2話 逃げても逃げても追ってくる
肩越しに振り向くと、一匹の真っ白い犬がいた。
「コロ……」
「その名前で呼ぶのはやめろや! 俺は狼だって言ってんだろお!」
毛を逆立てて怒るコロに肩を揺らす。コロは桃太郎のお供のうちの一匹。室町時代から鬼無家を守り続けている獣神だ。本名は八房らしいが誰も呼ばない。だって、コロコロしてて狼には見えないし……。
「やれやれ、犬っころは騒がしいね。仮にも神の端くれなんだから、もっと優雅にいこうよ」
大きな羽音と共に、一羽の雉が肩に舞い降りた。その背には赤いチャンチャンコを着た小猿が乗っている。動物園にいそうな見た目だが、この二匹もれっきとした桃太郎のお供だ。雉は錦、猿は藤吉郎と歴史を感じる名前がついている。
「本当だね〜。五百年前からちっとも変わらないんだから〜。あ、違うか〜。お腹にお肉ついちゃってるもんね〜」
「うるせえな! てめえらも飼い慣らされてブクブク太ってんじゃねぇか!」
「仕方ないよ〜。だって現代のご飯美味しいんだもん〜」
ね〜? と藤吉郎に可愛らしく小首を傾げられて苦笑する。子供の頃から、この三匹は相変わらずだ。とても神様には見えない。
「桃太郎が探してたよ。あの子、索敵能力ゼロなんだから、本気で逃げないであげてよ」
「そのフォローのためにあなたたちがいるんでしょ。先に言っとくけど、神通力でチクらないでよね」
「チクらないよ。力を使うのって結構面倒だからね」
錦が甲高く鳴く。主人に似て不良だ。おかげで助かっているけど。
「椿は昔から何かあるとここに来るよね〜。街の人がいないところは落ち着く〜?」
図星を突くのはやめてほしい。保護者がいない私の面倒を見てくれているのは街の人たちだ。その問いにはとても頷けない。
だけど……どうしようもなく辛くなるときがある。たとえば、今日みたいな節分の日や、街に不幸ごとが続くとき。何も言われなくても、「鬼を祓わなければ」と目の奥に不穏な光が宿るのだ。
実際にお祓いを受けさせられそうになったこともある。その度に桃太郎が乱入して有耶無耶になるけど。
「……走ってたら、たまたまここに来ただけよ。もう少しすれば帰るから、放っといてよ」
「できるわけねぇだろ。一人は危ないぜ。最近、行方不明者が増えてるって聞くしよ。お前も年頃の女の子なんだからさ」
「大丈夫よ、私は鬼だもの。……むしろいなくなった方がみんなせいせいするんじゃないの」
そうこぼした瞬間、嘴で思いっきり突かれた。めちゃくちゃ痛い。鬼じゃなかったら脳天に穴が空いていた。
「何すんのよ! 乙女の柔肌に」
「同じこと、桃太郎の前で言ってみなよ」
鳥とは思えない眼光に何も言えなくなる。コロも藤吉郎も不満げな顔だ。普段ならごめんなさいと謝る場面。けれど、どうしても認めたくなかった。
「何よ、みんな桃太郎桃太郎って!」
鬼の脚力で川を一息で飛び越え、脱兎の如く駆け出す。三匹は鬼無家を守る神様だから、桃太郎から遠く離れられない。この川はその有効範囲ギリギリといったところだった。
「椿! おい、戻って来い!」
コロの遠吠えが聞こえる。それを無視して走り続ける。気づけば辺りは夕焼けの光に包まれ、見知らぬ森の中に迷い込んでいた。
おそらく隣町の山中だと思うけど……。最後に川を越えたのは、四年前におばあちゃんが亡くなったときだからあまり覚えていない。あの日は雨も降っていたし、今よりも視界が開けていた気がする。
そういえば、桃太郎のストーカーが始まったのもあの頃だったかな。どうも記憶が曖昧で……。
どうして桃太郎はあんなに私に執着するんだろう? 別に私は絶世の美女ではない。頭は多少いいとは思うが、それだけだ。性格だって特別に良くもない。
幼馴染として積み重ねて来た時間はあるけれど、そんなものは何の意味も成さない。人の心は移ろうもの。だから、お母さんもお父さんも私をおばあちゃんに預けていなくなっちゃったんだし。
「仕方ないよね。まんま鬼みたいな見た目の子供なんて嫌だもん。お父さんは普通の人間だったし、お母さんは私ほど鬼っぽくなかったから、きっとどこかで幸せに暮らしてるよね。都会の大学に行ったら、いつかひょっこり会えたりしないかな……」
気を紛らわせるために、取り止めのないことを呟きながら森を進む。そのとき、すぐ近くでザクザクと地面を踏み鳴らすような音が聞こえた。
もしかして熊だろうか。恐る恐る周囲を探ると、鬱蒼とした木々の合間に複数の人影が見えた。
鬼の力を駆使して目を眇める。人数は三人。揃いの黒いジャージを着た若い男たちだ。髪は見事な金髪に染まっている。こんな田舎ではとても目立つ。
男たちは地面に穴を掘っていた。その足元には裸の女の人が倒れている。女の人はぴくりとも動かない。まさか……死んでる? 死体を埋めようとしてるの?
