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第8話:「許すことも出来ない」——数字で動かせない感情の正体

---


その日、秀継は帳面だけを持って城を出た。


一人だけで。あえて供は連れなかった。


最初に向かったのは、昨日の評議会で最後まで手を動かし続けていた、ハルティンの屋敷だった。資料の書き込みが誰より多く、採決の直前まで何かを確かめていた。反対を決めた人間の動きではない——カレインはそう言った人物。


門番に名を告げると、すぐに通された。


応接室は質素だった。余分な調度品がない。机の上に、昨日の評議会の資料が広げたままになっていた。書き込みが多い。読んだだけでなく、考えた跡だ。昨夜もここで資料と向き合っていたのだろう。


「王が直接いらっしゃるとは」


ハルティンは六十代、白髪混じりの髪を短く刈った男だった。驚いた様子もなく、ただ事実として言った。品定めをする目ではなく、確認する目だ。この男の種類はわかる。答えを出す前に、自分で数字を検めなければ動けない人間だ。


秀継は帳面を開かなかった。


「昨日の提案について、あなたの意見を聞きに来ました」


「私の意見を?」


「賛成か反対かではなく、どこが気になったかを」


ハルティンは少し間を置いた。秀継を試しているのではない。本当に考えている間だ。


「職業台帳の整備に、どれほどの時間がかかるとお考えですか」


「三ヶ月で第一版を出せると見ています。精度を上げながら運用する形で」


「その間の人件費は」


「既存の書記官を再配置します。新規雇用は最小限に抑える」


ハルティンは頷いた。一度だけ、深く。


「わかりました」


それだけだった。賛成とも反対とも言わなかった。しかし部屋を出る時、秀継には分かった。この男は次の評議会で手を挙げる。数字が合っていることを、自分で確かめたかっただけだ。答えはとうに出ていた。確認する相手が来るのを待っていた——そういう人間だ。


あっけなかった。昨日、評議会の空気を支配していたあの重さが嘘のようだった。ハルティンに必要だったのは説得ではなく、信頼が出来るかを確かめる機会だけだったのだ。「納得」という対価を自分で手に入れた人間は、誰に言われるまでもなく動く。


昨日、秀継は正しい答えを持って評議会に乗り込んだ。


しかし答えを持って入った人間に、人は従わない。


——エキはそう言った。今日初めて、その意味が少しだけわかった気がした。


***


二件目は、同じ通りの先に屋敷を構える二人組だった。


大柄な方がベネット、人の顔を見てから決める男だ。小柄な方がクロス、ベネットの意志を握っている。いつも行動を共にし、意見を揃えて動く。どちらか一方だけ崩しても意味がない。二人を同時に訪ねることにした。


応接室に通されると、すでに二人が並んで座っていた。


大柄なベネットが先に口を開いた。


「昨日の提案、興味深く拝聴しました」


社交辞令だ。この男はまだ何も決めていない。隣を見てから決める習慣がある。


秀継は隣の小柄な男、クロスを見た。口数が少ない。昨日の評議会でもほとんど発言しなかったが、目が動いていた。人の表情を読んでいた。


「あなたは昨日、何を見ていましたか」


小柄な男が、初めて秀継を正面から見た。


「他の評議員たちを」


「どう見えましたか」


少し間があった。


「恐怖に取りつかれているように見えました。ずいぶん急な話の展開でしたから」


「なるほど。しかし、今変わらなければ何が起きますか」


誰も答えなかった。答えは、昨日秀継が示した数字の中にある。難民区の人口密度、疾病率、治安悪化の推移。このまま何もしなければ、どこかで爆発する。


「あなた方が怖いのは、変えることではない。変えて、失敗することでしょう」


ベネットがハッとした顔で、ゆっくりと頷いた。


「次の評議会まで、もう一度数字を見ていただけますか。わからないことがあれば、いつでも聞きに来てください」


それだけ言って、秀継は立ち上がった。


その後も、三件回った。反応はそれぞれ違ったが、手応えはあった。話を聞きに来た、という事実だけで、相手の表情が変わる場面が何度かあった。正しい答えを持って乗り込んだ昨日とは、何かが違った。


些細なことだ。


先に一声かける。


それだけで、扉が開く。


六十年間、秀継は数字と論理で人を動かしてきた。しかしそれは、自分に実績があったからだ。実績のない場所では、順序が変わる。俗に根回しと呼ばれるそれを、秀継は今日初めて腑に落ちた形で理解した。


---


日が傾き始めた頃、最後の屋敷の前に立った。


構えが違う。古い。手入れはされているが、増築も改築もしていない。長い時間、同じ形を保ってきた建物だ。今日回った中で、一番重い場所だと、門をくぐる前から感じた。


石造りの門柱に、小さな傷跡があった。刃物ではなく、何か硬いものを繰り返しぶつけたような跡だ。いつからあるのか、誰がつけたのかはわからない。ただ、古い。


十八年前の暴動で、部下を二人失った男がいる。


応接室に通されると、ラドウィグはすでに立っていた。


六十代後半、恰幅のいい男だった。昨日の評議会で、腕を組んだまま最後まで動かなかった男。他の評議員たちが秀継の言葉に反応するたびに、ラドウィグだけは微動だにしなかった。抵抗しているのではなく、遠いところにいるような、そういう静けさだった。


しかし今日は腕を組んでいなかった。両手を、身体の横に下ろしたまま立っていた。


「王が直々に」と彼は言った。声に棘はなかった。ただ、重かった。


秀継は帳面を開かなかった。


「あなたに聞きたいことがあります」


「わかっています。先日の難民支援の件でしょう」


「いえ、——十八年前のことを」


ラドウィグの顔が、わずかに動いた。一瞬、目の奥が怒りに歪んだ。怒りと痛みが混ざり合う、古い種類の感情だ。長い時間、触れないようにしてきたものを、不意に指で押されたような、そういう表情だった。


