春休み、そして新学期開始
春休みの実習場は、静かだった。朝の空気はまだ冷たく、シャッターを開けると、金属と木の匂いが混ざった、いつもの匂いが流れ出してくる。
和也と琴葉は、言葉を交わさずに中へ入った。もう何度も繰り返した動きだった。現寸図を広げ、鉛筆を走らせる。線を引く速さも、迷いのなさも、二人はよく似ていた。春み中も、やることは変わらない。一級検定課題の現寸図。木削り。墨付け。加工。組立。
過去の課題を何度もなぞる。覚えると言うよりは、読解して理屈を理解する作業だった。バイトは土曜日だけ。それ以外の日は、ほとんどここにいた。
午前中の光が実習場の床に伸びてきた頃、入口の方が少し騒がしくなった。坂崎が、見慣れない私服姿の女子を連れて入ってくる。細面で、少し緊張した顔をしている。視線が落ち着かず、刻まれた材や工具を順番に追っていた。
「新1年だ。双葉玲奈」
坂崎がそう紹介すると、玲奈は慌てて頭を下げた。坂崎はそのまま、模擬棟の方へ案内して行った。
屋外二階建て模擬棟建築。卒業生が3月まで手を掛けて一階は内装の仕上げまで行っていた。玲奈は興味深々に完成された建物を見ていた。その後、溶接実習場。和也たちが3月まで刻んだ模擬棟の構造部材が台の上に所狭しと並べられている。
玲奈は、加工された柱や梁を、食い入るように見ていた。
12時近くになって、再び建築実習場に玲奈を伴って入ってきて、実習場内を説明している。少し離れた作業スペースでは、神門がすでに朝から手を動かしている。
鉋の音が、一定のリズムで響いていた。その脇で和也達が加工をしている。
「で、こっちが――」
坂崎が、何気なく言う。
「春休みだけど、来て練習してる二人。新年度技能五輪全国大会の我が県代表だ」
玲奈が、はっと顔を上げた。
「え……?」
坂崎は続ける。
「一年で、ここまでやってる」
それだけだった。
和也は、鑿と玄翁の手を少しだけ止めた。琴葉は、鋸を引いている隅木の切り墨から外さなかった。玲奈は、二人の動きを見て、言葉を失っていた。
墨の線。刃物の運び。木口の仕上がり。身体の流れ。
そして、もう一つ。
「……女の人も、代表なんですか」
ぽつりと漏れた言葉に、琴葉が顔を上げる。
「そうだよ、うちの今の一番だよ」
坂崎は、“今の”を強調して答えた。昼休みになり、坂崎に声をかけられて、二人は作業を止めた。
「挨拶しとけ」
坂崎に促され、和也と琴葉は、その場で立つと、
「小暮和也です」
「僕は、相沢琴葉」
短い自己紹介をした。玲奈は、少し照れたように頭を下げた。
「よろしくお願いします」
二人が仲よさそうに軽口を言い合いながら並んで歩いていく背中を見ながら、玲奈は勇気を出して聞いた。
「あの……先輩たち、付き合ってるんですか?」
和也が一瞬、困ったように笑う。
「仲のいい気の合う相棒だよ」
その横で、ほぼ同時に琴葉が明るい声で笑いながら言った。
「違うよ」
それだけだった。迷いも、照れもない。玲奈は、少し驚いたように瞬きをした。
――ああ、こういう人なんだ。
その日、琴葉は、玲奈にとって“憧れの先輩”になった。
春休みが終わり、入学式を経て、新年度が始まった。新入生は18人。そのうち女子は4人。対面式のあとは、建築科恒例のスポーツ大会だった。種目はバスケとフットサル。毎年、学年も経験も関係なく、純粋に身体を動かす行事だ。
班分けが抽選で行われた。1年生と2年生をシャッフルしての10人ずつの班構成。学生が38人なので、神門と坂崎も混ざっている。
和也は、玲奈、あいりと同じ班。琴葉は、雄介、昨年の入試後に見学に来ていた美山と同じ班だった。
コートに立った瞬間、和也の表情が変わった。
足首を軽く回し、膝の具合を確かめる。以前のような慎重さは、もうなかった。
