ヒモ悪魔クロガネ
沢村斎(二十五歳)は、現実主義で有能な会社事務員(自称)である。
五年前に交通事故で両親を亡くして天涯孤独の身の上にはなったものの、両親に借金はなく、僅かながら保険金も下り、現在勤めている会社に就職も決まっていた為、金銭的に不自由はなかった。感傷に浸って身を持ち崩すには現実的過ぎた彼女は、悲しみに暮れなかった訳ではなかったが、忙しない日々の生活を消化することで悲劇を乗り越え、平凡ながら堅実な人生を歩んで来たのだ……今日までは。
彼女は仕事帰りにいつも寄っている市立図書館の洋書コーナーにおいて、一冊の古めかしい洋書を見つけた。一冊だけ埃を被ったままの状態で本棚に収まっていたことが気になり、プチ潔癖症の斎は埃を払おうとそれを取り出した。
その本はあまりにも状態が悪く、彼女が背表紙に手を掛けた時点で綴じ目の緩んでいた全てのページが抜け落ち、手には表紙と裏表紙部分だけが残った……文字通り、木端微塵である。その状況に、現実主義の斎の脳裏に「弁償」の二文字が浮かんだことは言うまでもない。
天涯孤独で女一人、容赦ない不景気の波に飲まれないよう、出来得る限りの出費を抑える為に趣味の読書はもっぱらこちらで済ませていた。新書の入荷も早いこの図書館をかなり重宝していたのだが、そのことがこんな風に裏目に出てしまうとは……予定外の出費に溜め息を禁じえない。
「くらっ、なんちゅーことしてくれんねん!」
仕方なく粉砕した洋書を拾い上げようと腰を屈めたところ、彼女の伸ばし掛けた手の先に散らばったページをグシャリと足が踏みつけると、そんな怒鳴り声が飛んで来た。
「あっ、ごめんなさい……っ、……え……?」
てっきり図書館の職員に見つかってしまったものだと思った斎は、慌てて謝罪しながら立ち上がるが、目の前に立っていた人物をはっきり認識すると、一瞬フリーズしてしまう。
「俺の寝床が自分の所為で台無しやっ、責任とってもらうで!」
関西弁で捲くし立てる男は自分よりも年は若そうで、良く日焼けした褐色の肌に金髪碧眼……まではまあ有り得なくもなかったが、頭には角が二本、背中には黒い羽が生えていた。
「貴方、何?」
「ナニやのぉて、どちら様やろ! 失礼なやっちゃなー……ま、えぇわ、自己紹介はしたる。俺はクロガネ、この本ン中封じられとったモンや。
で、自分の名前は?」
「……沢村、斎だけど」
無意識に答えてしまいながら、現実主義の彼女は必死に目前の男に生えている角と羽について納得のいく理由を考えていた。
「イツキちゃんかいなー……ん?」
クロガネと名乗った男は呆けた顔で己を凝視している彼女を、値踏みするようにじっくりと眺めた。
本人は過度に意識していないが、斎は整った顔立ちをしている。本人いわく「短いと寝癖が酷いから」と言う理由で伸ばした腰までの亜麻色のロングヘアーは、特別な手入れをしている訳でもないのに艶やかなストレートで思わず触りたくなる。目はパッチリ二重でやや大きめだが、過度な現実主義に裏付けられた冷めた眼光がその可愛らしさを損なっている。筋の通った鼻も引き結ばれた唇も右に同じ……要するに、お堅い顔つきなのである。
美術館での鑑賞には完璧だが、自宅で鑑賞するには格式張り過ぎて肩が凝る……体型もスマートで小柄過ぎず、理想的な美人で憧れる異性は多いだろうが、恋愛関係には発展しづらい典型的な高嶺の花だった。
「ルックスはバッチリ合格点やな。しかも男っ気もない……実にえぇ。
よしっ、俺が今日から自分のヒモになったる! 寝床潰した張本人のイツキちゃんトコ住み着くんが筋っちゅーもんや、今日からたっのしぃヒモ生活ぅー」
「なっ……!」
「自分が悪いんやし、責任とってや、イツキちゃん」
クロガネはさきほどの激昂から一転し、軽薄そうな笑みを浮かべてそう公言した。
斎は気持ちを落ち着かせるように彼から目を反らし、一度深く深呼吸し、念の為に目を擦って、もう一度正面に目を向けた。
