛立ちや歯痒さを感じるのは他人事ではなかったからではないか。似ているが故に手を差し伸べたいと思う自分と頑ななイェリズとの距離に苛立ちを募らせた。

話は聞いている。分かり合えるはずだ。

 そう思う自分を、火群は何より嫌った。

なぜゆえにこの巫女と分かり合いたいと思うのか。女に何かを求めているのか。

 何かを望めば、叶わないことが苦になる。火群は、何かを望むことなど疾うに止めてきた。故にイェリズから離れた場所に居る。

こんな気持に煩わされるのは御免だ。


 再び砂嵐に見舞われ、遊砂の都に向かうはずが、もう一日野営地で過ごすこととなった。皆が何かに怯え疲れている。大将は、病が悪化しているのか、目の下に黒い隈を作っている。イェリズは何度か薬を勧めたが、大将がその好意を受けることはなかった。

「あの女に不審な行いはなかったか」

 大将は目ばかりをぎらぎらさせていた。痛みが不信や恐れを増幅させているように見える。

「独りで祈っていただけで、不審な点は……」

「そうか、そうか。よく見張っておれ」

 頭を下げて下がろうとする火群を、呼び止めた。

「良いか、私は貴様を本当に買っておるのだ。働きには応えよう。家を再興したくはないか。母と妹がいるそうだな」

 唐突に母と妹のことを持ち出されて火群は凍りつく。

「何て顔だ。貴様でも、母や妹と云われるとその様な顔をするのだな」

 母や妹の消息が気にならぬはずもない。火群が国を棄てたのは、母の謀反が露顕したためだった。母がそんな杜撰な計画を立てていたことなど、火群は全く知らなかった。あれは二十一の時。当時の火群は、まだ家を再興し、父の無念を晴らすことを望んでいた。どのような境遇に置かれようとも、自分が月の将軍の後継に相応しい人間であれば、必ずその時は来る。そう信じていた。

 しかし、母と妹の命を助けるために、身分、出自、家族……ありとあらゆるものを神前で棄てた。武人として生きる筈の己も棄てたのだ。そうするしかなかったと思いながら、全てを自分に棄てさせた二人のことを思い出すまいとしていた。そんな自分を情けなく思いつつ「全てを棄てた」と嘯く。

 うんざりだ。何もかも、うんざりだ。

「どうしているか知りたいだろう。もう、十年以上逢っていないはずだ」

「……十五年です。生きておりますか」

「生きておる。が、幸せということもあるまい」

 生きているだけで良いと思った。勝手かもしれない。しかし、火群は二度と二人の人生に関わってはならないように思っていた。

「貴様が立身して迎えに来るのを待っておるだろう。良いな、分かるな」

 大将は執拗だった。病んでいる、と火群は思った。約束もできぬ餌をちらつかせる、そんな卑劣さを配下に感じさせるほど、この人は愚かではない。本人が思う以上に、大将は恐怖に囚われているのだ。

 怖いのは巫女か、砂嵐か。それとも、蔑ろにしている異教の神なのか。

火群には、冷静さを欠いた人間の本性の方が怖かった。


 翌日、漸く野営地を立って遊砂の都を目指したが、途中、砂嵐に二度巻き込まれた。大した砂嵐ではなかったが、その時点で四名が行方不明となってしまった。今までの行程で初めて砂嵐のために人が欠けたのだ。皆の動揺は大きかった。残ったのは、大将、火群も含めて兵が六名、イェリズ、商人の少年。厄介なことに、道に詳しい年配の商人と逸れてしまった。

 少年は道ならば分かると云っていたが、連日の砂嵐で視界が悪いこともあって頼りなげだ。出発してさほど時も経っていないのに、見る見る焦りが小隊に満ちていく。濁った空気越しに照り付ける太陽が渇きを激化させ、狂気は吹き出す寸前まで内に溜め込まれていた。

「あれは?」

小隊の先導をしていた少年が何かを見つけた。皆が目を凝らす。前方の広い面積の砂の上に点々と文様のような隆起物がある。嫌な予感がした。兵士が走り寄って、一番手前の隆起物の砂を手で払った。

「大将様!」

 兵が上ずった叫声をあげた。

 砂の下にあったのは華国兵の亡骸だった。

「まさか、これは皆……人?」

 広い範囲に点在する砂の隆起を、てんでに確認し始める。

 皆、直ぐに気付いた。

 それらの隆起は、先日別れて華国の都に向かった隊の兵士や砂馬、荷物などであった。本隊は遭難したのだ。目の前に累々たる屍を晒している。そして、華国へ向かった隊の遭難地点に、遊砂の都へ戻るはずの我々がいる。……では、ここは一体どこなのだ。