試合開始の笛が鳴る。最初に動いたのは、和也だった。ボールを受けると、間合いを一瞬で測り、縦に仕掛ける。相手が寄った瞬間、細かいタッチで切り返す。
「速……」
1年生の誰かが、思わず声を漏らした。
膝の不安は、ほとんど感じさせなかった。滑らかで、無駄がない。琴葉も、自然と声を出す。
「右、空いてる! 戻って!」
指示は短く、的確だった。場の空気を読む力は、去年より明らかに増している。直接対決の場面では、コートがざわついた。
「行くよ」
琴葉が笑って、和也に一対一で仕掛ける。直線的で速いディフェンス。和也は、二度、三度と切り返しを入れる。一瞬の間を作り、抜き去った。背後で待ち構えていた美山も、細かいボールタッチでかわす。シュート。キーパーの雄介が反応するより早く、ネットが揺れた。
「なんでや~! なんで一人で全員抜けるんや~!」
雄介が大げさに叫び、周囲が笑う。
「脚、だいぶ戻ってきたね。さすが和也」
琴葉が息を整えながら言う。
「うん。……でも、まだ6割程度」
「それでこれ?」
観戦していた望とほのかが、顔を見合わせる。
「完全復活したら、一人勝ちだね」
「でも……治ってよかったよ」
和也のチームは、他のメンバーがゴール前で守備を固め、和也が前線を一人で切り裂く形になっていた。玲奈は、ただ立ち尽くしていた。目の前で繰り広げられる動きが、別の世界のもののように見えた。
スポーツ大会のあとは、実習場前でのバーベキューだった。望と和也、琴葉が手際よく4台のグリルを組み立てる。火起こし、網の設置、炭の配置。どれも迷いがない。ほのかとあいりも、野菜や肉を並べ、下準備を進める。
「ほら、遠慮せんでええぞ」
雄介が一年生に声をかける。
「ジュースも肉も好きに取れ。建築のバーベキューに遠慮はいらん。しっかり食べや」
最初は固まっていた1年生たちも、少しずつ輪に入っていく。女子1年生4人は、それぞれ琴葉、あいり、ほのかの手伝いをしながら、楽しそうに笑っていた。男子も、気づけば2年生と混ざって皿を持っている。煙と笑い声が、実習場前に広がる。
片付けが終わる頃には、学年の境はほとんど消えていた。
数日後から、1年生の大工実習が本格的に始まった。最初は、鑿の仕込み。神門と佐倉が指導に立つ。
2年生は、溶接実習場と模擬棟建築予定地に分かれ、作業を進めていた。和也と琴葉は同じ班で、坂崎の指導のもと、基礎周りの枠組み足場を組んでいる。
放課後。建築実習場では、和也と琴葉が昨年の全国大会課題で練習を始めていた。1年生の半分ほどが残り、鑿の桂仕込みに取り組んでいる。玲奈が冠を削る手を止める。和也が声をかけた。
「もう少し、やすり寝かせて」
琴葉も覗き込む。
「貸して。角度、これくらい」
あっという間に、金属が削れていく。
「……すごい」
玲奈だけでなく、周囲1年生も息をのんだ。気づけば、二人の周りに人が集まっていた。坂崎はそれを見て、軽く言う。
「指導、よろしくね」
和也が苦笑すると、坂崎は肩をすくめた。
「教えると、自分の勉強にもなるでしょ」
帰り際、坂崎がふと思い出したように言った。
「去年は愛婿県だったね。課題は7月中頃に発表。それまでは過去問。あとは1年の指導だ」
和也と琴葉は、何も言わず、また木に向き直った。今年の課題は、まだ出ていない。
全国大会と後輩指導。2年生としての新しい日常が、静かに始まっていた。
第79話目の投稿になりました。2年生編開始になります。坂崎が 和也と琴葉に課した課題は、全国大会の過去問練習に加えて 後輩に対する指導。教えるためには自分の持つ技術を的確に棚卸して、分かりやすく相手に伝えるために、自分の復習にもなります。ここから全国大会に向けて新しい挑戦が始まります。
次回は、2年目の連休中の練習です。
お楽しみいただければ幸いです。




