「お前からその面を取ったら何の価値もねえ」と仰る旦那様から財産を取ったら、何が残るのでしょう?
「なんだこれは」
ひと口すするなり、旦那様はカップの中身を私に浴びせかけた。
「このオレ様に、こんなぬるい紅茶を飲ませる気か?」
「も、申し訳ありません。旦那様。すぐに新しいものを──」
「もういい。それより片付けろ。オレ様が怪我をしたらどうする?」
「しょ、承知いたしました……」
旦那様は頬杖をつきながら、私を鋭く睨みつける。
私はぴくりと肩を揺らすと、言われた通りに散らばった破片を集め始めた。
──ああもう、最悪……
さっきから手首がじくじくと脈を打っている。
早く冷やしたいけど、この人はそれを許してはくれないだろう。
なんなら、私に火傷の跡を残すことが目的とさえ思える。日頃の鬱憤を私にぶつけることで発散しているのだから。
破片を集め終えた私は、使用人たちの心配そうな視線を一身に受けながら足早に給湯室に向かった。
左の手首を水に浸しながら、私は浮かんでくる涙を抑えるので必死だった。
「ほんと、最悪……」
誰もいないのを確認してから私は独りごちる。
私は三ヶ月前、ギルベルト・アンシャント伯爵の妻になった。
以前の肩書きは、レゼット・ハーヴィッツ男爵令嬢。
北の外れの、猫の額ほどの領地しか持たない貧乏男爵家の長女だ。
そこへ伯爵家から縁談が舞い込んだのは半年前のことだった。
きっかけは、王都の夜会だったらしい。お父様に連れられて行ったのが運のつきだった。
旦那様は私をひと目見るなり、「あれならオレ様の隣に置いても見劣りしない」と値踏みし、縁談の話を持ちかけてきた。
彼は、ハーヴィッツ男爵家に借金があることを見抜くと、借金の肩代わりするとまで言ってきた。
お父様は二つ返事で了承した。私には意見する暇ももらえなかった。
そのまま流れるように婚礼の日がきて、私はアンシャント伯爵夫人になった。
その結果がこれだ。
旦那様は夜会で半歩後ろに連れおく飾りが欲しかったのだろう。そして、八つ当たりができるサンドバックが欲しかったのだと思う。
水から手を上げて、ハンカチで目元を押さえる。
明後日は侯爵家の夜会だ。
袖の長いドレスを選ばなきゃ、と考えたところで、ふと手が止まった。
──もしかしたら彼も来るのかな……
私はかぶりを振って、浮かんだ顔を追い払った。
§
夜会での旦那様は、屋敷とは別人のように機嫌がいい。
「お久しぶりです、ギルベルト様。お噂には聞いてましたが、お美しい奥様ですね」
「ハッハッハッ、よく言われる。何しろ、このオレ様が選んだ女だからな!」
旦那様の昔馴染みらしい人が、揉み手をしながら声をかけてきた。その後ろからもゾロゾロと人がやってくる。
彼らの様子を見て旦那様との関係には察しがついた。
私はドレスの裾を握りしめながら、無理やり笑顔を繕う。
「このドレスも髪飾りも、オレ様が見立ててやったんだぜ。男爵家の娘には過ぎた品だが、まあ、見栄えだけはいいからな。飾り甲斐があるってもんだ」
──請求書に署名しただけのくせに……
「さすがです! ギルベルト様は昔から色彩のセンスが優れてましたからね! 奥様が羨ましいです!」
恐らく、レイヴァン子爵家の次女らしい子が横から声を上げる。
旦那様はふんっと自慢げに鼻を鳴らすと、私の肩を抱いた。
「だってよ、よかったな。レゼット」
「はい。旦那様に見立てていただけて、私は果報者です」
笑顔を貼りつけたまま、そう答える。
