第11話:土龍討伐——折れた剣と、神速の一歩
カレインが剣を抜いた。
引き抜く動作に迷いは一切なかった。考えるより先に体が動く。数え切れぬ実戦の果てに、騎士団長として身に刻み込んだ反射だった。
だが、抜き身の刀身を見た瞬間、胸の内側で何かが軋む。
いつもの剣ではない。
秀継が生み出した剣だった。鞘から解き放たれた刃が、滑らかな銀色の光を返す。あまりにも均一な光だった。職人が一本一本に込めるはずの「癖」がない。整いすぎている。
それは、今このとき、指先の皮膚感覚に妙な違和感として貼り付いてきた。
——だが、それを考えるのは後だ。
「レン」
カレインが呼ぶ。低く、短い声。
「団長が出るべきではないです、私が——」
「下がれ」
それだけだった。
レンは言葉を飲み込み、項垂れるようにして数歩、後退する。カレインの圧倒的な存在感の前に、異論を唱える余地はなかった。
カレインは一歩、前へ出た。
土龍との距離、およそ五十メートル。発見時よりも、じりじりと間合いを詰めた位置。
巨大な頭部がこちらへ向き直る。目が合った。光を飲み込むような暗い穴が、三人の人間の中からカレインを選び取る。本能が、最も前に出た個体を、標的として確定させたのだ。
カレインは止まらない。
歩を速める。五十が三十に。三十が二十に。
——速い。
凡そ「人間」という種が出せる速度の限界。その言葉を、その存在一人で証明してみせるかのような、肉体出力の極致だった。
土龍の体がこちらへ向けて軸を変える。巨岩が回転するような動きに、地面が震えた。足の裏から骨まで、低い振動が這い上がってくる。踏みしめているのは石畳ではない。大地そのものが揺れていた。
十五メートル。
土龍が前脚を振り上げる。
カレインは僅かな溜めもなく横へ跳んだ。直後、前脚が地面を叩きつける。石畳であれば粉砕されていただろう一撃。草地であるにもかかわらず、土が爆ぜ、地表が吹き飛んだ。
弾ける土煙の中を、カレインが駆け抜ける。視界は白く霞む。それでも、巨大なシルエットを見失わない。長年の訓練が、目の代わりになっていた。
土煙が晴れた、その刹那に踏み込む。
狙いは首元。鱗の継ぎ目を探す目だった。岩盤のように分厚い表皮にも、関節の折れ目には必ず薄い箇所がある。どこなら通るか。どこに剣を入れれば殺せるか。
観察しながら走る。意識が判断するより先に、脚が決断していた。
剣を振る。
手応えはあった。だが浅い。鱗の表面を剥いだだけだ。金属が岩を叩く、耳障りな音。火花が散る。
土龍の頭部が、横薙ぎに振るわれる。
カレインは身を屈め、かろうじて躱した。頭上を暴風が駆け抜ける。立ち上がりざま、二撃目を叩き込む。今度は継ぎ目を捉えた。刃が肉へと沈み込む感触。まだ浅い。だが確かに傷は刻まれ、赤い血がわずかに迸る。
土龍が低く唸った。音というより、地鳴りに近い震動だった。
カレインは即座に後退する。入れ替わるように、土龍が再び前脚を振り上げる。先程とは明らかに質の違う重さ。そこには、感情——怒りが乗っていた。
跳ぶ。
着地と同時に再び駆け出す。土龍を中心に円を描くような軌跡。正面からは当たらない。だが、正面に「いる」と思わせ続ける。
その実、狙うのは側面だ。巨体の死角。土龍の視線を正面に釘づけにしたまま、外周を回り込もうとする動きだった。
レンが息を呑む音が、遠くで聞こえた。
「……さすが団長。もはや、人が扱える剣術の域を超えている……」
その呟きは、秀継の耳には届かない。
カレインの動きは、見ている者の呼吸という動作を忘れさせる類のものだった。
土龍の巨体が、信じ難い速度で襲いかかる。だが、カレインはそれに遅れを取らない。右へ振り向けば左から潜り込み、振り回された前脚が草地を抉り取る、その一歩手前から姿を消す。
