表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/2

1

その部屋は、静かすぎた。

昨夜、笑い声と大人の息遣いで満ちていた場所とは思えないほどに。

重たい頭を抱えたまま、目を開ける。

前髪が額に張り付いている。

知らない香水の匂いが、何度も取り替えられた高級なシーツの匂いと混じって、空気に残っていた。

「……はぁ」

ベッドから起き上がり、部屋の隅に置かれた大きな鏡の前に立つ。

そこに映るのは、裸の男の身体。

傷一つない肌。

鍛えられた線。

――他人から見れば、長く眺める価値のある顔。

この身体は、よく働く。

この顔は、いつも十分だった。

鏡越しに、背後のベッドが見える。

大人の女が一人、まだ眠っていた。

シーツの下で、胸が静かに上下している。

一瞬だけ、視線を向ける。

それだけ。

罪悪感はない。

情もない。

胸の奥にあるのは、奇妙な疲労感だけだった。

身体ではなく、内側のどこかが、ただ平らに摩耗している。

……名前も、もう覚えていない。

適当にズボンを履き、キッチンへ向かう。

冷蔵庫を開け、冷えたビールを一本取り出す。

栓を抜き、そのまま喉に流し込んだ。

苦い。

だが、この味には慣れている。

ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、ゆっくりとビールを飲む。

残った眠気を追い出すために。

その時だった。

チャイムが鳴る。

――ピンポーン。

眉をひそめる。

――ピンポーン、ピンポーン。

同じ音。

だが、今度は早い。

苛立ちが滲んでいる。

「……朝から何だよ」

ビール瓶をテーブルに置き、立ち上がる。

警戒心はなかった。

マネージャーか、間違えた訪問者だろう――その程度にしか思っていなかった。

ドアを開ける。

そこに、女が立っていた。

顔色は悪く、目は赤い。

一晩中眠っていないよう看做だった。

手は震えている。

だが、それは迷いのせいではない。

口を開く暇もなかった。

「死ね」

金属の光が、視界を裂く。

冷たい感触が、腹に突き刺さった。

「死ね……!」

反射的に後ずさり、背中が壁に当たる。

呼吸が止まり、世界が妙に遅くなった。

「あなたのせいで――」

二度目の衝撃。

「――娘は、死んだのよ!」

言葉の意味が、すぐには頭に入ってこない。

理解より先に、身体が壊れていく。

「全部、あなたのせい……」

声は、泣いているようで、壊れていた。

「弄んで……捨てたくせに……」

刃が、何度も振り下ろされる。

脚から力が抜け、床に崩れ落ちた。

腹の奥で、熱が広がる。

息が、短く、浅くなる。

意識が遠のく中で、ふと、奇妙なことに気づいた。

……娘の顔が、思い出せない。

名前も、出てこない。

残ったのは、空白だけだった。

――ああ。

――そうか。

これが、終わりか。

痛みが、先に来た。

次に、頬に強い衝撃。

暗闇のはずの世界が、白く弾ける。

「――起きろ!」

声は、遠い。

肩に、もう一発。

「何だその態度。死んだふりか?」

頭が割れるように痛む。

息が詰まり、反射的に考えた。

――俺は、死んだはずだろ。

冷たい床。

腹に広がる熱。

憎しみに満ちた目。

それなのに。

水が、顔に浴びせられた。

咳き込み、空気を求めて肺が動く。

身体が震え、無理やり意識が引き上げられる。

目を開けた。

見覚えのない、粗い木の天井。

湿った空気。

汗と、錆びた鉄の匂い。

違う。

ここは、あの部屋じゃない。

起き上がろうとして、動きが止まる。

――重い。

手首を見る。

鉄の輪。

両手に嵌められた、分厚い手枷。

短い鎖が、床の金具に繋がれている。

……手枷?

反射的に引く。

鎖が鳴り、そこで止まる。

自由は、ない。

「目ぇ覚ましたか」

横から、感情のない声。

「半エルフだ。昨日、捕まえた」

半エルフ。

言葉より先に、違和感が来た。

耳が、妙に軽い。

触れる。

――長い。

指を見る。

細く、白い。

汚れと小さな傷が目立つ。

……俺の手じゃない。

頭が、追いつかない。

森。

逃げる足音。

背後から伸びてきた手。

――攫われた?

「逃げたら脚を折れ」

別の声が、淡々と言う。

「半エルフは安い。壊れても構わん」

手首の鎖が、やけに重く感じた。

その時、ようやく理解する。

俺は、死んでいない。

目を覚ましてしまったのだ。

――奴隷の身体で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