第3話:城下町の飢え——帳面に書けなかった一行
「まず、即位の事実を国中にお知らせしなければなりません」
エキが言った。執務室の窓から城下を見下ろしていた秀継は、振り返らなかった。
「待ってください」
「……何かご懸念が」
「大切な部分を検討していない」
秀継は窓から離れ、椅子に座った。エキの顔を見た。七百年生きているとは思えないほど整った顔だが、目の奥の色は別物だ。長く生きた者特有の、静かな疲労の色がある。
「私がこの国の王に即位した、という事実を、今この瞬間、どれくらいの人間が知っていますか」
「政に携わる数名。私を含め、十名に満たないかと」
「では城下の民は知らない。私の顔も、名も」
「……左様です」
「それはつまり、国民から見たら、私はただの通行人という訳です」
エキは少し黙った。
「即位を公表してからでは遅い。私が王だと知って接してくる人間は、本当の姿を見せない。見せたい顔しか見せない。商人は繁盛しているように見せる。役人は仕事をしているように取り繕う。民は従順であるように見せる。それが人間というものでしょう」
「……そういう考え方も、できますな」
「できるというより、そうすべきです。現場を自分の目で見る前に、名刺を渡す経営者に、まともな判断はできない」
エキはしばらく考えた。長く考えた。それから静かに頷いた。
「……承知しました。では公表は暫く控えましょう。そのタイミングは陛下にお任せいたします」
「そうしましょう」
「……変装、などはようございましょうか?」
秀継はエキを見た。
「今、私が王だと知っている人間は十名に満たないと言いましたね」
「……はい」
「では誰が気づくのですか」
少し間があった。長い間だった。エキは目を細め、それから静かに言った。
「……そうですね」
妙に素直な納得の仕方だった。七百年生きた宰相にしては、間が抜けている。秀継はそれ以上何も言わなかった。
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城門を出たところで、護衛の男が野菜売りの老婆に大声で手を振った。どうやら知り合いらしい。
「なんだい、今日はずいぶんちゃんとした格好じゃないか」
「大事なお客さんの案内でして」
老婆は秀継をちらりと見た。
「どっかの商人かい?」
「まあ、そんなもんです。ではでは」
護衛の男は何事もなかったかのように歩き始めた。
秀継はその後ろについてから、一言だけ言った。
「私が誰か、知っていますか」
「はい。エキさんから聞きました。王様だそうで」
「この国の王様、とはどんな人を指すのですか」
「そうですね……」
護衛の男は少し考えるように間を置いた。
「お伽噺の中にしか出てこないじゃないですか、王様って。よその国じゃ、怖い顔した人が玉座に座って、民を見下ろして――そんな感じの。でもあなたは普通に歩いてるし、商人みたいだし。なんか、違うなって」
「怖い顔をすればよかったですか」
「いや、そういうわけじゃないですけど。ずっと考え事をしているみたいだったので、怖くは見えましたよ」
秀継はそれ以上聞かなかった。
こういう人間が、一番目立たない。
エキの見事な人選だった。
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城下の通りに出ると、秀継は護衛の男の説明を聞きながら、しかし説明とは別のものを見ていた。
道の幅。石畳の状態。店先に吊るされた品物の種類と量。行き交う人の服の傷み具合。子どもの数。老人の数。
資料で確認していたものよりも、狭く感じる。
城下の東寄りに、最近この国へ流れ着いた人々が集まっている区画があった。
結界の外から来た人間たちだ。
何かに追われて、あるいは何かを失って、魔法の使えない自分の足でたどり着いた者たち。
エキの話では、ここ十年ほどで急激に増えているという。
外の世界の情勢が、この国の端にじわじわと滲み出してきている証拠だ、とも言っていた。
区画の入口で、向かいから歩いてきた中年の夫婦が、秀継の姿を見た瞬間、立ち止まって深く頭を下げた。
目を伏せ、体を縮め、通り過ぎるまで動かない。
身体に染みついた反応だ。
習慣になるほど、繰り返してきた。
上の者の前で目を合わせてはいけない。
声を上げてはいけない。
そういう場所から来た人間の、静かな緊張だ。
海外視察で見たスラム街。
そこで生活していた人間と、同じ目をしている。
「……外から来た人は、まだこういう感じで」と護衛の男が小声で言った。「アリア生まれはそういうの全然ないんですけどね。俺みたいに」
秀継は何も言わなかった。
夫婦の横を通り過ぎた。通り過ぎながら、視線だけを向けた。服の傷み具合。手の荒れ方。それで大体の生活水準がわかる。
ひどい生活環境だ。
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路地を一本曲がったところで、子どもに声をかけられた。
七歳か、八歳か。小さな籠を抱えている。
中には干した木の実を紙に包んだものが、いくつか並んでいた。