そこには相変わらずクロガネが立っていた。頭には二本の闘牛のような黒塗りの角、背中には同じく蝙蝠のような艶のある漆黒の羽があり、その姿は正しく悪魔そのものである……ただ、その装いは着古したTシャツに年季の入ったダメージ・ジーンズと、今時のやる気なさげな若者ファッションで現実味は薄い。
「ヤダ……って言うか、私疲れ過ぎ。帰ろ帰ろ」
明らかに無理矢理と言う感じの中途半端なテンションで呟くと、斎は回れ右をする。
頭の中では『触らぬ神に祟りなし』と言う言葉が駆け巡っていた。
「ちょ、ちょっと待っ……勝手に自己完結しなや、イツキちゃん!」
「……妄想が触る、触った、触られた……っ……」
「わわわわっ、イツキちゃん……っ?」
妄想だと思い込もうとしていた相手が己の腕を掴んだ感触をばっちり認識してしまった斎の意識は、真っ黒な奈落の底に転がり落ちて行った……。
* * * * * * * * *
次に斎が目を覚ましたのは、自宅のベッドの上だった。
「……夢、かぁー……」
そう認識した彼女は、安堵の溜め息を漏らす。
「あ、イツキちゃん、目ぇ覚めたん? 冷蔵庫にあったアイスもらったで」
胡散臭い関西弁のデカイ男が部屋のドアを開けて現れると、言葉通りチョコモナカジャンボをかじっている。
「うぁあああぁああーーーーーっ、……クロガネ!」
「そないデカイ声で叫ばんでも……何や? そない好きやったんか? その年でこんなんばっか食いよったら、豚になんで?」
彼はそう言って、斎に食べ掛けのアイスモナカを差し出した。
「ちっ、ちがっ、違っ、違ぁーう! ……何でここにいるのよっ!」
「何でって、俺、イツキちゃんち住み着くゆーたやろ? 有言実行やん」
軽薄そうな笑みを浮かべつつ、クロガネは胸を張って言い切る。
「出てってよ! ……って言うか、何で私の家知ってるのよっ!」
「俺やって悪魔のはしくれや、そんぐらいちゃちゃーっと調べられるわ。それに自分、名前教えてくれたやん? それって、契約成立ってことやで」
「はぁあああぁぁっ? 契約って何よっ……!」
「俺が自分の使い魔になって、今後一生苦楽をともにするって契約や。一度結んだら、拒否は出来へんでー」
彼は最大級の衝撃を斎の混乱した頭にぶちまける。
筋金入りの現実主義の彼女も、クロガネの悪魔そのものの外見と今ここに存在している事実に、彼の話を信用するしかなかった……が。
「でも、何で使い魔なの? 要するに私の下僕ってことでしょ? 本人の意思とは関係なしに契約結べるんなら、逆とかも出来たんじゃない?」
「……あぁー、そーいやそーやな。俺、イツキちゃんのヒモになることしか考えとらんかったんで、思いつかへんかったわ」
理論派でもある斎のもっともな疑問に、クロガネは真面目なのかふざけているのか分からない、間の抜けた返答をした。
「別に働くんは好きやし、ま、えぇか。これからよろしく頼むわ、一生な」
へこたれない彼の言葉に、斎は自分の世界がもろく崩れ去ったのを感じた。
* * * * * * * * *
その後、再三に渡ってクロガネを家から追い出そうと試みた斎だったが、家庭内害虫の如くしぶとい彼は、一週間経った今でも彼女の家に居座っていた。
彼は「使い魔は主から半径五百メートル以上離れたら死んでしまう」(斎が勤めている会社はギリギリ範囲内)と言う嘘臭い脅し文句まで突きつけ、図太いことに斎の寝室にある小説「血のごとく赤く」(タニス・リー)を寝床に定め、毎晩吸い込まれるように本の中に消えていく。十秒もすれば高いびきをかき始めるので、即刻押し入れ奥深くに仕舞い込む斎だったが、いつも朝になればベッドの脇の本棚に戻っていた。古本屋に売り飛ばしても、それは一緒だった。
従って、当初、斎はかなり立腹していたのだが……。
「今日は缶詰めのエビと蟹カマボコの海鮮パスタ魔界風やでー」
クロガネの料理の腕はプロ並みだった。冷蔵庫の余り物でベテラン主婦顔負けの豪華な料理を作る。掃除洗濯も完璧だ、一番の得意はアイロン掛けと言う……斎は、その手のことが得意ではなかった。
