鬼神
それは、誰かに言われて始まったことじゃなかった。
叱咤でも、励ましでもない。ただ差を、はっきりと見てしまった。
翌朝。作業場の照明が点く前、和也はすでに中にいた。
時計は6時。シナベニアの上に模造紙を貼り、鉛筆を削る。
深く息を吸い、現寸図に向かう。
線を引く。止まらない。確認しない。迷わない。だけど、30分経っても、描き終わらなかった。
「……まだ、か」
消しゴムは使わない。引いた線は、すべて自分の責任として残す。精度は悪くない。それでも、時間が足りなかった。
6時45分になって作業場を出てバス停に向かう。
7時40分、和也は建築実習場で再び図面を引いていた。
昼休み。建築実習場で弁当を早々と口の中に駆けこむと、鉋刃を研いでいた。
放課後。授業が終わると、そのまま実習場へ向かった。
誰もいない。静かだ。鉋を取り出し。昼研いだ刃を台に入れて、裏座をしめると、下端定規を台裏にあてた。
——狂っている。
台と定規の間からわずかな光がもれることで台の狂いを確認する。自分が仕込んだ鉋が、今はまるで言うことを聞いてくれない。一つずつ、直す。刃物用の油を台裏に塗って、台直し鉋と鑿、台直しやすりで削る。削られた部分は油がとれる。油の有無で大まかに台表面の削り具合を確認し再び定規をあてる。
——まだ駄目だ…。
「……忘れてる」
墨付けも加工も組立も同じだった。ところどころ手が止まる。そのたびに、琴葉が言った。
「起点、そこじゃない」
「寸法、三つだけだよ」
「勾配は、差し金で見る」
「のこは長く引く。手元は強く握らない」
「材が動いている。のこ引くより材を押さえることを意識して」
「鑿も軽く握って」
「繊維方向に刃を入れるように角度意識」
「桁 梁 柱三つの直角確認」
声は淡々としていた。優しくも、厳しくもない。ただ、事実だけを伝える。和也は素直にその言葉を受け入れた。
坂崎は、何も言わずに。ただ少し離れた場所から微笑んで見守る。
通し練習から2週間。
少しずつ、戻ってくる。線の順番。鉋の音。木が応える感触。現寸図が、朝のうちに描けるようになった。鉋屑が、途切れずに出るようになった。墨付けの線が、現寸に合うようになった。
家では、夕飯時に沙紀がその日の進捗を確認してくれた。沙紀には何でも素直に心の中にある葛藤まで話すことが出来た。
「今日も、そうか頑張った。また一歩進んだな」
時々、叱られた。
「和也はネガティブすぎる。止まるな。考えすぎるな。それに食事はしっかり食べろ。お前、痩せてきたぞ。体重何キロ落ちた? 今計ってみろ」
次第に睡眠時間を削っての鬼人のような練習の日々が続き、和也がやつれていく事を心配してくれていた。
「無理はしてもいいが、無茶をして体調を壊しては元も子もないぞ」
風香は、黙ってお茶を入れてくれる。そして食後、作業場で再び練習を行った。
土曜日バイトの日の夕方。移動中のバン。心太がハンドルを握り助手席には琴葉が座っていた。和也は重と別の現場で仕事だった。心太が、何気なく言った。
「最近さ、和也……平日、夜中まで作業場でやってるぞ。それにたぶん今日もこの後やるだろう」
琴葉は、一瞬だけ手を止めた。
「……そうなんだ」
それだけ言って、その日は帰った。
琴葉の自宅。風呂を済ませ、部屋に戻る。時計は、もう21時を回っていた。琴葉は、自室の部屋の床に模造紙を広げる。鉛筆を削り、静かに線を引いた。
……私も、負けてられない。現寸図。墨付けの練習なら自宅でも出来る。
誰に言うでもなく、心の中でそう呟く。和也の顔を、思い浮かべながら。
12月3週目になった。学生は今週で冬休みになる。1年生は、2建て模擬家屋土台と2階横架材の墨付けと加工を行ってた。和也も琴葉もその作業の輪の中にいる。2年生は通し練習以降、技能検定の練習を授業中に続けていた。和也は正直こうして模擬棟を作っているこの時間も検定の練習をしたかった。
和也は、はっきりと感じていた。
——まだ、全然届かない。
琴葉は、もう一人で次の段階へ上がっている。現寸図。木削り。墨付け。加工。仮組。手直し。組立。時間内で完成させるから、いかにいい作品を仕上げるか。差は、埋まっていない。むしろ、はっきりと距離がついたままでいる。だから、和也は、止まらなかった。量を積んで、質を上げる。
琴葉もまた、止まらなかった。もう一人の鬼神。それは、あせりではない。いいものを仕上げたい。そして全国大会に出たい。
静かな誓いだった。今、二つの火は強く、同じ方向を照らしていた。
第71話目のy投稿になりました。前回の通し練習で、圧倒的な実力差を見せつけられた和也の猛特訓が始まりました。それを知った琴葉も自宅でも夜の特訓開始。
次回、冬休みに入っても特訓は続きます。
お楽しみいただければ幸いです。




