第13話:積み上げたものを動かす——評議会の行方
評議会の開幕は、昼前だった。
十三名の評議員が、弧を描くように並んだ席に着いている。正面に秀継。その隣、一歩引いた位置にカレインが立つ。エキが最後尾の壁際に控えているのが、秀継の視界の端に映った。発言せず、ただ場を見守る姿勢だ。
秀継は全員の顔を、一度だけ見渡した。
先日、個別に訪ねた顔ぶれだ。彼らが何を欲し、何を恐れているか——それぞれの「事実と根拠」は、すでにこの手の中にある。
「本日の議題は一つです」
秀継が口を開いた。
「難民支援予算の承認。難民区域の整備・労働力化への充当を提案します」
最初に口を開いたのは、ハルティンだった。資料の書き込みが誰より多く、先日の個別面談でも数字の確認だけで話が終わった男だ。
「賛成します。難民の労働力化は、城下の人手不足を解消する最も現実的な手段です。職人の高齢化が進む私の担当区画では、補修作業の遅延がすでに深刻で――」
続いて、ベネットが身を乗り出した。
「同意します。費用対効果で見れば、今この段階で投資しないことの方が損失が大きい」
隣のクロスが、静かに頷く。
賛成の声が五つ並んだところで――
「少々、よろしいですか」
静かな声が、場を止めた。
エルドという名の評議員だった。白髪混じりの顎髭を持つ、年配の男。声は穏やかで、一見すると中立に聞こえる。
「現状でも、難民区域への物資供給は行われています。食料、医薬品、衣料。いずれも城下整備費と衛生管理費の名目で定期的に支給されており、この支援体制はすでに十分機能しています。追加予算の根拠が、私には見えない」
一拍。
「難民の労働力化という目標も理解できます。しかしそれは、現状の支援の成果を評価した上で議論すべきではないでしょうか。拙速な予算投入は、かえって行政の混乱を招く恐れがある」
もっともらしかった。
賛成に傾きかけていた評議員のうち、二人が視線を伏せる。
秀継は、エルドを見た。
「根拠を示します」
帳面を開く。
「現在の支給記録と、現場の検品記録を照らし合わせました。どの区画でも、実際に届いた物資が記録の数字を二割から三割下回っている」
「輸送過程での損耗――」
「三割の損耗が、全区画で恒常的に発生している」
秀継は、帳面をテーブルに置いた。
「輸送経路が異なる区画でも、数字は同じように三割減ります。道路事情の問題ではない。損耗率が均一すぎる」
エルドの表情から、能面のような穏やかさが抜け落ちた。頬の筋肉がピクリと引きつる。
「検品記録は現場の騎士が独自につけていたものです。誰かに見せるために書かれたものではない。原本はすでに保管してあります」
「……現場の騎士の記録など、精度に――」
カレインが、わずかに拳を握った。
「城の支出記録と、現場の検品記録と、経路上の業者の納品記録。三つを突き合わせれば、どこで数字が変わるか一目で分かります」
秀継は続けた。声のトーンは変わらない。
「エルド評議員、あなたはここ三年間、物資調達の監督を担当していましたね。その期間、全区画の損耗率がほぼ同一だった。これが何を意味するか、説明していただけますか」
室内が、静まり返った。
エルドの口が開きかけ、閉じた。開きかけ、また閉じた。
「……現状の支援体制の問題は、別途議論すべき事案です」
絞り出すような声だった。
「賛成です」
秀継が即座に返した。
「では、予算承認の採決を取りましょう。エルド評議員の指摘通り、今日の議題は予算承認に限定します」
エルドが、言葉を失った。自分が提案した「議題の限定」が、そのまま自分に返ってきた形だった。逃げ道として差し出した言葉が、足場を塞ぐ石になった。
「賛成の方、挙手をお願いします」
ハルティンが、真っ先に手を挙げた。続いて、ベネット。クロス。三人、四人、五人――六人の手が上がった。
そこで、止まった。
秀継は、ゆっくりと視線を動かした。
残り七名。そのうち数名は、まだ迷っている顔だった。エルドは両腕を組んだまま微動だにしない。
そして――ラドウィグが、まだ手を挙げていなかった。
先日、最後に訪ねた屋敷の男だ。十八年前の暴動で部下を二人失った。応接室の窓の外を、二人で黙って見た夕暮れを、秀継はまだ覚えていた。
ラドウィグは、テーブルの上に両手を置いたまま、じっと前を見ている。表情は読めない。
カレインが、わずかに息を呑んだ。
六対七。このまま採決が終われば、否決だ。
秀継は、何も言わなかった。
急かさない。
ラドウィグの両手は、テーブルの上で石のように動かない。沈黙が痛いほど耳に刺さる。誰かが唾を飲み込む音さえ聞こえそうだった。
室内の誰もが、その手を見ていた。
迷っていた評議員が一人、視線をラドウィグへ向けた。もう一人も、同じ方向を向く。
視線も、期待も、不安も——この部屋のすべてが、一人の男の手に集まっていた。
ラドウィグが、口を開いた。
「一つだけ、聞かせて下さい」
低い声だった。
「この支援が進めば――十八年前のような事故が、また起きる可能性は減りますか」
空気が、わずかに軋んだ。
十八年前。その言葉が何を指すか、この部屋の評議員たちはほぼ知っていた。暴動。火事。二人の文官。誰も口にしなかったが、知っていた。
秀継は、ラドウィグを見たまま答えた。
「減ります」
一拍。