「食って食ってぇー、ウマいやろ?」
「……うん、美味しい」
複雑な表情ながら、根が素直な斎は渋々頷く……すっかり餌付けされてしまっている自分が、何とも情けなかった。
「イツキちゃんは、そーゆートコ素直やからえぇわぁー」
「頭撫でないっ、それにイツキちゃんって呼ばないっ!」
ガシガシと遠慮なしに彼女の頭を撫で回してくるクロガネに、何度目かの叱責が飛ぶ。彼は斎の使い魔と言う割に、絶対命令である筈の彼女に対しての呼称、過度なスキンシップをやめようとはしなかった。
しかし、悪魔のくせに義理堅いと言うか何と言うか、彼は斎に無理矢理手を出してくることはなく(スキンシップは激しいが)、うっかり交わしたものでも、主と使い魔の関係はそれなりに守っているようだ。斎にとっては、それが唯一の救いである。
「えぇやんか。触り心地えぇし、呼び方は可愛ぇ方が絶対えぇ」
「二十五にもなったら、可愛さなんてもとめてないわよ!」
「怒ってばっかやと、顔が皺だらけになんで? せっかく造りがえぇんやから、もっと気ぃつけて磨かな!」
「……殴るわよ」
「しっつれぇーしましたー」
言いたいことだけ言うと、まるでお笑い芸人がはけて行くように、クロガネはさっさと台所に引っ込んで行く。斎は何度目とも知れない溜め息を吐いた。
「明日は帰りに卵買ってきてな。四大魔王直伝の親子丼にするさかい」
カチャカチャと皿洗いの音を賑やかに響かせながら、彼は言う。
「明日はいらない、飲み会だから」
魔王って親子丼食べるの? と言う疑問はもう今更、特に突っ込まずに斎は返す。
「……明日だけはあかんっ、絶対に日が暮れる前には帰って来てや」
クロガネには珍しく、少し下げたトーンの口調は命令調である。
「何でよ」
「何でも、あかんもんはあかん!」
斎の不満声に、クロガネは泡だらけの皿を持ったまま台所から出てくると、強く頭を振った。顔からはいつもの軽薄さが消え去っている。
「何なのよ! 理由を言いなさいよ!」
「……っ、……鶏肉の賞味期限が明日やねんっ!」
「だったら、貴方が食べたらっ?
明日は会社の取引先も来るから絶対出席しないと駄目なのっ! 私は貴方の食いぶちまで稼いでるんだから、ヒモは黙ってなさい!」
何処か取って付けたような言い分を、斎はぴしゃりと跳ね除けた。
クロガネはいつもの軽口も利かずに、黙り込んでしまう。何か思うところがあるのか、小難しい顔で何かを考え込んでいるようだ。
「……イツキちゃん、明日は弁当フルコースやで」
無理矢理のような笑みを口許に刻むと、彼は皿洗いに戻って行った。
* * * * * * * * *
「……あ、いっ、つ! 何考えてんのよっ!」
翌日の昼休みに、会社屋上で弁当箱の蓋を開けた斎は、こめかみに青筋を浮き立たせて低く呻いた。
フルコースと言う言葉通り、その弁当はド派手だった。視覚的にも美しく配置させた鶏肉をメインとしたおかずに問題はない。それどころか喜んで手を合わせるところだ。問題は、おかずではなくご飯である……ラブラブなカップルの間柄かつ、彼女の手作りと言う状況だったなら「あり」かもしれない。
『❤ LOVELY ITSUKI ❤』
非常に可愛らしい真っ赤な丸文字でそう綴られていたのだ。
食べてしまうのが勿体ないくらいの素晴らしいケチャップテクニックである……が、斎は箸で即行かき混ぜ、クロガネに対する恐ろしいまでの殺気を込めて咀嚼したことは言うまでもない。
激しい怒りに駆られながらも、しっかり完食してしまう自分が、これ以上ないくらい情けなかった……。
* * * * * * * * *
斎の参加した取引先接待の飲み会は滞りなく進み、彼女はニ次会が終わった時点で一人タクシーに放り込まれた。後は女性を連れて行けないような店で、男性陣だけのお楽しみタイム……仕事の延長上で面白くも何ともない会でさっさと帰りたかった彼女にとっては、これ幸いだった。
帰ったら、即行説教っ!