 道案内をしていた商人の少年は東夷の詞で喚きながら逃げ出して行った。それを誰も止めなかった。大将や兵士たちも……最早、誰も何かを判断しようとはしなかった。

 皆が呆然としている中、イェリズの乗った砂馬が迷うこと無く一つの隆起に近づいた。その不自然な冷静さに引き寄せられて、火群はその後に続く。彼の女は、馬から降りると眼前の砂の隆起に手を差し込み、難なく小さな箱を取り出した。まるで、最初からそこに在るのを知っていたかのような動きだった。

「それは?」

 火群が声をかけるとイェリズは憂い顔を向けた。

「御神宝です。存外、小さいものでしょう」

 箱は手の中に納まるほどで、巫女はそれを子供が玩具を持つかの如く無造作に掴んでいた。


 そんなものが欲しかったのか。


 火群は急に恐ろしくなった。

 もし、この箱を取り返すために全てを仕組んだとするなら……否、そんな力を持つというなら、ここへ至る前にやり様があったはずだ。この砂漠で、隊の大半が死んだのだ。そんなものの為のはずがない。


 イェリズも火群を見ている。物云いたげでありながら、躊躇っている様に見える。周囲の空気が失せたかのような息苦しさの中で、次の言葉も見つけられず、唯互いを見ていた。


15.


 天が圧し掛かってくる。火群はそれに耐えるように前を睨んでいた。舌は苔が生えたように乾いて、口腔に落ち着きなく挟まっている。

 イェリズは火群を見つめたままゆっくりと歩み寄った。火群は後退りすることもでない。互いに凝視し合ったまま、触れられる程の近さになった。

 長い時間そうしていたように思えた。しかしそうでもなかったのかもしれない。上ずった声が、火群を現に引き戻した。

「この化け物め」

 振り返ると、血走った眼をした大将が抜身の刀を持って立っている。

「こんなところで死んでたまるか。成敗してくれる」

「止めろ」

 咄嗟に火群はイェリズを庇おうとした。

 咄嗟、そう咄嗟だった。体が勝手に動いただけだ。巫女に無防備な背中を向ける。しかし、思いがけなくも後ろから斜めに強く押し出されて姿勢を崩し、砂に手をついた。直ぐに体を起こして見たのは、大将が巫女の腹に深々と刀を突き刺している姿だった。大将が刀を引き抜くと、巫女は崩れるように膝を着く。その胸を再び刺し貫こうとする大将の腕に、火群は無我夢中で跳び付いた。何か叫んだ様な気もするが、向こうも何かを喚いていた。揉み合い、何発か殴られ、その後は叩きつけるように殴り続けた。

「止めて」

 イェリズの声で火群が我に返ると、大将は鼻血を出して気を失っている。

「暫く動けないわ」

 イェリズは蹲ったまま、男たちの争いを見ている。痛みで顔を歪めていたが、取り乱してはいない。その冷静さに火群は腹を立てた。

「これが、こんなものが、あなたの見ていた未来か。こんな理不尽なことで死ぬのか。そして、俺はこの砂漠で干乾びるのか。こんな死は馬鹿げている」

「これが私の死。どんなに馬鹿げていても、くだらなくても選べない。でも、私にはあなたの未来は見えない。あなたには私に見えない未来があるはず」

 イェリズは痛みに耐えるように下を向く。火群には云いたいことも色々あったが、とにかく今、目の前の女は深手を負っていた。

「傷を見せて……」

「それより、ここを離れましょう。あなたは大将様を殴ったのですから」

 独りで馬に乗れないイェリズを抱いて、火群は馬に跨った。巫女は顔も上げられないまま、人差し指で行先を示す。

「あの連中は?」

「近くに隊商が居ます。先程の少年が連れて戻るはずです」

 なぜそんなことが分かるのか、それとも気休めを云っているのか。火群には、もうどちらでも構わなかった。

「どこへ行く。道が分かるのか?」

「墨湖へ参ります」

 墨湖は、華国とは国交を持たない地域だ。火群も詳らかなことは知らない。遊砂と同族だが、祀る神が違う人々の都市。地下水脈が表出し、墨湖から海へ水路を成していると聞く。

