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第1話:「まず数字を見せろ」——四百年の現状把握

まず、匂いで気づいた。


石の匂いだった。古い、水気を含んだ石の匂い。


東京にはない匂いだ。工場の金属臭でも、病院の消毒液でも、本社ビルに染みついた紙とコーヒーの混合物でもない。


秀継の記憶の中で最も近いのは、幼い頃、親の実家に残っていた土蔵の匂いだった。


次に、光。


白熱球でも蛍光灯でもない。橙色に近い光が、高い天井から柔らかく降りている。光源が見当たらない。天井そのものが、うっすらと発光しているように見える。


それから、重さ。


いや、重さのなさ、か。


秀継は自分の身体に意識を向けた。膝が、痛くない。


七十を過ぎてから、朝に目覚めるたびに膝と腰の点検が必要だった。今は何もない。背骨も、肩も、どこも鳴らない。


変だな、と思った。


変だな、という感想しか出てこなかった。


心筋梗塞で死んだはずだ。廊下で壁にもたれた記憶がある。それは確かだ。不自然なバーで誰かと話した記憶もある。


ここが、先ほど女神の言っていた「次の場所」なのだろう。


秀継は視線を動かした。

急がず、焦らず。設備トラブルを確認する時と同じ手順で、室内を端から端へ視線でなぞった。


石造りの壁。柱が太い。窓が高い位置にある。窓の形が、見たことのない様式だ。扉が重厚な木製で、金属の装飾がついている。

私は椅子に座っているようだ。肘掛けが、妙に幅広い。


秀継は自分の手を、肘掛けの上で確認した。


……皺が、ない。


そこで初めて、少しだけ時間が止まった。


七十八年分の皺が消えていた。節くれ立った関節も、肝斑も、爪の脇の細かい傷も。書類と電卓と、数えきれない握手で擦り減らしてきた手ではなかった。三十年以上前の、まだ戦い方を学ぶ前の手だ。