アルコールが入り、テンションも上がっていた斎は恐怖のフルコース弁当のことを思い出し、クロガネに対して激しい怒気を再燃していた。
「……っ、……痛っ!」
色々と効果的な文句を考えていた丁度その時、タクシーが急停止する。何の構えも出来ていなかった斎は、助手席の後頭部に頭をぶつけ、短く悲鳴を上げた。何事かと運転手を見やると、だらりと両手を下げ、ハンドルに突っ伏している。
「だっ、大丈夫ですかっ……?」
驚いた斎が後ろから身を乗り出して体を揺すっても、ピクリとも動かない……ただ、呼吸だけは規則的に続いていた。外傷もなく、苦しんでいる様相も浮かべておらず、完全に熟睡している状態である。
「……一体、何なの?」
アルコールの所為で正常な思考が持てない彼女は、不思議に思いながらも一旦タクシーから降りてみた。途端に激しい眠気が彼女を襲う……立っているのさえ億劫で、その場に蹲ってしまった。今までにないことだったが、抗えずに彼女は瞳を閉じる。
『……サワムライツキ、死脱者発見』
意識を手放す瞬間、そんな無感情な声を聞いたような気がしたが、今の彼女には判断のしようがなかった。
* * * * * * * * *
「……ちゃん、イツキちゃん!」
……何、クロガネ……?
「起きるんやっ、死神が来る!」
……死神……何言ってるの? ……あ、……そー言えば、クロガネに言うことあったっけ。
そこまで思い出した途端、斎の意識は急浮上する。
「……お弁当、ふざけたこと書かないでよっ!」
「痛ぇっ!」
覚醒一番、斎は己を腕に抱く彼の頭をパシリと叩いた。
「目ぇ覚めた途端それかいっ……俺としては『LOVELY』の『LY』省こうかどうしょーか……って、そんなん言ぃよる場合ちゃうかったな。イツキちゃん、ダッシュで帰るで!
今夜は死神の人間狩りの日なんや、魔界から人間界への通路がもう開き始めとる!」
「え、ちょっ……!」
返事を聞かずにクロガネは斎を腕に抱いたまま立ち上がり、背中の羽を大きく広げた。
「イツキちゃんお得意の理屈は後や。
弁当にも目暗ましの魔法ごっそり仕込んどったけど、隠し切れずに死神の印が浮き上がって来とる……あいつはすぐ来るで」
今までに見たことのない真剣な顔で言うと、クロガネは力強く地を蹴った。彼の足はそのまま地に着くことはなく、暗い夜空を文字通り弾丸のように飛行する。
「えっ、ええぇえっ? ひゃああぁあぁーーっ、浮いてるぅーーーーっ!」
「イツキちゃん、どうせ上げるんなら、もっと色っぽい叫び声にしぃや。……ちっ、もう追いついてきたで」
絶叫する彼女に嘆息したクロガネだったが、背後に一瞥を送ると、緩めた口許を真一文字に引き締めた。飛行速度は更に上がる……斎は早過ぎるスピードと展開について行けず、振り落とされまいと彼の身体に必死にしがみつく。
『……クロガネ、裏切り者め。魔力を封じられた身で死神の私に刃向かうか』
高速で移動する二人の耳に、無感情な声が届く。
……何、この声……?
喋ろうとすると舌を噛みそうだったので、斎は不可解げな視線をクロガネに送る。
「……えぇから、自分はしっかり掴まっとき!」
問い掛けを理解したように、クロガネは短く答えた。飛行速度を緩めようとはしない。
『……愚かだな』
「……いっ……!」
蔑むようなさきほどの声の直後、クロガネの身体が大きく震え、その背の漆黒の羽は羽ばたきを緩めた。彼の顔は今までに見たことがないような苦痛に歪んでいる。
「……クロガネっ……?」
「……イツキちゃん、……ごめん。こっからは……自分で逃げて、な」
クロガネは激痛に耐えるような声でそう告げ、斎の身体を自分の身体で包み込むように抱き直した。
「えっ、クロガネ? ……っ? ????? 落ちるぅーーーーーーっ!」
彼の羽は羽ばたくのをやめ、地面に向けて真っ逆さまに落下した。
その降下は長く続かず、柔らかな物が軋んだり、力任せにへし折られたような不快な音と空気を震わす振動を、斎はまたしても遠退きそうな意識の端でぼんやりと感じた。
「イツキちゃん、……逃げてっ……!」
「……っ……、クロガネっ? その傷っ……!」
