支える手、並ぶ手
今ほど起きた出来事が琴葉の頭の中でフラッシュバックしていた。
二階建て模擬棟の建方は、順調に進んでいた。柱が立ち、梁が架かり、現場には独特の緊張感が漂っている。上では二階の床が組まれ、下では次の部材が手渡され二階の柱と梁が組みあげていた。
「足元、気をつけて!」
誰かの声が飛んだ、その直後だった。二階の桁付近で作業していたクラスメイトが、わずかに体勢を崩した。安全帯はかかっていた。本来なら、大事には至らないはずの状況だった。けれど…。
「危ない!」
和也は、反射的に動いた。考えるより先に身体が出ていた。手を伸ばし、相手の体を引き戻す。次の瞬間、鈍い音が響いた。和也は足場の上に崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
「和也!」
一緒に梁上で作業していた琴葉の声が、現場に響いた。坂崎と上泉がすぐに駆け寄る。
「動くな!」
「意識はあるか!」
二人がかりで和也を支え、慎重に足場から下ろす。転落しかけたクラスメイトは、安全帯に守られて無事だった。
結果だけを見れば、事故にはならなかったかもしれない。だが、現場の空気は一変していた。
作業は、その場で中断された。上泉が全員を集め、静かに話す。
「今のは、偶然助かった場面だ。安全帯を付けていたから無事だった。でもな、“とっさにかばう”状況そのものを作らないのが、安全作業だ」
声は大きく、重かった。
坂崎は、和也を連れて近くの整形外科へ向かった。
昼前。二人は現場に戻ってきた。
「ごめん、心配かけた」
和也は、いつも通りの明るい声で言った。
「打撲だったよ。古傷の膝、ちょっと打っただけ。一瞬、力抜けちゃってさ」
望や雄介が、ほっと息をつく。
「なんや、びっくりさせんなや」
「ほんとに良かった」
けれど…琴葉は、その場で声を上げて泣き出していた。
「……よかった……」
それだけ言って、あとは言葉にならなかった。
午後の授業では、和也は折り畳み椅子に座り、下から作業指示を出していた。上泉は帰宅してもいいぞと勧めたが、和也は最後まで出来ることをやりたいと申し出たからだった。
放課後。和也はバスで帰れない状態だったため、連絡を受けた沙紀が迎えに来た。
「大丈夫か?」
車を降りるなり、沙紀は和也を見た。
「動けるのか?」
「フラッシュバックしてないか?」
「次も登れるのか?」
矢継ぎ早の問い。
「やだな、大丈夫だよ」
和也は笑って答えた。けれど、琴葉は気づいた。和也の手が、わずかに震えている。それに、沙紀もすぐ気づいていた。さりげなく和也の手を取り、軽く握る。周囲には分からないように。
「……乗るぞ」
それだけ言って、和也を手を取ったまま助手席に乗せた。琴葉は、その様子が頭から離れなかった。
「私も……乗っていい?」
その日の練習を休み、琴葉も車に乗り込んだ。
車内。助手席で、和也は背もたれに深く身を預けている。
震えは、止まっていなかった。むしろひどくなっている。沙紀が静かに車を走らせながら、和也の頭を抱き寄せる。
「もう大丈夫だ」
「今は、安全だ。何も心配はいらない」
低い声で、繰り返す。和也の震えが、少しずつ整っていく。
琴葉は、午後から明るく振舞っていた和也とは別人のその姿に、ただ茫然と見ていることしかできなかった。
励ましたい。何か言いたい。けれど、言葉が見つからない。自分では、和也を支えられない。その事実が、胸に重くのしかかった。
家に着いて、自室に和也を送り届けて戻ってきた沙紀に、琴葉は声をかけた。
「……さっきの、どういうこと?」
沙紀は一瞬、空を見たあと、静かに言った。
「和也はな、昔の怪我と、恋のこと……両方、まだ抱えてる」
それ以上、詳しくは語らなかった。
「だから今のあいつには、何でも許容してやれる存在が、必要なんだよ」
それは、宣言でも命令でもなかった。ただの、事実だった。琴葉は、その言葉を胸に刻む。自分は、まだそこにいない。
けれど――それでも、離れたいとは思えなかった。
――僕に出来ることはないのか?
今考えられる精一杯で考えた。沙紀はそんな琴葉を見透かしたように言った。
「あいつは私が支える。お前はあいつと並んで前にすすめ」
その言葉に、琴葉ははっとした。
支える手と、並ぶ手は違う。
そして自分は、並びながら和也と歩こうとしているのだと。
第83話目の投稿になりました。和也、実はずっと過去と向き合いながら頑張っていました。そして恋と沙紀がずっと支えてきました。その事実を知ってしまった琴葉。
次回は 琴葉の決断です。
お楽しみいただければ幸いです。




