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 後編 名もなき襷


後編では、ついに名もなき駅伝部が初めての大会へ挑みます。


廃部寸前だった部。

たった三人から始まった駅伝部。

そこに転校生・黒瀬蒼が加わり、少しずつ仲間が増え、ようやく七人で襷を繋げるところまで来ました。


けれど、彼らはまだ強豪ではありません。

実力も経験も足りない。

替えの選手もいない。

一人でも崩れれば、そこで終わってしまう。


それでも、彼らには繋ぎたい襷があります。


勝利だけではなく、仲間の想いを背負って走ること。

逃げていた過去と向き合うこと。

そして、自分たちの名前をもう一度学校に刻むこと。


名もなき駅伝部の本当の一歩を、最後まで見届けていただけると嬉しいです。



 地区予選の朝は、まだ夜の名残を引きずっていた。


 空は薄い群青色で、東の端だけがわずかに白み始めている。駅前のロータリーには、通勤客の姿もまだ少なく、吐く息がほんの少し白く見えた。


 青葉悠真は、肩から提げたバッグの中にある襷袋を何度も確かめていた。


 色あせた紺色の襷。


 そこに縫い込まれた、たった一言。


 繋げ。


 昨日の夜も、眠る前に何度も見た。

 目を閉じても、その文字だけがまぶたの裏に残っていた。


 廃部寸前だった駅伝部。

 部員三人しかいなかった駅伝部。

 顧問さえも諦めていた駅伝部。


 その駅伝部が、今日、初めて正式な大会に出る。


 たったそれだけのことが、悠真には信じられなかった。


「おはよう、悠真」


 振り返ると、成瀬光がノートを抱えて立っていた。眼鏡の奥の目は眠そうだったが、その手にはいつもの練習記録がしっかり握られている。


「おはよう、光。寝られた?」


「二時間くらい」


「それ、寝たって言えるのか?」


「一応、横にはなった」


 光らしい返事に、悠真は少しだけ笑った。


 そこへ、三枝陸斗が大きな欠伸をしながらやって来た。


「眠い。朝早すぎ。駅伝って競技、まず集合時間からおかしいだろ」


「大会だから仕方ないよ」


「仕方ないで済ませるなよ。こっちは緊張で昨日から胃が変なんだぞ」


「陸斗でも緊張するんだ」


「するわ。俺を何だと思ってんだ」


「文句を言いながら最後まで残る人」


 光が真顔で言うと、陸斗は眉を吊り上げた。


「お前、今日だけは分析禁止な」


「無理」


「即答すんな」


 いつもの会話だった。


 でも、そのいつも通りが、今朝はありがたかった。


 その後、白石拓海、宮原翔、片桐美緒が順に集まってきた。拓海は初めての大会に顔をこわばらせ、宮原は何度も靴ひもを結び直していた。美緒は髪をきっちり結び、胸の前で小さく手を握っている。


