紅の禿鷲 初代ボクシング三冠王 ボブ・フィッシモンズ(1863-1917)
人は見かけによらないの典型である。老け顔で見た目もパッとしないのにボクシングの才能は天才的で、ミドル級程度の体格にもかかわらず、ヘビー級チャンピオンまでKOする剛腕の持ち主だった。見てくれが悪いため、ボクサーとしての人気はなく世間からも過小評価されがちだったが、ボクシングの実写映画に人気が出始めたのに乗じてかなりの副収入があった。
針金のように縮れた赤毛と全身にじんましんのようなそばかすがあることから『ルビーロバート』『そばかすの脅威』などといういささか有難くないニックネームで呼ばれたボブ・フィッシモンズは、近代ボクシングにおけるイギリス人初の世界ヘビー級チャンピオンである。
出身こそイギリスのコーンウォールだが、十二人もの子沢山のフィッシモンズ家は、警察官である父ジェームズの収入だけでは生活が苦しく、末っ子のボブが十歳の時にニュージーランドのティマルに移住し、そこで鍛冶屋を開いて生計を立てていた。中学を卒業してからは父と兄を手伝っていたボブが、ボクシングに目覚めるのは、イギリスを代表するボクサーであるジェム・メイスがニュージーランドで開催したボクシングトーナメントに出場し、優勝を飾ってからである。
当時十七歳のボブは痩せぎすで腰周りも足も細いわりに、鍛冶屋という仕事柄か、背筋が異様なまでに発達しており、トーナメントでは全試合ナックアウト勝ちという段違いのパンチ力を見せ付けている。翌年の大会にも優勝したボブは、本格的なプライズファイターへの道を歩むためにオーストラリアに渡り、一八八三年一月、シドニーでプロデビューを果たした。
一八八九年一月にオーストラリアミドル級王座に就き、地元の強豪を一掃してしまうと、その翌年には世界王座を目指してアメリカ本土に渡り、一八九一年一月十四日、時の世界ミドル級チャンピオン、ノンパレル・ジャック・デンプシー(アイルランド)との対戦にこぎつけた。
『ノンパレル(無双)』という綽名が示すように、スピードとテクニックにおいて同時代では傑出した存在だったデンプシーは端正なルックスも相まって絶大な人気を誇っていた。
対するボブはと言えば、王者より一歳年下にもかかわらず頭髪はすでに後退しているうえ、全身そばかすだらけでウエルター級の下半身にヘビー級の上半身が乗っかったようないびつな体型をしており、いかにもヒーローの引き立て役といった感じだった。
アメリカではほとんど無名のボブと六年に渡って長期安定政権を築いてきた名王者では勝負にならないと思われていたが、試合は予想に反してボブが終始デンプシーを圧倒した。体重こそ同じでも、挑戦者のパンチはまるでヘビー級だった。
クリーンヒットを浴びる度にダウンを繰り返すデンプシーに対して、気の優しいボブはこれ以上誇り高き王者を傷つけたくないがために何度もギブアップするように進言するが、プライドの高いデンプシーは十三ラウンドに完全にナックアウトされるまで試合を捨てなかった。
デンプシーのKO負けは大番狂わせだったが、実はこの試合の時点ですでに結核を病んでおり、コンディションは最悪だった。その後、一時的な回復はあったものの、次第に症状が悪化したデンプシーは、現役引退の翌年に三十二歳の若さで亡くなっている。
念願の世界ミドル級チャンピオンの座を手にしたものの、ミドル級で試合をするには減量が厳しくなったボブは、しばらくは防衛戦を行わず、エキジビションやノンタイトル戦でお茶を濁しながらチャンピオンブランドを有効利用するために頻繁にボードビルやサーカスでの営業も頻繁に行った。
トップアスリートが芸能界で活躍するきっかけを作ったのは第二代世界ヘビー級チャンピオンのジム・
コーベットだが、ボブは見かけによらぬ美声と台詞覚えの良さで舞台でも本業の役者顔負けの才能を発揮した。
一八九三年にアクロバットダンサーとして人気があったローズ・ジュリアンと再婚したのも、サーカスでの共演がきっかけだった。