「け、警察……」
震える手でスマホを取り出したものの、汗で滑って落としてしまった。慌てて拾おうとしたけど、すでに遅し。作業の手を止めた男たちが一斉に私を見る。
「おい、見られたぞ」
「マジか。ついてねぇな。こんなところ誰も来ねぇと思ってたのによ」
逃げなきゃと思うのに足が動かない。瞬く間に男たちに距離を詰められ、掘りかけの穴のそばに引き摺り出される。
倒れた女の人の顔はひどく腫れ上がり、鼻から血を流していた。彼女を襲った悲劇を目の当たりにして、思わず目を逸らす。
「おい、こいつSNSで話題になってた鬼っ子じゃね?」
「そういや、そんなのあったな。おお、マジでツノ生えてんじゃねぇか」
「スッゲー。飾りじゃないんだ?」
ツノを掴まれて力任せに引っ張られる。痛みと恐怖で涙する私に、男たちは嫌らしい笑みを浮かべた。まるでいい獲物を捕まえたとでもいうように。
「ちょうどいいや。まだヤりたりなかったんだ。お前に相手してもらおうかな。どっちみち、見られたからには消さなきゃなんねぇし」
「節分だしな。俺たちの刀で鬼退治してやろうぜ! なんてな」
「嫌だなあ、親父ギャグだよ。それって」
笑いながら男たちが私を地面に押し倒す。犯行を目撃されたことに驚愕するでもなく、獣みたいに自分たちの欲を満たそうとしている。
さっきまで生きていたかもしれない人のそばで。自分たちが手にかけた人のそばで。世の中にこんな人間が生きているとは知りたくなかった。
「鬼はあんたたちよ! この人でなし!」
雷を放ち、男たちの目を眩ませる。私の力は相手を気絶させるほど強くはない。それでも逃げるには十分だ。必死に足を動かしてその場から逃れようとしたが――ぬかるんだ地面に足を取られて転んでしまった。
「ははっ、ラッキー。運はこっちに味方したってことだな」
「さっきの何なの? なんかヤバイからもう殺そうよ。ヤるならあとからでもできるじゃん」
「そうだな。おい、お前らしっかり押さえとけよ」
二人がかりで両腕と両足を押さえられ、首に両手をかけられる。力を使いたくとも、息が苦しくて集中できない。ぐう、と漏れた声に男たちが下卑た顔で笑う。
「苦しいか? 地獄に帰ったら閻魔様によろしく伝えてくれよ」
徐々に霞んできた視界の中で、不意に桃太郎の顔が浮かんだ。こんなことになるなら、一度ぐらいは想いに応えてあげればよかった。頬に伝う涙を感じながら、そっと目を閉じた瞬間――。
『もシ』
怖気の走る声が森の中に響いた。
「えっ……」
「なんだ、今の声。お前か?」
「違うよ。僕じゃ――」
その声は背後から伸びてきた腕に遮られた。直撃を喰らった男の一人が、人形のように木の幹に衝突して動かなくなる。
生きているか死んでいるかはわからない。もし生きていたとしても、不自然に曲がった手足を見ると、直に冷たくなることは明白だった。
「……あんたら、何を連れてきたの?」
恐怖で凍りついた男たちの手を振り解いて、その場に立つ。
森の奥から現れたのは、どう見ても異形の生き物だった。巨大な狒々に似ているが、その顔は虚。まるで井戸の底に沈澱した闇が意思を持ったように、こちらを胡乱に見つめていた。
「な、な、何だこの化け物!」
「逃げろ! こんなの冗談じゃねぇよ!」
恐慌状態に陥った男たちが仲間を置いてその場から逃げ出す。しかし、異形の反応速度の方が遥かに速かった。
ノーモーションで繰り出された腕の一振りで、ボールみたいに吹っ飛ばされた男たちが視界から消えていく。
次いで遠くから聞こえる木々を薙ぎ倒す音。――たぶん、生きてはいない。
『……シまス……もうシまス……アナタ……ワタシ……も……まス……』
ぶつぶつと不明瞭な言葉を呟きながら、異形が近づいてくる。どう見てもやばい。けれど体は動かない。
顔がないのにどうやって方向を定めているのかわからないが、一か八か逃げてもあの男たちの二の舞になるのがオチだ。私のチャチな雷が通じる相手とも思わない。
どうするべきか考えあぐねているうちに、異形は目と鼻の先まで近づいてきた。途端に肉が腐ったような匂いが漂い、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
さっきから背中を伝う汗が止まらない。ガタガタと震える私を意に介さず、異形は私の顔に触れるギリギリまで闇を近づけると、丸太みたいに太い腕を大きく振り上げた。
『つまどイをモうシあげマス』
コロ(八房)……白い狼。デブ。
錦……雉。デブ。
藤吉郎……猿。デブ。
お供たちは人間のご飯も食べられますので、カロリーが上限突破しています。椿のツノは普段術で隠していますが、集中力を要するので気を抜くと解けます。主に桃太郎といるときです。写真はそのときに撮られました。