朝の線はまだ遠い
翌朝、和也は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。特別な理由はない。ただ、身体が先に起きてしまった。気がつけば、アカデミーの実習場の前に立っていた。まだ空気は冷たく、建物の中は薄暗い。引き戸を開けると、もう人がいた。琴葉だった。シナベニアの上に模造紙を貼り、現寸図を描いている。鉛筆は止まらない。線は迷わない。和也は、何も言わずに隣に立った。
「おはよう」
琴葉が言う。
「……おはよう」
それだけで、十分だった。しばらく琴葉の動きを見つめていた。時計を見ると、開始から10分も経っていないはずだ。琴葉は、すでに平面図を描き終え、展開に入っていた。
「……早いな」
思わず漏れた声に、琴葉は肩をすくめた。
「昨日も描いたから」
それだけだった。和也も描き始める。底辺500。高さ500。頭では分かっているはずの線が、今日はやけに重い。始業開始15分前になっても、和也の図面は途中だった。
昼休み。続きを描く。それでも終わらない。
線がずれる。交点が合わない。以前なら気づいていたミスに、何度も引っかかる。
放課後。和也は、図面をやっと終わらせて、削り台へ向かった。自分の鉋を手に取る。裏を見る。刃口を見る。
——狂っている。
台が歪み、刃の出も傾いている。以前、自分で仕込んだはずの鉋が、まるで別物のように感じられた。
「……こんなだったか」
一つ一つ、やり直す。刃を外し、裏座を当て直す。台裏を削る。墨付けも、思うようにいかない。
「ここ、起点が違う」
琴葉が、後ろから静かに言った。
「差し金、こっち向き」
その都度、短く教えてくれる。
責めない。急かさない。少し離れた場所で、坂崎がその様子を見ていた。声はかけない。ただ、見ている。
それから2週間。和也は、少しずつ思い出していった。
線の順番。鉋の音。木が応える感触。
気がつけば、笑うことが増えていた。望と話し、雄介と冗談を言い、ほのかとあいりとも言葉を交わす。
「……心配かけて、ごめん」
そう言えたとき、皆は何も責めなかった。家では、毎日沙紀が叱咤し、風香が黙って見守った。
「一歩前進だな」
沙紀のその言葉が、妙に胸に残った。
バイトにも復帰した。心太と重は、何も多くを語らず、ただ言った。
「戻ってきたな」
仁吉と月は、安堵した顔で笑った。
——自分を気にかけてくれる人が、こんなにいる。
そのことが、胸に沁みた。
ある日、坂崎が言った。
「調子、戻ってきたみたいだね」
和也は、深く頭を下げた。
「……すみませんでした」
そして、顔を上げて続けた。
「恋は、僕が全国大会に出るのを楽しみにしていました。僕は、その願いに応えます」
坂崎は、ただ一度だけ、はっきりとうなずいた。
火は、もう消えない。
今度は、自分で燃やしていく。
第69話目の投稿になりました。和也、練習再開することが何とか出来ました。しかし琴葉との差は歴然です。
次回は和也にさらなる現実が突き付けられます。
お楽しみいただければ幸いです。




