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第2話:「これは損失だ」——差別を数字に変えた瞬間

案内されたのは城の北翼、四階にある記録室だった。


扉を開けた瞬間、空気が変わった。外廊下の石の冷たさとは異なる——数万の羊皮紙が長い年月をかけて吐き出した、乾いたインクと埃の匂いが沈殿している。


壁一面の棚に、革表紙の帳面が年代ごとに並んでいた。最も古い区画には、触れれば崩れそうな薄茶色の巻物がある。


四百年分だ、と秀継は思った。


それだけの時間が、この部屋に堆積している。


「まさか王がここへいらっしゃるとは思わず、少々散らかっておりますが……」


「ここにあるのが全てですか?」


「財務記録、人口統計、法令集、評議録——主要なものはすべてここに。一部、地下の書庫にもございますが、そちらは都度お出ししましょう」


エキは中央の閲覧台に六つの束を置いた。分類ごとに紐で括られている。秀継は束の厚みを順に見た。財務が最も厚い。次が法令集。人口統計が最も薄かった。


薄いものから手を伸ばした。


数字を読む前に、一つだけ確認しておくことがあった。


「王が不在だったと仰いましたが、その間は誰がこの国を治めていたのですか」


エキが束を整える手を止めた。


「……評議会です。建国初期から続く制度で、選挙で選ばれた十三名の評議員が、合議で政を行ってきました。王の役割は——」


エキは少し間を置いた。


「制度の守護者、と申し上げればよいでしょうか。最終的な裁決権と、建国の理念を体現する存在として位置づけられてきました」


「つまり、王がいなくてもある程度は回る体制、ということですか」


「そうです。だからこそ、これまでこの国は存続できました。しかし、王の権限でしか動かせないこともあります」


「たとえば」


「他国との条約締結。そして……開国」


最後の一語だけ、エキの声の質が変わった。重い扉を押し開けるような、軋む響きが混じった。秀継はそれを聞き取ったが、今は深追いしない。


「要するに、外交の領分ですね。四百年間、その判断が必要な場面はなかったということですか」


「……必要にならないよう、運営してきました」


短い答えだった。しかし秀継には、その短さの意味がわかった。必要にならないよう、というのは「必要が生じる事態そのものを避けてきた」ということだ。変化を避けることで、王の不在という問題を棚上げにしてきた。


帳面に書き加える。


〈評議会:変化回避型の合議体制。四百年の惰性〉


書いてから、最後の二文字を線で消した。まだ評価するには情報が足りない。


統計の束を開いた。


人口、約四万。産業構成、農業六割。流通が薄い。識字率が高い。これは意外だった。魔法に頼らない社会が教育を重視する方向に進んだのか、あるいは識字率が高いから魔法なしで社会が成立しているのか。前者か後者かで政策の優先順位が変わる。


次の頁をめくった手が、止まった。


人口増加率と、国内総生産量の推移だ。


建国から四百年間、人口も生産量もほぼ変わっていない。微増と微減を繰り返しながら、結局は同じ数字に戻っている。


これは異常だった。


どんな組織でも、どんな国でも、四百年間まったく変化しないことはあり得ない。成長するか、衰退するか、必ずどちらかに向かう。秀継が生きた六十年でさえ、関わった企業が「現状維持」を達成できたためしは一度もなかった。現状維持とは緩やかな衰退の別名だと、骨身に刻んでいた。


それがここでは四百年続いている。


「外部からの人口流入は、ないのですか」



「……避難民の受け入れは、行っております。しかし、多くはございません」


エキの声が、わずかに低くなった。


「持たざる者は、我々と同じ出自です。しかし——この国を覆う結界には、限界がございます。際限なく受け入れれば、結界の外縁が薄れる。薄れれば、魔法を持つ者にも感知される恐れがある」


「現在の収容限界は」


「……正確な数値は出ておりません。これまでそこまで問われたことが」


秀継は帳面に書いた。


〈結界:収容限界不明。要調査〉


「一つ確認させてください。先ほどから出ている『魔法』というのは何ですか。私の世界には存在しない」


一瞬の間があった。


「……そうでしたか」


エキは表情を変えずに続けた。


「生まれた時に付与される、先天的な能力です。火を扱う者、水を操る者、嘘を看破する者、光の速さで走る者。その種類は多岐にわたります。重要なのは——」


「後天的な習得は不可能、ということですか」


「左様です」


秀継は帳面に書き込んだ。


「持たずに生まれる者の割合は」


「全人口の一割程度と見られています」


「持たなかった人たちは、どのような生活を」


「奴隷として扱われます。人と同じ扱いを受けられる国は、この大陸にはございません」


秀継は何も言わなかった。


書き込んだ数字を見た。一割。百人に十人。二万三千人の規模で換算すれば、二千三百人になる。彼が守ってきた工場の一棟分に相当する人間が、生まれた時点で奴隷として分類される。