 最後に現れたのは、黒瀬蒼だった。


 蒼は無言で近づいてきて、駅前の時計を見上げた。


「遅刻してないよな」


「してない」


 悠真が答えると、蒼は小さく頷いた。


 その顔色は悪くなかった。

 けれど、指先がわずかに震えていることに、悠真は気づいた。


「蒼、大丈夫か?」


 蒼は少し間を置いてから答えた。


「大丈夫じゃない」


 あまりにも正直な答えに、陸斗が目を丸くした。


「そこは大丈夫って言う場面だろ」


「嘘ついても仕方ないだろ。怖いものは怖い」


 蒼は自分の足元を見た。


「襷を見ると、まだ思い出す。中学最後の大会で転んだ時のこと。手から襷が離れた瞬間のこと。周りの声が遠くなって、自分の息だけがやけにうるさく聞こえたこと」


 誰も笑わなかった。


 蒼が走ることをやめた理由を、ここにいる全員が知っていた。


 襷を落とした。


 その一瞬が、彼から走る理由を奪った。


「でも」


 蒼は顔を上げた。


「今日は逃げない。もしまた転んでも、拾って走る。今度は、そこで止まらない」


 悠真は胸が熱くなった。


「それでいい」


 そう言うと、蒼は少しだけ息を吐いた。


 やがて顧問の藤堂誠司が現れた。


 以前のような、やる気のなさそうなワイシャツ姿ではない。今日は上下ともジャージで、首からはストップウォッチを下げている。


「全員いるな」


「はい」


 悠真が返事をすると、藤堂は七人を順に見た。


「忘れ物はないか」


「大丈夫です」


「体調は」


「緊張以外は」


 陸斗が答えると、藤堂は鼻で笑った。


「緊張してるくらいでちょうどいい。緊張しない奴は、何かを背負ってない奴だ」


 その言葉に、七人は少しだけ背筋を伸ばした。


 電車がホームへ入ってくる音が聞こえた。


 名もなき駅伝部は、まだ誰にも大きな期待をされていない。学校の横断幕もない。応援団もいない。新品のユニフォームもない。


 それでも七人は、確かに大会へ向かっていた。


 会場に着くと、空気が一気に変わった。


 広い競技場の周辺には、色とりどりのジャージを着た選手たちが集まっていた。強豪校の選手たちは、歩き方から違って見えた。堂々としていて、迷いがなく、すでに勝負の空気に慣れている。


 人数も多い。控え選手もいる。スタッフもいる。マネージャーも複数いる。


 それに比べて、名もなき駅伝部は七人だけだった。


 替えの選手はいない。

 一人でも崩れたら、そこで終わる。


 拓海がごくりと喉を鳴らした。


「俺たち、本当にここで走るんですね」


「当たり前だろ」


 陸斗が言ったが、その声も少しだけ硬かった。


 光は周囲の学校を見ながら、ノートに何かを書き込んでいる。


「県大会常連校が四校。去年の地区一位と二位もいる。序盤から引っ張られると危ない。全員、設定ペースを守ること。特に陸斗」


「何で俺だけ名指しなんだよ」


「一番飛ばしそうだから」


「否定できねえのが腹立つ」


 美緒が小さく笑った。


 その笑いで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。


 受付を済ませ、ゼッケンをつけ、アップを始める。体を動かしているうちに、冷たかった手足に血が通っていく。けれど、心臓だけはずっと速いままだった。


 スタートの時間が近づく。


 藤堂は七人を集めた。


 古い襷袋から、紺色の襷を取り出す。


 その瞬間、全員の視線が襷に集まった。


「いいか」


 藤堂の声は低く、強かった。


「今日、お前たちは負けるかもしれない。悔しい思いをするかもしれない。自分たちがどれだけ足りないか、嫌というほど思い知らされるかもしれない」


 誰も目をそらさなかった。


「でも、襷だけは繋いで帰ってこい。前の走者が削った一秒を無駄にするな。後ろの走者が待っていることを忘れるな。駅伝は、一人で勝つ競技じゃない。一人で負ける競技でもない。全員で背負って、全員で進む競技だ」