旦那様は満足げに頷くと、肩に回していた手をほどく。今度は私の左手首をつかんで引き寄せた。
「おっと、あちらにいらっしゃるのは公爵閣下じゃないか。来い、ご挨拶に行くぞ」
旦那様は私の手首をつかんだまま、大股で歩き出した。
火傷の真上に指が食い込んで、思わず顔が歪む。
「……っ」
「なんだ、その顔は」
舌打ちとともに、手首を乱暴に放り出される。
「公爵閣下の前でその辛気臭い顔を晒す気か?」
「い、いえ。そのようなつもりはございません!」
「オレ様に恥を欠かせんな。さっさと顔を直してこい。お前からその面を取ったら、何の価値もねえんだからな」
「……はい。かしこまりました」
ずきずきと疼く手首を押さえて、私は人の輪を抜ける。
化粧室へ向かうふりをして、そのままテラスへ出た。
手すりにもたれて小さく息を吐いた。点々と咲く星を眺めていると、背後から近づいてくる足音がした。
「──ずいぶんご立派な旦那だな。レゼット」
振り返るまでもなく、その声が誰のものかわかった。
「……ルイス」
月明かりに照らされた淡く輝く銀髪。それに削ぐわない仏頂面を携えた、私の幼馴染──ルイス・シルヴィット子爵令息。
私はさり気なく左手を背中へ隠す。
「見てたんだ。最悪……」
「あれだけ大声を出されては嫌でも聞こえる」
ルイスは私の隣に着くと手すりに片肘をついた。
その手には、飲みかけの果実水のグラスが握られている。
「左腕」
「え?」
「隠すならもっとうまくやれ。昔から見られたくないものは背中に隠す癖がある」
「そ、そんな癖ないし」
「なら、見せても困らないだろう」
ルイスは左手を見せてみろと言わんばかりに、私を見つめてくる。
私は観念して、左の手首に残った火傷の跡をルイスに向けた。
「旦那にやられたのか」
「やられたっていうか……紅茶がぬるいって怒られて、カップを投げられた時にかかっちゃった感じ」
ルイスは眉を寄せる。
「それは旦那にやられたでいいと思うが。なにより、ぬるい紅茶で火傷はしない」
「知ってる」
思わず乾いた笑いがこぼれた。
「少し見ないうちに、レゼットの表情は暗くなった。お前に伯爵夫人は向いてない。いっそ逃げたらどうだ?」
「無理だよそんなの」
「小さい屋敷であればすぐに用意できる。しばらく生活の面倒は俺が──」
「そういうことじゃなくて」
私はルイスの声を遮ると、袖を下ろしながら続けた。
「お父様の借金を全部あの人が肩代わりしたの。もし私が逃げ出せば、借金を返せって言い出すと思う。そんなの絶対にダメ。というか、正式な手順も取らずに逃げ出すなんて貴族として恥ずべき行為だよ。ルイスも冗談を言うようになったんだね」
「……冗談か」
ルイスは短く息をつくと、私の顎先に触れてクイっと持ち上げた。
「俺が伯爵からお前のこと買う。だから一生俺の傍にいてくれ」
「え?」
「冗談ってのはこういうことを言うんだ」
ルイスは私の顎から指を離すと、ガラス戸の向こうに視線を移した。
私は体温が数度上がったのを感じながら、荒れる心臓を必死に押さえ込む。
──反則だこんなの……私の気持ちも知らないで……!
「わ、私は伯爵夫人なんだからね。誰かにみられたらどうするわけ!?」
「そのくらいの注意は巡らせてる」
「ふ、ふーんそうなんだ……って、そう言う問題でもないし!」
「フッ、さっきより顔色がよくなったな」
「は、はあ?」
私がぎこちなく頬を歪めると、ルイスはわずかに目元を細めた。
──もしかして、元気づけようとしてくれたの?
