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奈落の獣  世界ライト級王者 バトリング・ネルソン(1882-1954)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/12/21

ネルソンは我慢比べのようなボクシングだけが取り柄だったが、稀代の興行師テックス・リカードとコンビを組んだことで、個性的な名選手たちとグローブを交わし、数々の名勝負を演じることができた。ボクシングファンから見ればサーカスの猛獣的存在だったネルソンだが、そんな彼よりもタフだったウォルガストの方が後に精神障害で自殺し、猛獣使いたるリカードもよもやの虫垂炎で逝ってしまったことを考えると、多少恍惚の人になったとはいえ、天寿を全う出来たネルソンは幸せな人生だったのではないだろうか。

 バトリング・ネルソンことオスカー・マシュー・ネルソンは、一八八二年六月五日、デンマークの独立記念日にコペンハーゲンに生まれた。その翌年、家族は親族のいるアメリカに渡り、ニューヨーク、オシュコシュ、ダルトンと転居を繰り返した後、ミシガン湖の近くのヘッジウィッシュという小さな町に落ち着いた。

 冬場はミシガン湖の氷を利用した製氷業が盛んになるこの町で、ネルソンは幼少時より氷を馬でシカゴに運ぶ仕事に従事していた。過酷な作業にもかかわらず、学校での勉強よりこの仕事に熱中した結果、運び人夫から、氷切り、タイムキーパー、現場監督へと昇進してゆき、十五セントだった日給は一ドルにまで昇給したが、この間に強靭な肉体が築き上げられていったことこそ、彼にとって最大の報酬だった。

 ネルソンのリングデビューは十四歳の時(一八九六年七月)、相手はサーカスのライト級チャンピオン、ウォーレス・キッドだった。

 当時、サーカスの雑用係をしていたネルソンは、サーカスの人気アトラクションの一つだったボクシングに心惹かれていた。マネージャーに頼み込んでようやく出場の機会が与えられたものの、周囲も“マン・イーター(人食い)”の異名を取るキッドに歯が立つわけがないとたかをくくっており、勝敗以前に、三ラウンド立っていられたら一ドルの賞金という条件でリングに上がることになった。これが彼にとって最初のプライズファイトであり、バトリング・ネルソンというリングネームもこの時につけられた。

 実際、ネルソンがリングに登場した時も、筋骨逞しいキッドと比べ明らかに見劣りがする身体つきと幼い顔立ちを目の当たりにした観客席から失笑が洩れたほどだ。

 ところが試合が始まるや、ひ弱そうな少年はたった一ラウンドで強面のチャンピオンを失神させてしまい、観客席は動揺と興奮で大騒ぎになった。驚いたマネージャーは早速週給五十ドルプラス必要経費という好条件でサーカスの地方興行の同行を依頼してきたが、これはネルソンの父親から拒絶されてしまう。

 しかし、この日のネルソンが手にした報酬一ドルは、後に一試合二万ドルを稼ぐ人気ボクサーへの道の第一歩となった。


 それから一年後、スイス人のオーレ・オルソンとの試合に臨んだ時のこと。スイス系とデンマーク系の多いヘッジウィッシュでは、同胞の応援のために両国民が大挙して試合場に押しかけたことで、試合前からリングの周囲は異様な緊張感に押し包まれていた。

 試合はネルソンがダウンを奪っての快勝だったが、その直後から会場のあちこちでスイス人とデンマーク人の小競り合いが始まり、それはやがて両国民による大乱闘に発展した。

 家に帰ったネルソンは家族からこの暴動の責任を問われたことに腹を立て、「俺は世に出たいんだ」と言い残して故郷を後にした。厳格な両親から解放されたネルソンが、本格的な職業ボクサーとしてリングに立つようになったのは、翌一八九八年、十六歳の時からである。

 まだ試合報酬が安かったため、十代の頃は肉屋、ホテルのウェイター、カウボーイなど様々な職を掛け持ちしていたが、一九〇一年には年間の試合報酬が二千三百ドルに達し、ようやくボクシングで食べてゆける目処がついた。

 一九〇四年四月五日のウィリアム・ロスラー戦では一ラウンド十二秒という最短KOの世界記録を樹立するなど(この記録は三十年以上破られなかった)、派手なナックアウトぶりで着実にファンを増やしてきたネルソンが、一躍各地のプロモーターから引く手あまたの人気ボクサーになったきっかけが、一九〇四年五月二十日のマーティン・キャノール戦である。