「墨湖まで行けば、あなたは華国でもそれ以外でも好きな所へ行ける。たとえ華国の兵であろうとも、彼らは砂漠で遭難した者を拒んだりはしない」

 巫女は動揺していなかったが、さすがに苦しげで、やがて押し黙った。

 暫く走らせて、馬を止める。砂馬は屈強だが、大人二人を乗せて長時間走るのは無理がある。大将たちからは十分離れた。イェリズの手当もせねばなるまい。

 女を馬から降ろし、馬の荷を調べる。水と少しの食料、華国の紙幣が少し。しかし、薬や傷の手当てができるようなものは見当たらない。

「傷を見せてみよ」

 イェリズは目で笑い、首を横に振った。

「遊砂の女は、親と夫以外に見せることはない」

「今更……どちらもおらぬのに……未来が分かっていたと云うなら、なぜ変えなかった?」

「変えられるなら、変えたかった。……引き返したいと、私、云ったわ……」

「ああ、そうだったな」

 イェリズの話を聞いているようで聞いていなかったのかもしれないと火群は思った。

「悪かった」

「あなたが謝ることなど、何も……」

 如何することもできず、火群は自分の袖の布で横たわる女の顔についた砂や血の汚れを拭いた。


 手当をすることも、どこかへ運ぶことも、最早適わないだろう。この女は死ぬのだ。今、将に俺の眼前で死んでいこうとしている。

 

 火群は女の顔を見ていた。

「私、もし、自分の未来を変えられたなら……きっと後悔した……エクレム様をお助けしなかったことを……自分が助かるためになら為せることを……して差し上げられなかったら……そんな私だったら嫌。だから、これでいい」

 イェリズは左手をごそごそと動かした。

「どうした?」

「これ……」

腕を持ち上げると大きな丸い飾りのついた腕飾りがぶら下がっていた。

「これ?」

「ええ、外して。それから……内側の袖を外して」

 腕飾りは簡単に外れたが、袖は肩まで捲りあげなくてはならなかった。外した麻布の袖には、墨で何か描かれている。砂の上で広げると極めて簡略な地図だった。

「見せて……」

 顔の前に出すと、イェリズは震える指で「ここ」と一点を指した。今いる場所ということらしかった。

「その腕飾りは、方位磁石というもので、墨湖の人がよく使うものです。北を指してくれます。但し、砂嵐の最中には当てにしないで下さい」

 魔法の道具の様なものがあるとは、火群も聞いたことがあったが、実際見たのは初めてだった。

「恐らく夜までに着けるはずです。砂馬は水を積んでいますから、潰さぬ様に気を付けて連れて行ってください」

 死んでゆく者が、他人の旅の心配をしていた。

「これで良かったのか」

「ええ」

「御神宝はどうする?」

「私と一緒に砂に帰ります。遊砂の巫女として異教の地へ御神宝は渡すのは忍びない」

「俺が神殿へ戻すか?」

「……いいえ、もういい。争いの種になるだけ。所詮、人の作ったものです。私が持って参ります」

「あなたはこれで良かったのか」

「そんなにくだらない死に方でもない…見送ってくれるのが、あなたで良かったと……」

 詞が途切れた。砂を薄く纏って乾いた顔に、滴を帯びた長い豊かな睫毛が揃って伏せられた。


  16.

 

 自分は何処から来て何処へ行くのか。

 そんなことは、誰もが知りようのないことだった。それはイェリズも同様であったが、彼女には道筋が必要だった。不条理な物事の全てを呑みこむための鎮痛剤にも似た何かが必要だったのだ。イェリズは夢と現を行き来しつつ、己を保ち、少しずつ確実に壊れていく。自分の行く先も少女の頃の夢が決めていた。


 十六の誕生日の夜のことだった。自分の寝台に横たわったはずのイェリズは、神々の食卓に上っていた。大きな方形の石の卓に魚と共に並べられている。上座正面に長くて白い髪と髭を蓄えた大柄な老人が座し、六人の男たちが左右に対面している。そして、卓の下手には一際美麗な若い男が立っていた。都の地下を流れる川の神、イェリズの父神である。