「あの夜、暴動を起こした者たちも、それが正しくないことは分かっていたはずです。暴動を起こしても何も変わらない事も気づいていたでしょう。ただ――感情が限界を超えれば、人は正しい選択ができなくなる。それが人間というものでしょう」
もう一拍。
「正しいことを選んでもらうためには、正しい選択ができる環境が必要です。今回の整備は、そのためのものです。感情が爆発する前に、逃げ場を作る」
ラドウィグは、しばらく黙っていた。
テーブルの上の両手を、じっと見ていた。その手が、ゆっくりと上がった。
それを合図にしたように、迷っていた評議員たちが次々と手を挙げた。最後にエルドが、引きずられるように重い腕を持ち上げる。
十三対〇。
全会一致だった。
採決の余韻——というよりは、一種の虚脱感が場を支配していた。その空気を読まないかのように、エキが事務的に次の議題を告げる。土龍の出現についてだ。
議論は短かった。予算承認の熱が冷めやらぬまま、評議員たちの腰は軽くなっていた。難民区の労働力を城壁補修に充当する、という案が出ると、異論はほぼ出なかった。ラドウィグが「補修速度が上がるなら、それでいい」と一言添えて、そのまま決した。
評議会が終わり、評議員たちが部屋を出ていく。
エルドが最後に立ち上がった時、秀継は帳面から目を上げた。
「エルド評議員」
男が立ち止まる。
「物資調達の監督業務について、来週、詳細な報告書を提出してください。三年分の記録を全て」
エルドの背中が、わずかに強張った。
「……承知しました」
それだけ言って、出て行った。振り返らなかった。
空になった部屋に、エキが残った。
「全会一致でしたね」
エキが、静かに言った。
「そうですね」
秀継は帳面に何かを書きながら答えた。
「カレインから聞いたのですが、ラドウィグに会っていたのですか」
「ええ、少しお茶をしました」
「何を話されていたのですか」
「……彼は悩んでいました」エキは、ゆっくりと言った。「正しいことと、自分の気持ちが整合しない事に。十八年間、ずっと」
一拍の沈黙。
「私は何も提案しませんでした。ただ――ここで出す答えが、未来を作ることは確かでしょう、とだけ」
秀継は、エキを見た。
政治家の目だ、といつも思っていた。感情の起伏を殺した、澱んだ目。しかし今、その奥に何か別のものがあった。澱んでいた水が、わずかに動いたような――そういう目だった。
「三日で」とエキは続けた。「ずいぶん変わりましたね」
「変わっていません」秀継は即座に返した。「やり方を変えただけです」
エキは何も言わなかった。ただ、かすかに――ほとんど気づかない程度に――目を細めた。
秀継は立ち上がった。
「難民区の視察を入れてください。予算が通った以上、現場を見ない判断はできない」
「承知しました。日程を――」
カレインの声が、廊下の外から届いた。振り返らずに言っている。
「明後日であれば空いています」
秀継とエキが、顔を見合わせた。
盗み聞きしていたのか、それとも耳が良すぎるのか。どちらとも判断できない。
「では明後日」と秀継は言った。
廊下が静かになった。
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夜になってから、秀継は城壁に出た。
執務を終えた後、誰にも告げずに一人で来た。月はなく、星だけが出ていた。城下の明かりが、遠くに点在している。
帳面を開いた。
今日の事実を確認する。予算承認。難民区整備の工程表、第一段階の着手まで十四日。物資調達の不正については、来週の報告書を待って動く。エルドの処分は、証拠が揃ってからだ。
数字は、揃っていた。
帳面を閉じた。
風が来た。城壁の石が、夜の冷たさを蓄えていた。
秀継は、城下を見た。明かりの点在する夜景。どの明かりにも、誰かがいる。顔は見えない。名前も知らない。しかし数は分かる。この国に四万人がいて、虐げられた人たちが難民区に押し込まれている。
今日の承認で、その人々の台帳が作られる。顔が見えるようになり、役割が与えられる。
それで十分か。
秀継は、自分に問うた。
答えは直ぐに出た。
「まだ足りない」
声に出ていた。
気づいた時には、言葉が夜の空気に溶けていた。誰かに言ったわけではなかった。言おうとしたわけでもなかった。
六十年間、そういう感覚とともに生きてきた。会社を起こした翌年も、従業員が千人を超えた日も、一万人を超えた日も、この感覚だけは消えなかった。足りない。まだ足りない。その感覚が、次の手を考えさせた。次の朝、机に向かわせた。
それが正しかったのかどうか、今もわからない。
妻の律子が最後に入院した時、秀継は毎日二時間だけ病室に通った。それ以上いると、仕事に支障が出るからだ。律子は何も言わなかった。ただ、来るたびに「無理はしないで」と言った。
病室を出るたびに、秀継は「まだ足りない」と思った。時間が、ではない。何かが、足りなかった。
その何かが何だったのか、今でも分からない。
帳面を、もう一度開いた。
白い頁に、一行だけ書いた。
〈分からないことは、まだ沢山ある〉
それだけ書いて、帳面を閉じた。
星が、少しだけ動いていた。
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