炎天下、本番の合図
7月に入った。梅雨明けの気配が近づくにつれて、空の色が変わった。青が濃くなる。雲は薄く、陽射しだけが刺すように降りてくる。模擬棟の現場は、朝からすでに熱を持っていた。二階建ての骨組みはほぼ整い、造作が進むにつれて、作業は「組み立てる」から「整える」へ移っていく。けれど、暑さだけは容赦しない。足場板が熱く、金物が熱く、空気そのものも暑い。
その日の朝礼で、坂崎が淡々と告げた。
「就職内定、出た人。手を挙げてみて」
数人が、手を挙げた。
「はいじゃあ、これから採用試験受験予定決まっている人。手を挙げてみて」
次いで、また数人。全体の三分の一ほどが手を挙げたところで、空気が微妙に変わった。
安心と、焦り。祝福と、置いていかれる感覚。同じ場所に立っているのに、見える景色が分かれ始める。
ほのかは、手を挙げなかった。挙げられなかった、という方が近い。訪問した会社は良かった。担当の大代真央の話も、現実味があった。
残業、責任、資格手当、出張。
どれも「設計の仕事なら当たり前」だと頭では分かる。でも、分かった瞬間に、怖さも同じくらい増えた。
あいりも、手を挙げない。鋼製下地内装か、クロス施工か。
二択まで選び絞ったはずなのに、決め切れない。職人になる、と口にすると、急に現実の重さが来る。
――自分がその世界でやっていけるのか。
怖い。
模擬棟の作業が始まると、暑さはさらに牙をむいた。釘打ち機のコンプレッサーが唸り、電動丸鋸が鳴り、声が飛ぶ。汗はヘルメットからこぼれ、目に入り、手袋の中がぬるくなる。湿っていて気持ち悪い。
望は空調服を着ていた。白いファン付きの上着が膨らみ、風が回っているのが分かる。
「やっぱ違う?」
誰かが聞くと、望は笑って言った。
「違うよ。命綱だね」
けれど、和也と琴葉と雄介は、いつも通りの長袖作業着のままだった。汗はかいている。でも顔は平気そうだ。
「なんでお前ら、この暑さで平気なんだよ? 夫婦そろって鉄人かよ」
男子が半分呆れた声で言う。
雄介が肩をすくめて脇から口を挟む。
「慣れや、慣れ。現場ってこんなんやろ」
和也は淡々と答えた。
「直射日光に肌さらす方が、疲れるよ」
琴葉も、うなずく。
「半袖になると、皮膚が焼ける。結局だるくなる。長袖のほうが楽だよ」
それでも、暑さは暑さだ。いつもより声が枯れるのが早い。集中が切れやすい。時折、作業の終わりが見えなくなる。
昼前、事件は起きた。あいりが、足場の下で材料を運んでいた。
顔が赤い。動きが少し遅い。誰かが「大丈夫?」と声をかけた瞬間、あいりの膝が抜けた。
「……っ」
倒れる。その場にいた周りの学生が驚いて駆け寄る。
「ストップ! 僕に任せてっ」
琴葉の声が飛ぶ。
琴葉は一瞬で駆け寄り、あいりの肩を支えて座らせた。首元を見て、顔色を見て、すぐに判断する。
「水! 日陰! 冷蔵庫から氷! あと、先生呼んで!」
クラスメイトが模擬棟内部で指示を出している職員を呼び、ほのかが冷たい飲み物とビニル袋に入った氷を実習場から走って持ってくる。坂崎と上泉が駆け寄った。
「あいり、返事できる?」
坂崎が問うと、あいりは小さくうなずいた。
「……ごめん、ちょっと、くらっと……」
上泉が即座に指示を出す。
「作業中断。全員、水分。日陰。頭痛、吐き気、手足の痺れ、いるか?」
すると、別の男子が手を挙げた。
「……ちょっと気持ち悪いっす」
さらに一人。
「俺も、頭が……」
暑さは、全員に等しく来る。平気に見える和也も、汗の量は普段の倍だった。雄介も、額の汗を拭いながら黙って音を立てて水を飲んでいる。琴葉は、あいりの呼吸が落ち着くまで、日陰で横にさせ応急処置を施す。氷でクビ裏とわきの下を冷やしながら、スポーツドリンクを飲ませる。
午後、日陰のある実習場前に全員が集められた。午前中の件を受けて、坂崎が注意喚起した。
「無理はしない。こまめに水分と塩分接収。塩分チャージここに置くから、各自なめて。気持ち悪くなる前に休む事。午後はこまめに休憩取るけど、自分の身体分かるのは自分だけだよ。あと、炎天下で肌さらすと余計疲れるから」
そう言うと、段ボール箱を木陰にのベンチ上に置いた。塩分摂取用の飴が大量に入っていた。午後の実習は午前中より暑かったが、30分おきに休憩を挟んだことと、その度に水分と塩分を摂取したことで、倒れる学生はいなかった。午後の最高気温は37度を超えていた。放課後作業が終わって、解散となった。
「や~今日は、7月入ったばっかなのに真夏やったな~」
「ほんと暑かったよ。あいり大丈夫?」
琴葉があいりに声をかけていると、坂崎に呼ばれた。
坂崎が、書類を持って立っていた。ただそれだけで、空気が変わる。
「……全国大会の課題、発表が来たよ」
一瞬、音が消えた。和也と琴葉は、視線を交わさない。交わさなくても、分かる。
ここから先は、いつもの延長じゃない。
坂崎は資料を見ずに言った。
「今までの練習は、準備だよ」
そして、少しだけ声を強くした。
「ここからの三か月が、本番だね」
その言葉が、胸に落ちた。暑さでぼんやりしかけていた頭が、急に冴える。
ほのかも、あいりも、雄介も、望も黙って坂崎の言葉を聞いている。「内定が出た」「出ない」の前に、今は同じところに立っている。
琴葉は、あいりの方を一度見た。あいりは疲れたい顔をしていたが、目は開いていた。その目の奥に、怖さと悔しさが混ざっている。
琴葉は思った。
――暑さも、就活も、課題も。全部、逃げられない。けれど、ここからの三か月を、逃げずに並んで走る。
そう決めた瞬間、盛夏の陽射しが、ただの苦しさではなく、火のように見えた。
第91話目の投稿になりました。炎天下での作業、熱中症は最も危険で猛暑期は毎日隣り合わせの現実です。
昨今の猛暑は本当に危険で、空調服を着たり、こまめに水分や塩分を摂取したりと本当に危険です。あいり、大ごとにはなりませんでしたが、周りに与えた影響は大きかったと思います。
次回は です。
お楽しみいただければ幸いです。




