第9話:赤字の工房——職人の技と、王の異能
根回しは、順調だった。
確実な賛成が三に増えた。可能性があるのが四。評議会の過半数まで、あと一歩のところまで来ていた。
しかし秀継は、評議会の票を固めながら、別のことを考えていた。
難民の就労台帳を整備しても、受け入れる側がなければ意味がない。名前が載っても、行き先がなければ数字は動かない。
台帳と受け入れ先を同時に用意する必要があった。評議会の採決を待たずに動いておく。それが経営者の習慣だった。決議が通った瞬間に動き始めるのでは遅い。決議が通った瞬間に、すでに次の準備が終わっていなければならない。
「城下の職人に、話を通したい」
カレインを呼んだのは、朝の執務が終わった後だった。
「難民区の人間の受け入れ先として、工房を当たりたい。案内してもらえますか」
カレインは一度、秀継を見た。
「職人区は、王が直接回るような場所ではありません」
「いいえ。現場をまず見ないことには、正確な判断ができません。一箇所で良いのでお願いします」
短い沈黙があった。カレインは何かを確かめるように間を置いてから、頷いた。
「一件、心当たりがあります」
***
城下の南側、石畳が途切れて砂利道になる手前に、その工房はあった。
看板がない。扉の横に、鉄の棒が無造作に立てかけてあるだけだ。呼び込みも、飾りもない。来る者だけ来ればいい、という構えだった。煤と油の匂いが、扉の前まで漂ってきた。
「腕は城下一です」とカレインは言った。「ただし、商いは上手くない」
それだけ言って、扉を開けた。
熱気が顔を打った。
炉の火が赤く燃えていた。煤けた壁、無骨な作業台、無数の工具が壁一面に並んでいる。秩序なく見えるが、すべて手の届く場所にある。長年かけて作られた、一人の人間の論理だ。どこに何があるか、この工房の中でわかるのは、おそらく一人だけだ。
工房の様子を見るだけで、秀継はその主人の力量を理解した。
男が振り返った。
小さい。人族の成人男性の半分程度の身長しかない。しかし横幅がある。肩から腕にかけて、筋肉が鎧のように盛り上がっていた。肌は浅黒く、顎には短く整えられた赤みがかった髭。長らく火を見続けた目は鋭い。値踏みする目ではなく、一つのことを突き詰めた者の目だ。耳が丸く、鼻が低い。
「彼はドワーフです」とカレインが言った。
「そうですか」と秀継は頷いた。ドワーフがどういったものか分からなかったが、この男の種族を指すのだろうと軽く流す。
「カレイン団長か」とドワーフの男は言った。秀継には目もくれなかった。「今日は何だ」
「紹介したい人がいる。ガラム、こちらは——」
「誰でもいい」ガラムは遮った。「用件を言え」
カレインが秀継を見た。どうぞ、という目だった。
「難民区の人間を、働き手として受け入れてほしい」
ガラムが初めて秀継を見た。想定外の要件だったのだろう、顔が一瞬止まった。
「……あんた、誰だ」
「城の者です」
「城の者が難民の世話を焼くのか」ガラムは鼻を鳴らした。「御苦労なことだ。断る」
「理由を聞かせてもらえますか」
「どこの馬の骨ともわからない人間を工房に入れるわけにはいかない。仕事を覚えるのに時間がかかる。その間、金だけ出ていく。うちにそんな余裕はない」
あっさりと言った。感情はなかった。ただ、事実として言った。
秀継は帳面を出したい衝動があった。出さなかった。
「この工房、経営は苦しいですね」
場が凍りついた。ガラムの目が、ギロリと秀継を睨む。
「……そんなことはない。うちは数百年続く老舗だ。適当なことを言うな」
「腕が良く、客はいる。しかし今の作業と一般的な製品の相場を掛け合わせれば分かる。手間をかけすぎだ」
「……! 先代から教わったことを、俺の代で変えることはできない。それで店が終わるならしょうがない」
ガラムは震える声で言った。昂った感情を無理やりに抑えて震えている。しかし、否定はできなかった。
「周りの連中みたいな粗悪品を安く売るくらいなら、物作りなんてやめる」
「帳簿は確認していますか」
「嫁がやっている。俺がやることじゃない」