クロガネに頬を軽く叩かれて我に返った斎は、そこでようやく彼の負っている怪我に気付く。着ていたTシャツの背中は袈裟掛けに裂け、赤黒い血が噴き出していた……三十メートルほどの高所から(運良く車道の植え込みの上であったが)斎を庇って地面に叩き付けられた時のものにしては、いささか奇妙な傷だ。
「……心配せんでも、悪魔はこの程度ではくたばらへん。俺のことはえぇから、早ぉ逃げるんや……正一級の死神が自分の魂狙っとる。
イツキちゃんの家には結界があるから、あいつでも中には入れへん。せやから、早ぉ逃げるんやっ……!」
「えっ、ええっ……死神? 結界っ? 一体何なのよっ……って、そんなことより手当しないと!」
クロガネの言葉は何一つ理解出来なかったが、斎は唯一分かる彼の深い傷口を塞ごうと破れたシャツの切れ端を寄せ合わせ、その上から両手で押さえる。血は止まる様子を見せなかったが、それ以上のことが出来ない斎はその手を放そうとしない。
「阿呆っ、えぇから逃げるんや! 後のことは何でも聞ぃたるから、今は俺のゆーこと聞けやっ!」
『……もう遅い』
二人の前には、いつの間にか何者かが立っていた。無感情な声で言い放ったその物体は、人間では有り得なかった。とろみのある半透明な液体が人型を作ったようで、言葉を発する度にその身体は波打っていた。その手にはクロガネを斬り付けたらしい血の付いた大鎌が握られている。
「イツキちゃんは渡さへんっ……、たとえ相手があんたでもな!」
クロガネは両手を広げてその背に斎を庇い、その物体を睨み据える……全身が傷の痛みの所為ではなく、小刻みに震えているのが分かった。
『魔界の掟を破り、無償で人間の命を救った気狂いの悪魔クロガネよ……魔力の大部分を封じられながらも、まだその人間の娘を守るか』
「俺は約束したんやっ……、カズキとアカネにっ!」
「えっ……?」
クロガネの口から出た二人の名前に、斎の目が見開かれる。
『サワムラカズキとサワムラアカネ……その二人との契約は無効だ。お前は魂を受け取っていない。お前の下手な偽装の所為で、この五年、サワムライツキは有り得ない生を歩んだ。両親とともに死ぬ筈だった人間が』
「何ですってっ……!」
今度の死神の言葉に、彼女の顔が蒼褪めた。
「……悪魔やからって、無償で人間助けて何が悪いんやっ!」
『愚かしいにもほどがある、靴の中に入った小石を何故愛さねばならない? 生殺与奪は我ら闇の眷族の手の中にある……悪魔は、契約の名のもとに人間の魂を刈っていればいい』
「嫌やっ……俺はそんなことに断じて従わん!」
クロガネの声は震えなかった。
『所詮は気狂いか……ならば、その人間とともに滅びるがいい』
つるりとした骸骨のような落ち窪んだ暗い目に一瞬薄ら寒い光が宿ると、死神はクロガネに向けて大鎌を構える。
「っ……!」
同時に、今まで呆然と二人の会話を聞いていた斎が動いた。身を翻し、通り慣れた道を自宅に向かって猛然と走り始める。
『……あれが、永遠の命を賭してまで守るべき存在か?』
「ちっと黙れや、水風船野郎が……もう、あんたの好きにはさせへん。
イツキちゃんに血生臭いモンは見せれへんからな……こっからが悪魔クロガネの本領発揮や。ほとんどの魔力封じられとっても、生まれた時から備わっとる治癒力と戦闘能力までは奪えへん」
庇うべき存在を欠いた彼は、目前の死神に向け、恐ろしいまでの殺気を放った……クロガネは、己の中に眠る闇の眷族の特性を呼び覚ましたのだ。
* * * * * * * * *
「あーーっ、あったっ!」
高校時代に陸上部で慣らした足で家に戻った斎は、生前のままにしていた父親の部屋の押し入れの中を乱雑にひっくり返し、ある物を取り出していた。
「……父さん、母さん。約束破るけど、これも人助け……じゃなかった、悪魔助けの為だから許してね!」
生前に両親より、きつく禁じられていた物を再び手にした彼女は、小さくそう呟く。その後、斎は台所と庭先に立ち寄って用意を済ませると、迷わず来た道をダッシュで戻って行った。
* * * * * * * * *
一方その頃、死神相手に奮闘していたクロガネはと言うと、最初こそ善戦していたものの、徐々に体力を奪われていた。深手を追っている身の上、液体で出来ている死神の身体は如何なる衝撃も無効にしてしまう……敗北は目に見えていた。