いわゆるブサイク系でボクサーとしての人気も今ひとつだったボブを叱咤激励し、ボクシングの歴史に名を刻むグレートの一人にまで押し上げたのはローズの内助の巧あってのことである。なにしろ女性でありながらスパーリングパートナーから世界タイトルマッチのセコンドまで務めたくらいだから、相当な女傑だったのだろう。ちなみにボブのマネージャーを務めていたのが、ローズの兄マーティンであった。
鍛冶屋あがりのボクサーとは思えぬほどのインテリでもあったボブは、俳優業以外にも多彩な才能を持っていた。その中でも特に変わったものとして挙げられるのが、猛獣の扱いの上手さである。
ボブはペットに犬から蛇、果てにはライオンまで飼うほど動物好きだったが、『ネロ』と名づけわが子のように可愛がっていたライオンが電線に触れて感電死してからというもの練習に身が入らなくなり、ついにはライオンを譲ってもらおうと思い立ちサーカス小屋を訪れた。
檻の中にいる四頭の若いライオンを見ているうちにどうにも一頭欲しくなったボブに、団長がからかい半分に「檻に入って好きなのを連れていってくれ」とけしかけたところ、何とボブは檻の中に入っていって一頭の雄ライオンを捕まえて出てきたのだ。
このライオンには『セネター』と名前をつけどこへ行くにも一緒だったが、成長するにつれ凶暴になり愛馬に噛み付いたりしたため、怒ったボブが鉄拳を振るうと、当たり所が悪かったのかライオンが失神してしまった。
仲の良かったライオンに自ら手をかけたことを悔いたボブは二度とライオンを飼わなくなったそうである。
それにしても人間に育てられて野性味が薄れていたとはいえ、百獣の王を素手で殴りつけて失神させてしまうボブのパンチ力は凄まじかった。今日のライトヘビー級程度のボブがヘビー級の強豪たちを次々とマットに沈めていったのも当然といえば当然である。
ボブのパンチ力がいかに常識外れだったかを示す好例としてもう一つこんなエピソードがある。
ボブがコーベットとの世界戦を控えてネヴァダ州カーソンシティでトレーニングキャンプを張っていた時のこと。双方のマネージャー同士が友人であることから、ボブとグレコ・ローマン米国チャンピオンのアーネスト・ローバーとの間で急遽異種格闘技戦が行われることになった。
当時のアメリカのプロレス界ではフリースタイル米国チャンピオンのファーマー・バーンズが最強と言われていたが、ローバーも全米で五指に入る一流レスラーである。一種のエキジビションマッチとはいえアメリカ史上初のボクサー対レスラーの対決は大きな話題となったが、結果はあまりにも呆気なかった。
何とゴングと同時にボブが頭部に見舞った一発で、一八〇cm一〇八kgのローバーはそのままカウントアウトされてしまったのである。この試合は、時期的に見てボブの強打をPRするために仕組まれた八百長試合だったとする見方もないわけではないが、仮にもプロレスの現役チャンピオンがワンパンチKOされたとあっては、今後の興行にも影響することは避けられない。
また、当時は柔道家対レスラーといった異種格闘技による真剣勝負がしばしば行われており、必ずしも「筋書きのあるドラマ」だったとは言い難い。
ミドル級タイトルは一度防衛(一八九四年九月)しただけで、それ以外はリミットを上げて試合をしたボブはヘビー級でもたちまち頭角を現し、時の世界ヘビー級チャンピオン、ジム・コーベットに挑戦状を叩きつけるまでになった。
ところが巡業に忙しいうえボブとの対戦には当初からあまり気が乗らなかったコーベットは、執拗に食い下がるボブに根負けした形で一旦は対戦を承諾し、一八九五年十月三十一日にダラスで行われることまで決定しながら、言い訳がましい理由をつけて先延ばしにしたあげくに、自らが後継者と見なしていたスティーブ・オドンネルを一ラウンドでKOしたピーター・メイハーに勝利することを追加条件として突きつけてきた。
一八九五年二月二十一日に行われた、世界ヘビー級タイトルマッチの前哨戦とでも言うべきメイハー対フィッシモンズの一戦は、ボクシング史に残る珍試合として語り継がれている。