あっさりと言った。恥じている様子はなかった。ただ、事実として言った。
これが、この男の全てだ。
秀継はそう思った。
腕がある。しかし数字が見えていない。先代の技術を継承することだけが価値だと、そこで思考が止まっている。
六十年前の自分と重なる部分があった。
十八歳で工場を始めた最初の年、売上の計算を間違えて仕入れを過剰にした。商品力と自分の能力があれば捌き切れると思った。結果は甘かった。
最終的には、取引先に頭を下げて返品させてもらった。秀継にとって、若き日の屈辱と教訓の記憶である。
翌日から数字と経営を勉強し、計画の立て方の基礎から学んだ。秀継は失敗から学び、最後は二万三千人を従える経営者に成長したのだ。
しかしこの男は違う。数字を学ばずに何十年も生き延びた。腕だけで生き延びられる時代があったということだ。その時代が、この国でも終わりつつあることを、ガラムは理解していない。
「一度、働かせてみてください。使えると判断したら雇う。それだけでいい」
「だから余裕がないと言っている」
「仕事の発注を増やします。騎士団の装備の整備が追いついていないので、その仕事を。妥協を許さない仕事なので貴方向きだ」
ガラムは秀継を見た。今度は長く見た。
「……城の者が、そんな約束をしていいのか」
「私に決める権限があります」
実質の権限者は評議会だ。
後から辻褄を合わせれば良い。
また沈黙があった。
ガラムは炉の方を向いた。しばらく火を見ていた。火が揺れる。それを、ただ見ていた。
考えているのか、それとも別の何かを確かめているのか、秀継にはわからなかった。
「一人だ」と、やがて言った。
「まず一人だけ寄越せ。使えると思ったら、もう一人考える」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。仕事をしてくれれば、それでいい」
ガラムは炉に向かった。
話は終わり、ということだ。
***
秀継はその場に残った。
最初は少しだけ確認して、次の場所へ移動するつもりだった。
時間を無駄にするような秀継ではなかったが、ガラムの作業を見つめているうちに動けなくなった。
この工房の中に、ガラムの仕事の姿に、何か引き留めるものがあった。
それが何かは、言葉にならなかった。
ガラムが鉄を打ち始めた。
先ほどまでの交渉の空気が、跡形もなく消えていた。怒りも警戒も、どこかへ消えている。
ただ、仕事だけがあった。
一定のリズムで、迷いなく。余分な力が入っていない。
何十年も同じ動作を繰り返してきた人間の動きだ。
叩くたびに火花が散り、床に落ちて消えていく。
秀継は壁際に立った。帳面も出さず、食い入るように見つめる。
まるで過去の自分と今の自分の答え合わせをするかのように。
鉄が変形していく。一打ごとに形が変わる。
炉に戻し、また叩く。
単純に見える。しかし単純ではない。
温度が下がれば鉄の性質が変わる。叩く角度がわずかにずれれば仕上がりが狂う。
力の配分が狂えば、刃の硬さが変わる。
すべての判断が、一瞬の中にあった。
ガラムはそれを、息を吸うようにやっていた。
体が知っている。頭を通さずに、手が判断する。
それが何十年という時間の蓄積だった。
帳簿を読まずとも、数字を学ばずとも、この男がここまで生き延びてきた理由が、この動作の中にあった。
カレインは壁際で腕を組み、静かに立っていた。
秀継がなぜ帰らないのかは聞かない。ただ、静かに待っていた。
一時間ほど経った頃、ガラムが手を止めた。
「まだいたのか」
「話は終わりとは言われましたが、帰れとは言われていませんので」
ガラムは鼻を鳴らした。
粗削りの刃が、作業台の上にあった。
まだ剣の形ではない。しかし確かに、剣になろうとしている。
一時間分の判断が、この形の中に刻まれていた。
秀継はその刃を見た。
見ているうちに、何かが動き始めた。
頭の中ではなく、もっと深いところで。
この形の意味がわかる。
なぜこの角度で削られているのか。なぜこの厚さが残されているのか。
一時間見続けた動作が、すべてこの形の中に入っていた。
動作と形が、頭の中で繋がる。