 藤堂は襷を悠真に渡した。


「青葉。お前が始めた部だ。お前が最初に走れ」


「はい」


 悠真は襷を受け取った。


 軽いはずなのに、重かった。


 この襷には、先輩たちの想いがある。

 藤堂先生の過去がある。

 陸斗、光、拓海、宮原、美緒、蒼の今日がある。


 悠真はそれを肩にかけた。


 一区のスタート地点へ向かう。


 周りには、速そうな選手ばかりが並んでいた。細い脚。引き締まった体。鋭い目。どの選手も、今日この日のために走り込んできたことが分かる。


 悠真は自分の足を見た。


 特別速いわけではない。

 才能があるわけでもない。

 記録だけ見れば、平凡だ。


 それでも、自分には役目がある。


 この襷を最初に繋ぐこと。


 号砲が鳴った。


 選手たちが一斉に飛び出す。


 周りのスピードは想像以上だった。悠真は飲み込まれそうになりながらも、必死に自分のリズムを探した。


 焦るな。


 光の言葉を思い出す。


 前を見る。

 呼吸を整える。

 腕を振る。

 足を前へ出す。


 最初の一キロで、前方の集団はすでに遠くなっていた。沿道から声援が飛ぶ。知らない人の声なのに、その一つひとつが背中を押してくれる。


「頑張れ!」


「粘れ!」


「まだ始まったばかりだぞ!」


 悠真は歯を食いしばった。


 速く走りたい。

 少しでも前に出たい。

 陸斗に良い順位で渡したい。


 だが、無理に上げれば後半で潰れる。


 悠真は自分に言い聞かせた。


 自分の走りをしろ。


 二キロを過ぎたあたりで、前にいた選手の一人が少しずつ落ちてきた。肩が揺れ、呼吸が荒い。


 悠真はすぐには抜かなかった。


 じわじわと距離を詰め、相手の横に並ぶ。抜く瞬間、相手の苦しそうな息が聞こえた。


 苦しいのは、自分だけじゃない。


 そう思った瞬間、胸の中の不安が少し軽くなった。


 中継所が見えてきた。


 そこに陸斗が立っていた。


 片腕を伸ばし、今にも飛び出しそうな顔で待っている。


「陸斗!」


「来い、悠真!」


 悠真は最後の力を振り絞った。


 襷を外す。


 震える手で、陸斗へ渡す。


「頼む!」


「任せろ!」


 陸斗が飛び出した。


 二区。


 陸斗はもともと短距離の選手だった。


 だから、スタート直後の加速には自信がある。けれど長い距離になると、どうしても後半で苦しくなる。


 分かっている。


 分かっているのに、前に選手がいると追いたくなる。


「くそ……落ち着け、俺」


 陸斗は自分に言った。


 襷を受け取った肩が熱い。


 悠真の手の感触が残っている。


 あいつが必死に繋いだものを、自分の勝手な走りで台無しにはできない。


 前の選手が少し近づく。


 追いたい。


 でも、今じゃない。


 光の声が頭の中で響く。


 陸斗は呼吸を整えた。腕の振りを少し抑え、足音を一定にする。


 途中で一人に抜かれた。


 悔しかった。


 すぐに追いかけたかった。


 けれど、我慢した。


「後で抜き返す」


 陸斗は低く呟いた。


 残り一キロ。


 さっき自分を抜いた選手の背中が、また近づいてきた。相手の足が重くなっている。


 陸斗はそこで初めてペースを上げた。


 腕を振る。

 足を運ぶ。

 息が焼ける。


 並ぶ。


 抜く。


「悪いな」


 陸斗は小さく言った。


 中継所では、光が待っていた。


 眼鏡を外し、胸元にしまっている。視界は少しぼやけるはずなのに、その目はまっすぐだった。


「光!」


「うん!」


 襷が渡る。


 三区。


 光は速くない。


 自分でもそれを誰より分かっていた。


 体力もない。筋力もない。天性のフォームもない。走り始めた頃は、三人の中で一番遅かった。


 でも、光には積み重ねてきたものがあった。


 毎日の記録。

 心拍数。

 ラップタイム。

 坂道で落ちる秒数。

 向かい風の日の修正ペース。


 全部、ノートに書いてきた。


 だから今日は、その通りに走るだけだった。


 派手に抜かなくていい。

 無理に追わなくていい。

 崩れず、次へ渡す。


 それが自分の役目だ。


 光は呼吸を数えた。


 一、二。

 一、二。


 沿道の声が遠くに聞こえる。


 苦しい。


 足が重い。