最初、この試合はテキサス州のラングストリーで行われる予定だった。ところが当時のアメリカ西部ではプライズファイトは非合法であったため、州当局はこれを中止させるためテキサスレンジャー(警備隊)をラングストリーに差し向けたのである。
この知らせを聞いたプロモーターは、急遽、会場をメキシコとの国境線に流れるリオ・グランデ川の中州に変更し、観客を特別列車で現地に運ぶことでまんまと州当局の裏をかいたつもりでいた。突貫工事で作った桟橋を渡った中洲にはサーカス用のテントが張られ、試合はそこで行われることになったが、ここは合衆国領内ではないため出動したテキサスレンジャーも手が出せない。
そうこうしているうちに、今度は自国の領内で試合を行うことを聞きつけたメキシコ政府が彼らを追い出すために軍隊を派遣したのだ。まさに前門の虎と後門の狼状態である。
当時絶頂期にあったメイハーはこの四年間負け無しの五十五連勝を記録しており、王者コーベットが対戦を恐れているほどの強豪だった。
対するボブもアメリカ上陸後は無敵で、目下十七連続KO勝ちと全く引けを取っていない。しかも四年前にメイハーに判定勝ち(十二ラウンド)したことがあり、今回も自信満々だった。
メキシコ軍が迫っているからとせかされたボブは一ラウンドからパワー全開で一方的に打ちまくり、何とメイハーをわずか九十五秒で仕留めてしまった。
試合が終わってしまえば、もう長居は無用とばかりに、遠くからメキシコ軍の蹄の音が聞こえる中、観客たちは我先にと桟橋を渡って国境線の駅に急いだ。こうなるとテキサスレンジャーも同胞であるアメリカ人の味方である。誰一人引き止めることなく、すんなり列車に乗せて後は何も見ぬふりを決め込んだ。
メイハーを一蹴したことで次はいよいよ世界戦かと思いきや、もう一人タイトル争奪戦に割り込んできた威勢の良い若者がいた。二十勝一敗(十九KO)一引き分けというボブさえも凌ぐKO率で人気上昇中のトム・シャーキーである。
シャーキーはこの時代には珍しく厚い胸板に刻まれた三本マストの帆船と星がトレードマークの刺青ボクサーであった。
シャーキーの人生は数奇に満ちていた。一八七三年、アイルランドの寒村ダンダークに生まれたシャーキーは十五歳で家出をして見習い水夫になると、一八八九年(明治二十二年)に横浜に流れ着いた。そこで酒と喧嘩に明け暮れたシャーキーはやがて有名な彫物師、彫千代の娘おせいとねんごろになり、そのまま横浜に住み着いてしまった。
ようやく見つけた幸せの日々も長くは続かなかった。二人が愛の記念にそれぞれ刺青を彫ったところ、おせいの方が破傷風にかかり急逝してしまったのである。死の直前、おせいが残した「あんたには酒と喧嘩ぐらいしか取り柄がないけど、喧嘩だけは誰にも負けないでね」という一言を胸に刻んだシャーキーはホノルルに渡ってボクサーになった。もちろん世界一の男になっておせいの霊を弔うためである。
一八九四年からはアメリカ西海岸を中心に、波止場の喧嘩で鍛えた強打とタフネスを武器に連戦連勝。ボブと対戦する半年前には四回戦ながら王者コーベットと引き分けている。
それでも試合の賭け率となると、キャリアの浅いシャーキーは分が悪く三対一でボブ有利と出ていた。あのメイハーを一ラウンドで失神させたボブの強打を考えれば当然であろう。
ボブに限って番狂わせは有り得ない。そんな下馬評が飛び交う中、この試合で一儲け企んでいる連中がいた。『荒野の決闘』で有名な名保安官にして当代一の射撃の名手ワイアット・アープとその仲間のごろつき連中である。
西部開拓時代の伝説的ヒーローであるアープも、富と名声を手にしてからは政財界と繋がった悪徳保安官に成り下がっていた。この試合のレフェリーでもあるアープはその立場を利用して胴元のギャング団とぐるになっていたのである。
試合は序盤からボブの強打が炸裂し、シャーキーはクリンチで凌ぐのがやっとという状態が続いていた。八ラウンド、ボブのレフトをダブルで食らったシャーキーは背中からキャンバスに落ちたが、アープはカウントを取り始めるどころか、直前にシャーキーの腹を膝蹴りしたとしてボブの反則負けをコールしたのだ。
もちろん観客は誰一人として膝蹴りのシーンなど目撃していなかったから会場は大ブーイングに包まれた。
