第4話:「三十年、動いていない」——改革vs現状維持の初戦
王として即位してから三日が経った。
この三日間、秀継は一度も「王らしい仕事」をしていない。
していたのは、ただ一つ。
数字の収集と、その突き合わせだった。
人口四万と少し。年間税収金貨三万枚。騎士団員百二十名。食料自給率120%。
資料を読み込むうちに、秀継はある「ズレ」に気づいた。
王都への食料搬入量と、住民台帳の人口が合わない。
小麦の年間消費量が、登録人口より約千人分多い。
誤差ではない。確実に、帳簿に載っていない人間がそこにいる。
秀継は地図を広げた。王都南東の一角。昨日、護衛と歩いたあの区域だ。
避難民居住区。
居住者数、推定千百名。
職業台帳への登録者数、ゼロ。
納税実績、ゼロ。
公共事業への参加記録、ゼロ。
「……見えていない資産がある」
秀継は静かに呟いた。
千人を超える労働力が、国の記録上は存在しないことになっている。
経営者として、これほど不快な数字はなかった。
――この国は、人材を腐らせている。
数字の地図が、頭の中で形になり始めていた。
その確信を持って、秀継は初めて評議会への出席を決めた。
その頃になって、初めて評議会への出席が決まった。
アリア王国の評議会は、王国そのものだった。
建国から四百年。玉座が空いていた間、この国を動かし続けたのは十三名の評議員たちだ。税率を決め、法を改め、騎士団の予算を組み、城下の揉め事を裁く。宰相ロウ・エキが実務を束ね、評議会が承認する。
その体制が四百年、一度も崩れなかった。
だから今朝、エキが「新しい王が就任された」と告げた瞬間、部屋の空気が変わった。
羽ペンを止めた者がいた。
視線を交わした者がいた。
「それは……」と言いかけて口を閉じた者がいた。
十三人が、それぞれ違う止まり方をした。
小さなどよめきが、石造りの天井に吸い込まれていった。
三秒か、四秒か。
やがて全員が、何事もなかったかのような顔に戻った。
その一部始終を、秀継は扉の前に立ったまま見ていた。
顔に出ない緊張というのは、長く権力の中心にいた人間に特有のものだ。
この十三人は、王という変数が突然現れたことで、自分たちの四百年が問われていると理解している。問われれば答えなければならない。答えれば責任が生じる。
だから静かにしている。
秀継は席に着き、資料を広げた。
十三の視線がまとわりつく。測ろうとする眼差しだ。
田中電機の創業期、新規取引先の重役たちから受けた視線と、同質のものだった。
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「議題に入ります」
挨拶はなかった。
部屋の空気が、わずかに揺れた。
評議員たちは、今日を顔合わせだと思って構えていたのだ。
ロウ・エキからの王の紹介。
今後の関わり方と方針。
そして王の実績や能力の源泉。
新しい王への挨拶。
形式的な自己紹介。
せいぜい茶を飲んで終わる、穏やかな初日。
しかし秀継の最初の言葉は、挨拶ではなく「議題」だった。
椅子を引き直す音。
羽ペンを持ち直す動作。
小さなざわめきが、あちこちで起きた。
初日から、本気で仕事を進めるのか。
そんな驚きが、静かに部屋の温度を下げた。
「王都の南東に、難民居住区があります」
秀継は大きな地図を一枚、壁に貼り付けた。
「すでにご承知おきいただいているとは思いますが、他国より流れ着いた人間が住んでいる区域です。現在の居住者は千百名余り。正式な就労登録がされていない。名前も、技能も、国の台帳には載っていない。存在が見えていない人間には、仕事は回りません」
一度、間を置いた。
誰かが小さく咳払いをしたが、すぐに収まった。
評議員の面々は、苦虫を噛み潰したような顔をした者が大半だった。
おそらく、藪蛇を突くような、あまり触れたくない場所の話だったのだろう。
「大工の経験を持つ者、農作業を知る者、薬草の知識を持つ者。調べた限り、二十を超える技能が眠っています。これを職業台帳に登録し、情報を集約して国の公共事業と繋げる。五年、いや二年で就労率を大幅に引き上げられます。税収は増えます。治安の問題も減る。国としての損失が、利益に変わります」
短い説明だったが、完璧な論理だった。
数字に裏打ちされ、現地調査に基づき、国の利益になる。
反論の余地などない、と秀継は確信していた。
半日街を歩いた秀継が出した最初の仕事は、避難民区域の最適化だった。
虐げられた国の、さらに虐げられた人々の改善。
ボトムアップ。
最下層の人々の待遇を改善することから、組織(国)は変わる。
秀継は、そう考えた。
短い沈黙の後、上座に近い評議員が口を開いた。
白髪を丁寧に整えた、穏やかな物腰の男だ。
声に棘はない。
棘のない言葉が、最も静かに人を遠ざけることを秀継は知っている。
「難民居住区の問題は、以前より懸案として認識しております。ただ、台帳の整備には行政側の相当な準備が――」
「以前より、とはいつからですか」
秀継が遮った。
感情はない。ただ事実を確認している。
「……三十年ほど前から、議題には上がっておりまして」
「三十年、動いていない」
評議員が口を閉じた。
否定はしなかった。否定できなかった。
部屋の沈黙が、質を変えた。
重く、粘つくような沈黙だ。
三十年の話題を誰も掘り返さなかった理由を、全員が知っている。
手をつければ、なぜ今まで放置していたのかという問いが生まれる。その問いは評議会自身に返ってくる。
触れない方が、全員にとって安全だった。
王が来るまでは。
「慎重に進めるべき案件かと存じます」と、別の評議員が言った。
「前例のない仕組みを作るには、十分な検討が必要で――」
「前例がないから止まっていたということですか」
また短い沈黙。
秀継は帳面を開いた。
ペンを走らせる音だけが、静まり返った部屋に響いた。
〈評議会:現状維持バイアス。責任回避。三十年の停滞〉
エキは上座で何も言わなかった。
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エキが口を挟まない理由を、秀継はこの三日間で観察していた。
宰相として四百年、この国を守ってきた男だ。
今日のような場面を何度も見てきたと想像できる。秀継の提案が正しいかどうか、この男にはわかっているはずだ。
それでも動かない。
まだ見極めている、ということだ。
この王が本物かどうか。
一度動けば、四百年築き上げた体制を揺るがすことになる。
その覚悟が王にあるかどうかを、エキは計っている。
秀継は帳面を閉じた。
議員たちの反応は、秀継にとって想定内だった。
およそ、人は昨日と異なる行動を求められると反発する。
秀継のような、ある意味壊れた人間にのみ、変化を起こす力があるのだ。
四百年、大きな事件も、成長も、苦労もなかったこの国にとって、
変化は、もっとも恐怖を生む。
そう理解しつつも、秀継は次の一手を崩す手が見つからなかった。
「……まだ、騎士団長がお見えになっていません」
エキが静かに口を開いた。
「評議会の席をお持ちではありませんが、今回の議題について現場の意見を伺ってみてはいかがでしょうか」
それだけだった。
直接秀継の側に立つわけでも、評議会を動かすわけでもない。
ただ、場を繋いだ。
扉が開いたのは、その直後だった。