残るのは、剣の軌跡だけ。
銀色の線が、土龍の体表をなぞるように、確実に傷を刻んでいく。
——積み上げたもの。
カレインは魔法を持たない。ゆえに、剣にすべてを賭けた。手のひらの皮が幾度も剥け、血で柄を滑らせ、それでも剣を振り続けた。何度も、何度でも。
気が遠くなるような時間を、ただひたすら剣に注ぎ込んだ。
その果てに、「剣」においては、もはや横に並ぶ者がいなくなった。
だが——届かない。
一撃一撃は、確かに通っている。刃が入るたびに、火花と鮮血が飛び散る。
それでも、土龍は止まらない。体を覆う鱗の厚さが、人間とは根本的に違う。人間相手なら致命傷になるはずの一撃も、この生き物にとっては、かすり傷にも満たない。
削いでいる。確実に削り取っている。だが圧倒的に、血が足りない。この体積を沈黙させるには、あと何十倍の出血が必要か。
「……一人で龍と戦うなんて。いくら団長とはいえ、無茶だ……」
レンが、誰に聞かせるでもなく漏らした。
秀継は何も言わない。
ただ、カレインを見ていた。帳面を取り出そうという気にもならない。言葉に書き記すより先に、目で焼き付けておかねばならないものが、今そこにあった。
カレインが再び踏み込む。
今度は深く入った。確かな手応え。鱗の継ぎ目に、剣先が噛み込む。
土龍が身体を捩じる。払い除けようとする反動で、カレインの体が弾き飛ばされる。一瞬、地面から浮く。
着地。膝を柔らかく使い、衝撃を逃がす。
体勢を立て直した、その瞬間。
土龍の尾が、横合いから迫る。
——避けきれない。
直撃ではない。かすめた程度。それでも、轟くような衝撃があった。右腕に痺れが走る。剣を握る手の感覚が、一瞬だけ遠のく。
カレインは、柄を握り直した。
手の甲に血が滲んでいる。尾の鱗に擦られた、浅い傷。致命傷には程遠い。だが、細やかな力の出力が利かない。
「——」
何も言わない。表情も変えない。ただ、剣を持ち直し、もう一度前を向くだけ。
土龍の頭部が、ゆっくりと持ち上がる。
明確な「予備動作」だった。先程までとは違う。今度こそ、全体重を乗せてくる。
カレインはそれを見た。
距離が足りない。横に逃げる間合いではない。選べるのはただ二つ。真正面から受け止めて押し返すか、あるいは内側へと身を滑り込ませるか。
体長十メートルを優に超える、異形の猛獣。秀継の元いた世界には決して生息しえない、「人の力ではどうにもならない暴力」の具現。
そして、そんな異物と剣一本で渡り合えているカレインの方が、もはや「人の枠」から外れかけているのも、また事実だった。
長年積み重ねてきた技と経験、磨き上げた感覚。それらをすべて総動員して、いまなお何とか立ち回れている。
それでもなお、「火力」が足りない。
分厚く固い鱗に包まれたこの土龍にとっては、いかに精妙に振るわれようとも、カレインの剣は紙の剣で叩かれている程度のダメージでしかない。
そんな暴君が、いま、真正面からカレインに突進しようとしている。
カレインが、踏み込む。
逃げない選択だった。内側へ飛び込む。懐まで潜り込めれば、打ち下ろしの直撃だけは避けられる。そのかわり——牙が届く距離。
三メートル。
その瞬間だった。
剣が、光った。
青白い。炎でも魔力の輝きでもない、もっと静かな光だった。発光というより、刀身の内側で何かが一瞬だけ息をしたような、微細な変化だった。カレインの手の中で、剣が「何かを決めた」ように見えた。
そしてカレインが、——消えた。
「消えた」という表現が正確かどうか。本人にも、判然としなかった。
カレインの視点からすると。
刹那の瞬間、視界が「切り替わった」。