繋がった瞬間、何かが溢れた。
以前、広場で魔法陣を初めて見た時と同じ感覚。
いや、それよりもさらに深い。
「ガラムさん、その剣を見せていただけませんか」
キョトンとした顔で秀継を見るガラム。
しかし、自分の仕事を認められること自体は嫌ではなかったのか、鉄がまだ熱いままの剣を差し出した。
その剣を手に取った瞬間、溢れんばかりの情報が秀継の頭の中に流れ込んできた。
素材の比率、叩かれた回数、温度の変化、歪みの補正……。
理解――否、理解よりも深く、その剣を識っていく。
秀継は右手にガラムの剣を持ち、左手を前に広げた。
目を閉じ、そこにあるはずのないものを手繰り寄せるような感覚。
意図したわけではなかった。手が勝手に動いていた。
青白い線が折り重なり、立体を描き、その隙間を埋めるように鉄が生まれていく。
何もないところから、形が現れる。
――剣だった。
「な、……っ!」
カレインが息を呑む。
目の前で起きたことが理解できない。
魔法使いのいない国で、起きるはずのない現象。
それが今、現実として目の前にある。
ガラムが打ったものと、同じ仕様の剣。
ただしこちらは完成している。刃があり、鍔があり、柄まで備わっている。
ものの数秒で。
工房の中が静まり返った。
炉の火の音だけが、かすかに響く。
ガラムがゆっくりと振り返る。
初めて、その目が大きく見開かれていた。
長い沈黙。
ガラムは秀継を見た。
手を見た。剣を見た。もう一度、秀継を見る。
「……なんだ、それは。お前、魔法が使えるのか?」
「これが魔法なのでしょうか。私にはわかりませんが、こうすれば出来ると、なぜかわかったのです」
ガラムはゆっくりと歩み寄り、剣を手に取った。
持ち上げ、角度を変え、刃に軽く指を触れる。
目が細くなる。
感情が消え、判断だけが残る――職人の目だった。
しばらくの沈黙。
秀継は待った。帳面は出さない。
この男の評価を、数字にする前に聞く必要があった。
「悪くない」
やがてガラムが言った。
「使えないことはない」
「しかし――」
一瞬の間。
「俺が打ったものじゃない」
それだけだった。
秀継は剣を受け取り、改めて重さを確かめた。
使えないことはない。
その意味を、正確に理解する。
合格ではない。
及第でもない。
ただ、機能するだけ。
ガラムの粗削りの刃と、自分の剣を並べる。
形は同じだ。
だが、決定的に違う。
一時間見ていた。動作も理解した。
しかし、一時間で写し取れるものには限界がある。
何十年分の判断が、あの刃の中にある。
自分が写し取れたのは、その表面だけだった。
理解が浅ければ、劣化コピーにしかならない。
頭ではなく、手の中の重さとして腑に落ちた。
「正直な評価をありがとうございます」
「正直に言っただけだ」
「それで十分です」
ガラムは少し間を置いた。
「……あんた、変わった奴だな。この国で魔法が使えること自体が異常だが、細かい理屈はわからねえ。見なかったことにしてやるから、それはもう使うな。皆、魔法にトラウマを抱えてる。怖がらせるだけだ」
「そうですか。では、以後注意します」
「それより、今日の約束は忘れるなよ。ちゃんと根性のあるやつを連れてこい」
「わかりました。貴方に合う人材を連れてきます」
ガラムは鼻から息を抜いた。
笑ったのかもしれなかったが、それ以上は何も言わず炉の方を向いた。
***
帰り際、ガラムがカレインに声をかけた。
「団長殿。あんたの剣、少し傷んでいるな」
「ああ。最近、整備できていませんでした」
「置いていきな。明日までに直しておく。それは俺が作った剣だ。責任がある」
「しかし、警護中に剣がないのは――」
「そこにあるのを持っていけ。あんなもん置いていかれても困る」
ガラムが顎で示した先には、秀継が生み出した剣が無造作に置かれていた。
「使えないことはない。人相手なら問題ないだろう」
カレインは少し考え、頷いて剣を手に取った。
抜いて、軽く振る。
「……。陛下、お借りしてよろしいですか?」
「陛下? あんた、偉かったのか?」
ガラムが、今日一番の驚きの表情を浮かべた。