判定を不服としたボブは裁判所にアープ一味に対する賭け金の支払い停止を訴えたが、事もあろうか判事まで買収されており、結局は泣き寝入りとなった。せめてもの救いは、ボクシングファンは皆ボブの勝利を支持してくれたことであろう。
記録上は反則負けとなりアメリカでの初黒星がついたボブだったが、これで実質的なロジカルコンテンダーとなり、長年の夢だった世界ヘビー級タイトルへの挑戦権を手にしたのである。
一八九七年三月十七日、聖パトリックの日の記念プログラムとしてネヴァダ州カーソンシティで行われた世界タイトルマッチは、試合開始前から物々しい雰囲気に包まれていた。
銃を携えた四人の男とともにチャンピオンコーナーに控えているのは、あのワイアット・アープである。対する挑戦者のコーナーにも同数のガンマンが陣取っており、試合が公正に行われるよう目を光らせていた。
当日のボブのウエートは今日のスーパー・ミドル級に相当する一六七パウンド。対するコーベットはクルーザー級の一八四パウンドで二階級もの開きがあった。しかも、コーベットは親友にして師匠でもあったノンパレル・ジャック・デンプシー直伝のスピードとテクニックがあり、ボブが過去に対戦してきたボクサーとは全くスタイルが違っていた。
あえて例えるならば、ヘビー級の体格になったデンプシーと対峙しているようなものかもしれない。自慢のハードパンチはことごとく空を切り、コーベットの狙いすましたジャブとカウンターの前にかつてない劣勢を強いられた。
試合の詳細はコーベットの項で述べているので、ここでは省くが、十四ラウンドにボブが最後の力を振り絞って打ち込んだソーラープレクサスブロー(鳩尾打ち)と返しの右フックでダウンしたコーベットは聖パトリックの加護もなく(コーベットはアイリッシュである)そのままカウントアウトされた。
ソーラープレクサスブローはボブが開発し、妻ローズとのスパーリングを通じてパンチの角度やタイミングを会得したものと言われているが、実際のタイトルマッチではその布石と見られるようなボディ攻撃はほとんど見られず、明らかに一発狙いの大振りが目立っていたところをみると、狙って打ったというよりラッキーパンチに近いものだったように思われる。
それはともかく、ミドル級王者経験者がヘビー級を制したのはもちろん史上初の快挙であり、一〇六年後の二〇〇三年三月にロイ・ジョーンズ・ジュニアがWBA王者ジョン・ルイスを破るまで達成者はいなかった。(ライトヘビー級王者として初めてヘビー級を制したマイケル・スピンクスはミドル級出身ではあるが、ミドル級ではタイトルを手にしてはいない。ロイ・ジョーンズ・ジュニア以降も、ミドル級王者あがりのジェームズ・トニーが四度ヘビー級にチャレンジし、僅差で敗れ去っている)
ライトヘビー級で十四度の防衛に成功し、同級では歴代屈指のハードパンチャーの一人であるボブ・フォスターがジョー・フレージャーからいとも簡単にKOされた例を見てもわかるように、無差別級であるヘビー級ボクサーは下の階級のボクサーとはパワー、タフネスともに桁違いであるため、まともに打ち合ってしまうとまず勝機はない。
したがってジョーンズにせよスピンクスにせよ自身の方にアドバンテージがあるスピードを生かしたアウトボクシングで対抗するしかすべはなかった。それに引き換え、多分にラッキーな面はあるにせよ、ヘビー級チャンピオンを正攻法でナックアウトしたボブの偉業はもっと評価されてしかるべきであろう。
一八九九年六月九日はボブにとってヘビー級王座の初防衛戦だった。ミドル級王者時代は頻繁にノンタイトル戦をこなしていたボブも、コーベットに勝った三ヶ月後にノンタイトル戦を一試合こなしただけでここ二年間は全くリングに上がっていなかった。
というのも、十九世紀から二十世紀初頭にかけてはヘビー級重視の傾向が強く、ステイタス、試合報酬ともに他の階級とは比べ物にならなかったからである。ましてや役者としての才能も玄人はだしのボブのこと、年齢的な衰えを考慮すれば、試合より副業で稼ぐ方を選んだとしても何ら不思議ではない。