一歩、踏み出した。それだけだ。だが、踏み出した次の瞬間には、目の前の光景が、別の角度からのものに置き換わっていた。
衝撃はない。跳んだ感覚も、走り抜けた風もない。
ただ、「さっきまでそこにいた」という事実が、「今は別の場所にいる」という事実に、乱暴に上書きされた。
「——え?」
レンが、思わず声を漏らす。瞬きよりも一瞬。カレインの位置が、ありえない形で移動した。
まさに瞬間移動と言うべき、不自然な跳躍がそこにあった。
横に一メートルほど。
踏み出した位置よりも、さらに前へ。ずれた座標に、カレインが「いた」。
頭が理解する前に、体が動いている。想定外の位置取り。土龍の頭部の横——牙の死角に、ぴたりと収まっていた。
届く。この角度なら、眼窩に届く。
迷いはなかった。
カレインは剣を突き出す。
土龍の目に、刃が入った。
切るのではない。抉る動作だった。ぬるりとした抵抗があった。黒い穴の奥に、剣先が沈んでいく。土龍が動きを止めた。それまでの重い機械的な動きが、まるで誰かに「停止」の命令を下されたように、一瞬で凍り付く。
カレインは剣を引き抜く。
抜いた、その瞬間だった。
高い音が鳴る。
刀身が、折れた。
根元からではない。中ほどから、斜めに。
折断面は、不気味なほど滑らかだった。職人が打った鍛造の剣なら、こうした割れ方はしない。金属疲労や衝撃による「破断」というよりは、内側から何かに引き裂かれたかのような、異様に整った裂け目。
折れた先端は、そのまま土龍の眼窩の奥に残っている。
カレインは、折れた柄を見た。
一秒。ほんの一秒だけ、視線を落とす。
そこに感情はない。あるのは、冷静な分析だけだった。
目を抉ったことで、内圧が抜けた。土龍の全身から、目に見える形で力が失われていく。折れた刃先は、そのまま深部へと食い込んでいた。結果として——それは致命傷になっている。
巨体が、傾ぐ。
崩れ落ちるまでの過程は、奇妙なほどゆっくりだった。現実の二十秒が、永遠に思えるほどに長く引き延ばされる。草地を巻き込み、地表を削り取りながら、最後に、低い重音を立てて動きを止める。
地鳴りが、遅れて腹の底へ届いた。
静寂が戻る。風の音と、遠くの鳥の声だけが、世界を満たしている。
カレインはまだ、折れた剣の柄を握っていた。
「……団長!」
レンが駆け寄ってくる。声は、緊張と安堵でわずかに上ずっていた。
「ご無事ですか」
「ああ、問題ない」
即答だった。呼吸も乱れていない。
「今の——最後の一撃の前に、団長が一瞬——」
「気のせいだ」
カレインは短く切り捨てる。
レンは口を閉じた。しかし、その顔に浮かんだ確信は消えない。気のせいなどではないと分かっていた。見たからだ。確かに見た。踏み出したはずの場所よりも、さらに前へ。
一歩で、二歩分の距離を詰めていた。
「剣術を極めれば……あのような奇跡も、起こりうるのですね」
レンが、自分に言い聞かせるように呟く。
「……すごい。本当に……すごいです。貴重なものを、見せて頂きました」
カレインは、レンを見ない。
視線の先には、折れた剣の断面。
あまりにも均一な、奇妙な割れ口。職人の打つ鉄なら、こうはならない。内部に何かが詰め込まれていたかのような、複雑な構造を縦に割ったような痕。
——最後の一歩。
あの瞬間に起きた「何か」が、脳裏に引っかかる。それが剣からもたらされたものなのか、それとも、自分の積み重ねが閾値を超えた結果なのか。カレインには、まだ判断がつかなかった。
背後に、秀継の気配がある。
それでも振り返らない。
「城へ戻る。今回の件、報告せねばならん」
それだけ告げて、歩き始める。
折れた柄は、まだ手の中にあった。
——捨てるという選択肢は、どこにも浮かんでこなかった。