 でも、想定内だ。


 苦しくなる地点も、足が重くなるタイミングも、全部分かっていた。


 なら、大丈夫。


 残り八百メートルで、前方に一人見えた。


 追いつけるかどうかは分からない。


 けれど、差を詰めることはできる。


 一秒は小さい。


 でも、七人分なら大きい。


 光は腕を強く振った。


 中継所には拓海が立っていた。


 顔は真っ青で、唇も固く結ばれている。


「拓海!」


「はいっ!」


 襷を渡す瞬間、光は言った。


「焦ってもいい。でも止まらないで」


「はい!」


 四区。


 白石拓海は、人生で初めて襷をかけて走った。


 肩にかかった布は、想像よりも熱かった。


 サッカー部を辞めてから、自分は何もできなくなったと思っていた。怪我を理由に逃げて、走ることからも、仲間を作ることからも離れていた。


 でも駅伝部に来て、もう一度走る場所をもらった。


 最初は体力作りのつもりだった。


 けれど今は違う。


 この襷を、ただの布だとは思えない。


「俺も……駅伝部なんだ」


 拓海は呟いた。


 周りの選手は速い。


 抜かれるたびに心が折れそうになる。


 けれど、後ろから誰かに責められる気はしなかった。むしろ、みんなが待ってくれている気がした。


 だからこそ、止まれなかった。


 坂道に入る。


 足が一気に重くなる。


 呼吸が乱れる。


「っ……!」


 歩きたい。


 一瞬、そう思った。


 でも、その瞬間、朝の蒼の言葉を思い出した。


 もしまた転んでも、拾って走る。


 そうだ。


 苦しくても、走ればいい。


 拓海は歯を食いしばり、坂の上で一人を抜いた。


 中継所が見えた時、目の奥が熱くなった。


 宮原翔が待っている。


「宮原先輩!」


「拓海!」


「お願いします!」


 襷が渡った。


 五区。


 宮原翔は、派手な走りをする選手ではなかった。


 元は文化部で、走ることとは無縁だった。入部したばかりの頃は、外周一周で息が上がり、陸斗に何度もからかわれた。


 それでも宮原は辞めなかった。


 毎日、少しだけ長く走った。

 毎日、少しだけ速くなった。

 毎日、少しだけ昨日の自分を超えた。


 その積み重ねだけで、ここまで来た。


 宮原は無理に前を追わなかった。


 自分の力を知っている。


 自分が大きく順位を上げることは難しい。


 けれど、大きく落とさないことはできる。


 駅伝には、そういう役目も必要だと藤堂先生が言っていた。


 目立たなくてもいい。


 繋げばいい。


 宮原は黙々と走った。


 途中、強豪校の控え選手らしき生徒たちが声援を送っていた。名もなき駅伝部の名前は呼ばれなかった。ただゼッケン番号だけが聞こえた。


「十五番、粘れ!」


 名前じゃない。


 学校名でもない。


 それでも、声は届いた。


 宮原は最後の直線で、力を振り絞った。


 中継所には、美緒がいた。


 片桐美緒。


 最初はマネージャーとして入ってきた彼女が、今は選手として襷を待っている。


「片桐さん……頼む!」


「はい!」


 六区。


 美緒は襷を受け取った瞬間、胸がいっぱいになった。


 ずっと見ていた。


 悠真が諦めずに部員募集をする姿。

 陸斗が文句を言いながら練習に来る姿。

 光がノートに記録を書き続ける姿。

 拓海が転びそうになりながら走る姿。

 宮原が誰より遅くまで自主練をする姿。

 蒼がもう一度走る覚悟を決めた姿。


 見ているだけのつもりだった。


 支える側でいいと思っていた。


 でも、いつしか思ってしまった。


 私も繋ぎたい。


 その気持ちは、嘘ではなかった。


 美緒の区間は決して楽ではなかった。風が強く、道幅も狭い。前後の選手との距離もあり、一人で走っている感覚になりやすい。


 苦しい。


 寂しい。


 でも、胸の襷に触れると、一人ではないと思えた。


 沿道から声が飛ぶ。


「頑張れ!」


「いい走りだよ!」


「あと少し!」


 美緒は泣きそうになった。


 けれど、涙は流さなかった。


 泣くのは、渡してからでいい。


 最後の中継所が近づく。


 そこに、黒瀬蒼が立っていた。


 アンカー。


 かつて襷を落とし、走ることをやめた少年。


