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第0話:一兆企業の創業者、異世界に転生する




 世界が壊れかけたとき、神は英雄を探す。


 だが今回、必要だったのは英雄ではない。


 世界を救う者ではなく――


 世界を黒字にする経営者だった。





探すといっても、大仰なことではない。古い帳簿を一枚ずつめくる作業に似ている。


収入と支出を見比べて、どうしても釣り合いの取れていない行を探す作業だ。


この世界には今、釣り合いの取れていないものが多すぎる。


魔法という名の、生まれつきの力がある。それを持って生まれた者は何をしても許され、持たない者は、どれだけ働いても踏みつけにされる。


生まれがそのまま価値になり、努力は積み上がらない。


四百年間、誰もそれを根本から問い直さなかった。


問い直せる人間が、いなかったわけではない。


ただ、正しい人間が、正しい場所にいなかった。


私は長いあいだ、帳簿を繰った。候補は何人もいた。


情熱のある若者、理想を掲げる改革者、清廉な政治家。どれも悪くはなかった。


しかし、何かが足りなかった。


情熱は燃え尽きる。理想は折れる。清廉さは、最後には孤独に負ける。


だから私は、別の方向を探した。


情熱も理想も清廉も、とうの昔に持て余して、押し入れに仕舞ってしまった人間を。


七十八年間もの間、折れなかった人間を。


感情を後回しにし続けた結果、感情の置き場そのものを失った人間を。


一人の男が今夜、死ぬ。


帳尻を合わせ、足りない場所を補うために。


* * *


田中秀継が死を自覚したのは、会議室ではなく、廊下だった。


深夜二時十七分。東京・大田区にある田中電機本社ビル、十四階。


蛍光灯が一本だけ点滅している非常口の傍で、秀継は胸を押さえながら壁にもたれた。


痛みはなかった。


それが奇妙だった。心筋梗塞というのは激痛を伴うものだと、どこかで読んだ記憶がある。


だが秀継の胸中にあったのは痛みではなく、巨大な脱力感だった。七十八年間回し続けた機械が、ついにゼンマイを使い切ったような、静かな終焉。


廊下には誰もいなかった。


これが最後の光景か――そう思いながら、秀継は目を細めた。


点滅する蛍光灯。剥がれかけた非常口の緑のプレート。創業まもない頃に買い付けた安物のリノリウム床。


あれから六十年、張り替える予算が出るたびに「もう少し待て」と言い続けた。製造ラインに回せと。研究開発費に回せと。


結局、死ぬまで張り替えなかった。


従業員二万三千名。

年商一兆円。


その数字が、走馬灯の代わりに脳裏を流れた。感傷ではない。習慣だ。


七十八年間、毎朝目覚めるたびに確認してきた数字。今日もあの工場で、倉庫で、営業所で、二万三千の人間が飯を食うために働いている。


その事実を確認することが、田中秀継という人間の起動シーケンスだった。


彼は創業者だった。


戦後の焼け野原から這い上がった親の背中を見て育ち、高度成長期の波に乗り、バブルに踊らず、リーマンショックを凌ぎ、コロナ禍を生き延びた。


同世代の経営者が次々と倒れ、飲み込まれ、あるいは自ら幕を引く中で、秀継だけが立ち続けた。


その理由を問われると、彼はいつも同じ言葉を返した。


「1+1は、2にしかなりません」


心から、そう思っていた。


妻の律子が死んだのは、二十三年前だった。癌だった。末期で発覚し、四か月で逝った。


入院中、秀継は毎日病室に顔を出した。ただし二時間以内。それ以上いると、仕事に支障が出た。


律子は何も言わなかった。


それが正しかったのか、間違いだったのか。秀継は今でもわからない。


いや、正確には、その問いをずっと保留してきた。考える時間があれば、より緊急の案件に脳を割り当てた。


