並ぶという選択
事故の翌朝、建築実習場はまだ静かだった。シャッターの隙間から差し込む光が、床に長い影を落としている。和也は、いつもより少し早く来ていた。無理をしている様子はない。だが、どこか慎重な動きだった。
「おはよう」
琴葉が声をかけると、和也は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに笑った。
「おはよう。昨日は……ごめん。驚かせただろ」
「……うん」
それだけ返して、琴葉は道具を出す。二人並んで研ぎ場に立つ。その距離は、昨日までと同じはずだった。けれど、和也が先に口を開いた。
「大会で脚やったあとさ……」
鑿を置き、少し視線を落とす。
「なんかの拍子に、身体が勝手に震えるようになったんだ」
琴葉は、手を止めなかった。ただ、耳を澄ませる。
「恋がそばにいてくれたときは、平気だった。抱きしめてくれて、声かけてくれて……それで落ち着けた」
一度、息を吸う。
「恋がいなくなってから、また時々来る。昨日みたいに」
和也は、自嘲気味に笑った。
「今はさ……姉ちゃんが、沙紀姉ちゃんがいる」
「夜になると、話を聞いてくれて、落ち着くまで一緒にいてくれる」
言葉を選ぶように、続ける。
「正直に言うと……姉ちゃんがいなくなったら、今の俺はたぶん一人で立てない。弱いんだ」
琴葉の胸が、わずかに締めつけられる。
「サッカー部のエースでも、みんなの憧れでも、なんでもない。ただの、弱い一人の人間だ」
それでも和也は、顔を上げた。
「でもさ……」
「姉ちゃんだけじゃなくて、風香や、仁吉さん、月さん、望さん、雄介、ほのか、あいり……先生たちや、心太さん……」
そして、少しだけ間を置いて。
「……もちろん、琴葉にも」
琴葉の手が、止まった。
「みんなに支えてもらって、今、ここに立ってる」
「その中で……今は一番、琴葉と」
言葉が、はっきりする。
「琴葉と一緒に並んで、全国大会に行きたい」
「競える相手がいるってことが、俺を前に進ませてくれるんだ」
告白のようでいて、違う。依存ではない。頼みでもない。選択だった。
琴葉は、しばらく何も言わなかった。作業場に、朝の静けさが戻る。やがて、ゆっくりと口を開く。
「……正直、驚いた」
和也を見る。弱さを隠さない目。逃げない姿勢。
「でもね」
琴葉は、はっきりと言った。
「逃げない和也は、かっこいいと思う」
その言葉に、和也が小さく息をのむ。
「弱いのに、立とうとしてるところが。怖がってるのに、前に進もうとしてるところが」
一歩、距離を詰めるわけでもなく、離れるわけでもなく。
「僕も君と並んで、すすみたい」
それだけだった。約束もしない。未来も決めない。ただ、同じ方向を見る。
和也は、しばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとう」
二人は再び、砥石に向き直る。研ぎの音が、実習場に響き始めた。
支える手と、並ぶ手は違う。
そして琴葉は、並ぶという選択を、自分の足で選んだのだった。
第84話目の投稿になりました。和也が自分の弱さを正直に琴葉に伝えました。そしてまた琴葉も和也と共に全国大会を目指す決意を固めました。人は誰でも弱い一面を持っているものです。その弱さを認めて前に進めるようになった時にその人は強くなれるのだと思います。
次回は、和也と並んで進もうと決めた琴葉、模擬棟建築作業ででつまずきます。
お楽しみいただければ幸いです。