帳面を閉じるでも、開くでもなく、指が一度だけ止まった。


「結界というのが、この国を隠している、と」


「女神アリアが建国時に施した魔法陣でございます。魔法を持つ者には、この国の概念ごと認識できない。視覚的な隠匿ではなく、存在そのものが記憶に残らない」


「つまり、この国の人口が増えない原因は——逃げてくる者が、そもそも辿り着けるだけの情報と体力を持てない、ということか」


「……ご慧眼でございます」


エキの目が、わずかに動いた。


感情ではない。長年政治の場で洗練された目だ。値踏みとも観察とも取れる、澱んだ光が一瞬だけ鋭くなった。


秀継は気づかなかった。すでに次の頁を開いていた。


一割。一割の人間が、どの国でも二等市民として扱われている。それがこの世界の構造だ。魔法を持つ者が支配層を形成し、持たない者が底辺を担う。才能を生まれた時に神から与えられるかどうかで、一生が決まる。


それを、アリアは否定するために建てられた国だ。


しかし、と秀継は思った。


この国は自分たちを守ることには成功した。だが、それだけだ。外の世界にはまだ多くの人間がいる。本来の力を発揮できない場所で生きている者たちが。


これは感情の話ではない。


単純な損失の話だ。


秀継は帳面に数字を書いた。「全人口の一割」「適正賃金との差分」「潜在的な生産増加量」——変数は多い。だが、概算の桁は弾き出せる。


大きい。


世界全体で見れば、途方もない損失だ。そしてアリアは、その損失を取り戻せる数少ない場所になり得る。


「全世界の総人口は」


「しっかりとした統計は見た事がございませんが、おおよそ二億から四億といった所でしょうか」


「もっとも大きい国は」


「ブリンダス帝国になります。人族の長として君臨する国でございます。人口は凡そ二千万人でございます」


秀継は帳面に数字を書いた。少し考えて、その数字に

線を引いた。変数が多すぎる。今弾いても精度が出ない。


「うむ」


帳面の最後の頁を一度だけ開いた。何かを書いた。

エキには見えない角度だった。

それだけして、元の頁に戻った。



統計束を再度開くと、末尾に、一枚だけ図面が混じっていた。建国当時の城下区画図の写しだ。余白に見慣れない記号が並んでいた。幾何学的な線が、ある規則で組み合わさっている。


「これは何ですか」


エキが手を止めて、図面を覗き込んだ。


「……建国当時の魔法陣の写しです。今もこの国を隠す結界として機能しております」


秀継は図面を元に戻した。後で見る。今ではない。


「一つ、聞かせてください」


「はい」


「この数字は現場と一致していますか。書面と実態の間に、どれくらいの乖離がありますか」


エキは答えを少し考えた。


「……把握しきれていない部分がございます、と申し上げるほうが正直かと存じます」


「では明日、城下に出ます」


「護衛は——」


「最小限で。目立ちたくはない」


秀継は帳面を閉じた。


「今日はこれくらいにて食事にいたしましょう。王が生きていた世界の話を是非聞きたい」


エキが一礼して扉へ向かう。その足を止め、一度だけ振り返って秀継の横顔を見た。


エキは七百年生きてきた。その中で、王と呼ばれる者を何人も見てきた。

賢い者も、愚かな者も、善い者も。


しかしこの男は——資料を手にしてから、まだ一刻も経っていない。


その間に、四百年分の記録を読み、国家の構造的欠陥を特定し、

翌日の行動を決めた。しかも一度も感情を挟まず、迷わず、驚かず。


エキが四百年かけて輪郭を掴んだ問題の本質を、この男は帳面一冊で射貫いた。


——そして、この男はいま、持たざる者の不遇を「損失」と呼んだ。


正しいから変えるのではない。非効率だから変える。

その論理で、七百年誰も崩せなかった前提に結論を出した。


どのくらい先を見ているのか。


エキの背筋に、静かな緊張が走った。


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