息子の誠司は、今どこにいるだろう。


関係は、良好とは言えなかった。悪くもなかった。ただ、遠かった。


経営を継がせようとした時期もあったが、誠司は首を縦に振らなかった。


「父さんにはなれない」


と一言だけ言い、福祉の仕事を選んだ。


秀継は特に引き止めなかった。向かない人間を無理に後継にしても、社員が迷惑するだけだと判断した。


判断。


秀継の人生は判断の連続だった。


感情を介在させると判断が曇る。それを若い頃に学んだ秀継は、意識的に感情を後回しにし続けた。


後回しにするうちに、感情そのものが干上がった。いつからかは、もう覚えていない。


壁にもたれたまま、彼は今夜の会議を思い出した。


新規事業の稟議書。三十ページ。中途採用した若い部長が三か月かけて作った資料だった。


数字の根拠は甘く、市場調査は表面的で、リスク試算は楽観に過ぎた。秀継は赤鉛筆で十七か所に印をつけて突き返した。


その部長が、廊下の向こうで泣いていた。


角から声が聞こえていた。


「また駄目だった」「あの人には何もわからない」「冷たすぎる」


秀継はその声を聞きながら、書類に目を落としていた。


泣くなら一人でやれ。感情で稟議書は通らない。明日また出直せ。


そう思っていた。


今になって思う。なぜ、廊下まで出て行かなかったのだろう。なぜ、ドアを開けて「明日また話そう」の一言を言えなかったのだろう。


感情的行動だ、と思っていた。


本当にそうだったのか。それとも、感情を持つ自分が怖かっただけなのか。


胸の脱力感が、じわじわと全身に広がっていく。


秀継は目を閉じた。律子の顔が、思い浮かんだ。


笑っている。入院する前の、若い頃の顔だった。


「お前はいつも笑っていたな」


声に出していた。誰もいない廊下に、老人の独り言が溶けた。


意識が遠くなりながら、秀継は最後に一つだけ気づいた。


後悔ではなかった。


何かを失ったことへの後悔ではなかった。何かを得る前に、諦めてしまったことへの――そういう種類の、静かな未完成だった。


七十八年間の人生の決算書。私は何を得て、何を失ったのだろうか。


経営者として、私は答えを出せないまま人生を終えた。


意識が、消えた。


* * *


気づいたら、バーのカウンターに座っていた。


死んだはずだった。廊下で壁にもたれて、律子の顔を思い浮かべて、意識が遠くなって――その先がここだった。


照明が低い。アンバーの光が、磨かれたカウンターの天板にぼんやりと溶けている。


棚には見たことのない形の瓶が並んでいる。ラベルがない。色だけがある。深い赤、白濁した青、光を吸い込むような黒。どの瓶も、微かに揺れていた。


店に他の客はいなかった。


音楽もなかった。しかしその静けさは、空っぽの静けさではない。何かが満ちている。「そこにある必然性」、そんなイメージがこの空間の隅々まで詰まっていた。


「お目覚めですか」


声がした。


カウンターの向こうに、女がいた。


黒いベストに白いシャツ、蝶ネクタイ。バーテンダーの服装だった。


銀色の髪が、三つ編みに結われている。アンバーの灯りの下でも、その色は白に近かった。染めたものではない。最初からそういう色として存在しているような、迷いのない白銀だった。


肌は陶器に似ていた。血の気がない、という意味ではなく――そもそも血というものを必要としない素材で作られているような、滑らかで均質な白さだった。


顔立ちは、美しかった。


ただ、美しいという言葉が少し手狭に感じるほどだった。目鼻立ちが整っているというより、一分の乱れもなく配置されている、という印象に近い。


長いまつ毛の奥の瞳は、静かで深く、何かを映しているようでいて、何も映していないようでもあった。表情がないわけではない。だが感情の温度というものが、そこには存在していなかった。