「ご存知でしたか」


「昨日、教えてもらいました」


誰から、とは言わなかった。ラドウィグも聞かなかった。


しばらく、沈黙があった。応接室の外で、風が木の葉を揺らす音がした。今日一日で七軒回った。どの応接室にも、それぞれの沈黙があった。しかしこの部屋の沈黙は、他とは質が違った。重さではなく、暗い海の底のような深さを感じる。


「暴動が起きたのは夜でした」とラドウィグはやがて言った。声が、少し低くなった。「難民区の外れで火が出て、鎮圧に向かった。私の部下が二人、消火活動の中、建物の下敷きになりました」


秀継は何も言わなかった。


「二人とも、若かった。入団して三年目と、五年目でした」


それだけ言って、ラドウィグは口を閉じた。続けるつもりはなさそうだった。しかし言葉が、部屋の中に残った。三年目と、五年目。数字が、人の形をしていた。


「難民が火をつけたのか、事故だったのかは、今もわかっていません。ただ——」


ラドウィグは一度、言葉を切った。


「二人は文官です。現場の確認で後方支援を行っていました。しかし、難民の子供がまだ中にいると言って」


秀継は何も言わなかった。


「現場に駆けつけた私の部下が、難民を助ける為に死んだ。それが、わかっていることの全てです」


また沈黙があった。今度は長かった。ラドウィグは窓の外を見ていた。秀継も、同じ方向を見た。夕暮れの光が、石畳の上に伸びていた。光の色が、少しずつ変わっていく。赤みが増し、影が長くなる。それを、二人とも黙って見ていた。


「あなたは今も、難民区を怖いと思っていますか」


ラドウィグは少し間を置いた。


「恐怖は無いです」と彼は言った。「でも、許す事も出来ない。彼らのせいで二人が死んだのは事実ですから」


そこで言葉が止まった。続きは出てこなかった。


秀継は何も言わなかった。


言えることが、なかった。昨日なら数字を出していた。損得の話に持ち込んで、論理で封じていた。しかし今日この男の前では、そのやり方が出てこなかった。出してはいけない、と思った。思ったというより、身体がそう判断した。


ラドウィグが抱えているのは恐怖ではない、と秀継は思った。許せないのだ。怒り―――とも違う。顔も知らない人間のために部下が死んだ。その事実だけが、十八年間この男の中に残っている。これが数字では動かせない感情の正体か、と秀継は納得した。


しばらく、二人とも黙っていた。


秀継は窓の外を見たまま、口を開いた。


「あなたが言う二人が助けた命に、価値をつけるのも——生き残ったあなたの仕事だと、私は思います」


秀継は、本当にそう思った。


顔も知らない誰かのために死んだ命。その不遇が許せない、というラドウィグの感情は正しい。しかしそのまま十八年が過ぎれば、二人の死はただの記録のない事故として消えていく。それこそが、本当の無駄死にだと秀継は思った。


台帳が整備されれば、難民区の人間に価値がつく。顔が見える。あの夜、二人が命をかけて助けた子供が、この国で価値を作る道を成す。どこの馬の骨ともわからなかった相手が、この国のかけがえのない資産になる。それが、二人の死に意味をつける唯一の方法だった。


今回の提案は、そういうものだと秀継は思っていた。


---


ラドウィグは動かなかった。


ただ、窓の外を見ていた目が、わずかに細くなった。しかし、その目には何か光るものがあった。


しばらくして、ラドウィグは小さく息を吐いた。長い時間をかけて溜め込んだものが、少しだけ抜けたような音だった。


部屋を出る時、ラドウィグの声が背中に届いた。


「……今日はお引き取りを。この老骨には少し重たい時間でございました」


賛成とも反対とも言わなかった。しかしその一言が、今日一番重かった。


秀継は振り返らなかった。振り返って、何かを言える言葉が、今の自分にはなかった。


---


城に戻ったのは、夜になってからだった。


執務室には戻らず、そのままエキの部屋へ向かった。


扉を叩くと、すぐに返事があった。エキは文書を広げたまま、秀継を見た。夜に訪ねてくる理由を聞かなかった。ただ向かいの椅子を、目で示した。


秀継は座った。帳面を開いた。


「今日、七件回りました。確実な賛成が二。可能性があるのが四。ラドウィグは、まだわかりません」


エキは文書から目を上げなかった。


「ラドウィグに、十八年前の話を聞きました」


そこで初めて、エキの手が止まった。


「何と言っていましたか」


「恐怖は無い、と。しかし、許すことも出来ない、と」


エキはしばらく、文書を見たままでいた。


「……あなたは、何と返しましたか」


「二人が助けた命に価値をつけるのも、生き残ったあなたの仕事だと言いました」


沈黙があった。


エキが、ゆっくりと顔を上げた。政治家の目だ、と秀継はいつも思っていた。感情の起伏を殺した、澱んだ目。しかし今夜は、その奥に何か別のものがあった。澱んでいた水が、わずかに動いたような——そういう目だった。


「三日で」とエキは静かに言った。「ずいぶん変わりましたね」


「変わっていません」と秀継は即座に返した。「やり方を変えただけです」


エキは何も言わなかった。ただ、かすかに——ほとんど気づかない程度に——目を細めた。


秀継は立ち上がった。


「明日も続けます」


それだけ言って、部屋を出た。


廊下を歩きながら、帳面を開いた。ラドウィグの欄に、数字ではなく一行だけ書いた。


〈許すことも出来ない——という言葉〉


しばらく、その一行を見た。


帳面に言葉をそのまま書き写したのは、六十年間で初めてだった。


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