 その蒼が今、襷を待っている。


「黒瀬君!」


 美緒は叫んだ。


 蒼が腕を伸ばす。


 襷が渡った。


 その瞬間、蒼の手がわずかに震えた。


 あの日の記憶が蘇る。


 中学最後の大会。

 アンカー。

 転倒。

 手から離れた襷。

 土の匂い。

 遠ざかる背中。

 仲間の叫び声。


 怖い。


 蒼は心の底からそう思った。


 また失敗したら。

 また誰かの夢を壊したら。

 また自分のせいで終わらせたら。


 けれど、足は止まらなかった。


「行け、蒼!」


 悠真の声が聞こえた。


「最後まで!」


 蒼は走り出した。


 アンカー区間は長い。


 前方には数人の背中が見える。


 県大会出場ラインは、おそらくその先にある。


 蒼の体は、走り方を覚えていた。


 腕の振り。

 呼吸。

 足の運び。

 仕掛けるタイミング。


 走ることをやめたと思っていた。


 でも、体は忘れていなかった。


 残り四キロ。


 蒼は一人を抜いた。


 残り三キロ。


 さらに前との差を詰める。


 沿道がざわつき始めた。


「あのアンカー速いぞ」


「どこの学校だ?」


「名もなき駅伝部だって!」


 誰かが叫んだ。


 名もなき駅伝部。


 その名前が、初めて沿道に響いた。


 蒼の胸が熱くなった。


 この名前は、もう誰にも知られていない名前ではない。


 悠真が守った名前。

 陸斗が文句を言いながら残った名前。

 光が記録し続けた名前。

 拓海と宮原と美緒が選んだ名前。

 藤堂先生がもう一度向き合った名前。


 蒼はその名前を背負って走っていた。


 残り二キロ。


 前方に、県大会出場を争う選手が見えた。


 相手も必死だった。


 腕を振り、肩を揺らし、苦しさに耐えながら走っている。


 蒼はすぐには仕掛けなかった。


 呼吸を整える。


 足をためる。


 最後に出す。


 残り一キロ。


 蒼はペースを上げた。


 足音が変わる。


 風が頬を叩く。


 胸の襷が揺れる。


 相手の背中が近づく。


 近づく。


 並ぶ。


 相手が気づき、さらにペースを上げた。


 蒼の足にも限界が来ていた。


 肺が焼ける。

 視界が揺れる。

 膝が笑う。


 それでも、あの日とは違う。


 あの日の自分は、落とした襷を見て心が止まった。


 でも今は違う。


 たとえ転んでも、拾えばいい。

 たとえ遅れても、走ればいい。

 たとえ怖くても、止まらなければいい。


 残り五百メートル。


 蒼は前に出た。


 相手も食らいつく。


 沿道の声が爆発する。


「行け!」


「粘れ!」


「最後だ!」


 蒼は叫んだ。


「うあああああっ!」


 最後の直線。


 ゴールが見えた。


 そこに、悠真たちがいた。


 陸斗が叫んでいる。

 光が拳を握っている。

 拓海が泣きそうな顔をしている。

 宮原が何度も名前を呼んでいる。

 美緒が両手を胸の前で握っている。

 藤堂先生が、まっすぐこちらを見ている。


 蒼は全身で前へ出た。


 足ではなく、心で走っているようだった。


 ゴールラインを越えた瞬間、蒼は倒れ込んだ。


 すぐに全員が駆け寄った。


「蒼!」


「大丈夫か!」


「黒瀬君!」


 蒼は荒い息を吐きながら、胸元の襷を握っていた。


「……繋いだ」


 その声は震えていた。


「最後まで……繋いだ」


 悠真は何も言えなかった。


 ただ、蒼の肩を強く抱いた。


 結果発表までの時間は、永遠のように長かった。


 七人は並んで座り、掲示板の前を見つめていた。


 誰も軽口を言わなかった。


 陸斗でさえ黙っていた。


 やがて、順位が貼り出される。


 人が一斉に集まった。


 悠真たちも立ち上がった。


 心臓が痛いほど鳴っている。


 光が人の隙間から掲示板を見た。


 そして、固まった。


「光?」


 悠真が声をかける。


 光は眼鏡を押し上げた。


「入ってる」


「え?」


「県大会出場ライン……ぎりぎり入ってる」


 一瞬、誰も動かなかった。


 次の瞬間、拓海が叫んだ。


「本当ですか!?」


 宮原が掲示板を確認し、美緒が口元を押さえた。


 陸斗は信じられないように笑った。