美しい、というより――正確だった。


人形が笑えば不気味に見えることがある。この女が微笑めば神々しく見えるだろうと、秀継は思った。それは同じことの、表と裏だった。


手元では、何も入っていないグラスをゆっくりと磨いている。その動作だけが、妙に人間くさかった。


秀継は特に驚かなかった。


驚く前に、状況の整理が始まった。死後の世界らしい。バーにいる。向こうに女がいる。


――整理しながら、秀継はふと気づいた。


恐怖がない。少しも抵抗を感じていない。それどころか、このカウンターの前に座ると、ここに来る予定があったと思えるような、妙な静けさがある。


おかしい、と思った。


思ったが、そのおかしさを掘り下げる気にも、なぜかなれなかった。


「死後の世界、というやつですかな」


女は答えながら、グラスを棚に戻した。


「そうとも言えます。ただ、あなたにとっては通過点です」


「通過点」


「次の場所があります」


「……どういうことですかな」


「あなたにはまだ、やり残したことがあります。別の世界で、それを果たしていただきたい」


秀継は少しの間、その言葉を咀嚼した。


断ろうという気が、起きなかった。起きないことが、少しだけ不思議だった。


七十八年間、持ち込まれた話を黙って飲んだことは一度もない。条件を確認し、裏を読み、必要なら踏み返してきた。それが田中秀継という人間だった。


なのに今、その回路が静かに止まっている。


「……これは、断れない話ですかな」


「できません」


やはりそうか、と思った。理由はわからない。わからないが、そうだろうとどこかで知っていた気がした。


女は新しいグラスを取り出した。何かを注ぎ始めた。透明な液体だった。


「お飲みになりますか」


「下戸です」


「知っています」


それでも女は、グラスをカウンターの端に置いた。秀継の前ではなく、少し離れた場所に。取ってもいい、取らなくてもいい、という距離だった。


「何故、私なのですか」


口が勝手に動いたような感覚だった。


意識と言動が、わずかにずれている。


頭のどこかで「何を言っているんだ」と思ってはいる。まるで夢の中を漂うような浮遊感のまま、話だけが前に進んでいく、と秀継は思った。


しかし、そんなこともすべて承知していると言わんばかりに、女は構わず言葉を重ねた。


「あなたが適任だからです」


「……もう少し具体的に」


「あなたには、払えていない代償があります」


秀継は沈黙した。


私に払えていない代償。


律子のことが、頭を過ぎった。誠司のことが、過ぎった。廊下で泣いていた部長のことも。


確信は得られなかったが、言葉の重さだけは、理解できた。


理解できたから、それ以上掘らなかった。


追いかければ、この場で崩れかねないと思った。


「その場所で、何をすればいいですか」


「王になってください」


秀継は少し間を置いた。


「……王、ですか」


「はい」


「国を治める、という意味ですか」


「そうです」


「経験はありませんが」


「存じています。それでも、あなたでなければなりません」


秀継は少しの間、黙った。


ずっと、何かがおかしい。自分がこの話をこれほど素直に聞いているのも、なぜか納得をしながら話が進むのも、全てがおかしかった。


どこかで抵抗すべきだという感覚はある。しかしその感覚が、このカウンターの前では妙に遠い。霧の向こうにあるようで、手が届かない。


断れない何かが、働いている。


秀継はそれを認識した。認識したが、抗えなかった。


いや――抗おうとする気が、どうしても湧いてこなかった。


不思議だ、とだけ思った。


「その国の規模はどの程度ですか。人口は。主要産業は」


女の陶器のような口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれなかった。その微笑みは美しかったが、温度がなかった。


「……着けば、自ずとわかるでしょう」


「条件があります」


「聞きましょう」


女は別の瓶を手に取った。今度は黒い液体だった。自分のグラスに、ほんの少しだけ注いだ。三つ編みの先が、その動作に合わせてわずかに揺れた。


「私のやり方でやらせてもらう。感情論は抜きで、数字で結果を出す」


女はグラスをゆっくりと持ち上げた。


「そうあなたが判断したのなら、それで構いません」


秀継は頷いた。


「あなたの判断の数、そして導き出した答え。その答えの多様さが、あなたの本質的な価値ですから」


初めて、女が笑った気がした。


何も、わからなかった。


「払えていない代償」の意味も、自分が選ばれた根拠も、なぜ自分がこれほど静かに頷いているのかも。


それでも秀継は、迷わなかった。


迷えなかったのか、迷わなかったのか――今の自分には、その区別さえつかなかった。


ただ、行くしかないという確信だけが、理由もなくそこにあった。


カウンターの端に置かれたグラスが、まだそこにあった。


秀継は一瞬だけそれを見た。手は伸ばさなかった。


「わかりました」


静かに言った。


「お受けした仕事は、最後まで必ずやり遂げてきました。それだけは、私が私を誇れる唯一の事実です」


女は何も言わなかった。ただ、黒い液体を口に含んで、静かに目を閉じた。


長いまつ毛が伏せられる。白銀の三つ編みが、灯りの中で微かに光る。


それが合図だった。


バーの輪郭が、じわじわと滲み始めた。


アンバーの光が白に変わる。カウンターが、棚が、ラベルのない瓶たちが、少しずつ遠くなっていく。


最後まで見えていたのは、女の手だった。


空になったグラスを、また静かに磨いている。


その横顔は、最後まで、何も語らなかった。


* * *



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