秀継は指を一本ずつ曲げた。全部動く。


奇妙だと思った。奇妙だが、パニックにはならなかった。


わからないことはわからないままにしておけ。わかることから順番に積み上げろ。七十八年で培った習慣だった。


「――お目覚めにございますか」


声がした。


目の前に、老人がいた。


耳が長い。私の知る人間の耳ではない。

だが秀継が最初に目を留めたのは耳ではなく、その目だった。


静かな目だ。感情の起伏を殺し、何百回もの腹の探り合いを経た後の、澱んだ目。田中電機の創業期、融資を渋りながら品定めしていた銀行頭取が、こういう目をしていた。


秀継はしばらく、その目を見返した。それから視線を下ろし、自分が座っている椅子を改めて確認した。


背もたれが高い。肘掛けが幅広い。装飾が細かい。どう見ても、普通の椅子ではなかった。


「……椅子が、やたら立派ですね」


独り言に近かった。老人が、僅かに目を細めた。


「ここは、お城ですか」


「王城にございます」

耳の長い老人が初めて口を開く。低く、威厳のある声だ。


「では、私が座っているこれは」


「玉座にございます」


秀継は少しの間、黙って窓の外を見た。城下町の屋根が春霞の中に続き、煙突から煤煙が立ち上る。馬の嘶きがかすかに聞こえる。自動車のエンジン音はない。電線もない。


「……随分と、勝手の違う場所に来たものです」


秀継の独り言だった。


老人は何も言わなかった。ただ待っていた。その沈黙の質が、秀継には心地よかった。余計な慰めも、説明の先取りもしない。秀継が整理するのを、待っている。


できる部下の沈黙だ。


「お名前を聞いていいですか」


「ロウ・エキと申します。微力ながら、この国アリアに仕える老骨でございます。今後は王のお側にお仕えいたします」


「王の」


秀継は自分の座る椅子を、もう一度見た。


「……私が、王ですか」


「左様にございます。四百年ぶりの、王のご誕生を――どうお感じでございますか」


ロウ・エキと名乗った老人の言葉には、確かな重みがあった。

だが、その重みの中身が、秀継にはまだわからない。

背景が見えないのだ。――それは、いずれ明らかになるはずだった。


「私の感想は後でいい。まず現状を教えてください」


ロウ・エキの目に、何かが光った。一瞬だけ。政治家の仮面の奥で、何かが動いた。測るような、という言葉が近かった。秀継を測り始めた目だ。


「……御意にございます」


話は、端的だった。


国名はアリア。建国から四百二十三年。王位は四百年空位のまま。人口、四万二千弱。産業は農業と手工業が中心。軍は騎士団が在るが数が少ない。


秀継は聞きながら、頭の中で表を組み立てた。収入と支出。人口と産業比率。補えるものと補えないもの。整理が進むほど、問いが絞られていった。


「一つ、確認させてください。この国の軍は、騎士団が少数あるだけですね」


「左様にございます」


「では、なぜ四百年間、外から攻められていない。外敵はいないのですか?」


ロウ・エキは、少しだけ間を置いた。先ほどとは違う種類の間だった。何かを決めるための間だ。


「ご想像のとおり、この国は弱小国にございます。しかし――この国は、外からは見えませぬ」


「国が、見えない?」


「女神の加護にございます。魔法を持つ者には、この国の存在そのものが認識できませぬ。地図に載らず、噂にもならず、通りかかっても目に入らない」


秀継はその言葉を、一度ゆっくりと解体した。


加護、魔法。聞き慣れない言葉が続いている。しかしいちいち立ち止まっていては全体が掴めない。わからない単語は文脈で補え。それも七十八年の習慣だった。


外から見えない国。四百年、それだけで守られてきた。


「その加護は恒久的なものですか」


エキは少し間を置いた。


「……詳細は追ってご説明できればと存じます。今は、まず国の全体像を」


秀継は頷いた。


ふと、胸元に重みがあることに気づいた。


手を当てると、硬い表紙の感触がある。取り出すと、小さな帳面だった。


見覚けがあった。いや、見覚えどころではない。生前、肌身離さず持ち歩いていたものと、同じものだった。


秀継はそれを少しの間、手の中で確かめた。それから顔を上げた。


「何か書くものはありますか」


エキが懐から羽ペンとインクを取り出した。無言で差し出す。


秀継はそれを受け取り、帳面を開いた。記号と矢印だけを書いた。他人には読めない。自分にだけ読める略図。書いて、閉じた。


それが習慣だった。書いて、閉じる。

後から見返す事もあれば、二度と開かないページもある。

「書く事」――その行為自体が大切だった。


「続きを聞きましょう、続けて」


エキは礼をした。最初の礼より、わずかに深かった。秀継はその角度の差を記録したが、今は触れなかった。


秀継はふと気づいた。

「一つ、言い忘れていました」


「何でございましょう」


「名前を、まだ言っていない」

エキが顔を上げた。


「田中秀継といいます。前の世界では商いをしていました。この国の民には届かない数ですが、社員は二万三千人いました。以上です」


それだけだった。肩書も実績も、それ以上は語らなかった。


エキはしばらくの間、秀継を見つめ続けた。

所々、この世界にはない言葉が混じっていたが、わからない部分は前後の文脈で埋める。秀継と同じやり方だ。

その目の奥で、四百年分の何かが動いているように見えた。


この男は違う――そんな思いが、エキの表情に浮かんだ気がした。


「……田中秀継様」


「秀継でいい。様はいらない」


「では、秀継様」


「様もいらないと言っています」


エキは一瞬だけ、目元を動かした。


「……承知いたしました。では、王、または陛下で。これ以上は譲りません」


長年この国を治めてきた宰相が、譲らないと言っている。秀継は少し考えて、頷いた。形式上とはいえ王だ。他者への配慮もあるのだろう。


それに、この老人は言ってみれば、買った会社の前社長のような存在だ。

郷に入っては郷に従え。


「それで構いません」

秀継は納得した。


「まず数字が見たいですね。この国の全ての数字を」


秀継は立ち上がった。


「適切な場所へ案内してください。ここでは仕事がしにくい」


エキは一瞬だけ玉座を見た。四百年間、誰も座らなかった椅子だ。そこに座った男が、開口一番に「仕事がしにくい」と言った。


「……御意にございます」


廊下のリノリウム床はもうない。点滅する蛍光灯も、赤鉛筆も。律子の笑顔も、誠司の背中も。


しかし田中秀継の算盤だけは、死の瞬間から一度も止まっていなかった。


* * *

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