「甘くておいしいですよ。買ってください」
秀継の足が止まった。
子どもの顔を、一秒だけ見た。
目に力がない。
空腹のとき特有の、焦点の合わない目だった。
しかし声だけははっきりしている。
何度も練習したのだろう、と秀継は思った。
私が今ここで一つ買っても、この子が明日も籠を抱えて立っている事実は変わらない。
という思考が、静かに組み上がった。
一つの売り上げが、この子どもの今日の腹を少し満たす。
それは事実だ。
しかし、その行動はこの区画の構造的な問題解決に1ミリも近づかない。
一人に優しくするということは、別の誰かには優しくしないということだ。
本当にすべきことを棚上げするための、小さな自己満足だ。
「結構です」
子どもは何も言わなかった。
すぐにまた、別の通行人に声をかけ始めた。
秀継は歩き出した。
護衛の男は一歩前を歩いていた。
秀継が立ち止まったことに気づいたのかどうか、振り返ることはなかった。
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広場の石畳に、古い模様が刻まれていた。
資料にもあった、魔法陣というやつだ。
プログラムのコードに近い、と秀継は思った。
長い年月で磨耗し、形の半分が潰れている。
建国期のものだと聞いたので、四百年前の代物だ。
秀継は立ち止まった。
立ち止まるつもりはなかった。
次の視察先は別にある。
しかし、足が止まっていた。
目が、陣の線を追い始めた。中心から外へ向かう流れ。途切れた線の先を、目が自然に補完しようとしている。なぜそうなるのかは、わからない。わからないまま、目が動く。ここで途切れているということは、本来ここに線があったはずだ。
そうであれば、この角度から次はこちらへ——
秀継は帳面を出した。
手が動いていた。
線を書き写しながら、途切れた部分を点線で繋いでいく。
推測だ。根拠はない。
しかし、手は止まらなかった。
「何をしてるんですか?」
護衛の男の声で、はっと我に返った。
「ああ、この魔法陣ですか。何でも今は機能していないみたいですよ。
大昔は、どこかの街とつながっていたなんて話を聞いたことがありますけど」
秀継はその話を聞き流しながら、帳面のスケッチを見た。
自分が何を描いたのか。
なぜ描いたのか。
説明できなかった。
「行きましょう」
帳面を閉じた。
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概ね街の構造は把握できた。凡そ六時間。太陽は傾きかけていた。
食事もとらずにただひたすら歩いていたので、護衛の男はへきへきした顔をしている。
得られた情報と、あらかじめ頭の中にあった情報、事実と仮説、それぞれを組み立て、次のアクションプランを頭の中に構築する。
帰路に差し掛かったところで、木柵の向こうから剣の音がした。
訓練場だった。
木柵の内側で、一人が十人を相手に動いていた。模擬戦だ。真剣ではなく木剣を使っている。しかし動きに手加減はない。遠くて顔は見えない。体格も、年齢も、距離のせいでよくわからない。ただ、動きだけが見えた。
十人が囲んでいるのに、その人物の周囲だけ空間が広い。近づけないのではなく、近づいた者から順に弾かれている。無駄がない、という次元ではなかった。動きの一つ一つが、相手の選択肢を先に潰している。どこへ逃げても、そこにすでにいる。そういう動き方だ。
秀継は経営者として長く生きた。強い人間を何人も見てきた。突出した才能が、凡庸な努力を一瞬で塗り替える瞬間も見てきた。
しかしこれは、そういう話ではない。
才能と努力の区別がもうついていない人間の動きだ。どこまでが生まれ持ったもので、どこからが積み上げたものか、本人にも分からなくなるほど、長くやってきた人間の動きだ。
「あの騎士は――」
護衛の男が答えようとしたが、
「まあ、いい。戻りましょう」
そう言って遮り、秀継はすでに歩き出していた。
名前は、また別の機会に聞けばいい。
剣の音が、遠くなった。
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城に戻った秀継は、夕刻、視察の結果を帳面にまとめた。
改善事項。
公衆衛生予算の再配分。
道路補修の優先順位。
避難民流入区画の生活水準の調査。
数字にできるものは数字で。
できないものは観察記録として。
事実だけを書き連ねた。
帳面の最後に、魔法陣のスケッチが一枚ある。
途切れた線が、点線で繋がれている。
その横に一行。
「設計者の発想――保留」
処理できた項目には、横に線を引く。
七十八年間、変わらない習慣だ。
「設計者の発想」の横には、線を引かなかった。
引かなかったことに、秀継は気づかなかった。
明日は評議会に案件を出す。
無能力者区画の改善案だ。
数字は揃っている。
秀継は帳面を閉じて、立ち上がった。
一人に優しくするということは、
別の誰かには優しくしないということだ。
本当にすべきことを棚上げするための、
小さな自己満足だ。




