手にもう一度
実習場の空気は、朝より少し重かった。夕方の湿った匂いが、木と鉄の匂いに混じっている。和也は、しばらくその場に立ったまま動けなかった。目の前には、琴葉の作業エリア。整えられた道具。削り屑ひとつ落ちていない床。やってきた時間の量が、そのまま形になっていた。琴葉は何も言わず、道具を置いた。玄翁も、鑿も、鉋も出さない。ただ、立っている。
「……やる?」
短い一言だった。和也は、答えなかった。代わりに、削り台の端に置かれた鉋に目を向けた。琴葉の鉋だった。しばらく、ただ見ていた。
鉋台の台裏。刃口の具合。自分が、何度も削り、何度も失敗した削り台。
——触っていいのか
そんなことを考えている自分に、少しだけ苦笑した。和也は、鉋を手に取った。重さは、変わらない。でも、指先の感覚が、どこか遠い。木槌で刃の調整をしてから杉材を削り台に置いた。押さえる手に、力が入らない。一度、鉋を引く。
——止まった。
刃が、木を噛まない。琴葉は、何も言わない。近づきもしない。和也は、もう一度構え直した。呼吸を整える。
二度目。すう、と短い音がして、薄い屑が少しだけ出た。途中で、切れた。
「……」
和也は、鉋を置いた。
「……まだ、だめだな」
自分に言うような声だった。
琴葉は、ようやく口を開いた。
「うん」
否定でも、慰めでもない。
「でも、触れた」
その一言が、胸に落ちた。
そのとき、実習場の奥から足音がした。神門だった。材料を取りに来たらしい。状況を一目で理解すると、何も言わずに近づき、和也の鉋を手に取った。
刃を抜く。裏を見る。台を見る。
「……刃、少しだけ逃げてるな」
それだけ言って、刃を戻し木槌で叩いた。杉材を置き、軽く引く。
すう——。
今度は、向こうが透けるほど薄い鉋屑が、一枚、静かに落ちた。
「鉋はな」
神門は、屑を指でつまみながら言った。
「気持ちが前に行きすぎても、後ろに残りすぎても、削れない」
それ以上、何も言わなかった。鉋を元の位置に戻し、材料を抱えて去っていく。残された二人。和也は、落ちた鉋屑を見つめていた。
「……明日も、来ていい?」
ようやく出た言葉だった。琴葉は、少しだけ驚いた顔をしてから、すぐに頷いた。
「うん」
そして、付け加えた。
「僕は、先にやってるだけだから」
教えない。引っ張らない。ただ、前にいる。和也は、もう一度鉋を手に取った。今度は、さっきより、少しだけ深く息を吸って。
火は、まだ弱い。
でも、手に触れたその感覚は、確かに、消えていなかった。
第68話目の投稿になりました。和也が鉋を手にしました。一度身体に身に着けた感覚は、体がしっかりと覚えています。約1ヶ月ぶりの鉋の感覚。和也の体は繰り返し引いたその感覚をしっかりと覚えていたようです。
次回も 和也の復帰への挑戦はつづきます。
お楽しみいただければ幸いです。