「太源神よ、そして諸々の神よ。ここに有るは、我が川の産したものばかり。存分にお召し上がり下され」

「これは美しく育ったものだ」

 卓の上のイェリズは神々に覗き込まれた。目を見開いた六人の神々には瞳がなく、そのかわりに丸い虚があった。

「では、太源神には頭を、冥界の神は胸、豊穣の神は腹、地の神、空の神は両の腕、水の神、火の神は両の脚……」

 そう言いながら、父神は細い刀で器用にイェリズの体をさばいていく。痛みもなく、血も出ない。それでも、ばらばらになって神々の皿の上に取り分けられたイェリズには、痛み以外の感覚が残っている。神々に食いちぎられて骨ごと嚥下されても、イェリズはイェリズの意識を持ち続けていた。

「太源神は、またお召し上がりにならぬのか。この度の贄は、食が細くなられた太源神のために特別に用意したわが娘。是非、お召し上がりください」

 太源神は全く手を着けようとしない。イェリズの肉体のほとんどは神々の胃に納まったが、頭部だけが無傷のまま皿の上にあり、大きく目を開いて太源神を見ていた。

「これを食むには、儂は歳を取り過ぎた。儂の時代は終わるのだ。遊砂都の川の神よ、そなたは若々しい姿だが、あの川はもうじき枯れる。このようにもてなしを受けても、たいしたことはしてやれぬ。あと五十年、その流れを絶やさずにおこう。それが精一杯じゃ。川が枯れれば、遊砂の都も滅びる」

 老いた神はごつごつとした手でイェリズの小さな頭を撫でた。

「遊砂に新しい時代が来るのはいたしかたないこと。神々も弱り、飢えておる。儂はこの娘は食まぬ。儂が食まねば、この首より再び胴と手足が生え、しばしの間、飢えた神々の胃の腑を満たすであろう」

 太源神はイェリズの首を掴んで高々と掲げ、神々の方へ向けた。

「この娘は古き祈りと共に砂に眠り、儂の葬送を司る者である」


 この時から、イェリズは、月に一度、神々の食卓に上ることになった。身を食される度に新しい体に生まれ変わり、神々からさまざまな予言が授けられた。百回目の饗応の後、皿の上のイェリズの頭を撫でながら太源神は言った。

「これが最後である。そなたの命は残り一年となった」

 イェリズは、静かに瞬く。もう幾度も、神々から自分の終わりは聞かされていた。

「手負いの若き白獅子……そなたが望むなら、ともに終わらせてやろう」

「獅子には未来がないのですか」

「そなた同様に虚の病に取りつかれておる。あれは先を望まぬのだ。そなたの虚と獅子の虚は呼び合っておる。そなたが誘えば、必ず応える。そなたには良い連れであろう。この砂の地でともに眠るがよい」

 連れ……イェリズが生まれてこの方、それを望まぬ日はなかった。誰かに寄り添うことも、寄り添われることも、望むこと自体が罪なのではないかとイェリズは思っていた。神の許しを得て、それは手の届くところにあった。

「……望みませぬ」

 今まで我慢してきたことだから、自分に耐えられないはずはない。もう少し……あともう少しなのだから……誰も連れて行ってはならない。自分なら耐えられる。

「あの獅子の虚も私が抱いて眠りましょう。どうぞ、先を見せてあげて下さいませ」

 イェリズがもう一度瞬きをすると、つうっと、涙が頬を伝った。


17.


 イェリズは二度と目を開けることはなかった。意識を失うまでは苦しげだったが、それも通り過ぎ、穏やかな表情で最期を迎えた。

火群は呆然と自分の腕の中で死んでいく女を見ていた。それが抜け殻になっても、暫くそのままでいた。

 どこかに安置してやらねば……

 抱いたまま立ち上がると、イェリズの頤が突き出すように上を向き、未だそこだけは命が宿っているかのような唇から赤いものが流れ出た。命の最後の一滴。それは砂に滲みて消えた。

火群は砂を浅く窪ませて巫女を横たえた。衣服の乱れを整えて手を胸の前に軽く組ませ、その手の中に御神宝を納める。

「これで良かったのか」

 眼前でさらさらと砂が流れた。

「これで良かったのか」

 未来が見えるという女は何も答えず、その唇にも砂が溜まっていった。


 砂漠の中で独り、火群はイェリズの生涯を想った。

 そして、なぜか長い間思い出すことの無かったことを思い出した。


――なぜ、朝方早くに鳴く鳥の声は白いのですか――

 あどけない舌足らずな声。丸い頬は菓子の匂い。

――兄様、今日は早く御帰りですか。お戻りになったら、遊んでいただけますか――

 彼れっきり、帰ることはない我が家。


 砂をうっすらと被った亡骸の側で、今しがた亡くしたものと、遥か遠い昔に失ったものを思って、火群は哭いた。砂を掴んで、哭いた。

 暫く哭いて、それから砂馬の手綱を引いて墨湖を目指した。方位磁石と地図を頼りに、ただ砂の海を踏み続ける。地形の違いなど、火群には見分けがつかない。変わらない風景が延々と続く。

