変わり始めた距離
湖畔のバーベキューが終わった翌日から、月島工匠での練習が再開された。音は、いつもと同じだった。鋸の引く音。鑿を打つ乾いた響き。木屑の匂い。
けれど、琴葉の集中は、どこかで途切れがちだった。理由は、分かっているようで、分からない。沙紀の、和也に対する接し方。声の掛け方。距離。間。それらに、自然と目が向いてしまう。
母親のような気遣い――そう言い聞かせても、なぜか胸の奥がざわつく。母親とは、少し違う。恋人とも、違う。けれど、自分が入り込めない距離であることだけは、はっきりしていた。鑿を握りながら、ふと手が止まる。
――まさか、二人は……?
そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消す。違う、そんなはずはない。沙紀は、ああいう人だ。和也は、ただ甘えているだけだ。それに――私には、心太さんがいる。そう思っても、釈然としなかった。
昼休み、琴葉は思い切って沙紀に聞いた。
「沙紀ちゃん……和也のこと、すごく気にかけてるよね」
沙紀は、一瞬だけ琴葉を見て、すぐに笑った。
「そりゃ気にするだろ。怪我もしたし、すぐ無理するし。それに恋から託されたからな」
「それだけ?」
「それだけだよ」
それ以上は、何も言わなかった。否定もしない。肯定もしない。はぐらかされた、という感覚だけが残る。
琴葉は、連休中ずっと沙紀の部屋に寝泊まりしていた。
夜になると、沙紀は決まって部屋を出る。30~40分ほどして、戻ってくる。それが、毎晩続いていた。
ある夜、琴葉は思い切って和也に聞いた。
「ねえ……沙紀ちゃん、夜寝る前にどこ行ってるのか知ってる?」
和也は、少し驚いた顔をしてから、あっさり答えた。
「僕の部屋」
「……毎晩?」
「うん。その日の話、何でも聞いてくれてさ。それで、明日も頑張れって」
何でもないことのように。琴葉は、それ以上何も聞けなかった。それは、恋人じゃない。でも、特別だ。その夜、なかなか眠れなかった。
連休が終わり、自宅に戻る。明日からは、また元の生活だ。連休中は、毎日和也と一緒にいた。作業をして、食事をして、話をして。
元に戻るだけ。それだけなのに。胸の奥に、言葉にできない空白が残っている。
――この感じは、何だろう。
連休明け初日。早朝の建築実習場。薄い朝の光の中で、和也と並んで作業を始める。距離は、変わっていない。会話も、いつも通りだ。
それなのに。一緒にいることが、いつも以上に楽しい。同時に、いとおしい。その感覚に、琴葉は戸惑った。
――これは、何?
答えは出ないまま、日々は過ぎていく。
二階建て模擬棟の建方の日が来た。現場は、緊張感に包まれていた。柱が立ち、梁が架かり、二階へと作業が進む。
「足元、気をつけて!」
声が飛ぶ。その瞬間だった。二階の小屋組み付近で、足を滑らせたクラスメイトが、体勢を崩す。
「危ない!」
和也が、反射的に動いた。手を伸ばし、相手を引き戻す。次の瞬間、鈍い音が響いた。
「和也!」
琴葉の声が、思わず大きくなる。和也は、足場の上でうずくまり、動きを止めていた。自分のことより、先に人を助けた。
その姿を見て、琴葉の胸が強く締め付けられる。
――嫌だ。
その感情だけが、はっきりと浮かんだ。
理由は、まだ分からない。
けれど、もう、元の場所には戻れる気がしなかった。
第82話目の投稿になりました。クラスメートをかばって和也が負傷してしまいました。建築現場では一瞬のミスで大怪我に繋がります。和也の大丈夫なのでしょうか?
次回は 和也の意外な結果に琴葉が驚きます。
お楽しみいただければ幸いです。