「マジかよ……俺たち、行けんのかよ」


 蒼は黙って空を見上げた。


 悠真は襷を握りしめた。


 全国には、まだ遠い。


 県大会に出たからといって、すぐに全国へ行けるわけではない。


 強豪校との差は大きい。

 今日だって、勝ったというより、必死に食らいついただけだった。


 それでも。


 名もなき駅伝部は、初めて次の舞台へ進んだ。


 藤堂先生が七人の前に立った。


 その顔は、いつもの厳しい顔ではなかった。


 少しだけ、泣きそうだった。


「よくやった」


 たった一言だった。


 けれど、その一言だけで十分だった。


 学校に戻ると、グラウンドではいつものように他の部活が練習していた。


 けれど、今日は少しだけ違っていた。


 サッカー部の生徒が声をかけてきた。


「県大会出るんだってな。すげえじゃん」


 野球部の生徒が親指を立てた。


「おめでとう」


 陸上部の長距離組も、少し離れたところから拍手を送ってくれた。


 陸斗が照れくさそうに笑った。


「なんか、変な感じだな」


 光が静かに言った。


「名前を呼ばれるって、こういう感じなんだね」


 悠真は部室の札を見上げた。


 かすれた文字で書かれた、駅伝部という名前。


 それは相変わらず古く、今にも落ちそうだった。


 けれど、もう誰にも見えない名前ではなかった。


 翌朝。


 七人はいつもより早くグラウンドに集まった。


 県大会出場の余韻に浸る間もなく、藤堂先生は新しい練習メニューを配った。


「全国を目指すんだろ」


 先生が言った。


「だったら、ここからが本番だ」


 陸斗が顔をしかめる。


「うわ、急に顧問っぽい」


「最初から顧問だ」


「やる気なかったくせに」


「お前らのせいで戻ってきたんだよ」


 みんなが笑った。


 蒼も少しだけ笑った。


 悠真は襷を手に取った。


 色あせた紺色の襷。


 そこに縫い込まれた言葉。


 繋げ。


 この襷は、過去から今へ繋がってきた。


 先輩たちから、藤堂先生へ。

 藤堂先生から、悠真たちへ。

 そして今、名もなき駅伝部は未来へ走り出そうとしている。


「行こう」


 悠真が言った。


「全国まで」


 七人は頷いた。


 朝日がグラウンドを照らす。


 まだ誰もいない校庭の隅から、足音が響き始めた。


 一人ではない。


 三人でもない。


 七人の足音。


 ばらばらで、不器用で、まだ強豪には遠く及ばない。


 それでも確かに、同じ方向へ向かっている足音だった。


 名もなき駅伝部。


 誰にも期待されなかった部。


 それでも襷を繋ぎ、走る理由を取り戻した部。


 彼らの道は、まだ始まったばかりだった。


 全国への道は遠い。


 けれど、もう誰も笑わない。


 彼らは知っている。


 走り続ける限り、名前のない部など存在しない。


 繋ぐ者がいる限り、襷は未来へ届く。


 そして今日も、七人は走る。


 まだ見ぬゴールへ向かって。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


後編では、名もなき駅伝部が初めて大会に出場し、七人で襷を繋ぐ姿を描きました。


駅伝は、誰か一人だけが速ければ勝てる競技ではありません。

前を走った仲間の想いを受け取り、次に待つ仲間へ渡す。

その一瞬一瞬に、それぞれの努力や不安、悔しさ、覚悟が詰まっていると思います。


青葉悠真が守ろうとした駅伝部。

三枝陸斗が文句を言いながらも残った理由。

成瀬光が記録し続けた努力。

白石拓海、宮原翔、片桐美緒が新しく繋いだ想い。

そして黒瀬蒼が、過去の挫折を乗り越えてもう一度走り出す姿。


彼らはまだ全国に届いたわけではありません。

それでも、誰にも期待されなかった部が、確かに次の舞台へ進みました。


名もなき駅伝部の物語は、ここからが本当の始まりです。


もし応援していただけるようでしたら、県大会編、全国予選編、そして本当に全国を目指す続編も書いてみたいと思っています。


少しでも「続きを読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


ありがとうございました。


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