1
その部屋は、静かすぎた。
昨夜、笑い声と大人の息遣いで満ちていた場所とは思えないほどに。
重たい頭を抱えたまま、目を開ける。
前髪が額に張り付いている。
知らない香水の匂いが、何度も取り替えられた高級なシーツの匂いと混じって、空気に残っていた。
「……はぁ」
ベッドから起き上がり、部屋の隅に置かれた大きな鏡の前に立つ。
そこに映るのは、裸の男の身体。
傷一つない肌。
鍛えられた線。
――他人から見れば、長く眺める価値のある顔。
この身体は、よく働く。
この顔は、いつも十分だった。
鏡越しに、背後のベッドが見える。
大人の女が一人、まだ眠っていた。
シーツの下で、胸が静かに上下している。
一瞬だけ、視線を向ける。
それだけ。
罪悪感はない。
情もない。
胸の奥にあるのは、奇妙な疲労感だけだった。
身体ではなく、内側のどこかが、ただ平らに摩耗している。
……名前も、もう覚えていない。
適当にズボンを履き、キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開け、冷えたビールを一本取り出す。
栓を抜き、そのまま喉に流し込んだ。
苦い。
だが、この味には慣れている。
ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、ゆっくりとビールを飲む。
残った眠気を追い出すために。
その時だった。
チャイムが鳴る。
――ピンポーン。
眉をひそめる。
――ピンポーン、ピンポーン。
同じ音。
だが、今度は早い。
苛立ちが滲んでいる。
「……朝から何だよ」
ビール瓶をテーブルに置き、立ち上がる。
警戒心はなかった。
マネージャーか、間違えた訪問者だろう――その程度にしか思っていなかった。
ドアを開ける。
そこに、女が立っていた。
顔色は悪く、目は赤い。
一晩中眠っていないよう看做だった。
手は震えている。
だが、それは迷いのせいではない。
口を開く暇もなかった。
「死ね」
金属の光が、視界を裂く。
冷たい感触が、腹に突き刺さった。
「死ね……!」
反射的に後ずさり、背中が壁に当たる。
呼吸が止まり、世界が妙に遅くなった。
「あなたのせいで――」
二度目の衝撃。
「――娘は、死んだのよ!」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこない。
理解より先に、身体が壊れていく。
「全部、あなたのせい……」
声は、泣いているようで、壊れていた。
「弄んで……捨てたくせに……」
刃が、何度も振り下ろされる。
脚から力が抜け、床に崩れ落ちた。
腹の奥で、熱が広がる。
息が、短く、浅くなる。
意識が遠のく中で、ふと、奇妙なことに気づいた。
……娘の顔が、思い出せない。
名前も、出てこない。
残ったのは、空白だけだった。
――ああ。
――そうか。
これが、終わりか。
痛みが、先に来た。
次に、頬に強い衝撃。
暗闇のはずの世界が、白く弾ける。
「――起きろ!」
声は、遠い。
肩に、もう一発。
「何だその態度。死んだふりか?」
頭が割れるように痛む。
息が詰まり、反射的に考えた。
――俺は、死んだはずだろ。
冷たい床。
腹に広がる熱。
憎しみに満ちた目。
それなのに。
水が、顔に浴びせられた。
咳き込み、空気を求めて肺が動く。
身体が震え、無理やり意識が引き上げられる。
目を開けた。
見覚えのない、粗い木の天井。
湿った空気。
汗と、錆びた鉄の匂い。
違う。
ここは、あの部屋じゃない。
起き上がろうとして、動きが止まる。
――重い。
手首を見る。
鉄の輪。
両手に嵌められた、分厚い手枷。
短い鎖が、床の金具に繋がれている。
……手枷?
反射的に引く。
鎖が鳴り、そこで止まる。
自由は、ない。
「目ぇ覚ましたか」
横から、感情のない声。
「半エルフだ。昨日、捕まえた」
半エルフ。
言葉より先に、違和感が来た。
耳が、妙に軽い。
触れる。
――長い。
指を見る。
細く、白い。
汚れと小さな傷が目立つ。
……俺の手じゃない。
頭が、追いつかない。
森。
逃げる足音。
背後から伸びてきた手。
――攫われた?
「逃げたら脚を折れ」
別の声が、淡々と言う。
「半エルフは安い。壊れても構わん」
手首の鎖が、やけに重く感じた。
その時、ようやく理解する。
俺は、死んでいない。
目を覚ましてしまったのだ。
――奴隷の身体で。