 三ラウンドまでキャノールのワンサイドだったため、退屈した観客が次々と帰り始めたこの試合、後半になればなるほど持久力で優るネルソンが盛り返し、十八ラウンドに逆転KOでこの難敵をキャンバスに沈めた。

 この試合で過去最高の七百五十ドルの報酬を得たネルソンの商品価値は、さらなる上昇カーブを描いてゆく。七月のエディ・ハンセン戦が一二五〇ドル、九月のアウレリア・エレラ戦が二一〇〇ドル、十一月のヤング・コーベット二世(前世界フェザー級チャンピオン)戦が二七〇〇ドル、そして年末のジョー・ブリット戦では五六〇〇ドルと、中量級にしては異例の高額まで跳ね上がった。

 ブリット戦は白人のみを対象とした「ホワイト・ワールドチャンピオン(ライト級)」の決定戦だった。これは当時の世界ライト級チャンピオン、ジョー・ガンズがあまりにも強すぎたため、白人が自分たちのプライドを守るために別枠で擁立したタイトルである。

 ネルソンは惜しくも判定で敗れたが、一年後にはブリットにリベンジを果たし、ホワイト・ライト級チャンピオンに認定されている。

 ちなみにこのタイトル、単なる水増しではなくそれなりの権威と人気があった。それはネルソンのファイトマネー(一万八千ドル)が正規のライト級タイトル戦を上回る額に達していたことからも明らかである。


 ネルソンは好戦的なハードパンチャーだが、傑出したテクニックを持っているわけではなく、マクガバンのように派手なKOシーンを見せるわけでもない。しかし、彼の人間離れしたタフネスは見ている者が寒気をもよおすほどの凄みがあった。

 一説によると、頭蓋骨の厚さが常人の三倍あったそうだが、打たれても後退を知らないネルソンとの打ち合いに応じてしまったが最後、相手の方が根負けしてしまうのがおちだった。

 例えば、一九〇二年十二月のクリスティ・ウィリアムズ戦などは、ネルソン自身九度ものダウンを喫しながら、逆に相手を四十二度!もマットに這わせたあげくに、十七ラウンドKOで屠り、歴史的な我慢比べを制している。グロッギーに陥った状態からでもゾンビのように甦り、怒涛のラッシュで相手を追い詰めてゆく姿は、手負いの獣そのもので、作家のジャック・ロンドンは彼のことを「奈落の獣」と表現し、小説のモデルにしたほどだ。


 話はネルソンから少し逸れる。

 ネルソンが白人ライト級王座についた頃、ネバダ州ゴールドフィールドは好景気に沸きあがっていた。一八四九年のゴールドラッシュからそれに続く西部開拓時代にかけて、アメリカ各地で金、銀、石油の採掘ブームが起こると、他国からの移民をはじめとする膨大な人数の労働者の流入によってかつての過疎の村が次々と新興の町へと変貌を遂げていった。

 ゴールドフィールドもその中の一つで、一九〇二年に金鉱が発見されると、二年後には全米の三十パーセントもの金を産出する地域最大の町になった。町の人々はさらなる町おこし企画によって、ゴールドフィールドの名を全国的に広めたいと考えるようになっていた。そこで登場するのが、後に全米屈指のプロモーターとしてその名を海外にまで知られることになるテックス・リカードである。

 一八七〇年にカンサスシティで生まれたリカードは、牧童やバーテンダー、ギャンブラーなどの職業を転々としながらアラスカやクロンダイクのゴールドラッシュで一山当てた典型的な山師である。

 一九〇六年当時、リカードはゴールドフィールドでサロンを経営する若手ビジネスリーダーの一人だった。町の名を広める企画を持ちかけられた時、彼の頭にまず浮かんだのがボクシング興行、それも当代一の人気ボクサー、バトリング・ネルソン対ジョー・ガンズの世界タイトルマッチだった。

 偉大なるジム・ジェフリーズの突然の引退宣言の後、ボクシング界の頂点たる世界ヘビー級タイトルは、ジャック・ルート(元世界ライトヘビー級王者)との決定戦に勝利したマービン・ハートの手にあったが、地味なハートでは客は呼べない。そこでリカードは、名王者の誉れも高いガンスに人気急上昇中のネルソンをぶつけることを目論んだわけだが、それには幾つかの障害があった。

