おまけ 椿の花はいつ開く
後半ちょっとだけ大人です。
苦手な方はご注意ください。
とても綺麗な女だと思った。
朝焼けを浴びたような真っ赤な髪。いちご飴みたいな赤い瞳。『ももたろ』と俺を呼ぶ舌っ足らずな声も、凛と鳴る鈴のようで、いつまでも聴いていたいと思ったもんだ。
俺たちは同じ日の同じ時刻に生まれた。いわゆる幼馴染ってやつだ。他と違っていたのは、俺が桃太郎の子孫で椿が鬼の子孫だってこと。
ただ、幸いにも時代は平成。未だに古臭い慣習に囚われた街ではあるけれど、俺と椿はお互い石を投げられることなくスクスクと成長した。
小学校への入学を間近にしたある日。椿の両親がこの街から逃げて行っちまうまでは。
『なんで、お母さんとお父さん居なくなっちゃったの? 私が鬼だから?』
声を上げずに啜り泣く椿の頭を、俺は黙って撫でることしかできなかった。抱きしめるには勇気が足りなかったし、桃太郎である俺が何を言ったって気休めにしかならねぇと思ったから。
その晩、眠れなくて部屋を出た俺は、居間にいる親父とお袋の内緒話を聞いちまった。
『可哀想に……。本当は鬼じゃなく、神様なのに……』
なんだそれ。じゃあ、今まで俺たちは椿に悪者役を押し付けてたってことかよ。我慢ならずに飛び出した俺は、狼狽える親父たちから事の経緯を全部聞き出した。
その結果、街の人間は椿のご先祖様を排除したくて俺の先祖に討伐を依頼した奴らの子孫だってことがわかった。は? とんだ茶番じゃねぇか。
生まれたときから世慣れたお供がいたせいで、俺は同年代のガキに比べて大人びていた。だからその分、グレるのも早かった。
椿はちっとも気づいてなかったが、親父とお袋には随分心配をかけたと思う。けれど大事な大事な一人息子だから、家を追い出されたりはしなかった。
まあ、別に悪さに手を染めたわけじゃねぇ。聞き分けのいいガキから聞かん坊に成長しただけだ。
俺は椿を悲しませる悪習を全てぶっ壊したかった。でも、まだガキの俺には何ともできない事だともわかっていた。
だから、大きくなったら椿を嫁にして、誰にも手出しできねぇようにしちまおうと浅はかな考えを抱いた。そういうところだけは年相応だったんだな。
そして時は流れ、俺達が少年少女から男と女へと移り変わり始めた頃、椿のばあちゃんが死んだ。
事故でも病気でもない。老衰だ。苦労のせいで多少人より老けていたけど、今思い出しても安らかな寝顔だったぜ。
でも――そんなもん家族を失った椿には何の気休めにもならねぇよな。そのときも俺は静かに泣く椿に寄り添っていることしかできなかった。
生憎、長く続いた雨のせいで、街で唯一の火葬場のボイラーが壊れ、急遽ばあちゃんを隣町の葬儀場に運ぶことになった。
俺は椿と同じ車に乗り込んで、ただ涙が伝う横顔を眺めていた。十三歳になった椿はガキの頃よりもずっと綺麗になっていて、今にも大輪の花が開きそうな気配を漂わせていた。
クラスメイトの奴らが『小鳥遊って幸薄そうな感じがいいよな。あれで鬼じゃなければなあ』なんてふざけたことを言うのをぶちのめしながら、椿の言う『白馬の王子様』がいつ現れるかとヒヤヒヤしていた。
『あーあ、ついてねぇなぁ……。何で俺がこんなこと……』
運転手のおっちゃんがクソみたいな愚痴を吐いたとき、不意に周囲の空気が一変した。例えは悪いが、まるで液体糊の中に放り込まれたような息苦しさが胸に広がった。
わかるか? 全身にべったり、どっしりとした何かがへばりついた感覚がするんだ。運転手のおっちゃんはもう顔面蒼白だし、隣の椿も異変を察知して不安げに視線を巡らせていた。