もし己の死を事前に知っていたら、淡々とそれを受け入れられるものだろうか。避けることが叶わぬとしても、足掻き続けるのではないか。

 火群には、イェリズがまるで自ら刃の前に身を晒した様に見えた。

 刺されると知っていたなら、逃げようもあったのではないか。どうせ刺される運命なら、人を巻き込みたくないとでも思ったのだろうか。

 もし俺がイェリズなら……嗚呼、そうだと、火群は妙に納得した。

 俺が彼の人なら、決して俺に俺の最期など教えはしない。俺はそんなに強くはない。エクレムという少年の未来が見えていても、イェリズは変えようとした。俺の未来も見えていて、それでも生き延びさせるために懇ろに準備していたとするなら……

 変化のない砂の世界を歩みながら、何かに辿り着けることなど決して無い様に火群には思えてきた。是が俺の死なのか。やがて水は尽き、全身の血が煮えたぎるような渇きに苦しみながら死んでいくのだろうか。

 水を摂っていても体温の上昇は起こっている。 

 火群はふわりと漂う甘い香を感じた。

 花の香だ。嗅いだことがある。そうだ、初めてイェリズに逢った時、祈祷の時に焚かれていた香だ。彼の女が体を動かすと、それに合わせて漂ってきた。

<ナゼ、朝ガタハヤクニ鳴ク鳥ノ声ハ白イ>

 甘い丸い柔らかい頬に手が届きそうだ。手を伸ばすとその頬の持ち主は、今まで見たこともない頑是ない笑顔のイェリズになった。

<白イ声ノ鳥ハ、朝ノ滴ヲ飲ンデ白イ>

 歌うような声が降る中、砂に腰を下ろした。

<ナゼナゼ白イ>

 嗚呼、もういいさ。悪足掻きはしない。この香り、側に居るのだろう。迎えに来ているならば、もう連れて行ってくれ。あなたが逝くときは看取った。ならば、俺の死にも立ち会ってくれ。この虚な身を穏やかさだけで満たしてくれ。

<クスクスクス>

 さざめく笑い声と歌うような祈祷の呪文が混じり合い、波打つ。

<クスクスクス>

<ナゼ、白イ、鳥、ナゼナゼ白イ>

 波打つ詞の中に漂うイェリズの影を、火群は何の疑いも持たず腕に抱いた。

<私の見えない未来、あなたの未来>

 幻の体には、手触りも肉の重さもあった。生きている時には触れようとしなかった女の身体をまさぐる。女は男の頬を両手で挟み、唇を唇で触れた。眩暈がする程の強い香が鼻孔に吹き付け、火群は目を閉じる。香りは徐々に薄れていった。

 右手に握っていた手綱が引っ張られて、目を開ける。砂馬がまるで心配するかの様な目で見ている。幻は消えていた。


 改めて火群は方角を確認する。遠くの空気が揺らめいている。赤茶けた砂の地平に湧き立つような濃い影。郭を象る灰色。疎らながらも深い緑。集落村だ。否、もっと規模が大きい。城都のようだ。地図と合わせてみれば、墨湖の都市であってもおかしくない。

「は……」

 気が抜けた。目で確認できるところに都市がある。イェリズが云ったように、夜までに墨湖に辿り着けるのだ。見えるものを目で追いながら歩ける。随分、気が楽になった。

 歩きながら、漸く先のことを考えた。

 華国の遭難兵と名乗って、再び、華国に帰るのか。それとも……過去を捨てれば、違う未来はあるか。未来。自分の未来。

 歩きながら考えていた。考え続けていた。しかし、歩いても、歩いても、目の前の影には近づけなかった。考えが纏まることがないように、都市への距離も縮まらないのだった。女がくれた未来は、所詮変えることの叶わぬものなのかもしれない。火群は呻いた。

 揺らめく影を追い、縺れる足を引きずりながら、遠のいていく意識と闘っている。


 何かを変えられるものなのか、受け入れるしかないものなのか。

 

 果てしなく砂の海は続く。風が作る文様が則を示すように地表を這う。ここには過去も未来もない。ただ繰り返す現在が幻のように漂っているだけだった。

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