そう思ったら余計に顔が熱くなる。
「で、さっきの話の続きだが」
ルイスはグラスの縁を指でなぞりながら続けた。
「正式な手順を踏むなら行き着く先はひとつだ。伯爵に離縁状を書かせる」
「そんなの書くわけないよ。お父様の借金のことだってあるし……」
──他の令嬢に目移りでもしてくれれば別だけど、そんなの希望的観測だし
「それは単純に追い込めばいい」
「追い込むって……」
「伯爵様に多額の借金を背負わせる。首が回らなくなったところで俺が肩代わりを申し出る。見返りはレゼットとの離縁と、ハーヴィッツ家への貸しを帳消しにすること」
──確かにそんなことができれば、私は自由になれるけど……
その未来を想像して、私はハッと顔を上げた。
「というかそれ、さっきの冗談そのままじゃん。ルイスが私を買ってるようなもん」
「それは捉え方の問題だ。別に、俺はレゼットをどうこうするつもりはない」
ルイスは涼しい顔でグラスを傾けた。
「ふーん……。でも、借金なんて背負わせられるの?」
「シルヴィット子爵領の山奥に、銀が出なくなって久しい廃坑がある。あそこから、金脈が出たことにする」
「嘘の情報を吹き込んで山を買い取らせるってこと?」
「そうだ。金脈が出たとなれば先行投資で伯爵家の財産を全て注ぎ込んででも、手に入れようとするだろう」
「……そんなにうまくいくかな」
「ああ。まあ細かいことは俺がやる。心配するな」
ルイスはあっさりと言い切った。
「レゼット。お前は今までどおり屋敷にいればいい。だが、そうだな。伯爵が浮かれ出したら、一度だけ止める芝居を打ってくれ」
「止める芝居?」
「ああいう男は、自分のしようとしていることを止められると意地になるもんだ。そのほうが都合がいい」
──確かにそうかも……
私が頷いてみせると、ルイスはほんの少しだけ口角を緩めた。
「だからまぁそんな暗い顔するな。お前には笑顔がよく似合う」
「ルイス……」
そのちょっと不器用な慰めに、私は沈んでいた気持ちがすっと上向いていくのを感じた。
§
夜会から、ひと月ほどが経った頃だった。
賭場から帰ってきた旦那様は、上着を脱ぐのも忘れて私を呼びつけた。
「レゼット、どこだ? オレ様なぁ、とんでもねえ話を聞いたぜ!」
シルヴィット家の坑夫が酒場で口を滑らせたのだと、旦那様は口火を切った。
山奥の廃坑から金が出た。けれど子爵家には掘る金がない──そんな話を、旦那様は大層楽しそうに語る。
「ほかの連中が嗅ぎつける前に、オレ様が山ごといただいてやる! そうしたら、てめぇにもまた新しいドレスを買ってやるぜ。嬉しいだろ、おい!」
「旦那様飲み過ぎです……」
「ああ? 酔ってねえよ、これくらい」
旦那様はへらへら笑いながら、ソファにドカッと沈み込んだ。
──酒臭くてほんと嫌になる……
でも、ルイスの言っていた通りだ。見事に食いついている。
「それに旦那様、本当に大丈夫なのでしょうか? そんなうまい話、誰かの罠かもしれません。どうか、今一度よくお考えになって──」
「あぁん?」
旦那様は血走った目で私をギロリと睨みつけた。
「女が口挟むんじゃねえ! 見とけよ、レゼット。あの田舎者どもの山、オレ様の慧眼で根こそぎ買い叩いてやらあ!」
怒鳴り終えるが早いか、旦那様は酒瓶をグラスに傾けた。
──……私は止めましたからね
とはいえ、酒場の噂ひとつで屋敷の財産を賭けるほど、旦那様も底抜けではなかった。
翌朝、旦那様は家令を呼びつけ北のシルヴィット領へ向かわせた。
五日後、家令から一通の手紙が届く。
シルヴィット家に坑道の見学を断られたという知らせだった。
「見せられねえってことは、見られちゃ困るもんがあるってことだ」
手紙を握りしめて、旦那様はにやりと笑った。
その日のうちに返事の早馬が北へ走った。
家令が戻ってきたのは、それから十日ほど後のことだ。
坑夫のひとりを金貨で抱き込み、夜のうちに坑道へ入り込んだらしい。机に広げられた石には、ところどころ金色の粒が光っていた。
旦那様はその石をすぐに王都の鑑定士へ回した。
三日後に戻ってきた鑑定書には旦那様が欲していた結果が書かれていたらしい。
「どうだ! オレ様の目に狂いはなかっただろうが!」
──ルイスの言ってた『細かいこと』ってこれのことか。
旦那様が買収したつもりの坑夫も、きっと最初からルイスの手の者だ。
ちょうど同じ頃、公爵家の家令がシルヴィット領に出入りしている、という噂まで流れてきた。