そんな最中、前方にあいつが現れた。巨大な猿の体に闇でできた顔をくっつけた化け物。
山の怪っていう、山の怪異の集合体だとはあとで知った。椿のばあちゃんに惹かれてフラフラとやって来たってこともな。
今なら臆せず向かっていけるが、その頃は刀なんて握ったこともねぇガキだったから、俺はすっかり腰が抜けちまって、椿の手を握ることだけで精一杯だった。運転手のおっちゃんも、後続の車も、俺たちを見捨てて逃げちまったし。
でも、あいつは……椿は震える俺を安心させるように強く手を握り返して笑ったんだ。
『大丈夫。私が何とかする』
俺の制止を振り切って車の外に出た椿は、山の怪と対峙した。いつも人に見せるのを嫌がっているツノを剥き出しにして、扱い方を覚えたばかりの雷を轟かせて。
激しい雨の中に白い光が閃くたび、俺はただ椿に見惚れていた。そんな場合じゃなかったのにな。
それからどれくらい経ったか……椿の抵抗に山の怪が苛立ちの声を上げたとき、俺はようやく気づいたんだ。制服のスカートから伸びる細い脚が震えているのを。俺に見せた背中が山の怪の咆哮にビクつくのを。
気づいたら車の外に飛び出していて、椿の前に身を躍らせていた。そのとき運悪く額に当たっちまった雷が、後々まで椿の足枷になるとも知らずに。
俺はあのとき、明確に『椿が好きだ』『椿を守らねぇと』って自覚したんだと思う。親父たちにくっついてったお供たちが異変を察知できたのはそのおかげかもな。
ともあれ、山の怪は駆けつけたお供たちに追い払われて、俺の腕の中には椿が残った。ただ記憶だけを代償にして。
それから俺は今までサボっていた剣道や武道に力を入れる傍ら、椿に借りた少女漫画を参考にキャラ変を試み、椿はそんな俺から距離を取り始めた。
俺の行為が俗に言うセクハラだとかストーカーだとかに該当することはわかっていた。親父たちからもやんわりと釘刺されたし。
俺自身も、たまに我に返って床を転げ回るときがあったが、それでも加速する想いは止められなかった。
俺は椿が欲しかった。心も、身体も、全部手に入れたかった。口に出すのも憚られる夢を見て、自分で自分を慰めたこともある。
だから……正直、山の怪が再び姿を現したのは俺にとって僥倖だった。犠牲者たちには申し訳ないが、おかげで椿を手に入れられたし、ずっとあのクソ怪異に借りを返す機会を伺ってたからな。
欲深い? そりゃあそうさ。俺は英雄でも何でもない、ただの欲望にまみれた人間なんだから。綺麗事だけじゃ、神様は手に入れられねぇんだよ。
案外、俺の先祖が討伐を引き受けたのも、神様を自分だけのものにしたかったからかもしれねぇな。
だって、呪いは執着の証だ。そうだろ?
***
「何、ニヤニヤしてんの?」
俺の腕の中で椿が訝しげに目を細める。
無事に結婚して一年。毎夜の如く体を重ねる椿の白い肌には、血のように赤い花が咲き乱れている。一生消えない呪いの証。同じものが俺の胸元にも残されている。
額の傷は薄くなってきたが……この証は生きている限り更新されていくはずだ。
問いに答える代わりに、椿を抱きしめて首筋に顔を埋めた。柔らかい胸が俺の胸板に押されて形を変える。むせ返るような、甘い香り。それはまるで媚薬みたいに、俺の心を苛む。
「愛してるぜ、椿。これまでも、これからも」
白磁のような肌が一斉に朱に染まる。
椿の花の色は、俺だけが知っている。
おまけも読んでいただき、ありがとうございました。
結局、執着心は自前のものなんだよねってお話。
捕まっちゃったからには仕方ありませんね。