 両者の対戦はファン垂涎の好カードである。にもかかわらず誰もそれを手掛けようとしなかったのは、白人と黒人の人気選手同士の対戦は、時代柄、実現が難しいと思われていたからである。サム・ラングフォード、ジャック・ジョンソンといった黒人の強豪選手がヘビー級で旋風を巻き起こし、白人選手の影が薄くなりつつあった当時、ホワイトホープを黒人の強豪にぶつけるのは危険な賭けだった。

 したがって白人の優越性を維持するためにはホワイト・タイトルを設けざるを得ず、白人が王座を占める階級においては、黒人挑戦者をボイコットしたため逆にブラック・タイトルが設けられるという手前勝手な状態が続いていたのである。

 しかも「オールド・マスター」の異名を取り、全階級を通じて最高のテクニシャンとして知られるガンスは四年にも渡る長期政権を築いており、いまだ死角は見当たらなかった。そんな最強王者に白人ホープをむざむざ潰させたくないというのが、当時の大半のプロモーターの思いだった。

 しかし、稀代のアイデアマンであるリカードは、気難しく金にうるさいネルソンを札束で口説き落とし、白人王者対黒人王者の夢の対戦を実現させたのである。ガンスのファイトマネー一万ドルは中量級の王者としては妥当であるにしても、挑戦者ネルソンが二万三千ドル(三万四千ドル説あり)というのはいかにも法外で、この不公平な配分にガンスサイドから不満の声が続出したが、誇り高きガンスは金よりも白人王者と白黒をつけライト級最強の証を手に入れる道を選んだということだろう。

 もっとも、ボクシングもプロモーター業もズブの素人のリカードが、これほどのビッグイベントを実現させることが出来たのは、ゴールドフィールドの財力あってのことである。


 一九〇六年九月三日、ゴールドフィールドの屋外特設リングで行われた世界タイトルマッチは、予想通りガンスの惚れ惚れとするようなテクニックの前にネルソンはいいようにあしらわれ続けた。

 あくまでもクリーンファイトに徹するガンスに対し、このままでは勝ち目がないと感じたか、ネルソン

はもう一つの武器である肘打ち、サミング、ローブローを織り交ぜながら反撃のきっかけを伺ったが、ガンスは全てかわしてしまう。それでもスタミナだけは無尽蔵の挑戦者はガンスの強打に耐え続け、試合は四十二ラウンドを迎えた。ここで完全にキレたネルソンが渾身の右アッパーをガンスの股間に叩き込むと、王者は悶絶してマットに倒れ込んだ。

 試合はネルソンの反則負けという予想外の幕切れに終わったが、ガンスが延々四十二ラウンドにわたって華麗なテクニックを披露する一方で、手負いの獣と化したネルソンが打たれても打たれてもアグレッシブに攻め続ける姿はビックファイトにふさわしく、八千人の大観衆を堪能させた。

 九万ドルという当時としてはずば抜けた興行成績を挙げ、これを機に大プロモーターへの道を歩み始めたリカードの出世興行としても名高いこの試合は、後年、業界最高権威の「リング」誌選出による古今名勝負百傑中、第十位にランクインしているほど評価が高く、ライト級の世界戦としては歴代一位となっている。

 一方、敗者ネルソンは二年間の雌伏の時を経て、一九〇八年にガンスとの再戦にこぎつけると、執拗なボディーアッパーで三度のダウンを奪い、十七ラウンドKO勝ちで正真正銘の世界ライト級王座を手に入れた。

 在位六年余、すでに三十三歳になっていたガンスはネルソンの初防衛戦でも二十一ラウンドKO負けと返り討ちに遭い、程なく引退に追い込まれた。

 タイトルを防衛すること四度、全ての挑戦者をKOで沈めたネルソンにとってもっともやりにくいタイプの挑戦者が現れた。試合の数週間前から山にこもり、毎日山野を駆け巡っては、岩を投げたり、大木を殴りつけたりと原始的なトレーニングに励むことから、「ワイルド・キャット(山猫)」の愛称で呼ばれる、アド・ウォルガストである。

 一九一〇年二月二日、タフなファイター同士の対戦は序盤からウォルガストが主導権を握っていた。しかし、試合が長引けば長引くほど本領を発揮するネルソンは、二十二ラウンドにウォルガストをとらえ、右フックでダウンを奪った。

