第八の鐘が鳴る前に~魔法が使えない転生令嬢~
冷たい鐘の音が響く学園で、魔法が使えない無能の名門子爵家令嬢、ネフィリア=ラケリスは一通の恋文を見つけてしまう。
嵌められた聖女。愉しむネフィリア。異世界学園恋愛ミステリー?
※過激な描写があります。
冷たい風が石畳の廊下を吹き抜け、ネフィリア=ラケリスの深い葡萄色の髪をそっと揺らした。魔法薬学の教室には薬草の香りが立ちこめ、瓶や金属器具が整然と並ぶ机の上では、生徒たちが静かに実験の準備を進めている。今日は特別に、全学年合同で行われる授業だった。
そのとき、塔の鐘が五つを告げた。
ネフィリアは薬壺から立ち上る蒸気をぼんやりと見つめながら、ふいに意識を内側へと引き戻された。
(また、あの夢……)
赤黒い血。鈍い金属音。脈打つような陶酔感。
そう——彼女は思い出してしまった。自分は“異常者”だったことを。
異世界転生などという言葉を知らなくとも、それが事実だと確信していた。そして、再び“あの感覚”を味わえるかもしれないと思うと、ネフィリアの胸の奥に微かな喜びが芽生えるのを、彼女自身止められなかった。
「ネフィリア、聞いてる?」
隣の席からアリナがひそやかに声をかけてきた。彼女の手には、淡いピンク色の封筒が握られている。
「……何それ?」
眉をひそめながら受け取ったネフィリアは、封を開け、中の便箋をそっと広げた。
『小さなネモフィラの君へ。今夜、エレイナ=ブランシェットと3人でお泊り会しない? アリナ=エンブリスより』
ネフィリアは一瞬まばたきしたのち、ふっと鼻で笑った。
「……くだらないわね」
興味がないふりをして肩をすくめたが、心の奥には奇妙なざわめきが残った。
「最近また流行ってるのよ、そういう恋文。“○○の君へ”って、花の名前を宛名にするのが今風なんだって。白い封筒が本命、色付きは義理っていうのもルールらしいわ」
「ふうん……」
アリナの説明を受け流すように頷きつつも、ネフィリアはどこかぼんやりとしていた。
「では、火の呪文『インカドラ』を唱えて、薬草に火を通してください」
教師の声が教室に響いた。
しかし、ネフィリアは小さく首を振った。彼女には魔法を使うことができなかったのだ。
彼女の家族は名門子爵家で、誰もが高い魔法の才能を誇っていた。祖父も父も兄弟も、あらゆる魔法を難なく使いこなす。しかし、ネフィリアだけは違った。生まれてから一度も、どんな魔法も成功したことがない。誰よりも魔法を学び、努力を重ねてきたにも関わらず、その才能は皆無だった。まるで魔法の神に見放されたかのように。
「ネフィリア、貸して」
アリナがさっと呪文を唱えると、青い炎がゆらりと灯り、薬草に火が通った。
ネフィリアは申し訳なさそうに微笑みながらも、どこかほっとした。
その後、授業が続く中、ネフィリアはふと教室の窓の外を見やった。
すると、廊下の向こう側にある教室の窓際で男爵家の長男であるリオ=カーレスが誰にも気づかれぬよう、人目を忍ぶように白い封筒を机の中に差し入れているのが見える。
(……恋文、ね)
再び机の上に視線を戻すと、教師ヴァルドが声をかける。
「セラ=ミリエル、今日の礼拝用に“聖水”を用意してもらえないか」
教師ヴァルドの声が教室を包む。
3年生のセラは、穏やかで澄んだ瞳を持つ平民の生徒。学園中で“聖女”と称えられ、誰からも信頼されている。
生徒たちが見守る中、セラは特別な魔法陣の前に立ち、静かに詠唱を始めた。
「アクア・セラフィム……」
淡い光が迸り、空間から純粋な水が現れ、瓶の中へと流れ込んでいく。
魔力を帯びたその水は、怪我を癒し、清めの力を持つ“聖水”となる。
教師が礼拝堂へ運ぶ段取りを話す中で、ネフィリアが静かに手を挙げた。
「先生。もしよければ、私がそれを運びましょうか」
「……ああ、頼めるか。よろしく頼んだぞ」
ネフィリアは深く頭を下げ、瓶に満たされた聖女セラの純粋な魔力を宿した聖水を怪しげに見つめていた。
翌朝、リオの遺体が発見され、学園は騒然となった。
「体に外傷はない。ただ、濡れた体からは聖女セラ=ミリエルの魔力反応が検出された」
「魔法による犯行……溺死させたか?」
疑惑の矛先は、聖女セラ=ミリエルと、リオと最後に会ったとされるネフィリアに向けられた。
教師たちはふたりを呼び出し、事情聴取を行う。
「セラ=ミリエル、君の魔力痕跡が現場に残っていた。どういうことか説明してくれ」
「そんなはずありません……私は誰にも魔法を使っていません!」
