静かな朝、再び火のもとへ
朝のキャンプ場は、驚くほど静かだった。
焚き火の跡は黒く冷え、昨夜の熱はもう残っていない。鳥の声と、風に揺れる木の葉の音だけが、ゆっくりと朝を知らせていた。
望と沙紀は、誰に言われるでもなく早く起きていた。簡易テーブルの上には、湯気の立つ鍋とパン、コーヒーの道具が並んでいる。ほのかと風香、美山も手伝いに加わり、野菜を切ったり、皿を並べたりしていた。
「お兄ちゃんと琴葉ちゃん、まだ起きないね」
風香がテントの方をちらりと見て言う。
「この時間まで寝てるの、初めてじゃないか?」
望が苦笑する。
「いつもは朝練だろ。今日は練習できる環境じゃないって分かってるから、気が抜けて熟睡してるんだろ」
沙紀はそう言って、鍋をかき混ぜた。
「好きなだけ寝かせてやれ」
そこへ、眠たそうな顔で玲奈が出てきた。
「おはようございます……皆さん、早いですね」
「おはよう」
ほのかが微笑み、皿を一枚渡す。
「起きてくれて助かる。これ並べてくれる?」
玲奈はうなずき、朝食の準備を手伝い始めた。その背後から、雄介とあいりの声が聞こえてくる。
「ちょ、あいり、卵割りすぎやろ!」
「いいじゃん! いっぱい食べるんでしょ!」
「限度があるやろ、限度が!」
朝から騒がしい二人に、玲奈は思わず小さく笑った。
「ほんと……あの二人、元気ですね」
「いつもああだよ」
沙紀が言う。
少し間を置いて、玲奈は思い切ったように口を開いた。
「……沙紀さんって、和也先輩と本当に仲がいいんですね」
沙紀は一瞬だけ手を止め、すぐに何でもないように続けた。
「そう見えるか?」
「昨日の夜も……寝る前、和也先輩と話してましたよね。先輩が寝たあと、戻ってきて風香ちゃんと話してて……」
「ああ」
沙紀はうなずいた。
「あいつ、練習でずっと気を張ってるからな。その日のガス抜きを、その日のうちにしてやるのが習慣なんだ」
「ガス抜き……?」
「寝る前に、その日あったことを聞くだけだよ」
沙紀は笑った。
「愚痴聞いてやってるだけさ」
玲奈は、言葉を失った。母親のようで、でもそれだけじゃない。距離が近いのに、縛らない。支えているのに、前に出ない。
――こういう関係も、あるんだ。
そのとき、テントの中から慌てた声が聞こえた。
「……っ、ごめん! 寝過ごした!」
和也が飛び出してきた。
「おはよう。ぐっすり寝れたよ」
続いて琴葉も現れる。
「珍しいな」
沙紀が腕を組んで言った。
「練習しなくていいって分かってたから、熟睡できたろ。たまにはいい」
「ごめん……」
和也が頭をかく。
「謝るな」
沙紀は即座に言った。
「それより、朝風呂行ってこい。もう温泉入れるぞ」
「え、昨日も入ったし……」
「何度入ってもいいだろ」
沙紀は琴葉を見た。
「琴葉、和也連行してこい」
「了解っ!」
琴葉は迷いなく和也の手を取る。
「ほら、行くよ」
「え、ちょ、待って――」
そのまま引っ張られていった。
その背中を見送りながら、玲奈は小さく息を吐いた。
「……沙紀さん、何とも思わないんですか? その……琴葉先輩が、和也先輩とあんなに……」
沙紀は少しだけ考えてから答えた。
「あいつには、一緒に五輪に向かって走れる仲間が必要だ」
そして、静かに言う。
「琴葉なら、心配ない。むしろ、ありがたい」
玲奈の胸に、その言葉が深く落ちた。
――自分とは違う。追いつきたい目標として見る関係と、肩を並べて進む関係。そこには、明確な違いがあった。
朝食を終え、静かに片付けが進む。大きな会話はない。昨日の夜の続きを、誰も引きずらない。
そうして、キャンプは終わった。
帰宅後、和也と琴葉は月島工匠の作業場にいた。
砥石の上を刃が滑り、一定の音が響く。現寸図の線は、迷いなく引かれていく。
「元気そうだな」
沙紀が顔を出した。
「久しぶりに、たくさん寝れたよ」
和也が笑う。
「帰りの車でも、ずっと……ごめん、運転全部任せて」
「いい顔してる」
沙紀は即答した。
「今のお前たちに必要なのは、休養だ」
「確かに……今、すごく体が楽」
琴葉が言う。
「僕も。調子いい」
和也もうなずいた。
「なら決まりだ」
沙紀は言った。
「お盆中は、早朝練習は休み。その分、寝て、食ってからやれ。今のお前たちなら、それが正解だ」
二人は顔を見合わせ、同時にうなずいた。
その夜、月島家の和室では、小暮家と琴葉の両親を交えた宴会が開かれた。
笑い声と、ゆっくり流れる時間。
翌朝。朝食を終えた二人は、何も言わずに作業場に向かう。
刃を持つ手は、軽い。線を引く目は、澄んでいる。現寸図の線は、昨日までよりも迷いなく引かれていく。
火は、消えていなかった。
ただ、正しい距離に戻っただけだった。
第96話目の投稿になりました。つかの間のお盆休みも終わり、ゆっくり休めた琴葉と和也でした。
次回は休み明けの授業で、史跡巡りです。
お楽しみいただければ幸いです。