「あの山はオレ様が先に目をつけたんだ! 渡してたまるか!」
結局、旦那様は屋敷を担保に入れて大金を借り、シルヴィット家が提示した額をそのまま払って山を手に入れた。
──買い叩くはずが、向こうの言い値。
ルイス、いったいどんな顔で権利書を渡したんだろう。
§
それから半年が過ぎた。
アンシャント伯爵家は、すっかり空っぽになっていた。
買い取った山からは金のひと粒も出なかった。
それでも伯爵は「鑑定書がある」「もう少し掘れば」と言い張り、借りられるだけの金を借りては山に投げ込んだ。
気がつけば借金は、伯爵家の領地をすべて手放しても返しきれない額になっていた。
手のひらを返した取り巻きたちは屋敷に姿を見せなくなり、給金の途絶えた使用人たちもみな暇を取って出ていった。
そして今日、差し押さえの役人たちが、残っていた家財を根こそぎ運び出していった。
夜。調度品ひとつない書斎で、伯爵は床に座り込んでいた。
「ありえねえ……オレ様が、騙されるなんて……」
あれほど大きかった声は、もう見る影もない。
戸口のそばに立ったままその背中を見つめていると、廊下から静かな足音が近づいてくる。
足音の主は、書斎の入り口でぴたりと止まった。ルイスだ。
「風通しのいいお屋敷になりましたね。伯爵」
「お前は、シルヴィットの倅……! 何の用だ!」
「お困りのご様子でしたので、お力添えに参りました」
ルイスは懐から一枚の証文を取り出し、伯爵の前に差し出した。
「条件を呑んでいただければ、伯爵がお抱えの借金はすべて私が肩代わりいたします」
「条件……?」
ルイスの視線が一瞬だけ私に向けられる。
「レゼットと離縁していただくこと。それから、ハーヴィッツ家への貸しをすべて放棄していただくことです。詳しくはこちらに記載しております」
「なっ、ふざけやがって!」
「お断りになるのでしたら無理にとは申しません」
伯爵は奥歯をぎりりと鳴らし証文をひったくった。
ろくに目も通さず、殴り書きのように署名する。
「これで文句はねえだろうが! さっさと金を──」
──バゴッ!
言い終わる前に、ルイスの拳が伯爵の頬を打ち抜いた。
鈍い音とともに伯爵の身体が床を転がる。
「ぁッ、がぐッ! て、てめえ、いきなり何しやがる! 訴えてやる!」
「証文の最後までよくお読みください」
「あ、ああ?」
「ご自分でサインされましたよね?」
伯爵は頬を押さえながら証文に目を落とした。
そこには、小さな字でこう書かれていた。
──ルイス・シルヴィットからの殴打を一発無条件で受け入れること
「な、なんだこのふざけた文言は……」
「契約を結ぶときは、隅々まできちんとお読みになることです。さもないと、痛い目を見ますよ。今みたいに」
ルイスは赤くなった指の節をさすりながら、淡々と付け加えた。
伯爵は口をパクパクさせるだけで上手く声を出せずにいる。
「ではさようなら、伯爵」
ルイスは最後にそう吐き捨てると、私の手を引いてそのまま書斎を後にした。
外に出ると、ひんやりとした夜気が肌をなでた。
「ルイス、手! 手、見せて。腫れてるでしょ、絶対!」
有無を言わさず右手を取ると、指の節が真っ赤になっていた。
私はハンカチを取り出して、ていねいに巻きつけていく。
「あんなに思いっきり殴るなんて思わなかった。証文に書いたからってさすがにまずかったんじゃない?」
「ああ。でも一発くらい喰らわせないと気が済まなかった。気持ちわかるだろ?」
珍しく微笑みかけてくるルイスに、私の口角も釣られて緩む。
「うん。胸がすーっとた。……ありがと、ルイス」
ルイスはすっと視線を夜空へ逃がした。
その横顔を眺めていたら、あの夜のテラスでの言葉がふと脳裏によみがえった。
「ねえ結局、私ってルイスに買われたことになるの?」
「なるわけないだろ。これからどう生きようが全部お前の自由だ」
「ふーん、そっか……。でも行く場所ないな。お父様にはあんまり会いたくないし」
「なら、取り敢えず俺と一緒にくるか」
「うん、行くっ」
私は大きく頷いて、ルイスに向かってとびきりの笑顔を向ける。
ルイスはフッと小さく笑うと、くしゃりと私の頭を撫でた。
「ほら、帰るぞ」
差し出された手を取り、私は夜道を歩き出すのだった。
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