当年三十六歳のボブに挑戦するジム・ジェフリーズは『ボイラー・メイカー』の異名をとる一八三cm一〇〇kgの巨漢で、サリヴァンを初めとする歴代王者が対戦を拒み続けた十年間無敗の強豪ピーター・ジャクソンを初めてナックアウトした二十四歳の強打者である。
ただし、世界戦を控えたコーベットのスパーリングパートナーを務めた時には、王者の動きに全くついてゆけず軽くあしらわれていることから、ボブが圧倒的に有利という意見が大半だった(賭け率は三対一でボブ)。
実際、ジェフリーズは鈍重でボブのスピードにはついてゆけなかったが、弱点であるディフェンス面での秘策があった。当時は極めて珍しかったクラウチングスタイルである。
これはジェフリーズのマネージャーであるウィリアム・ブラディがディフェンス技術の達人として知られる世界ミドル級チャンピオン、トミー・ライアンに指導を依頼し、チーフトレーナーのジム・デラニーらとともにジェフリーズに会得させたもので、このタイトルマッチのための秘密兵器であった。
これに面食らったボブは低い体勢からインサイドに入ってくるジェフリーズをさばききれずに二ラウンドには早くもダウン。さらに悪いことに拳まで痛めてしまい、後半は防戦一方となった。十ラウンドに二度、十一ラウンドにもダウンを追加されたボブは、屈辱的なKO負けで王座から滑り落ちてしまった。
しかしこれで引き下がるようなボブではなかった。四ヶ月後に再起すると一年間に五試合に出場し、オールナックアウト勝ち。その中にはジェフリーズが二十五ラウンドフルに戦って辛勝したトム・シャーキーをわずか二ラウンドでKOした星も含まれる。
一九〇二年七月二十五日、両者は再び相まみえることになった。ジェフリーズは一度引退した老雄コーベットとの防衛戦でも大苦戦を強いられているように、足を使ってかき回されるともろい。ボブも今回は打ち合いはセーブし、慎重に距離をとって戦った。
七ラウンドまでは完全にボブのペースだった。二ラウンドにボブのパンチを浴びて鼻と口から出血したジェフリーズは手負いの野牛そのものだった。そして迎えた八ラウンド、劇的なフィナーレを演出しようとマタドールがガードを下げて野牛を挑発したその瞬間、うなりを上げて飛んできた左右のフックがマタドールの神経中枢を木っ端微塵に粉砕した。
一時代を築いたフィッシモンズも三十九歳、誰しもがここいらが年貢の納め時と思ったことだろう。
ところがこの老雄、選手層が薄く自身の体格にも適性階級と思われるライト・ヘビー級ならいけそうだと、一九〇三年十一月二十五日、ジョン・ガードナーに挑戦し、見事二十ラウンド判定勝ちで三つ目のタイトルを手に入れて見せたのである。
この当時は三冠王といってもさほど話題にならなかったが、現在ではフィッシモンズはボクシング史上初の三冠王として歴史にその名を留めている。
このタイトルはフィラデルフィア・ジャック・オブライエンとの初防衛戦(一九〇五年十二月二十日)で十三ラウンドにKO負けし、在位一年で手放してしまったが、その後も第一線に留まり続け、一九〇九年十月二十七日にはシドニーでビル・ラングとオーストラリア・ヘビー級タイトルを争っている。
四十六歳という高齢でヘビー級でナショナルタイトルに挑戦するとは恐るべき自信である。この年齢と体力では奇跡は起こらず、九ラウンドKO負けで野望は潰えた。
ここで一旦現役を退いた形になりながら、その後もボクサーになった息子をスパーリングパートナーにエキジビションで各地を巡業していたのは、本人の金遣いの荒さに加えて何度も結婚、離婚を繰り返したことで、経済的に窮したからだと考えられる。
それにしても最後の公式戦の時の年齢は五十歳である。まさしく鉄人と言えそうだが、それからわずか三年後に肺炎をこじらせて他界しているところをみると、後半生は苦しい生活を強いられていたに違いない。
生涯戦績 六〇勝八敗(五十六KO)四分
財力のおかげで女性にもてるようになったまではよかったが、急にもてはじめて勘違い人生を送るはめになったところは悲しき道化師というべきだろうか。




