教え時
夏休みに入っても、実習場は閉まらなかった。むしろ、空気は張りつめていた。
その日、課題の貼られた黒板の前に立つ見慣れない人物を見て、和也と琴葉は一瞬、足を止めた。
年齢は五十代半ば。背は高くない。だが、立っているだけで、場の重心がそこに寄る。
「紹介するよ」
坂崎が言った。
「技能グランプリ入賞経験者。県の名工。宮大工の……石崎さんだ」
和也は、息を呑んだ。石崎は多くを語らなかった。道具を並べ、材を置き、ただ削り始める。音が違った。鉋が木を滑る音は、鋭いのに柔らかい。削り屑は、切れず、途切れず、床に静かに落ちていく。
数分後。
「はい」
差し出された部材を見て、琴葉は言葉を失った。
通り。木肌。角。どこにも“力んだ跡”がない。
「……同じ木、ですよね」
思わず漏れた言葉に、石崎は小さく笑った。
「同じだよ。でも、見てるものが違う」
和也と琴葉は、自分たちの加工材を見下ろした。
――荒い。甘い。遅い。
今まで積み上げてきたものが、音もなく崩れていく感覚。坂崎が、容赦なく言った。
「今の二人なら、全国大会に“出る”ことはできる。でもまだ、“勝負する”レベルじゃない」
続けて、石崎。
「悔しいか?」
琴葉は、答えられなかった。
――悔しい。恥ずかしい。情けない。全部だった。
静かにうなずいた。
「昔、僕にも同じことがあった。中卒で先代の元に入社して、社長や先輩達の加工みて自分の無力さを痛感した。だからあれから40年以上、それをばねにやって来た。今、まだまだ大七くらいだよ。大九には、なれてない。今でも修行の日々だよ」
そこから始まった特訓は、今までとは質が違った。
墨付けは一発。迷えばやり直し。理由を言えなければ却下。
「なんで、そこをそう刻んだ?」
石崎の問いに、琴葉は言葉に詰まる。
「……前、教わった通りに」
「それは“答え”じゃないね」
坂崎が被せる。
「“なぜそうなるか”を言えないなら、理解してないのと同じだよ」
和也も、何度も止められた。
刃の入り。姿勢。握りの力の加減。
「雑音が多い」
石崎は言った。
「頭の中がうるさい。刃入れる前に、全部終わらせてこい」
夕方。手は痺れ、脚は重く、頭が全く回らない。琴葉は、ついに削り台の前で立ち尽くした。
「……もう、無理」
声が、震えた。身体が動かない。
「差、ありすぎ。追いつける気がしない」
その横で、和也は汗だくのまま、鋸を引いていた。口元が、少しだけ上がっている。
「……なんで、そんな顔できるの?」
琴葉が言った。
「こんな実力差、見せつけられて。なんで、嬉しそうなの?」
和也は、作業を止め、少し考えてから答えた。
「嬉しいよ」
「……はぁ?」
「だってさ」
和也は、石崎と坂崎の方を一瞬だけ見た。
「こんな人たちに、本気で教えてもらえるんだよ。いつか追いつきたい目標が、二人もいる」
静かな声だった。
「楽しいよ。正直、出来るか分からないし怖いけど……でも、楽しい」
琴葉は、言葉を失った。
――そうか。諦めなければ、続けさえすれば、もしかしたら。この背中に、いつか並べる日が来るかもしれない。
胸の奥で、何かが再び灯った。
折れかけていた心が、ゆっくり起き上がる。
「……もう一回、やる」
琴葉は言った。
石崎は、遠くから眺めながら、初めてはっきり笑った。
「いい顔だ。今が、教え時だな」
坂崎が黙って頷く。
和也は何も言わなかった。ただ、静かに鋸引きを再開した。
燃えている。声もなく、音も立てずに。
夏の実習場で、二人の時間は、再び動き出した。
第93話目の投稿になりました。県の名工である宮大工の特訓が始まりました。駄目なら理由を言わせて、理屈を分かった上で、ひたすら繰り返す。技能習得に最も効率的な方法です。そして本人のやる気が出た時に徹底して教え込む、これも技能指導の鉄則です。
次回は 一時の息抜きキャンプ回です。
お楽しみいただければ幸いです。