しかし、自分が倒れれば斎の家に掛けている死神除けの結界が消滅し、彼女が殺されてしまう。クロガネは、その一念で立っていた。
「クロガネっ……!」
そんな必死の彼の耳に、結界の中に逃げ込んだ筈の斎の声が飛び込む。
「イツキちゃんっ? せっかく逃げられたのに、何で戻って来たんや!」
死神の大鎌を受け止める片手間で、クロガネは怒声に近い叫び声を上げた。
「放っとける訳ないじゃないっ、クロガネは私のヒモなんだから!」
「……イツキちゃんっ……って、感動しとる場合ちゃうかったわ! 戻って来られても困るんやっ、頼むから家で大人しゅうしててっ!」
「貴方こそ怪我人なんだから安静にしてなさいよ! そんなドロドロな奴、私が退治してやるんだからっ!」
そう言い、彼女は家に帰って必死に探し出し、死神に向けて構えたのは、何と『ワルサーP38』(エアガン)である。
『……お前、そんな玩具で私を倒せると本気で思っているのか?』
ずっと無感情だった死神も、さすがに呆れたような口調だ。
「悪いっ? 縁日の射的の腕前は誰にも負けないわ! それに、この痴漢撃退専用エアガンは特注よっ、ルパン三世も使ってるんだからっ!」
(本人はあまり意識していないが)整った容姿から頻繁に痴漢の被害を受けていた斎は、あまりにも女性に似つかわしくない武器でそれらを撃退していた。わざと急所を外すことも出来るほどの射撃の才がある彼女にとって、エアガンは一般的に出回っているスタンガンよりも、よほど適した武器だったのである。
また、生前彼女の両親がそんな逞し過ぎる娘の将来(結婚)について深く悩んでいたことは言うまでもない。
「イツキちゃん、何か間違っとる! こいつにヒットしても、倒れへんし、景品も貰えんよぉっ! ダァーーーーーっ、何でもえぇから早ぉ逃げて!」
「煩いっ、とりあえず一発ぶち込ませて! この腐れ蒟蒻ゼリーっ!」
斎はクロガネの制止も聞かず、死神に目掛けてエアガンをぶっ放した。発射された弾丸は違うことなく死神の額にクリーンヒットする。一発と言いながら、ハイテンション状態の斎は、三回引き金を引いていた。
その正確さに驚いた所為か、彼(正確には、死神に性別はないのだが)はクロガネと鬩ぎ合っていた大鎌を押し負かされ、数歩後退した。
しかし、倒れない。
『……ほう、人間の身で私に一矢報いるか』
冷静だった声には、今では感情が宿る。忍び笑いのようなものを洩らし、液体の身体全体に波紋が広がった。額に打ち込まれたエアガンの弾は貫通することなく半透明なその部位に留まっていたが、消化吸収されるように消えて行く。
斎はその驚くべき光景に、瞳を見開いた。
「イツキちゃんっ、もうえぇやろ! 今からでも逃げるんや……っ!」
「嫌よっ、まだ弾だって残ってるんだから!」
大鎌を弾いて側に駆け寄ったクロガネの言葉に彼女は頭を振り、何を考えてか、死神を睨み付けながらエアガンに新たな銃弾を込める。
『お前は何処まで愚かなのだ。私にそんな玩具は効かない』
「へぇ、そう……でも、そーでもないみたいよ」
ずっと死神の顔から目を逸らさなかった斎は、彼の言葉に口許に笑みを刻んだ。
『……何? ……っ……これはっ……』
意外な返答を受けた死神は、暫くその言葉を訝っていたが、徐々にその意味を解し始める……彼の半透明な身体は、弾を受けた部位から茶色く変色を始めたのだ。
「……何やっ……? イツキちゃん、自分もしかしてっ……毒をっ?」
わなわなとその身を波立たせる死神を信じられない思いで見つめながら、クロガネは上擦った声で斎に問う。
『……私に毒は効かぬっ……一体っ……!』
如何なる毒物も吸収し尽くし、決して崩れぬ筈の液体の身体が、人型を取ることすら困難になって来ていた。不可解な状況に、声音は驚愕に塗れている。
「この銃弾、中が空洞でプラスチック製だから軽いのよ。
穴開けて、中に酸性雨入れちゃった。昨日、雨が降って庭に水溜り出来てたの思い出して……固形のコンクリートだって時間掛かるけど解けるんだから、液体の身体じゃ、かなり吸収早いでしょ?
