98熱の正体
9月に入って、最初の土曜日。まだ朝靄の残る実習場に、すでに車が一台止まっていた。坂崎の車だった。
「早いな……」
望が小さく呟く。
その日は、講習会だった。技能五輪を見据えた、特別練習。土曜日、4回。そのすべてに、坂崎と神門、県の名工・石崎が一日張り付く。県の名工の指導と聞いて、見学させて欲しいと坂崎に伝えたところすんなりとOKされた。
実習場に入った瞬間、空気が違った。静かだが、張りつめている。音が少ない。代わりに、視線と緊張だけが満ちていた。琴葉と和也は、すでに作業着に着替え、作業エリアに立っていた。
「始めるぞ」
石崎の声は低く、短い。
合図と同時に、二人は動き出す。迷いがない。琴葉は部材の加工、和也は現寸図。坂崎がそれぞれの苦手な部分をこの日のテーマにしていた。
だが——
「止め」
開始から、わずか10分。
「今の鑿、どういう意味でその向きで入れた」
「……この向きが刃を入れやすいからです」
「違う。木目を見てるか」
琴葉が一瞬、口を閉じる。
「木目を見てから刃を入れる」
「やり直し」
琴葉は何も言わず、木目を確認して鑿をあてた。
見学に来た望、雄介、あいり、ほのかは、少し離れた場所でその様子を見ていた。
「え、今ので?」
「まだ何も始まってなくない?」
雄介が目を丸くする。
「……厳しすぎない?」
あいりの声は、半分冗談だった。だが、練習は止まらない。
「和也」
「はい」
「その現寸、頭の中で組んでるか」
「……はい」
「じゃあ言ってみな。この引き出し線の意味は何だい?」
坂崎が割って入る。
「この部材、何でこの線で展開できるの?」
「えっとそれは‥」
「曖昧だね。確認してやり直し。一回消して」
今描いたばかりの引き出し線、を消しゴムで消す。
石崎は、容赦しなかった。坂崎は、理詰めで逃がさなかった。
そして——
「違う」
神門が短く言った。
「考えすぎだ。手が遅れる」
そう言うと、鑿を取り、何も言わずに加工してみせる。一瞬だった。無駄がない。音が違う。
「……こうだ」
その一言で、現場が静まり返る。見学していた4人は、完全に言葉を失っていた。
「……なにこれ‥」
ほのかが、思わず呟く。
「まるで自分が怒られてるみたい……」
雄介は、信じられないものを見る目で2人を見た。
「なんでや……、あんなにボロクソ言われて、やり直しさせられて……なんで、あいつら笑ってるんや」
確かに、琴葉も和也も、疲労の中で、どこか楽しそうだった。
「もう一回、お願いします」
「今の、もう一度やらせてください」
何度も、そう言う。
「……信じられない」
あいりが小さく首を振った。
昼前。実習場の入口が開き、紙袋と風呂敷を抱えた2人が入ってきた。
「おうおう」
沙紀と風香だった。
「やってるな」
「いい顔してるね」
2人は、作業中の琴葉と和也を見て、迷いなくそう言った。
「沙紀姉さん……」
雄介が、思わず聞く。
「これ、知ってたんか?」
「何がだ?」
沙紀は不思議そうに首を傾げた。
「あんなに怒られてるのに、楽しそうやん」
「当たり前だろ」
沙紀は即答した。
「2人の為の特訓だろ。限界の手前が、一番伸びるんだ」
そして、ふっと笑う。
「私の剣道の特訓なんか、連続100人だぞ」
「……100?」
「まだまだできるな」
雄介は、がくりと肩を落とした。
「……そうや、沙紀姉さんも、鬼やった……」
午後も、練習は続いた。何度も止められ、何度も理由を言わされ、何度もやり直しさせられる。
夕方。琴葉は汗で髪を貼り付かせながら、作業台を見つめていた。和也は、隣で静かに頷く。現寸図と手は鉛筆の芯で真っ黒になっていた。
坂崎が、ぽつりと呟いた。
「……いい熱だ」
その言葉の意味を、
見学していた4人は、まだ理解できずにいた。
第98話目の投稿になりました。石崎、坂崎、神門の特訓が始まりました。本気で覚えようとしているときが教え時。3人はそれが分かっています。2人はどれだけ成長するでしょう。
次回は練習中のハプニングです。
お楽しみいただければ幸いです。