セラ=ミリエルの瞳は困惑と戸惑いに揺れていた。しかし、その否定の言葉に確信を持てる者はいなかった。
「ネフィリア。君はリオと最後に会った生徒だな?」
ネフィリアはわずかに動揺しつつも、頬を赤らめながら答えた。
「……最後かどうかは分かりませんが、確かに会いました。実はリオに告白されてしまって……でも、私は断りました」
そう言って、胸元から白い封筒を取り出す。
「これが、その恋文です。最後に会ったのは、八の鐘が鳴ったあとでした」
教師が封筒を受け取り、中の便箋を広げると、そこには達筆な文字でこう記されていた。
清らかなるユリの君へ
第八の鐘のあと、鍾塔の温室に来てください。
私の気持ちを伝えたいです。
「……たしかに“八の鐘のあと”とあるな」教師がつぶやく。
「ネフィリアはそのあと、私の家に泊まりに来たんです。エレイナも一緒でした」
証人として付いてきたアリナが証言をする。
「はい。ネフィリアさんとアリナさんと三人で夜更かしして、お菓子食べて、ずっと話してました。誰も外には出てません」
そうエレイナも続ける。
「それに……ネフィリアは魔法が使えないんです。魔力適性が“無”だから。人を魔法で殺すなんて、そもそも無理です」
教師たちは顔を見合わせ、第三者の証言と魔力適性の記録を確認した。確かに、ネフィリアの魔力量はゼロ。魔法による犯行は不可能だった。
第三者の証言もあり、ネフィリアには明確なアリバイが成立した。
教師たちは封筒の筆跡と魔力痕跡の鑑定を進め、まもなくして結果が伝えられた。
「筆跡はリオ本人のものと一致。そして……この手紙の紙からも、セラ=ミリエルの魔力反応が検出された」
周りの空気が凍りつく。
「そんな……私は本当に、そんな手紙知りません……見たこともないんです……!」
セラは震える声で訴えるが、もはや周囲の目は冷たかった。
教師のひとりが静かに言った。
「セラ=ミリエル。君には、いくつか確認したいことがある。こちらへ来てもらえるか?」
その言葉に、セラは顔をこわばらせた。沈黙のまま、別室へと連れられていく。
残された教室では誰もが重い沈黙を守っていた。
そんな中、ネフィリアはふと窓辺に歩み寄り、鐘塔の尖塔を見上げて小さく笑みを浮かべた。
「人を殺すのに魔力も呪文もいらない。瓶の水と、ちょっとした恋心。それがすべて」
その微笑みは誰にも見られず、彼女の心の奥底だけで静かに花開いていた。
***
第7の鐘が鳴る。鐘塔にある大きな温室には、恋文にも書いた花の前でリオがひとり。
リオ=カーレス。男爵家の息子で、物静かだが真面目で、どこか夢見がちな少年。彼は信じていた。あの恋文を受け取った同じ男爵家である彼女が来てくれると。
扉が開く。現れたのは、期待していた少女ではなく、ネフィリアだった。
「エレ――……ネフィリア様?」
「恋文、ありがとう。あなたがくれるなんて思わなかったわ」
「違う、それは——きみへじゃ——」
その言葉の途中で、音もなくネフィリアの手が閃いた。
細身の手に握られていたのは、重みを持たせた小さな布袋。
彼女はためらいなく、その袋をリオの後頭部へ振り抜く。
鈍く乾いた音が温室に響き、リオの身体は力を失い、静かに崩れ落ちた。
そのまま、ネフィリアは無言で布袋の口を解く。
中から取り出されたのは、銀細工の封が施された頑丈な小瓶。
その透明な液体はかすかに光の粒が舞う聖女セラ=ミリエルの魔力が込められた“聖水”だった。
ネフィリアは倒れたリオを見下ろしながら、口元に笑みを浮かべた。
「恋文の返事だけれど、付き合ってあげるわよ?……冷たくなっていくあなたはとっても魅力的だもの」
その声は、まるで慈愛に満ちた聖職者のようでもあり、冷酷な拷問官のようでもあった。
彼の頬に手を当て、胸元、腰と順番に手を這わせる。
まるで形を確かめるように指を滑らせる。熱も意志も消えかけていくその身体に、ひとり戯れるように。
ネフィリアはゆっくりと外套の留め具を外し、しなやかな動きで自分の上着を脱いでいく。
「異常性癖だなんて言われなくても知ってるから」
「うふふ……うふ、あぁ、たまらないわ……ふふふふっ」
近くで鐘がなった。これは第八の鐘だろうか。少し時間を掛けすぎたかもしれない。
彼女の指が、ひとつの瓶の栓をゆっくりと抜く。淡い光を帯びた液体が、静かに彼の全身へと注がれていった。
聖水は、血の代わりに静かに体を濡らし、汚れを洗い流していく。
「ごめんなさいね、リオ=カーレス。けれどこれは、わたしの“愉しみ”なの」
その声に情はなかった。ただ、どこか夢を見るような、少女のままの残酷さがあった。