甘く見たら怖いわよ、人間の環境破壊」
斎は「ザマーミロ」と、エアガン片手にニッコリ微笑んだ。
「……あかんっ……、自分カッコ良過ぎや……!」
「わっ、なに抱きついてんのよ!」
その勇姿にすっかり参ってしまったクロガネは、この状況下にも係わらず思わず斎に抱きついていた。
しかし、すかさずエアガンで頭を殴られる……自業自得だ。
『……私はこの程度では……っ!』
二人の緊張感のないやり取りに、更に激昂した死神は、実体を無くし掛けた腕で大鎌を構える。即座にクロガネが彼女を庇うように立った……が。
「私は大丈夫っ……クロガネ、肩借りるわよ!」
「えっ……、イツキちゃんっ?」
斎は彼の肩越しに、二人に向かって大鎌を振り下ろさんとしていた死神にエアガンの銃口を向け、間髪置かずに六発の銃弾を撃ち込む。銃弾は、それぞれ頭、心臓、両手足の中心に違わずヒットしていた。
「マジで凄腕やな……怖っ……」
そのあまりの正確さに、クロガネは小さく身震いする。
死神はそれでも前に進もうとしたが、数歩も歩まぬ内に大鎌を取り落とし、完全に人型を無くしてその場に崩れ落ちた。
『……こっ……これはっ? さきほどのものとは違っ……ぉおおおおぉぉぉおおおぁあああぁああぁぁぁあああぁぁーーーーーーーっ!』
絶叫を響かせながら、周囲に飛び散るように転がり回る。液体の色は茶色から溶岩のような赤味を帯びた黒に代わり、ゴボゴボと言う音とともに水泡を後から後から弾けさせ、周囲に異様な臭気を放つ蒸気を立ち昇らせた。
『あああぁぁああーーーーーっ……熱いぃぃぃいぃぃーーーっ!
私の身体がぁああぁあぁーーっ……おぉおぉおぉおおおぉーーーっ!』
凄惨そのものの断末魔の叫び声を上げると、死神の身体は完全に蒸発してしまう。後には僅かな赤黒い染みと、主を失った大鎌だけが残された。
「……イツキちゃん、……さっきの弾、一体ナニ仕込んでたんや?」
その絶大な効果にすっかり毒気を抜かれてしまったらしいクロガネは、上擦った声で彼女に尋ねる。
「シリカゲル、お菓子とかに入ってる乾燥剤よ……ほんの少しでもすごい勢いで水分を吸収するの、ここまでとは思わなかったわ。
……最低な奴だったけど、あそこまで苦しまれたら罪悪感感じるかも」
死神の消え去った跡を見つめながら、斎は複雑な表情を浮かべていた。
「イツキちゃんがそんなモン感じることないでっ……罪悪感っちゅーのはこいつらみたいな奴らが感じなあかんもんや。交通事故に見せ掛けて、こいつがカズキとアカネを殺したんや」
彼女の言葉に、クロガネは吐き捨てるように言った。
「何ですってっ? そう言えば、私も一緒に死ぬ筈だったとか何とか言ってたわね。……クロガネ、貴方が本当は何者なのか、そして、父さんと母さんとどう言う関わりがあったのか、全部話して」
「分かった……イツキちゃんには、聞く権利がある」
クロガネは魔界では気狂いの悪魔で通っていた。他の悪魔達のように人間の魂と引き換えの契約を結び、その時だけ人間界に現れて願いを叶えてやるのと違い、初めから人間界に住まい、契約を結ぶ相手もある種の人間だけと定めていたことで。彼が取引をする相手は、皆一様に死期の近い善人だったのだ。
死期の迫った人間達に向けてクロガネが魔導思念を送ると、心残りを持つ者達は、彼の存在を夢で知ると言うのだ。そうしてやって来た人間達の願いを叶えてやり、自然死させるとその魂は馴染みの天使に引き取らせた。他の悪魔達と違って、彼は決して人間の魂を食べなかった……成功報酬は人間界での金銭であり、その金額も非常に良心的だった。
五年前、そんな彼の元を斎の両親である沢村和輝・茜夫妻が訪れた。
「沢村一家の魂は、天界に行くことが決まっとった……自分らはこの世知辛い時世に貴重な人間やったんや。それに目ぇ付けたあの水風船野郎が、死神の印付けて天界騙して横取りしょうとした。
ただ、カズキ達は自分達の死期が近いこと察して俺んトコ来たんや、きっと守護天使が教えたんやろなぁ……あいつらとは馴染みやから。二人は、イツキちゃんだけは助けてくれって……」
「ちょっと待って、自分達のことはっ?」
彼の言葉に、斎はもっともな疑問を口にする。
「腐れ蒟蒻ゼリーやけど、あいつは正一級の死神や、まともにやり合って勝てる相手やなかった……ごめん、俺には全員はよう助けられんかった」
そこで言葉を切ると、クロガネは悔しそうに唇を噛んだ。
「でも、カズキとアカネの魂に紐付けて、何とかあいつの手に堕ちる前に天界に送ったから安心しぃや。