 いつものネルソンなら、ここで一気にたたみかけるところだが、驚異的な回復力で立ち直ったウォルガストはそこから反撃を開始し、ついに四十ラウンド、ネルソンに集中打を浴びせたところでレフェリーストップ。まだ余力を残していたネルソンは、ストップが早すぎると抗議するも後の祭りであった。

 終盤でのKO率が圧倒的に高いネルソンは、これまでもほとんどの世界戦を四十五ラウンド制で戦ってきただけあって、四十ラウンド以降のスタミナには絶対的な自信を持っていた。それだけにいつもの勝ちパターンが覆されたネルソンにとってこの敗北は大きな誤算であったと同時に、肉体的な衰えの予兆でもあった。

 完全に負けたという自覚のないネルソンの再戦要求は、新チャンピオン側から即座に受け入れられたが、それには条件があった。オーウェン・モラン(英)との世界挑戦者決定戦である。

 モランはかつてウォルガストをニュースペーパージャッジ(公式記録は無判定)で破ったこともある小柄な強打者で、フェザー級時代には“天才児”エイブ・アッテルの王座に二度挑み、二度とも引き分けているだけに侮れない相手だった。

 一九一〇年十一月二十六日、身長が十センチも低いモランのインファイトに苦しめられたネルソンは、一ラウンドも取れないまま、十一ラウンドに三度も倒されKO負け。ここにタイトル奪回の機会は潰え去った。

 その後のネルソンは勝ったり負けたりでパッとせず、運良くこぎつけたフレディ・ウォルシュとの世界戦(一九一七年四月十七日)に敗れたのを機に潔く引退に踏み切った。

 選手生活の晩年はかつての獰猛さが影を潜め、人気も下降線を辿っていったが、われわれ日本人にとっては忘れられない試合がある。それが、一九一二年二月二十六日、アーカンソー州フォートスミスのアスレティッククラブで行われた、ヤング・トーゴーとの六回戦である。

 記録の残る初の日系人ボクサーであるトーゴーは、ネルソンより身長で20cm低く、20ポンドも軽いバンタム級程度の体格ながら、ネルソンと引き分けに持ち込んでいる。トーゴーはボクサーとしてはパッとした成績は残せていないが、知名度抜群のネルソンとの一戦は日系人たちの間では大変な話題になったに違いない。


 現役時代から偏屈でエキセントリックだったネルソンは、打たれ過ぎた影響からか引退後は奇行が目立つようになった。

 一九一九年七月四日、ジェス・ウィラード対ジャック・デンプシーの世界タイトルマッチを控えたトレドの街は露店も並び大いに盛り上がっていた。

 シカゴ・デイリーニュースの取材記者として当地を訪れていたネルソンは、試合場の近くに自前のテントを設営して寝泊りしていたが、その日の早朝、試合場の近くの豚小屋で中身の入った樽が並んでいるのを発見すると、てっきり飲料水かと勘違いし、樽の中にタオルと石鹸を持って飛び込んで行水を始めた。 

 ところがこの樽、露天商が運び込んでいたレモネードの樽だったのだ。

 この話はデンプシーのトレーニングキャンプにたちまち伝わり、炎天下での試合にもかかわらず当日は誰もレモネードを飲まなかったそうである。

 生涯戦績 59勝20敗(40KO)22引き分け

トーゴーがネルソンと戦っていた頃、西海岸では日本ボクシングの父渡辺勇次郎がカリフォルニア州ライト級チャンピオンになり、日系人社会では相当な知名度を誇っていたと伝わるが、ネルソン戦の前には元世界フェザー級チャンピオンのハリー・フォーブズと15ラウンド戦って引き分けているトーゴーとは対戦相手の質が段違いであり、トーゴーは西海岸のリングにも上がることがあったため、京都生まれのトーゴーが先に帰国していれば、実績からしてもこちらの方が日本ボクシング界の父になっていてもおかしくない。トーゴーはリング生活で目を患って盲目になったというから、商売上手の渡辺が、それに乗じてアメリカでの自身の実績を過大広告した可能性もある。選手としての実績は明らかにトーゴーの方が上であるにもかかわらず、彼の名は日本のボクシング史から消え、渡辺は歴史に名を刻んでいることに私は違和感を禁じ得ないのだが・・

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