イツキちゃんの魂と家には死神にも探し出せへん結界張り終えた時に、俺がやったっちゅーことが死神にバレてしもーたんや……詰めが甘かったわ。あいつは俺の魔力と身体を、あのボロい本に封じ込めやがった」
「……封じ込められたって、私が触ったら簡単に出て来たじゃない」
「俺も阿呆やないよ、そーなるよーに細工しとった……イツキちゃんに見つけてもらえるように、ずっと魔導思念も送っとったし。
死神もそれは承知の上やった……イツキちゃんが触って封印解けて身体の自由が利いても、魔力だけはほとんど戻らんかったからな。わざわざ人間界に放置しといたんも、イツキちゃんを俺に見つけさせる為やったんや」
クロガネは最後の一言をバツが悪そうに言い、深い溜め息を吐く……が。
「俺の所為で居場所がバレて、危険に晒すかもしれへん……そな思ったんやけど、自分の側におりたかった」
次の一言は、真剣な表情で言った。
「……父さんと母さんに、約束したから?」
深手を負いながら、自分を庇って死神の前に立ち塞がった彼の言葉を思い出し、斎は尋ねる。
「……それもあるけど、そーやない。
カズキにイツキちゃんの写真見せられた時、相手が死神でもやったるって腹くくれたんや。……俺、イツキちゃんに一目惚れした」
「……はい……?」
斎の思考は完全にストップした。返って来た言葉は、これ以上ないくらい予想外の言葉だったのだ。
「一目惚れっちゅーても、ルックスだけ好きになったわけちゃうで? 名前聞くだけで生活環境から何から情報掴めるんや、写真だけでもイツキちゃんの性格はバッチリ分かった。
こんな骨のあるえぇ女、魔界にも天界にも何処探してもおらん! 死神に魂食わせてたまるか、俺が絶対守ったるって決めたんや……せやけど、イツキちゃん一人で死神倒したようなもんやから、全く説得力ないけどな。あいつに向かってエアガンぶっ放しとる死ぬほどカッコえぇイツキちゃんに見とれて、ぼーっとしとるなんてヒモ以下や」
「……ちょっと、待って……何が何だか……えぇーと……あっ! そう言えばクロガネ、背中の怪我はっ?」
恋々と自分への想いを告白する彼の言葉を一時制止し、状況を整理しようと必死に巧く働かない頭をフル回転させていた途中で思い出した斎は、慌てて傷の具合を尋ねた。
「……あ、忘れとった。どんな感じ?」
(自分の身体のことでありながら)同じく失念していたらしいクロガネは彼女に背を向け、頭だけ振り返って問う。さすがは悪魔の治癒力で、死神に大鎌で切り付けられた傷から新たな血が噴き出す様子はなかったが、塞がり切ってはおらず、今現在立っているのが不思議なくらいの重症だった。
「酷い……病院行かないとっ!」
「人間の医者は俺には無意味や……それに、この外見どう説明するつもりや? さっきので残ってた魔力も全部絞り出してしもぉーた、角も羽隠す力も残ってへん。悪魔の治癒力に任せといたらえぇ」
「でもっ……放っといて本当に治るの?」
「あぁ、暫くの間は冬眠状態やけどな」
クロガネはとんでもないことを何でもないように話す。
「……冬眠するって、どれくらい?」
「長い場合で数年、短い場合は数ヶ月ってトコやな……そない不安そうな顔せんでえぇよ。他の死神が嗅ぎつけたとしても、次に魔界から人間界への通路が開くんは十年は先の話や。魔界にも掟っちゅーもんがあるからな。
……せやから、次に逢う時までによぉー考えとってな、返事」
「へっ、返事ってっ……!」
「俺はこの先何があっても、イツキちゃんだけやから」
そう言い切った彼は、己を見上げる斎に自然な造作で身を屈めた……。
* * * 二年後 * * *
とある会社の昼休みのこと、事務所の屋上で、この四月に入社したばかりの新入社員の女性事務員が、先輩の事務員と仲良く昼食を取っていた。
「先輩のお弁当って、いつも豪華ですよね。自分で作ってるんですか?」
ここ二年で格段に物腰が柔らかくなり、社内ファン急増中の面倒見がいい上に美人の先輩にすっかり懐いていた彼女は、何の気なしに尋ねる。
「こんなに料理上手じゃないわよ。家に料理の腕だけはプロ並みの居候がいるから、家賃代わりに作ってもらってるの」
「あ、ご飯に文字が……何だぁ、先輩って彼氏いたんですね」
「ううん、そんないいもんじゃないわ……あいつはヒモよ」
社内では天使のようだと称される美しい微笑みを浮かべ、さらりと爆弾発言を言ってのけた彼女の弁当のご飯部分には……。
『❤ LOVE ITSUKI ❤』
いつかと同じ素晴らしいケチャップテクニックで、今度こそ『LY』が省かれていた。